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最果てに天深く  作者: 高原 景
33/117

33

 火つけの犯人を自分達で捕えるという若者達の申し出に、自警団の幹部達ははじめこそ迷う様だったが、最後は代表者であるさいが決定を下した。すなわち、來螺らいらは犯人の非道を見過ごしにはせぬ、たとえ多加羅たからの街のことであろうとも必ず災厄を防いでみせる、と。その決め手となったのが、かいが一人で犯人を捕えようとしている、という丈隼たかはやの言葉であった、ということは当の灰自身は知らぬことである。

 犯人を捕えるとは言っても、逃亡して後はどこに行方をくらませたのか、手がかりとてない。自警団の若者から二十数人、それに灰を含め、結局は地道に街を見回ることとなった。だが埒があかず、彼らは夕刻からは街の外を囲む壁の上から街を見張ることとしたのである。無論、人が立ち入ってよい場所ではないが、これよりほかに街の全体を見渡せる場所がなかったのだ。災厄を未然に防ぐことはまず無理であろう。そうであるならば、街全体を見張って災厄の被害を最小限に食い止めようとの考えである。

 鍛錬所たんれんじょでの稽古を終えた須樹すぎ仁識にしき、そしてそれぞれのはん若衆わかしゅうが彼らに合流したのもその頃である。突然灰のもとを訪れた彼らに、なぜ、と問えば答えは明瞭であった。いわく、一人の男が稽古を終えた彼らの前に姿をあらわし、灰の思惑を告げたのだという。――あの方を助けていただきたい――男はそう言うと、灰の居場所を教え、姿を消した。

「お前が多加羅の街に来た時、姿をあらわしたあの男だ」

 須樹の言葉である。確かに彼はげんを見知っている。

(弦が……?)

 訝しく眉を顰める灰に、須樹は言った。

「とにかく、事情は聞いた。犯人から來螺に文が届いたんだろう。多加羅の街に再び火災を起こすなど、俺達も見過ごしにはできない」

 弦が彼らに灰を助けるように伝えたというそれは、彼自身の思惑ではあり得ない。惣領である峰瀬みなせがそう望んだということだ。

 なぜ、と灰は思う。この一件はあまりに危険である。裏に聖遣使しょうけんしが絡んでいることだけではない。その思惑に操られていると思しい犯人は、異端とされる術を弄する者である。それをわかっていながら、峰瀬はなぜ彼らを巻き込むようなことをするのか。心中に生じた疑念、靄のようなそれの根底に、それとはわからぬほどの小さな凝りがあった。

 それが、灰がはじめて惣領家に対して抱いた明確な感情――怒りであることに、その時少年自身は気付いていなかった。


 そして冴えた月凍る夜である。


「もう逃げ場はないぞ!」

 倉庫の中、丈隼たかはやの言葉に前方を走る人影が足を止める。居並ぶ若者達を振り返る気配――次いで、ひゅっと鋭い呼気のような音を、灰は聞いた。

 闇を裂いて、炎が奔った。

 紅蓮――闇がはらわれる。立ち竦んだ若者達を取り囲むようにして炎の筋が地面を奔り、辺りが猛る紅に包まれた。さざ波のように炎はさらに広がる。一瞬にして周囲は火の海となっていた。

 怪異であった。燃えるものとてない土が晒されたそこを、猛々しく揺れる炎の様は、まるで生きているかのようだ。炎は壁を這い上がり、建物を支える柱をもなめ尽くす。

 若者達が立つ周囲だけが、丸く切り取られたかのように炎の侵入を阻んでいたが、押し包まんとする炎の熱が容赦なく彼らに降り注ぐ。

「なぜ、燃えないんだ?」

 奇妙なほど明瞭に声が聞こえた。何が起こったのかわからないまま茫然と周囲を見回していた若者達はぎょっと声がした方を見た。猛る炎をすかして、思いのほか近くに一人の男が見えた。倉庫の奥、壁を背に若者達を見つめているのは、確かに神殿で罪を暴かれた男であった。だらりと弛緩したように立つその周りには黒々とした地面がある。そしてその外側、まるで地中から噴き出すかのように炎が広がっている。

「おかしい、なぜ燃えてしまわない……」

 ぶつぶつと呟く顔には、病的なほどに表情がない。

 灰は知らず拳を握っていた。男が放った炎は、一瞬にして若者達を呑みこんだはずだった。それを阻んだのは叉駆さくである。自身が壁となって、彼らを包み守っている。その煌く粒子が灰には見える。だが、灼熱の気配はじりじりと増すばかりだ。

