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最果てに天深く  作者: 高原 景
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 峰瀬みなせは書状を閉じると卓の上に置いた。

 背もたれに体を預け、ふんだんに明かりが灯された執務室を見るともなしに見つめた。煌々と照らし出された壮麗な部屋は、しかしどこか寒々として感じられる。深夜をすでに過ぎている。あと数刻もすれば暁光が地平線に射すだろう。

 磨き抜かれた卓の上、のっぺりと白い書状には、華麗な刻印が一つある。紋章であった。紋章を有するのは帝国中枢で皇帝の側近くに仕える八大楼宗家はちだいろうそうけのみ、皇帝を八方から守護するという宗家のうち、西南を司る志岐之宰しきのつかさのものであると知れる。無論、西南を司るとは言っても古くからの因習による位置づけでしかなく、ただ役職の特性上、そのように言われているだけのことだ。名が示すとおり八つの大家からなる八大楼宗家は、それぞれが強大な力を有し、白沙那はくさな帝国の歴代の皇帝を支え続けている。

 齢六十八になるという皇帝の姿を見たのはすでに十年も前のことか、と峰瀬はふと考えた。東方遠征を断行し暴虐と苛烈さで知られた先代皇帝と比べると、その穏やかな風貌は理知というよりは思慮というのが相応しい表情であったと思う。最高権力者としてはいささか覇気に欠け、しかし帝国中枢という陰謀術策渦巻く世界にあって生き延びるだけの狡知も有しているのだろう。

 もっとも帝位継承の都度、血生臭い歴史を刻む彼の一族が、個人の力量と才覚のみでその位を保ち続けるのは不可能だろうことは想像にかたくない。特に今の皇帝の代になってからは、実質権力を掌握しているのは八大楼宗家であるとしたり顔に言う者もいるが、皇帝を不可侵の絶対権力とすることで白沙那帝国の盤石な支配体制が可能となっているのだと峰瀬は考えている。そうであれば、おそらく八大楼宗家と皇帝の関係は、共生というのが最も相応しいのだろう。

 とりとめのない考えに囚われながら、峰瀬は帝国中枢よりもたらされた一通の書状に再び視線を落とした。書状は目下の者に対するには非常に恭しい文面ではあった。だが、その内容たるや多加羅たからが白沙那帝国に屈した時代から変わらぬ。彼らが繰り返し求めるのは服従と、その証である。

 その時扉が軽く叩かれた。一声かければ、密やかにげんが入って来た。

「御苦労だったな」

 労いの言葉に、弦は頭を下げた。火つけの犯人を追って行方がわからなくなった若衆わかしゅうの家族へと使者を送る差配を整えたのは彼である。

「異を唱える者はいたか」

「使者は特にそのようなことを申してはおりませんでしたので、概ね皆納得したかと」

 今暫し静観して次の報を待て、というのが峰瀬から家族への言葉である。若衆達の家族がどのように反応したのか、弦の答えは簡潔だった。

「秋連にはお前自身が赴いたのだろう。何か言っていたか」

 問えば男は無表情に答えた。

「特には何も仰られませんでした」

「そうか」

 どこかぼんやりと峰瀬は呟く。そして、ふと弦を見やると、僅かに苦笑した。

「案ずるな。かいは無事でいる」

 言いながら物憂げな表情で立ち上がると、窓辺へと歩み寄る。漸く眠りに落ちた街を眺め、そして硝子に薄青く映る己の顔に目をやった。背後に立つ弦もまた藍に沈み、その表情はしかとはわからない。

「灰様は、なぜあのように來螺らいらの者を助けようとなさるのでしょうか。すでに丈隼たかはやという青年の無実は証明されたのですから、これ以上彼らに関わるのはあまりに危険です」

 ぽつりと弦が言った。

「今回のことには少なからず責任を感じているのだろうが……人を助けようとするのはあれのさがだ。何も來螺の者に限らぬ。そうせずにはおれぬ、ただそれだけのことだ」

「性、でございますか」

 繰り返す響きに情感は籠っていなかったが、峰瀬には弦が常になく動揺しているらしいことがわかった。それが影として生きる男にとってどれほどに許されぬことであるか、果たして弦自身は気付いているのだろうか。彼らは疑問を持つことなど許されぬ。己の意思や感情を抑え殺すのが影の本分であり、惣領家の思惑を実現することこそがただ一つの存在意義なのだ。

