35
丈隼は暗闇の中身じろぎする。そろそろ見張りを交代するために寝ている連中を起こす頃合いかと考える。座るうちに石の冷たさと夜の冷気に体温を奪われ、それに疲労が重なって体が重い。
隣りに座る灰の気配を丈隼は探った。眠ってはいないだろう。來螺に戻って来いという丈隼の言葉に、とうとう灰は答えず、その後何時しか会話は途切れていた。気まずさを感じるわけではないが、どこか互いに憚るような沈黙である。
丈隼が声をかけようとしたまさにその時、灰がぽつりと呟いた。
「水だ……」
凍りついたように座り込んでいた灰が僅かに身を起こす気配がする。
「なんだって?」
問い返す丈隼に、灰が答える。
「だから、あの水が落ちる音だよ。さっきから途絶えることがないだろ。地下水脈があって水がしみだしているのだとしたらかなりの量が溜まっているのかもしれない」
不審気な丈隼の気配に気付いたのか、少年はもどかしそうに言葉を継いだ。
「さっきから聞こえる水音が、変にばらけてるから不思議だったんだ。遠くに聞こえる時もあれば、近くに聞こえる時もある。所々に水溜りがあるのかと思ったけど、もしかして一箇所に大きな地下水の溜まり場があるのかもしれない」
「……」
「それに地下道には雨水も流れ込んでいるはずだ。今までどれほどの大雨が降っても地下道から水が溢れたことがないということは、水が流れ出す仕組みがあるのかもしれない。その水の道を辿れば、この地下道から抜けられるんじゃないか?」
丈隼の頭が漸く言葉の意味を捉える。
「つまり、どこかに水の溜まり場だかなんだかがあって、その水が流れ出る先に、外へと出られる場所があるってことか?」
「あるかもしれない、ということだ」
灰が用心深く言うも、丈隼はすでに声を弾ませている。
「いや、あるんだろう。確かにこの地下道は水はけがよすぎる。雨の少ない時期だとは言っても、山が近いし地中からしみだして来る地下水だってあるだろうしな」
暫し後、短い眠りから目覚めた若者達は、水の溜まり場を探し、水の流れ出る道を探し出せば外に出られるかもしれない、という灰の言葉に俄かに活気を取り戻した。たとえ外に出られるかどうか定かではないとしても、明確な目的に向かって歩くのと、あてもなくただ暗闇を彷徨い歩くのとでは雲泥の差である。
休息を取るのももどかしく、そのまま若者達は水音がする方へと向かった。がらんと開けた空間を、音だけを頼りに進むと、一つの通路の入口に突き当たった。人一人が通れるくらいの細い通路である。そこを注意深く進めば、空気の中に、柔らかく纏わりつくような冷気が混じる。
「水の匂いだ!」
進むうちに、微かに清かな響きが聞こえてきた。水が流れる音である。
「やっぱり、どこかに流れる道があるんだ」
興奮しながら囁き合う。道なりに進みながら通路の角を曲がったその時、不意に明瞭な水音が耳に飛び込んできた。道が唐突に途切れ、先程よりもさらに大きく開けた場所に出たことが足音でわかる。そして周りを押し包むような圧倒的な質量感で、眼前にたゆたう存在に誰もが気付いていた。
「これは水溜りどころじゃないな」
ひそりと須樹が言った。闇の中で感覚の鋭くなった彼らには、それがかなりの大きさであることを感じ取ることができた。
水の淵へと辿り着いた彼らは、注意深く辺りの様子を探った。どうやら、もとから水を貯めることを目的に設計されているらしく、水の周りには人一人が歩けるほどの通路が設えられていた。通路の横の石壁を手で探れば、僅かに傾斜していて、空間全体が円状になっていることを窺わせた。その天井から雫が落ちては水面を叩いている。かなりの高所から落ちているのだろう、鋭く響き渡るその音は灰達が耳にしていたものである。
水を口に含めば、疲れた体に沁み渡るようだった。
再び歩き出した彼らには僅かながら活気が戻っていたが、水の周りを囲む通路を歩くのは想像以上に困難だった。水に浸食され劣化しているのか、細い通路はところどころ崩れ落ち、苔藻が蔓延っているらしく気を抜けば足を取られそうな恐怖を覚える。何も見えぬ中掴むところとてない壁に縋るようにして彼らは進んで行った。
