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最果てに天深く  作者: 高原 景
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第三章 千那夜の月

「どうだ?」

 背後からの問いかけに冶都やとは振り向いた。足音をしのばせて近づいてくる須樹すぎの姿がある。その背後から無言でついてくる仁識にしきの姿も見えた。

「何も起こらん」

「そうか。向こうの連中もまだ何も見つけられないようだ」

 己が歩いてきた方向をちらりと振り返りながら須樹は言い、冶都の傍らに立つ。彼らがいるのは街を囲む隔壁の上である。下からは見えぬが、壁の上には人一人が立てる程の窪んだ通路がある。嘗ては歩哨が立ち街の外を監視していたそこから、彼らは街を眺めている。多加羅の東に位置するその場所からは、夜になってもまだ眠ることのない街が一望できた。

 祭礼の夜はまさに無礼講である。昼間は祈りのために神殿を訪れる人々も、夜は歌と踊り、食事と酒に時を忘れる。深夜まで灯された明かりは街を幻想的に浮かび上がらせていた。これは壁の上に潜む彼らにとっては好都合であった。街が華やかに明るいほど、周囲の闇は深くなる。壁の上の侵入者に、街の人々が気付くことはない。

「しかし冷えるな」

 言ったのは少し離れた位置で同じようにして街を眺めている若者である。須樹達にとってはつい先程初めて会った相手、來螺らいらの自警団の一人だった。

「神殿での一件は是非見てみたかったな。すごかったんだろ?」

 冶都はきさくにその若者に話しかけた。來螺が神殿に供物を捧げ、それに応えた神が火つけの犯人を明らかにしたという。それは、すでに昨日のことである。しかしいまだに街中その噂でもちきりだった。

「ああ、すごかったぜ。いきなり司祭の一人が喚き出してさ、自分が火をつけたってことを告白したんだ。本当に神の奇跡ってやつかもしれんな」

 興奮気味のその声に、ふと仁識が顔を振り向けると問うた。

「穂の原を披露したそうだな」

「ああ、あのかいって奴が言い出したことなんだが、それで犯人を追いつめるってことだった。まさかあそこまでうまくいくとはな。悪いことはできないってことだ」

 須樹は何事かを考えているらしい仁識をちらりと見やり、呟いた。

「灰は俺達には何も言わなかったな」

「言えなかったんだろう」

 ぼそりと仁識が言う。確信を込めた響きに、須樹は首を傾げる。

「今回のことも、若様は私達には何も伝えるつもりはなかったはずだ」

「ああ、そうだろうな」

 これには須樹も頷く。祭礼の一日目、火つけの犯人が捕われたという話を、彼らは鍛錬所たんれんじょで知った。晴天の霹靂だった。灰から來螺の力を借りると聞いていた彼らも、これほどに早く、しかもこれほどに衝撃的な形で事が行われるとは知らなかったのだ。そして一夜明け、火つけの犯人の逃亡という前代未聞の出来事が起こった。

 一体何が起こっているのか、話を聞こうにも灰がどこにいるかさえわからない。そんな彼らの前に一人の男があらわれ告げたのだ。灰が、來螺の者達とともに逃亡した犯人を捕えようとしていることを。そして男は感情を窺わせぬ声音で一言、言った。――あの方を助けていただきたい、と。

「なあ、あいつ怒ってなかったか?」

 冶都が言うあいつとは灰のことである。夕刻、街の見回りを共にした面々を引連れ、犯人を捕えるのに協力したいと申し出た彼らに灰は驚いたようだった。そして一瞬、その顔に過った表情のことを冶都は言っている。

「怒ってたな、かなり」

 須樹が冷静に言えば、冶都はがしがしと頭をかく。

「なぜだ? 俺達のことが邪魔なのか?」

「別にそういうわけじゃないだろう」

 仁識の素気ない言葉に、須樹は頷いた。

「多分灰は俺達に対してどうこう思ってはいないだろう。むしろ巻き込みたくない、と考えてるだろうな」

「短気なうえに変に心配症だ」

 仁識がぽつりと言った。

「じゃあ、何を怒ってたんだ?」

 その問いに、仁識は答えなかった。答えぬまま、その眼差しが一点を凝視している。

 つられるようにしてその先を見やった須樹と冶都が息を呑んだ。視線の先、街の一角が不吉な色彩に染まっている。夜の大気を侵食して、その紅はゆるりと立ち昇っていた。暗夜をなぶる炎の揺らぎ――

