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最果てに天深く  作者: 高原 景
36/117

36

 新たな地下道は、道幅が狭かった。自然と若者達は縦に広がって歩くこととなる。横を水が流れているためか、夜の底に沈む冷気はなおさらに纏わりつくようであった。歩き続けて汗ばんでいた体が、何時の間にか体温を奪われている。

「らしくないよな」

 須樹すぎの後ろで冶都やとが呟いた。

「何がだ」

「さっきの仁識にしきだ。普段から口の減らない奴だが、あの場であんなこと言わんでもいいだろ。あれでは皆の不安に拍車をかけるだけだ」

「まあ、な」

 曖昧に答えながら、須樹は前を歩く仁識の気配を探った。確かに仁識らしくなかった、と思う。彼は言葉こそ辛辣ではあるが、冷静に場を読み、人を気遣うことを知っている。それは須樹自身が見回りをともにするうちに気付いたことである。そして仁識の範の若者は誰もが彼を慕っている。それもまた彼の人となりをあらわす一つの証左であった。

 仁識は動揺しているのだ、と須樹は思う。掴みどころのない感情を持て余し、苛立ちを感じている。原因はわかっている。先程はからずも聞いてしまったかい丈隼たかはやの会話のせいである。灰が語ったその内容は、彼らにとってあまりに衝撃的なものだった。須樹自身も、靄のように蟠る感情を抱き続けている。

 先代惣領の寵愛を一身に受けていた、という灰の祖母にあたる女性のことを彼も知っている。來螺らいらの娼婦であったと、身の程知らずにも惣領の愛を独占し、妻から夫を奪った性根の卑しい者であったと口さがなく言う者も多い。多分に悪意が込められ誇張された話であるにせよ、灰が惣領家で冷淡に扱われている背景には、先代惣領にまで遡る確執のせいもあるのだろうと彼は考えていたのだ。

 だが、彼らが聞いていた話は歪曲されたものであり、真実ははるかに残酷なものだった。

 多加羅惣領家は一人の女性の人生を歪め、貶め、果ては人としての全てを奪った。灰の母親とてそうだ。幼くして追放され、流れ着いた來螺でどのように生きたのか。壮絶な人生であったに違いない。

(お前は多加羅を憎んではいないのか?)

 灰にとって多加羅惣領家とは、祖母と母親を苦しめたいわば仇のようなものではないのか。だが、灰にそれを問うことなど到底できない。丈隼もまた問うことができなかったのだとわかる。淡々と語る灰の声音があまりに静かであったがゆえに、表には出さぬその秘めた思い、葛藤を須樹は感じ取っていた。容易く人が踏み込んでよいことではない。決して触れられたくない領域を、誰しも持っているのだ。