「足を踏み外すなよ」
「この水、どれくらいの深さがあるんだろうな」
「くそ、明かりがあればな」
注意深く足を進め、漸くせせらぎの音のもとへと辿り着いた時には、誰もが全身にびっしょりと汗をかいていた。
「ここか……」
手で探れば壁の一部がぽっかりと口を開け、新たな地下道があった。そして地下道の中央部、横幅のある溝を、涼しげな音をたてて水が流れている。貯められた水が一定以上になれば流れるよう絶妙な深さで溝は穿たれている。
「本当にあったんだ……」
知らず幾人かが息をついた。外に出ることができるかもしれぬ、その思いゆえの安堵の溜息である。息詰まるような空気が弛緩しかけたその時、仁識の静かな声が響いた。
「この地下道もどこまで続いているかはわからん。途中で進めなくなることも覚悟しておいた方がいいな」
冶都が苦々しく言う。
「だが、外に水が流れ出ているところに繋がってる可能性が高いんだろ」
「だから尚更だ。水を流すことだけが目的であれば、人が通れる必要はないだろう。どこまで進めるかわからん。途中で行き止まりになっている可能性もある」
しん、と場が静まる。苛立たしげに舌打ちをしたのは自警団の若者だった。
「こんな時にそんなこと言うなよ。やっとどうにかなるかもしれんというのに」
「こんな時だからこそ安易に気を抜くなと言っている」
反駁しようとした若者の言葉を、須樹の落ち着いた声が遮った。
「ここで争ってどうする。進んでみなければわからないだろう。ただ、仁識の言うことも一理ある。俺達は全く未知の領域に入り込んでいるんだ。それを忘れるなということだ」
地下道の先に何があるのかまだわからぬ。見通せぬその暗がりである。険悪になりかけていた雰囲気が解け、かわって新たな緊張が張りつめた。
「進もう」
丈隼が先頭に立ち、新たな地下道へと踏み込んだ。
その屋敷は惣領家の屋敷とも程近い街の中心部にあった。いずれも歴史と権威を感じさせる壮麗なつくりの建物が建ち並ぶ界隈にあって、比較的新しいものだと言えるが、極力装飾を排した外観は厳めしく堅牢である。そして現在の屋敷の主もまた、その言葉にふさわしい人物であった。三人の玄士の一角を占める絡玄――真の名を絡汪という――の屋敷である。
絡玄は窓辺に佇み、祭礼に酔う街の中、静寂を湛える神殿を見つめていた。家々が灯す明かりに仄かに浮かび上がる神殿は、しかしその一際美しい三塔が空の闇に押し包まれている。
確たる存在としてそこに在るのは単なる建造物でしかないが、人が神に祈り、その慈悲に縋るには媒体が必要なのだ、と彼は考えていた。もっともそのように考える彼にしても、神殿を前にすれば神の前にひれ伏す敬虔な思いに駆られずにはいられない。
煩雑な玄士としての日々を送りながらもかつてと変わらず続けていることの一つに、この窓辺での祈りがある。幾分高台にある屋敷からは神殿がよく見える。絡玄はすべての命の根源であり絶対的な真理を抱く神へと、瞳を閉じ無言で祈りを捧げた。
その時、扉が叩かれた。
「入りなさい」
静かに入って来たのは彼の第三子、加倉である。扉を閉めるとどこか強張った表情で姿勢を正した。それでもなお、絡玄は窓の外を見つめていた。彼が声をかけるまで、この息子が言葉を発することはない。
「お前に聞きたいことがある」
言うと、漸く絡玄は振り返った。
「なんでしょう、父上」
答える加倉はこれ以上ないというほどに背筋を伸ばして、父親を見つめた。深夜の突然の呼び出しに、隠しきれぬ戸惑いが顔に浮かんでいる。
「今夜、倉庫街で火災が起こり、若衆がそれに巻き込まれたそうだ」
表情も変えずに言った父親とは対照的に、加倉は唖然とした表情になる。
「……知らなかったようだな。逃げた火つけの犯人を追っていた若衆数人と來螺の連中が、火災により崩れた倉庫の下敷きになったらしい。同じく犯人を追っていた別の若衆がそのことを警吏に申し出た。直接に見たわけではないが、行方がわからず、巻き込まれた可能性が高いとな」