「今我々にできることは待つことだけだ」

 もしもこれで灰が命を落とすようであれば、多加羅に巣食う闇に対することなど到底かなわぬだろう。彼の怪魅師けみしとしての力がその程度でしかなかったということだ。そう考え、峰瀬は僅かに口元を歪めた。それが笑みであることに、窓に映る己の顔を見て峰瀬は気付く。弛緩したように如何なる感情もわき起こらないまま、ひどく冷淡な瞳で彼は自身を見つめていた。

 ひたひたと押し寄せるように濃度を増す夜の底、見上げれば冴えた月があった。透き通る光の粒子はまるで闇を裂くようでありながら、儚い。

千那夜ちなやの月だな」

 呟きは誰にも届かず、静寂の中に消えた。


 全身を押し包んだ闇に、体が絡み取られた。

 抗おうとする動きをまるで察しているかのように、闇が圧力を増した。地面に打ち倒されたことを、灰は全身にはしる痛みで知る。粘る液体のように、渦を巻き流動するものが捕えた獲物に奔った。

 視界を奪われながら、しかし牙を剥いて襲いかかり迫りくるものに、灰は抉じ開けるようにして怪魅の力を放っていた。意識の膜を突き破るように、脳裏が一瞬白く塗りつぶされる。過負荷に、精神が引き攣れた。

 ――去れ!!

 念じるままに、手をついた地面から、地中に凝る熱量を己の周りに張り巡らせた。逆巻くそれを力任せに闇に投げつける。

 空間が軋んだ。

 拮抗、しかし次の瞬間、闇が灰の放った力の渦を呑み込んだ。まるで咀嚼するように闇が揺れ、力は跡形もなく吸収されていた。愕然と目を見開いた灰をも喰らわんと、黒一色に塗りつぶされた周囲が、濃度を増す。

 まるで厚い壁に阻まれたように奇妙に遠く、くぐもった男の悲鳴が聞こえた。凍りついたように硬直していた男が我に返ったのか、恐慌を来したその叫びに次いで、炎の紅が垣間見える。紅蓮は、しかし束の間揺れてあえなく消えた。それもまた呑み込まれたのだ。

 彼らの抵抗を嘲笑うかのように、ぞろりと闇が揺れ、殺到した。肉体という殻を、容赦なく侵食する。

 全身を切り裂かれるような痛み――おそらくは嫌悪に慄く精神そのものの激痛に、灰はのけぞる。抗おうと咄嗟にあげかけた腕が、撓る触手によって地面に縫いとめられた。その痛みを最後に、暗転、大地の感触が消失し、そしてすべての感覚が消えた。

 灰は闇に呑みこまれていた。覚束なく、上とも下ともわからず、だが抗いようもなく引きずられる様は、落下に似ていた。

 体という枠から零れ落ち、中空に投げ出されたかのように、己という存在が解ける。己と外界を隔てていたものが消失し、無防備に晒された意識はとめどなく散逸する。その空間と一体化したかのように、何も見えず、聞こえず、ただ寄る辺なく流動する広がりに漂っていた。肉体という物質から意識が引きずり出されたのか、それとも闇そのものが侵入し意識を取り込んだのか、そんなことも灰には考えることができない。

 そして黒一色としか見えなかったそこに、まるで混ざりこむようにしてたゆたうものがあった。灰には己もまたそのようにして在るということはわからない。ただ、それが灯のように柔らかく揺れるのを、遠く、認識していた。その認識すらも、はらりと拡散する。

 己というものの核が、細かな粒子となって押し包む闇に曖昧に滲んだ。それはどこか空疎に柔らかく、まどろみのようでもあった。僅かに警鐘を鳴らす意識の欠片が、安寧にも似たそれに溶ける。

 さらさらと解ける思考が、その時遠く微かにこだました咆哮を捉えた。狂おしく、叫んでいる。誰かを――彼を、呼んでいるのだとわかった。それに答えようとして叶わず、灰はもどかしさに惑う。

 ――なぜ、声が出ない?

 悲痛な声はなおも聞こえる。すぐに行ってやらねば、と思い、焦燥がわき起こった。なぜ、あの声のもとに行けぬ。取り巻く無明を掻き分ける己の腕が、立ち上がる足が、呼び声に答える口が、なぜないのだ。なぜ、このようなところに、囚われているのか――

 ぐにゃりと己を取り巻く闇が歪んだ。まとわりつくそれに、不意に言いようのない怒りを覚えていた。

 ――このようなことは許さない! 