剣舞つるぎまいに間に合うといいな……」

 冶都の言葉に須樹は我に返った。

「せっかく稽古をしてきたんだから、披露したいよなあ。親父やお袋も楽しみにしてるんだ」

「そうか」

 家族思いの冶都のこと、親に心配をかけているだろうことを気にしているのだ。

「そういえばお前、親父さんの後を継ぐかどうか決めたのか?」

 唐突な冶都の問いに、須樹は戸惑う。

「何だよ、突然」

「前に言ってただろう。そろそろ将来のことを決めるって」

「ああ。そのつもりだが……親父には今回の祭礼が終わってから、先のことを決めると言ってある」

「今回が最後の剣舞かもしれないってことか……お前がいなくなったらつまらんな」

 気落ちしたように冶都が呟いた。

「若衆を抜けるつもりなのか?」

 不意に前方から聞こえた仁識の声に、須樹は一瞬言葉に詰まる。

「お前って地獄耳だよな」

 呆れたように冶都が言う。

「お前の声がでかいんだよ」

「悪かったな。どうせ図体も声もでかいよ」

 ぶつぶつ言う冶都には構わず、仁識は再度問いかけた。

「須樹、若衆を抜けて家業を継ぐのか?」

「まだ、決めていないが、迷っている。最近は考える余裕もなかったから、祭礼が終わってから決めようと思っていたんだ」

「そうか……」

「そういうお前はどうなんだよ」

 冶都が仁識に問う。真剣な声音だった。

「行く行くは真名まなを継ぐんだろう。だいたいなんでお前若衆にいるんだ? 家を継ぐ貴族ってのは博露院はくろいんで学問を修めるのが普通だろ」

「私はあのような場所は好かぬ」

 放り出すような仁識の言葉である。

「少しでも権力にたかろうと媚び諂う者ばかりだ。くだらん」

「そうなのか?」

 須樹は仁識が笑んだらしいことを気配で知る。見ずとも皮肉な笑みであることがわかった。

「私のように貴族の中でも大家となると、周りが煩くてかなわん。あげく親の官位が高いというそれだけで、偉そうなのだけが取り柄の輩に頭を下げねばならん。博露院で真実学問を修めようという者はごく僅かだ。あそこは貴族の子弟にとって、将来多加羅の権力中枢で力を得んがための駆け引きの場所なんだ」

「おい、冗談だろ。俺達の年齢でか?」

「冗談なものか。そうやって骨の髄まで権力欲と家名の矜持を叩きこまれた奴らの溜まり場なんだよ」

 吐き捨てる声音に、自嘲があった。躊躇いながらも冶都は問う。

「お前も、そのために博露院に入ったのか?」

 ふと沈黙し、仁識は淡々と言った。

「私の本意ではないが、無論期待はされていた。祖父は玄士だったが、父は玄士になることがかなわなかった。貴族の中でも、父の勢力は弱まっている。かわって力をつけてきているのが絡玄様の一派だ。父は玄士の座を絡玄様に奪われたと考えている。私に、博露院から盤石な力関係を築き、後々は嘗ての勢力を取り戻せとしつこいぐらいに繰り返していた。だが……私には全てが愚かしいとしか思えなかった」

「だからわざと博露院を放逐されるような態度をとったのか……?」

 これに仁識は答えなかったが、沈黙そのものが答えになっていた。

「それで若衆に入ったのか」

「日がな一日家にいては気が腐る。何もしないよりはましだからな」

 あっさりと仁識は言った。だが、おそらく容易には語れぬ思いが仁識にはあるのだろう。貴族の中でも大家の後継ぎである彼が、父親の期待を一身に背負っていただろうことは、話を聞くまでもなく想像がつくことである。博露院をやめるということが、どれほどにその期待を裏切る行為であったか――須樹も冶都も、それ以上に問うことはできなかった。

 三者三様に黙り込んだその時、前方から声が響いた。

「明かりだ!」

 はっと前に視線を投げる。行く手に光が揺らめいていた。漆黒の闇が途切れ、まるで浮かび上がるようにして地下道が照らし出されている。流れる水が、光を反射して艶めかしく煌めいていた。だが、道が湾曲しているため、光のもとは見えない。と、光にあらわになった石壁に、黒々とした影が映った。次いで足音が響き、影もまた不穏に踊る。光が、まるで逃げるように遠ざかる。いや、真実逃げているのだ。

「あいつだ!」

 叫び、真先に丈隼が走り出した。

「逃がすか!」

 口々に叫びながらその後を若者達は追う。彼らの他に地下道にいる者、それは火つけの犯人に違いない。抜け出すことがかなうのかもわからぬ地下道で、犯人と遭遇するなどこれ程の幸運があろうとは。若者達の誰もが、疲れも忘れて先を争うように駆けていた。

(おかしい)

 灰もまた走りながら訝しく眉根を寄せた。犯人は地下道を熟知しているはずである。彼らが迷う間に費やした時間を思えば、犯人に追いつくことなど到底できないはずだ。ましてや偶然遭遇するなどという僥倖があり得るのか。

(まるで待ち構えていたように……)

 犯人は彼らの動向を窺い、そして行く手に待ち構えていたのではないか。なぜ犯人が逃亡したのか、それは異端を狩り出すためである。このまま無防備に犯人を追えばどうなるのか。

「止まれ! 相手は術者だぞ!」

 灰の鋭い声に、倉庫を焼き尽くした業火を思い出したのか、若者達が立ち竦んだ。しかし声が聞こえているのかいないのか、丈隼は止まる気配がない。それを追うイーリヤの姿もある。彼らのさらにその先、手に松明らしきものを持った男の姿が、闇に滲むようにして見えた。