 灰自身も意識を凝らし、炎を阻むように冷気の網を張り巡らせる。その外側でのたうつ炎の揺らぎが、まるで肌に触れるようにして感じられた。自然の炎ではない。男の思念に操られた異形である。殺気もあらわなそのおぞましさに精神が削られるような感覚を覚える。

「化け物……」

 來螺の若者がぽつりと呟く。きり、と灰の意識が引き攣れた。――化け物――炎を自在に操り人を殺めた男はなおも不思議そうに呆けている。その瞳が、不意に灰へと振り向けられた。

「ああ、お前か。まさかお前が惣領家の者だとは。鍛錬所でお前を見た時は心底驚いたよ。私も下手をうったものだ。もっと別の者を告発すればよかったものを」

「貴様……」

 丈隼が歯ぎしりするように声を絞り出す。

「ああ、だがもうそのようなことをする必要はない。これは、私の罪だ。神がお認めになった、私の罪だ。誰にも渡さぬ」

 ごう、とさらに炎が勢いを増した。辛うじて見えていた男の姿が炎の向こうに消える。

「あいつ、俺達ともども死ぬつもりか!」

 この炎では男自身とて無事には済まないだろう。倉庫の奥にいる男の周りは火の海、到底倉庫から出ることはかなわぬ。

「助けてくれえ!」

 灰の背後で悲痛な声があがった。仁識の範の一人だ。恐怖が臨界点を超えた瞬間だった。叫び声は連鎖し、数人が炎から己が身を守るようにその場に蹲る。辛うじて自制心を保っている何人かが忙しく辺りを見回すが、逃げ道はどこにもない。

「どうしたらいい、どうしたら……」

「何とか倉庫の出口まで走り抜けられないか?」

「馬鹿野郎! 火の海だぞ! 死んじまう!」

「だがここにいても死ぬだろうが!」

 みしり、と音が響いた。続いて、どおん、と凄まじい音が響く。屋根を支える柱の一本が崩れ落ちていた。さらにその上にがらがらと降り落ちるのは屋根の一部だ。生きた炎が堅牢な建物を食い破ろうとしているかのよう――その熱に、建物全体が撓んでいた。不穏に軋む音が圧するように響く。ぐわん、と空間が歪んだ。

「崩れるぞ!」

 熱に顔を顰めながら須樹が叫ぶ。

「一か八か、出口まで走るしか生き残る手はないな」

 荒れ狂う炎の壁を睨みつけながら仁識がぽつりと言った。

「おい、立てよお前ら。このままここで死ぬ気か!」

 丈隼が言いながら蹲る若者を引きずるようにして立ち上がらせる。冶都やともまたへたり込んでいる一人を半ば担ぎあげるようにして引っ張り上げた。

「一か八かでも、ここで何もせずに死ぬよりましだ!」

「いいか、一気に行くぞ。何も考えずに走り抜けろ」

「だめだ!」

 仁識の言葉を不意に鋭い声が遮った。それまで倉庫の奥を凝視していた灰が振り返っていた。

「入口までは距離がありすぎる。倉庫の奥に行かないと」

「それこそ逃げ場がないだろう!」

「逃げ道はある」

 言いながら灰は炎の帳を睨みつけた。炎の向こう――そこにいるはずの男の気配が忽然と消えていた。

「あの男は必ず逃げ道を用意している。この位置では出口までは到底辿りつけない。だが、向こうならまだ何とかなるかもしれない」

「何言ってんだよ! あいつは俺達も巻き込んで自殺する気なんだよ!」

 叫んだのはイーリヤだった。顔を絶望に歪めながらも、灰を睨みつける。

「地下道か……」

 それまで灰を凝視していた仁識がぽつりと言った。それに無言で灰は頷く。

 どおん、と再び轟音が響き、振り返る彼らの前で入口に近い屋根の一角がごっそりと崩れ落ちた。入口が瓦礫の向こうに消える。

「迷っている暇はないな」

 言いざま灰は周囲に煌くものへと念じた。走れ、と。それに応えて叉駆が炎の壁へと突っ込む。同時に自身で紡いでいた冷気の網を、炎を穿つようにぶつける。渦巻くように力が弾けた。清涼な気配に打たれた炎がその勢いを弱め、目の前に道が開ける。その向こうに倉庫の壁が見えた。