 明確に刻まれた思考に、周囲の闇が弾けた。押し包む空間に亀裂が入る。無音の軋みが響き渡った。己を取り込まんとするそれに抗い、そして灰は叫んでいた。

叉駆さく!!」

 叩きつけられるようにして、瞬時に乖離していた体と意識が繋がる。感覚が蘇り、痛みが弾ける。のしかかる闇に絡み取られた体の激痛に、白熱したように思考が霞んだ。次の瞬間、灰の体は強い力に弾き飛ばされていた。

 

 弾き飛ばされ闇の障壁を突き破った体が、強かに地面に打ち付けられた。あまりの衝撃に息が止まる。遠のく意識を引き戻したのは丈隼たかはやの声だった。

「おい! 灰!」

 うっすらと目を開くと、覗き込む丈隼の顔が見えた。なぜ、明かりが、とぼんやりと考え、丈隼の手に握られた松明に気付いた。不安と、おそらくは恐れに彩られたその顔を見つめ、灰は大きく息を吸った。身を起こそうとして、体の上にある重みに気付く。イーリヤが灰の上に重なるようにして倒れていた。どうやら腕を離してはいなかったようだ。

 意識がないらしいイーリヤの体を押しのけ漸く体を起こすと、通路の奥になおも蟠り蠢く闇が見えた。そして灰達を背後に庇うように仁識にしきが闇と対峙している。

「おい……あれは、何だ。いきなりお前達を呑み込んで……」

 丈隼が掠れた声で言った。そそけだつような闇の気配を丈隼も感じているのか、その顔は蒼白である。灰はふらつきながらも立ち上がる。

「丈隼、イーリヤを安全な場所に」

「どういうことだよ」

「イーリヤを早くこの場から連れ出してくれ」

 言いながら、灰は仁識のもとへと歩み寄った。

「仁識さんもこの場を離れてください」

 仁識が血の気の引いた顔を振り向ける。ひそりと言った。

「若様……どうするつもりなんです」

「おい! あれは何なんだ! 何をするつもりなんだよ!」

「あの闇は命を喰らう。消さないと……」

 闇が不穏に揺れた。まるでのたうつようなそれに灰は目を細める。あの中に、まだ男が、そして叉駆がいるのだ。闇に取り巻かれ、呑み込まれかけていた彼を救ったのは叉駆だ。自らが闇の中に飛び込み、彼らをそこから解放した。闇の中で叉駆が、捕われまいともがき、足掻いているのが微かに感じられる。

 このままでは取り込まれてしまう。

「下がってください」

 ひそりと響いた灰の声音に、仁識と丈隼がふと黙り込む。何を感じ取ったのか、仁識がゆっくりと背後に下がった。

 張りつめた神経が、鋭敏に冴えていた。丈隼が意識のないイーリヤの体を担ぎあげて後ろへと下がるのが見ずともわかる。仁識の視線が痛いほどに向けられていた。

 灰は躊躇いもなく闇の中へと意識の波を広げた。その侵入に、闇がのたうつのが感じられる。まるで汚泥に手を突っ込む様にも似て、そのおぞましさに灰は眉を顰めた。絡め取り、取り込もうとするのを跳ね返し、その中にいるはずの存在を追う。

 ちらりと、清浄な気配が意識を掠めた。

「叉駆!!」

 灰の呼びかけに、それが答えるように咆哮した。闇の障壁の向こう、音すらも隔てられながら、しかしびりびりと通路の空気が震撼する。そして唐突に闇が弾け、一匹の獣が中から飛び出して来た。

牙蒙がもうだ!」

 叫んだのは仁識なのか丈隼なのか。

 逃した獲物を追って闇が切り裂くように触手を伸ばす。それが叉駆の後足を捕えた。絡め取られ、叉駆の体がどう、と地面に叩きつけられる。毛を逆立ててもがく巨大な獣の体が、ずるり、と闇に引きずられ、地面に突き立てられた爪が、深々と傷を残した。

 叉駆の上に、闇がのしかかった。銀灰に沈む叉駆の瞳が、灰を映す。それを見た時に灰が抱いたのは、滅さねばならない、ただその思いだけだった。怪魅の力で闇に対すると決心しても越えられぬ一線があった、己の桎梏となっていた躊躇いが、その瞬間に灰の中から消えていた。思いは想念となり、想念は精神の波となる。

 灰の体を中心にして、風のように怪魅の力が立ち上がる。陽炎のように揺らめき、闇に向かってふわりと広がると、通路に粘るそれを包み込み、捕えた。灰の第二の視覚が、闇を構成し、狂おしくのたうつ存在を映す。