「須樹さん、この場を動かないよう、皆を頼みます!」

 灰は背後の須樹に言うと、立ち止った若者達の傍らを走り抜けて丈隼達の後を追った。焦燥が疲労を圧し、不安が体を突き動かしていた。


 足音が鈍く響いた。通路はうねるように蛇行し、見通しがきかない。光を捉えたと思った次の瞬間には、湾曲した石壁の向こうに消え、行く手は闇に包まれる。前を走る丈隼とイーリヤの姿もまた、明滅するような闇と光に浮かび上がっては消えた。眩暈にも似た感覚を覚えながら、灰は叫んだ。

「丈隼!」

 声が掠れる。鼓動が耳元でこだまし、体が重い。足首の痛みのせいで思うように速度が出ず、もどかしさを覚える。それでもさらに足を速めようとして、灰は背後から近づいて来る足音に気付いた。誰かが彼らを追って来ているのだろう。反響する足音から察するに一人だけか――他の者はどうやらあの場に留まってくれたらしい、と意識の片隅で思う。

 その時、何かがぶつかるような激しい物音と怒声が響いた。灰ははっと息を呑む。行く手は闇に呑まれ視界がきかない。一体何が起こっているのか物音からはわからない。

 灰は左に大きく湾曲した通路を走り、そして蹈鞴を踏むようにして立ち止まった。眼前に気配がある。前方、数歩の距離に誰かがいる。続いて響いた声に、それが丈隼であることがわかった。

「おい、イーリヤ! どこだ!」

「丈隼、どうしたんだ」

 鋭く問う。

「わからん。いきなり何かにぶつかりそうになって、咄嗟に避けたんだが、イーリヤが……」

 丈隼が言い終わらぬうちに、男の声が響いた。

「彼はここだよ」

 二人ははっと振り向いた。奇妙なことに、声は斜め後方から聞こえる。なぜ、と思う間もなく、不意にあたりが照らし出された。一瞬、壁から光が射したのかと思い、次いで壁面にぽっかりと口を開けている通路の存在に彼らは気付いた。光はそこから漏れている。

 用心深く近づき通路の入口に立てば、奥に人影があった。くすんだ灰色の衣を着た長身の男と、イーリヤである。男は左手に松明を掲げ持ち、右腕をイーリヤの首元にまわして背後からその体を捕えている。イーリヤの額からは血が流れているが、意識はしっかりしているらしく、強張った表情で二人を見やった。

「イーリヤ!」

 丈隼の形相が変わる。男をねめつけると、じわりと歩を進めた。

「イーリヤを放せ」

 武器の一つも持たない男は、ゆるりと笑んだ。

「それ以上、近付かない方がいい。私はこの子を一瞬で焼き尽くすことができる」

 丈隼がぎくりと足を止める。男の腕の中でイーリヤが蒼白になった。男は暗く落ち窪んだ目で二人を見やり、まるでおどけるような仕草で松明を振ってみせた。

「私はね、炎を自在に操ることができるのだよ。君達もさっき見ただろう?」

 灰は唇をかみしめ、男を睨みつけた。そうしながらも、意識の片隅で状況を冷静に把握していた。男は彼自身が言うとおり、火を操ることができる。おそらくは松明の火を消して通路に潜み、追って来た丈隼とイーリヤを襲ったのだろう。逃げきれぬと思ったのか、それとももとよりそのつもりであったのか――おそらくは後者、と灰は考える。

 灰は丈隼の背後から踏み出す。途端に男が身構えた。

「おい、灰……」

 丈隼が小声で呼びかけるのには振り返らず、灰は男へと問うた。

「逃げられとでも思っているのですか?」

「…………」

「多加羅の街衆はあなたが火つけの犯人であることを知っている。このようなことをして逃げることができるとでも?」

「私は、逃げはしない」

「では、今あなたがやっていることは何なのですか? 獄舎から逃亡し、俺達を誘い出し、一体何をしようとしているのですか」

「私は神に与えられた役目を果たそうとしているのだ。來螺の異端を狩り出し、殺す」

 淡々と男は言う。己を見返す男の眼差しに、灰は目を細めた。数日前に鍛練所でまみえた時とは違う、まるで何かにとりつかれたかのようなそれである。ちらつくように垣間見えるのは妄執だろうか。一体何に対する妄執なのか、灰は直観が導くままに言う。