絡玄は言葉を切ると、暫し加倉を見つめた。加倉の背を冷たい汗が伝う。聞かされた内容もさることながら、まるで内心を見透かそうとするかのような父親のその眼差しが、彼には恐ろしかった。幼い頃から常にそうであったように、彼は視線を受け止めることができず、僅かに俯く。
「私がお前に何を言いたいかわかるか?」
ひゅっと加倉の喉がなる。何か言葉を出そうとしながらも、思考は空回るばかりだ。
「わからぬか」
叱責ではなかったが、加倉はびくりとする。
「なぜ、多加羅の若衆が來螺の者と行動をともにしているのだ。若衆頭のお前がなぜ、それを見過ごしにしている。來螺の連中がどれほどに害悪をもたらす存在か、わかっているだろう」
続く絡玄の声は一層冷やかに低い。加倉にとっては父親の静かな声は罵声よりも恐ろしいものである。
「それとも、お前は己が従えるべき者の行動も把握していないのか。若衆頭が全体を掌握できていないということか。そうであるならば、若衆頭としての務めを果たしているとは言えぬ」
加倉が青褪めた。それを絡玄は見つめる。息子である加倉が絡玄からすればあまりに聡明さを欠くにしても、彼の心中に生じたのは落胆でも怒りでもない。だが、加倉の顔に浮かぶのが愚鈍ではなく怯懦であるのが絡玄には不快だった。
「違います……」
漸く加倉が言葉を押し出した。
「それは違います、父上。私は、そのような……若衆頭として、己の役目を全うしております」
「では、今回の一件はどういうことだ」
「それは……」
加倉はごくりと唾を飲み込んだ。唐突に顔をあげると、早口に言った。
「彼らに火つけの犯人を追うように命じたのは私です。祭礼三日目を前に、街に災いなす輩を野放しにはできませぬゆえ、私が命じました。來螺の連中とともに動くなどあり得ません。來螺の者がその場に居合わせたのはたまたまでしょう」
「――私に偽りを申すか」
「断じて……断じて偽りではございません!」
なおも青褪めたまま、加倉は震える声で言う。絡玄は目を細めてその様を見つめ、やがて飽いたように視線を逸らせた。
「若衆が火災に巻き込まれたかどうかはまだはっきりとはわからぬが、明日になればそれも明らかになろう。だが、火つけの犯人を捕えることは警吏の管轄、いらぬ手出しをしたうえ、人死にを出したとあらばお前への責めは免れぬ。そのようなことも考えなかったのか」
加倉の視線が忙しく泳ぎ、目の前の父親を窺う。
「無論……無論、考えは致しました。ですが、危険な重罪犯を見過ごしにすることなど到底できません。私は、街のためを思って……」
絡玄は手を振って加倉を黙らせる。偽りを重ねる言葉をそれ以上聞きたくはなかった。何より、姑息さは彼の最も嫌うところである。だが、それを咎めることもなく絡玄は考え込む。
絡玄が目指す道にこの息子はどのような役割を果たすだろうか。否、どのように使うかを考えるべきかもしれない。体を縮めるようにして立つ青年は、しかしその身に若衆頭の名を負い、行く行くは南軍の中でも要職に就くこととなるだろう。愚かしい言動の背後にあるのが絡玄への恐れと浅薄な保身であるならば、奸智に長けていないだけいっそ扱いやすいというものだ。そして、絡玄の意のままに動けば、才智に恵まれぬこの息子にも栄達の道は開かれている。
絡玄は感情を窺わせぬ声音で言った。
「そこまで言うのならば、必ず犯人を若衆で捕えてみせよ。逃亡犯を來螺が捕えるようなことがあってはならぬ。そのようなことあらば、我ら多加羅の者にとってこの上なき恥辱となろう」
「は、はい」
「もう下がってよい」
安堵のせいか、それとも新たに沸き起こった不安のせいか、奇妙に顔を歪めた加倉は、静かに一礼すると部屋を出て行く。その姿を最後まで見届けることなく、絡玄は再び窓の外を見やった。
惣領家からの使いの者が、若衆と來螺の自警団の若者、そして灰が火災に巻き込まれた可能性があると絡玄に告げたのはつい先程のことである。使者は暫し静観せよとの峰瀬の言葉をも伝えていた。裏に聖遣使が絡んでいては容易に動くこともかなわぬ、ということか。しかし、それだけなのか、と絡玄はふと思う。常に的確な判断を下す峰瀬であっても、今回のそれは冷静に過ぎはしまいか。まるで確信しているような――
(誰も死んだ者はいないと……?)