「動いた!」

 彼らは人の背よりも遥かに高い壁から一気に飛び降りると、一散に駆け出した。多加羅の街には不慣れな自警団の若者達の前を、若衆わかしゅうが先導して走る。

 街を囲む壁、その四方に散っていた若者達が一斉に炎を目指していた。

 

 その同じ炎を、灰もまた街の南西にあたる壁の上で目にしていた。

「出やがったな!」

 自警団の一人、イーリヤが叫ぶ。

 火の手があがったのは街の外延部、それも最も隔壁に近い界隈であった。祭りの光に溢れる街中とは違い、そこは粘つくように深い闇に包まれていた。もっともそれはその地域が特殊な場所なせいでもある。そこは収穫した金笹きんざさを貯蔵する倉庫が立ち並ぶ区域だった。人が居住する場所ではないため、夜は殊更に闇が深い。

 灰達が倉庫の建ち並ぶ一角に走り込んだまさにその時、正面から走り来る須樹達の姿があった。双方ともに外延部に近い場所にいた者ばかりである。彼ら以外はまだ辿りついていない。人数にして十数人、街を見張っていた若者達の三分の一程である。

「どの建物だ!」

 苛立ったように一人が叫んだ。遠くからは明瞭に見えた紅蓮の炎も、建ち並ぶ倉庫に阻まれて位置が掴めない。

「こっちだ!」

 言いながら走り出したのは仁識だった。どうやら壁の上で炎に気付いた時点で、どの倉庫からの出火か掴んでいたらしい。

「さすがだな」

 後を追いながら思わずといった体で呟いた冶都が、他ならぬ自身の言葉に顔を顰めた。

「別に褒めたわけじゃないぞ!」

 誰への言い訳なのか、一人でぶつぶつと呟いている。隣りを走る須樹は思わず苦笑し、表情を引き締めた。迷いなく走る仁識のすぐ後ろを、若衆と自警団の若者達が追う。それに紛れるようにして灰の姿があった。

 やつれた、と須樹はその後ろ姿を見て思う。たった一日の間に何があったのか、先程灰と顔をあわせた時に感じたのは、少年がひどく憔悴している、ということだ。もっともそれ以上に気になったのは、当の本人がどうやら自身のその状態に気付いていないらしい、ということなのだが。

「あれだ!」

 響いた声に視線を巡らせれば、前方の倉庫の一角が燃えている。

(奇妙な……)

 先頭を走る仁識は眉根を寄せた。炎は石造りの倉庫の壁をまるで蛇のように縦一直線に這い上がり燃えているが、それ以上燃え広がる気配がないのだ。それ以前に、炎が執拗に燃えていること自体がおかしい。金笹の倉庫は特に燃えにくい素材で建てられているのだ。

 若者達は倉庫の前で足を止めた。倉庫の扉が開いている。黒々と四角く切り取られた空間が虚ろに彼らの前にあった。

「誰もいないのか?」

 ひそりと一人の若者が言う。灰は倉庫の中の暗がりに目を凝らした。ゆらり、と闇の一部が揺れたように思った。

「誰かいるのか!」

 今度は明らかに人とわかる影が倉庫の中で動いた。奥へと逃げる気配である。

「逃がすか!」

 若者達が一団となって中へと走り込む。倉庫の中は空らしく、自身の手も見えぬほどの闇に足音が響いた。

「もう逃げ場はないぞ!」

 前方を走る人影が足を止める。居並ぶ若者達を振り返る気配――次いで、ひゅっと鋭い呼気のような音を、灰は聞いた。

 闇を裂いて、炎が奔った。


 げんは茫然と目の前の光景を見つめていた。彼の前には炎に包まれた建物がある。

「灰様……!」

 呼びかける相手は炎の向こうである。

 灰の後を追い、倉庫群の一角へとやって来た。倉庫の中へと若者達が走り込んで行った、その次の瞬間、内部から炎が噴き出したのである。咄嗟に中に飛び込もうとした彼を阻み、異様な早さで建物全体が燃える塊となっていた。