「あなたの力が何であるか知っていますか?」

 男の肩がびくりと震えた。灰は容赦なく言葉を続ける。

「それは怪魅けみの力です」

 灰は確信していた。

 多加羅において異端とされる術の中でも、怪魅は最も忌まれる力である。怪魅師によって力が多様に異なるため明確な定義づけはないが、怪魅の力とその他の術の大きな違いは、偏に媒介を必要とするか否かに尽きる。条斎士じょうさいしであれば言霊と宝珠により術を行使するように、法術や妖術と呼ばれるものは物体や確立された条理を媒介として行われる。だが、怪魅だけは違うのだ。怪魅師は己の精神のみで事象を操る。いわばその存在自体が奇跡を起こす媒体と言えなくもないが、そうであるからこそ尚更に得体の知れぬ不気味なものだと人は考えるのだ。

「あなたは怪魅師だ」

「黙れ!!」

 男の叫び声が響いた。ぎらぎらとした眼が灰を睨みつける。

「私はそのように汚れた存在ではない!! この力は神から授けられた力だ!!」

「何言ってやがる! 火災で人を殺しておきながらよくそんなことが言えるな!」

 丈隼の言葉だった。それに男は不意に笑い出す。虚ろに反響するそれに、丈隼が呆気に取られたように黙った。

「だが神は私にお咎めをくだされた! 私を見ておられたのだ! 神に見放された怪魅師などであるものか!」

 灰がぽつりと言った。

「あなたは、街に火をつけることで神を試したんですね。真実神が坐すならば、己の罪を許すはずがないと」

「ああ、そして神はやはりおられるのだ。私の罪を暴き、断罪された!」

 男はなおも笑いながら言う。灰は漸く、男の真意を悟った。なぜ街に火をつけたのか――悟ってしまった。苦い思いが胸中に込み上げる。

「だが、あなたが今やっていることは神に与えられた役目でも何でもない。聖遣使しょうけんしに利用されているだけだ」

 男の笑い声が止まった。

「おい、灰、何の話だ」

 丈隼の問いには答えず、灰はさらに一歩男に近付いた。

「あなたを逃亡させた男は聖遣使だ。聖遣使が何を言ったかは知らないが、あなたは來螺の異能者を狩り出すための餌でしかない。利用されているだけだ」

 男の顔が強張り、俄かにその表情が知的なものとなる。どこか虚ろだった瞳に、一瞬理知の光が宿った。

「なぜ、聖遣使が私を逃亡させたことを知っている?」

「聖遣使が多加羅惣領に何の断りもなく、それも警備が厳重な獄舎からあなたを逃亡させることができるなどとお考えですか? あなたが逃亡したことも、その目的も惣領は全て知っています」

「なるほど。惣領家の一員だから、知っていて当然ということか」

 言いながら、男の表情はまたも熱に浮かされたように歪んだ。まるで現と虚の間を揺れ動くように、正気と狂気が男の瞳に去来する。

「聖遣使とは神の聖なる使いだ。奇跡の力を恵与された者だ。彼は私に言ったのだ。來螺の異端を狩り出せば、私の力も神殿に認められるだろう、聖遣使の一員になることもかなう、と。無論、人を殺したことは罪かもしれぬ。だが、この力は神から与えられた力だ。そうであるならば人が死んだこともまた神の条理、私に与えられた試練だ。神威あまねく輝く土地に來螺の異端が紛れ込んでいるならば、必ずや私が狩り出してみせる。倉庫に君達を誘き出すという案はね、私が出したんだ。罪なき街衆を巻き込むわけにはいかないからね。異端は君達の中にいるのだろう? さっき燃えなかったのはそのせいなんだろう。この子の命が惜しければ、おとなしく異端が誰かを教えることだ」