 その背後で、仁識は息を呑んで眼前の光景を見つめていた。灰を中心に煌めく粒子が立ち上がり、瞬時に、生き物のように蠢く巨大な闇を押し包んだのである。それはどこか幻想的な光景ですらあった。

 外からいくら攻撃を加えても呑み込まれるのであれば、闇そのものを作りかえ、破壊するしかないのだと、その時灰は明確に考えていたわけではない。ただ衝動のままに力をふるっていた。怒りだったのかもしれない。事象を自在に操る怪魅師の力に絡め取られ、闇が慄くように揺れた。捕えられ、逃れようともがくそれを、煌めく波が容赦なく圧し包んだ。

 怪魅の力が闇に食い込み、砕いた。黒く凝る表面が、まるで砂のようにさらさらと崩れる。崩れながら、揺らめき煌めく中へとふわりと溶けた。押し包む力を食い破ろうとするかのように伸びた触手もまた、粉砕され宙に散る。

 怯えたように闇が収縮する。破砕しようとする怪魅の力を阻もうと凝集するそれへ、灰は限界まで精神の力を放出する。砕けよ、と念じるままに闇が崩れ、解け、弾ける。次第に縮まる闇の下から床にうつぶせに倒れた男の姿があらわれた。

 白熱したように灰と闇を包む細かな光が輝きを強めた。それは一方的な破壊だった。音もなく闇が砕け散る様は、見る者に儚ささえ感じさせた。

 やがて闇は渦巻くような塊となって煌めく粒子の只中に浮かんでいた。それが、闇を闇たらしめる核であると、灰にはわかった。もとは自然の中にたゆたう力でありながら、その片鱗とてない。すべてを呑み込まんとする無機質な衝動ばかりが感じられるそれを、灰は握り潰すようにして砕いた。

 最後に残った闇の欠片が弾ける泡のように霧散したその瞬間、轟くように無音の波動が奔り抜ける。波濤の如く空間を席巻したそれに続いて、灰は微かに悲痛な叫びを聞いたように思った。

 ――ア…キ……ル…………ノ…………

 灰の精神に直接響くそれは、あまりにかそけく、しかし切り裂くように鋭く、痛みの残像を残して、消えた。

 そして、ぽっかりと口を開ける夜の黒さばかりが残っていた。

 

 闇が消えた地下道は空虚に静かだった。

「灰……」

 躊躇うようにかけられた声に、灰は振り返らなかった。丈隼が手に持つ松明の明かりが、仄かに石壁を照らし出し、それがいかにも寒々として見えた。

「叉駆」

 呼びかけ、灰は叉駆のもとへと向かう。力尽きたように蹲っていた獣は、その気配に顔をあげるとのそりと身を起こした。手を差し伸べる灰へと甘えるように頭をすりよせると、僅かに目を細め、少年の体を包み込むようにして消えた。

 仄かに温かな叉駆の気配に暫し立ち尽くし、そして灰は倒れ伏した男のもとへと歩み寄った。その顔を覗き込み、灰は眉根を寄せる。意識を失っているとばかり思っていた男は、目を見開いていた。凍りついたように一点を凝視している。だが、その瞳は虚ろだった。灰の存在に気付いた気配もない。

 なぜ、と思い、しかし灰は問うまでもなく理由がわかっていた。灰の足から力が抜ける。そのまま、男の傍らに膝をついていた。男の体に伸ばした手が、微かに震えていた。粗い布地の衣を通して、男の体温が伝わる。だが、その手からは男を象る精神の波は殆ど感じ取れなかった。ただ奥底に原初の炎のように揺れる、無垢な魂だけがあった。

 男が不意に動いた。まるで怯えた小動物さながらに地面を這い、壁際に蹲る。嗚咽に似た声が男の口から漏れた。伸ばしていた手を、灰は力なく落とす。

「若様、どうしたんですか」

 いつの間に近づいてきたのか、すぐ背後から仁識が声をかけた。油断なく男を見やりながら、しかしその変貌に訝しげな表情を浮かべている。

「……この男は……」

 漸く、灰は言葉を押し出す。

「精神の大方を、闇に喰われました……」

 低く――僅かな震えも悟られないように、低く呟くように言った。

「闇に取り込まれ、闇とともに消えてしまった。……俺が、消したんです」

 仁識が息を呑む。凍りついたような沈黙が落ちた。

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