いずれにせよ、彼にとって最も気になるのは來螺の動向である。玄士である彼は、聖遣使が峰瀬のもとを訪れたことも、來螺の異端を狩り出すために犯人の逃亡がはかられたことも知っている。あの聖遣使がどのような手段を使ったかはわからぬが、どうやら來螺は犯人を追っているようだ。聖遣使の目論見通り來螺の異端が狩り出されればよし、だがまかり間違って來螺が犯人を捕えるようなことがあってはならない。多加羅の獄舎から犯人が逃亡したというだけでも醜聞であるうえに、その犯人を、この地にあって來螺の者が捕えるなど、多加羅にとってはこれ以上の不名誉はない。
加倉が語った言葉が偽りであることは明らか、だが、彼が望むように事が運ぶならば、それも利用するまでだ。万が一聖遣使が事を仕損じた時、犯人は必ず、多加羅の者が捕えねばならない。
また一つ、絡玄には気にかかることがあった。火災に巻き込まれたという若衆は、加倉のあずかり知らぬところで独自に動いたのだ。おそらくは來螺と行動をともにしていた。そして、と絡玄は目を細めた。來螺と若衆を繋いだのは間違いなく惣領家に新たに迎え入れられたあの少年、灰だ。
彼自身忘れていた、その存在である。
來螺の出身であり、今回の火つけの騒ぎでは誤って捕えられた來螺の青年を救うために、若衆を抜けたという。そして、先日のあの騒ぎである。來螺の芸能家の集団が、あろうことか、神への供物と謀って異端の術を弄した。絡玄には許し難いことだ。
あの少年が一連の出来事に関わっていたのかはわからぬ。しかし、と絡玄は考える。來螺が動いた背景にはあの少年がいたのではないか。そう思わずにはいられぬほどに、來螺の行動は予想外のことであった。今までの來螺ならば、多加羅との関係を壊す危険を冒してまで仲間を救おうとはしなかっただろう。常ならぬ、何かがあったのだ。例えば、あの少年が多加羅惣領家の権威を利用したとは考えられぬだろうか。もし、そうであるならば――
(どうやら、とんだ食わせ者のようだな)
なぜ、今まで迂闊にも灰の存在を見過ごしにしていたのか、と絡玄は苦々しく思った。彼だけではない。同様に、少年を受け入れることに強硬に反対をしていた者達も皆、何時の間にか口を噤んでいる。あるいはこれが峰瀬の思惑だったのか。少年を厚遇せず、敢えて人の目に晒さぬことで、いつしか少年がいかに異質な存在であるかを人は忘れていた。やがて多加羅の者にとって少年の存在は自然なものとなっていくだろう。それが全て、峰瀬が意図した結果であるとするならば、このうえもなく巧妙である。
謁見の間で一度見ただけの相手、まだ少年でありながらまっすぐに前を向くその姿が脳裏に浮かぶ。その時に覚えた感覚が明瞭に蘇っていた。相容れぬ、決して服おうとはせぬ存在だと、その時絡玄は確かに感じていたのだ。
――異端、と。
神殿の側近くの家が明かりを消したのか、清浄な白壁の一角が夜の中に沈んでいた。その大半を闇に呑まれた神殿は、彼の目にはまるで無明に取り巻かれているように見えた。