 歯止めを失ったように、男は矢継ぎ早に言葉を押し出す。朗らかなほどの声音だった。

「ちょっと待てよ。異端だとかなんだとかよくわからんが、先の火災で全員殺すつもりだったのかよ」

 丈隼の声にじわりと怒気が滲む。

「ああ、必要な犠牲だからしょうがない。だが、異端が君達の中にいたとは幸いだった。こんなにも早く遭遇できるとは思ってもいなかったよ」

「……狂ってやがる……」

 丈隼の呟きにも、男はただ微笑むだけだった。

 灰は男を見つめ静かに言った。その言葉がどれほど男にとって残酷なものであるか知りながら――

「來螺が穂の原を奉じたあの時、あなたが見たのは神の奇跡ではありません」

「何を……言っている……」

鷹閃ようせんと炎の獣、それが見えたのではありませんか?」

 男の目が驚愕に見開かれた。喘ぐように呟く。

「……なぜ、それを……」

「あれは怪魅師が作り出した幻です。あなたは神の断罪と考えたようだが、異能者にしか見えぬ単なるまやかしです。それが証拠に、あなたを逃がした聖遣使も幻を見ています」

 冷やかな静寂に声は落ちる。

「火つけの犯人が神殿の者であることも、おそらくは異能を有する者だろうこともわかっていました。だから穂の原に、犯人にしかわからぬものを込めた……それがあの幻です。聖遣使があなたを逃亡させたのは、穂の原に術を込めた來螺の異能者を狩り出すためであって、あなたの力を認めたわけでも罪を許したわけでもない。そうして、敢えて來螺を挑発し、犯人を追わせるように仕向けたのです」

 異端には異端を――そして聖遣使、聡達そうたつ自身はそれをどこかで見ていればいい。結果として來螺の異能者をあぶりだすことがかなわずとも、彼はすでにして一人の異端の命をその手の内に握っている。まるで盤上の駒を見るような、聡達の冷徹な意図である。

 息詰まるような沈黙が続き、男がゆるゆると首を振った。

「嘘だ……。聖遣使殿は、私の力が祝福されたものだと……その証拠に神は……神は私の元に来られたのだ。あれが幻だなどと……」

 イーリヤを捕えていた男の腕が僅かにさがった。それに気付いた丈隼が身構える気配を見せた。男は丸腰、不意をつけばイーリヤを助け出すことができるかもしれぬ。だが、男は瞬時に丈隼をねめつけると叫んだ。

「動くな!! 少しでも近付けばこいつを殺してやる!!」

 次いで灰を睨みつける。

「お前もだ! そのような戯言誰が信じるものか!」

 空気に殺気が滲む。灰はひやりとしながらそれを見守った。感覚を研ぎ澄ませずともわかる。男の周囲で不穏に熱気が凝っている。イーリヤの顔が引き攣り、くぐもった悲鳴をあげた。

「おい、まずいぞ……」

 丈隼の囁き声もまた切羽詰まった響きだった。彼も尋常ならざる気配を感じているのだ。灰は小さく頷く。このままでは追い詰められた男が何をするかわからぬ。目まぐるしく思考を巡らせる。

 次に灰が発した声は、僅かにも内心を悟らせない落ち着いたものだった。

「俺の話を信じるか否かはあなたの勝手だが、あなたは重罪犯として追われているんです。今多加羅の街では厳戒態勢がしかれています。若衆だけではない。警吏けいり南軍なんぐんもあなたの行方を追っています。無事逃げ切れると思っているのですか? 下手をすれば、見つかったその場で殺される」

 藍の瞳が細められ、硬質な色合いに染まる。

「どうせ人質にするならもっと効果のある人物にすべきだ」

 男は灰を凝視する。言わんとすることを察したのか、顔を笑いの形に歪めた。

「……なるほど、自分が人質になるということか。腐っても惣領家の一員ならば、お前の方がよさそうだな」

「おい、灰……」

「俺は大丈夫だから、今は手出しをしないで」

 灰は振り返らずに丈隼に言うと、男を見据えた。

「かわりにイーリヤを解放してください」

「お前がここまで来い。そうすればこいつをはなしてやる」

 低い声に頷き、灰は足を踏み出す。そのまま男の元まで行こうとした彼を、突然背後の暗闇から走り出してきた人物が、腕を掴んで引き戻した。

「自分が人質になってどうする!」

 驚いて振り向いたそこに、険しい表情の仁識が立っていた。言葉には、鋭い怒りが籠っている。今更ながらに、背後からもう一人追って来ていたことを灰は思い出した。水路のある地下道の暗がりに潜み、今までの遣り取りを聞いていたのだろう。