「走れ!」

 灰の一声に、弾かれたように若者達が走り出す。なぜ、炎の中に突然道が穿たれたのか、疑問に思う間もない。ただ生き延びんがために脱兎の如く駆ける彼らの後を、最後に灰が追う。彼らの周囲、叉駆という守りを失った空間に、なだれるように炎が迫った。

「振り返るな!」

 よろめき倒れそうになる一人の腕を掴み、力ずくで引きずりながら灰は叫んでいた。束の間勢いを弱めた炎が再び彼らの周りに迫る。ごく短い距離でありながら、灼熱、永劫にも思える一瞬が過ぎ、彼らの背後で、崩れおちる炎に道が閉ざされた。

 大きく肩で喘ぎながら、若者達は茫然と周囲を見回していた。彼らはぽっかりと開けた空間に立っていた。燃え盛る炎はまるで壁のように周囲を取り囲みながらも、彼らが立つ空間には何かに阻まれているかのように入って来ない。むしろその場を中心にして四方に炎が噴き出しているかのような光景である。男が立っていた場所である。だが、男の姿はどこにもなかった。

「皆、無事か?」

 問いに幾人かが無言で頷く。あらためて見れば、若者は全てで十二人いるらしい。

 へたり、とくずおれる若者の腕を離し、灰は壁際へと近づいた。暫し辺りを見回し、しゃがみ込むと、地面の土を払う。ざらりとした感触に手を止めると、錆びた鉄の蓋がそこにはあった。周りよりも若干窪んでいる。おそらく普段は土を被せて隠されているのだろう。背後へと近づいてくる若者達を振り返ることなく、灰はぽつりと言った。

「地下道の入口だ」


 鉄の蓋を開ければそこはひんやりと暗い。苔むしたような色合いの石の通路が、炎の明かりに辛うじて見えた。灰を先頭に地下道に降り立ち、鉄の蓋を閉じれば、そこは真実闇の底であった。

「誰か火打石を持ってないか?」

「あ、俺持ってる」

 丈隼の問いかけにイーリヤが答えごそごそと探る気配がするが、燃やすものとてない。

「しょうがないな。このまま手探りで進むしかないだろ」

「なあ、これってどこに繋がってるのかな」

 震える声で言ったのは自警団の若者だったが、誰も答えられようはずもない。と、その時、ずずん、と空間が震動し、細かな土塊がぱらぱらと降り注いだ。

「崩れたな」

 仁識の呟きに、皆しんと静まった。つい先ほどまで彼らがいた倉庫が、とうとう炎に耐えられずに崩れ落ちたのだ、と悟る。

「あの男がここに逃げ込んだなら、どこかに出口があるはずだ」

 須樹が気を取り直すように言うと、呼応して冶都が皆を励ますように声を張った。

「命拾いしたんだ! 進もうぜ!」

「で、どっちに行けばいいんだ?」

「あの男がどっちに行ったかだな」

 仁識が冷静に言う。だが、男の気配は最早どこにもない。足音とて聞こえなかった。

「どうする。あいつまんまと逃げおおせちまったぞ」

「まだそうとはわからん。追いつけるかもしれん」

 灰は若者達のやり取りを聞きながら、男の気配を追おうと意識を広げようとして、息を呑んだ。くらり、と体の芯が揺れた、と思った。闇の中でなお、己の視界が暗く閉ざされるのを感じる。咄嗟に石壁に手をつき、体を支えていた。愕然とする。感覚が広がらない。まるでちりちりと焙られるように神経が引き攣れ、急速に体温が下がっていた。虚脱――意識が、朦朧とする。

「立ち止まっていても埒があかん。とりあえずこっちに行ってみよう」

 言うと丈隼が一方に向かって歩き出す気配がした。ぞろぞろとそれに足音が続く。灰はぎり、と歯がみすると強く頭を振った。鋭く深く息を吸い、崩れそうな足を前へと踏み出す。

 ――力を使い過ぎたのか――灰自身は己の怪魅けみの力がどれほどのものかを知らない。そしてその力がどれほどに精神に負うものであるかも知らなかった。ここ数日、気付かぬうちに疲弊していた彼の精神が、今この時になって怪魅の力はおろか、己の体を支えることもできぬほどに摩耗していたことに、当の本人が気付いていなかった。