 夜空をも暗赤色に染め上げ、建物を呑みこんだ炎は猛るように燃え盛っている。内部で何かが崩れるような鈍い音が続け様に響く。そして倉庫の輪郭がぐにゃりと歪んだ、と見えた瞬間、凄まじい轟音をたてて、奇妙にゆっくりと、建物が崩壊した。

 熱風が吹きつける。火の粉がしぶくように散り流れて、虚空に消えた。地面に這いつくばるように潰れた建物の残骸の上で、なおもなぶるように炎が揺れていた。

 がくりと弦の足から力が抜け、地面に膝をつく。ぎり、と拳を握りしめ、眼前の光景を睨みつけていた。

 どうか、と彼は灰に言ったのだ。逃げた犯人を追うと言う少年に、どうかこれ以上この件に関わるのはおやめください、と。思惑通りに丈隼たかはやの無実を証明した、もうそれで十分ではないか。聖遣使しょうけんしの狙いは來螺の術の使い手である。今はまだ灰にその目は向いていなくとも、このまま関わり続ければ、いつ怪魅けみの力が相手に知れるかわからない。

 だが、少年は迷うこともなく彼に答えた。

 ――ここで逃げるわけにはいかない、と。

 弦は、ただ呆然と、己の主を呑みこんだ炎を見つめていた。火災に気付いたらしい街衆がやって来るまで、彼は凍りついたように動かなかった。

 そしてまた一人、物影から惨劇の場を見つめる人影があった。聡達そうたつである。黒曜石の瞳は冷たく炎を映す。不可思議な笑みに口角を吊り上げて、何を思うのか。やがて振り返ることもなくその場を後にした彼の姿を、見た者は誰もいない。

 まろい光の粒子が降り注ぐ。煤けた大気を透かして滲むは月――地上の喧騒を知らぬ気に、ただ静かに在った。


 時は遡る。

 神殿で神の奇跡が行われた日から一夜明けた朝のことである。火つけの犯人が獄舎から忽然と姿を消したという信じられぬ出来事が、街衆へと知らされた。

 だが常にない興奮の坩堝と化した多加羅の街である。火つけの犯人の逃亡という祭礼に水を差す出来事も、享楽を減じるものではなかった。裏で何が起こっているか人々が知るはずもなく、祭礼の二日目もまた華やかに街は浮き立つばかりである。

 さらなる災厄の火種は、來螺の宿営所へともたらされた。來螺の代表者の幕舎へ一通の文が投げ入れられたのである。逃亡した火つけの犯人からの文であった。その文には、己の罪を暴いた來螺への恨みが連ねられ、そして最後に再び多加羅の街に災厄をもたらす旨の言葉が綴られていたのである。

 ――の海とくと御覧あれ――

 それが、まるで來螺が披露した芸、穂の原に対する己の答えであるかのように――

 宿営所を預かる自警団の面々はこの剣呑な文の内容に色をなし、その後に開かれた緊急の会議は紛糾した。來螺が成したことへの報復であればこのまま捨て置けぬとする者と、火災が起こるにしても多加羅の街のことにこれ以上関わる必要はないとする者が対立し、答えが出ぬままに時間ばかりが過ぎた。

 灰が來螺の宿営所を訪れたのは折しもそのような時である。弦から、聖遣使が峰瀬みなせをおとなったという、その事の顛末を聞かされて知っていた灰だったが、聖遣使――聡達がどのように動くのかは想像もつかず、宿営所を訪れてはじめて文のことを知ったのだ。

 内容は明らかに火つけの犯人からのもの、だが、神殿の広場での犯人の様子から、彼が再び凶事を起こすかといえば首を傾げざるを得ない。間違いなくこの出来事の裏には聡達がいる。