 突然飛び出してきた人物に、男が警戒もあらわに後ずさった。首元をきつく締められたのか、イーリヤが苦しげな声をあげる。

「軽はずみなことはやめてください」

「イーリヤを助けるためには必要なことです」

「何を馬鹿なことを。余計に手が出せなくなるだけだ! そんなこともわからないんですか!」

「おい! いい加減にしろ! 今すぐこいつを殺すこともできるんだぞ!」

 男の苛立った声に場が凍りつく。

「俺なら大丈夫です」

 灰がぽつりと言った。仁識はさらに言い募ろうとし、しかし振り向けられた灰の眼差しに言葉を呑み込んだ。

「知っているはずです。この中で、あの男の術に対抗できるのは俺だけだ」

 ひそりと、仁識にしか聞こえないほどの声で灰は囁いた。仁識の顔が強張る。疾風のように奔り抜けた刃――灰が腕を振るうだけで道に穿たれた鋭い軌跡。あれを見ただろう、と言外に告げる灰の言葉である。宵藍を思わせる瞳が、射竦めるような強さで向けられていた。それに抗うことができず、仁識は掴んでいた腕を放す。

 灰は己を見つめる二人に小さく頷くと、男に向かって歩き出した。

「お前が賢いのか単なる馬鹿なのか迷うところだな」

 嘲弄するように男が言った。男まで十五歩程の距離だろうか。ゆっくりと歩きながら灰は瞳を眇めた。男が発する危険な熱気に加え、その体を縁取りゆらりと立ち上がるものがあった。

(見えるようになったのか……)

 ふと、思った。地下道に入ってから今まで、灰の怪魅の感覚は閉ざされたままである。疲労のせいか一向に回復しなかったのだが、まるで絡まり合うような波動を目が捉えていた。男の体の周り、その背後に茫漠と続く漆黒よりもなお暗く揺らめきながら、湿った紙に水が沁みるように、次第に周囲に広がっていく。

 男まで残すは僅かな距離、そこで灰はぴたりと立ち止まった。何かがおかしい、と直感が告げていた。

「どうした、怖気づいたか」

 男は突然立ち尽くした少年に声高に叫んだ。それにもかまわず灰はさらに目を凝らす。男の体を縁取ると見えた揺らぎは、炎を操る怪魅の力の波動ではない。冷たく、暗く、空間を侵食するそれが、男の体からではなく、男の背後に蟠る闇そのものから発していることに漸く気付いた。

 灰の全身が凍りつく。ひたひたと音もなく彼らに近づいてくる存在――それを、忘れようなずもなかった。

 何もかも呑み込み、喰らい尽さんとする、純粋なまでの欲望――あるいは希求――

 次の瞬間灰は男に向かって走っていた。目を見開いた男の背後で、蹲っていた闇が、爆発したように膨張する。人の腕の三倍はあろうかという太さの触手が無数に伸びて空間を奔った。炎を放とうとしたのか、松明を持つ左手を僅かにあげた男が無音のそれに振り返ったのと、灰が力任せに男の体を引きずり倒したのは同時だった。触手が掠めるようにしてその上を薙いだ。男の手から弾け飛んだ松明が床を滑る。

 倒れこんだ三人目がけて、なおも無数の触手が絡まり合いながら迫った。

「逃げろ!!」

 叫びながら灰はもがくようにして立ち上がった。男は硬直したように動かない。その下敷きになっているイーリヤの腕を掴み、そして灰は頭上に迫る影を振り仰いだ。津波のように、圧倒的な質量が、そこにあった。

 三人の上に雪崩れるようにして闇が覆い被さった。

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