 歩かねば、その思いだけで灰は前に進む。地中の闇よりなお深く閉ざされた視界を凝らせば、前を行く若者達の影が仄かに揺らめいている。その先に蹲る暗がりは広漠として深い。

 気力だけで足を進めながら、灰はふと思う。なぜ、あの男は街に火をつけるなどということをしたのだろうか、と。それと同時に異端の術を操るあの男の波動、炎の感触が生々しく思い出されていた。自然に発生したものとは明らかに違う、明瞭なそれ。そしてさらに考える。二度目の火災が起こった夜、峰瀬から灰が多加羅へと招じられた真の理由を知らされたその夜に、彼は頑なに感覚を閉ざしていた。もしもそうしていなかったら、あの男が放った術の波動を感じ取れたのではないか――闇に灯る蝋燭さながらに明確なその気配を僅かでも感じ取ることができていたのではないか。そうすれば、二人の人が死ぬこともなかったかもしれぬ。後悔の念が渦巻く。

(過ぎてしまったことだ……)

 実際には、気付いたところで人が死ぬのを防げたかどうかなどわからない。むしろ救えなかった可能性の方が高い。考えても詮無いことだ。わかってはいても思わずにはいられなかった。もしも異常に気付いて、火を消し止められていれば、人は死なず、あの男もあれほどまでに追いつめられることもなかったのではないか、と。

 ――化け物――その叫びが、こびりつくように、繰り返し脳裏に木霊していた。


 どれ程歩いたのか、塗り込められたような暗闇は時の感覚を狂わせる。地下道を歩く若者達は一様に黙りがちだった。通路は分岐し、上り下りを繰り返す。触れる壁や足裏の感覚から、通路として整備されている場所もあれば、自然のままに土肌が晒されている場所もあるらしい。ごつごつと突き出した角張った岩に幾人かが足を取られた。一度ならず行き止まりに突き当たり、ひき返せば方向感覚はますます覚束ない。最早どのような経路を辿って来たのかも定かではなくなっていた。

 次第に疲労が募り歩調が鈍る。しかし、引きずるようなその歩みを遅らせるのが、疲労ばかりではないことに誰しも気付いていた。彼らの間に漂う息苦しいまでの空気――時が経つほどに募る不安、焦燥――それがやがては絶望というものに変わるだろうことは明らかだった。口を噤むのは、ただ一言でも言葉を口にすれば、決壊するように怯えを吐露せずにはいられないことを若者達が気付いていたせいである。

 炎から逃れた先は無明だった。物理的な圧迫となって押し迫る暗がりに、次第に彼らは追い詰められていた。

 やがて彼らは周囲に響く足音が変化したことに気付いた。

「なんだ、ここ」

 一人が言うと、声は仄かな反響を残した。かなり広い空間に出たらしく、息詰まるような圧迫が減じていた。もっともかわって感じられるのは掴みどころのない空虚な広がりへの不安ばかりである。どこかで滴の落ちる音が硬質に響いている。

「少し、休もう」

 須樹の声に、地面に蹲る気配が続いた。日中から街の見回りを続けていた自警団の若者だけでなく、若衆もまた連日の厳しい稽古に疲労がたまっている。そこに追い打ちをかけるような手探りの歩みだった。すでに深夜は過ぎているだろう。

「今、何時なんどきだろうな」

 ぽつりと言った若衆に、答える者はいなかった。静寂よりも重い沈黙が澱む。

「少し寝た方がいいかもしれんな。このままでは体力を消耗するだけだ」

 丈隼は言うと、ふと若者達の背後へと視線をやった。無論、見えはしないのだが、それでも闇に慣れた感覚が仄かな気配を捉えていた。

「灰、大丈夫か?」

 答えがない。訝しく眉を顰め見当をつけて近付けば、漸く言葉がかえった。

「大丈夫だ」

 普段と変わらない、少年の声である。それでも丈隼は歩みを止めなかった。近づけば、灰は壁に靠れて座り込んでいるらしい。

「本当か? さっきから大分皆より遅れてるだろうが」

 問い詰める。一瞬黙り込んだ灰は、渋々といった様子で答えた。

「昨日の朝、ちょっと足首を捻った。今になって痛みが出てきたんだ」

「なんでそれを早く言わない。酷いのか」

「いや、それほどでもない」

 明瞭な答えはそれ以上の問いを拒んでいた。会話を断ち切るように灰が周囲へと声をかけた。

「丈隼が言う通り、少し眠った方がいいと思います。交代で眠りましょう」

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