 すでに顔馴染みになっている自警団の若者達は我先にと、灰に文の内容を告げた。最も騒々しいのはやはりイーリヤである。

「とにかくさ、その文ってのが気味が悪いんだよ。幕舎に投げ込まれてたのも、誰にも気付かれずにするなんて芸当そうそうできるもんじゃない」

「獄舎から逃げ出すなんて、相当に危険な奴だな。あの時はそんな風に見えなかったが」

 実際には警備の厳しい獄舎から逃げ出すなど不可能なのである。意図的にはかられた逃亡であることを知っている灰は複雑な思いに駆られる。これは、彼を捕えるための罠だ。迂闊だった、と灰は思う。あの幻を聖遣使が目にする可能性は十分にあった。それは灰にもわかっていたことである。しかしたとえ目にしたとしても即座に來螺の異能者を捕えるために動くことはないと思っていた、彼の誤算である。

 物思いに沈む灰へと、その時声が掛けられた。

「灰」

 灰ははっと振り返る。その視線の先に、丈隼がいた。口々に喋っていた若者達がしんと静まる。灰は思わず丈隼に向かって足を踏み出していた。相手に近づくとまるで確かめるようにじっと見つめ、漸く言った。

「いつ釈放されたんだ?」

「昨日の夕方だ」

 丈隼は晴れ晴れと笑んだが、やつれた様は隠しようもない。灰は眉を顰め、ひそりと問うた。

「……酷いことをされたのか?」

「いいや、ただ尋問をされただけだ」

 暴力の類は受けなかったと言う。しかしたった四日の間に刻まれた頬の影が、その尋問がいかに厳しいものであったかを示している。肉体に対する暴力は行われずとも、おそらくは精神に対する拷問とも言えるものだったに違いない。

 丈隼は真剣な眼差しを灰へと向けた。

「俺が助かったのはお前のお陰だ。ありがとう」

 その声音に、灰は一瞬言葉に詰まる。

「俺は何もしていない。來螺の力だ」

 それは本心からの言葉だった。來螺の人々が動かなければ真の犯人を明らかにすることなど到底できなかっただろう。そして灰の突然の申し出に、穂の原という高度な技術を要する芸を見事に披露してみせたのは彼らである。容易くできることではあるまい。

「いいや、お前が來螺を動かしたんだ。全てかのから聞いた。そのせいで多加羅の若衆を追放されたとも……」

「そのことはいい」

 なおも言い募ろうとする丈隼を遮り、灰は言う。

「それよりも、逃げた犯人のことだ。來螺へと文が届いたと聞いたが」

「ああ、今幹部連中が話し合っているが……」

 言いながら丈隼は幕舎を見やる。漏れ聞こえる声はどれも険しく、会議が始まって一刻程も経とうかというのに、いまだに結論が出る気配はない。

 灰の表情が僅かに曇った。彼は思う。聖遣使が犯人を逃亡させてまで焙りだそうとしているのは芸に術を込めた異能者、つまりは灰である。聖遣使は危険に過ぎる。下手に関わればどのような災厄に巻き込まれるか――

「おい、何を考えている」

 丈隼の声に灰の思考は途切れた。振り仰げば相手は探るように灰を見つめている。

「別に何も……」

「どうせろくでもないことを考えているんだろうが。俺にはわかるんだよ。そういうところは六年前と全然変わってないな。お前のことだ、一人で逃亡した犯人を見つけ出そうと考えてるんじゃないのか?」

 丈隼は黙りこむ灰を見やり、穏やかに言った。

「お前な、酷い面だぞ。どうせろくに食べてもいないんだろうが。もう少し自分を労れ」

 灰は虚をつかれる。思わず己の顔に手をやっていた。丈隼は苦笑し、次いで周りを取り囲む自警団の若者達をぐるりと見回して高らかに言った。

「俺達で犯人を見つけ出してやろうぜ!」

 間を置かずして応、と周りが答えた。

「ああ! 丈隼に罪を被せた奴だ。何としても見つけ出してやる!」

「これ以上虚仮にされて黙ってられねえよ」

「多加羅だとか來螺だとかこの際どうでもいい。俺達で捕えてやる!」

 迷うこともなく口々に若者達が言う。茫然と周りを見回す灰に、丈隼はにやりと笑んだ。

「そうそうお前にばかりいい格好はさせられないからなあ」

 ふと真剣な眼差しになると、強く、静かに言ったのだった。

「お前一人には背負わせない」

 第三章がはじまりました。「千那夜」は「ちなや」と読みます。

 第三章は第二章ほど長くはないと思います。どうかお付き合いください。

 ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!

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