30
きっかり十の刻に、ごおんと神殿の楼鐘の音が鳴り響いた。それを合図に人々は一斉に手に持つ金笹の花や、色とりどりの造花を宙へと投げ上げた。わあっと歓声があがり、それが一年に一度の無礼講、厳しい冬の前の、束の間の夢の始まりだった。
多加羅所領内の街や村の代表者は数日前から多加羅の街に逗留しているが、神殿への供物を捧げる際には改めて街の壁の外から参上するのが習わしである。盛装に身を包み、華やかに隊列を組んで大通りを進む彼らの姿もまた、祭礼における風物詩だった。供物を捧げる順に決まりがあるわけではなかったが、比較的小さな規模の集落からそれは行われる。
第一の集落の代表者達が街の外から神殿へと進んで行ったのは、祭礼の開始から一刻程後のことだった。小さな集落らしく、人数もさほど多くはない。捧げ持つ供物は豪奢な布袋から察するに宝石や金といった類か。道をあけた人々が厳かに進む彼らに沿道から好意的な眼差しを送っている。これが規模の大きい街ともなると、その華やかさは一種の見世物にもなるのだ。
灰は神殿へと詣でる人々を大通りに面した細い路地で見ていた。身を包むのは質素な衣と、緩やかな外套である。頭から被った外套のせいで、傍からは容貌をしかと見ることはかなわないだろう。灰の姿は影に潜むかのように存在感がない。人目につかぬ路地にいるせいばかりではない。実際、灰は意識して己の存在を秘していた。
昨日采と打ち合わせた通りに進むのであれば、おそらく來螺の街衆が神殿へとやって来るのはあと半刻程後だ。それを待ちながら、灰は不思議なほどに己が落ち着いているのを感じていた。奥底で張り詰めた緊張を味わいながら、それを睥睨するもう一人の自分がいる。研ぎ澄まされた感覚には、周囲の熱気が、渦巻くような細かな粒子に感じられた。そのただ中で、一人静かに佇んでいた。
ふと、早朝の一連の出来事が脳裏に蘇る。仁識の驚愕した表情と、何処かへ消えた闇――今は、考えるな――灰は緩く頭を振った。若衆は今頃鍛錬所で最後の稽古に精を出しているだろう。須樹達にはどのようにして犯人を焙りだすのか、言ってはいない。到底言えないことだった。ここから先は彼らを巻きこむには危険に過ぎる。
暫くして、緩やかに下る大通りの向こうからどよめきが上がった。何事かと足を止める人々の前に、その一団は姿をあらわした。先頭を歩くのは高々と旗を掲げ持つ采である。三角の旗は蘇芳、鮮やかな色彩の真中には金赤の大輪とそれに被さる白銀の剣、來螺の自警団の印である。
その背後に続く人々は一層艶やかである。純白の薄絹に、碧羅の羽衣を纏う舞い手、それを取り囲むのは薄藤と濃紫の衣にそれぞれ身を包んだ歌い手と奏者である。そして飾り気のない黒い衣を纏う者が数人と、旗と同様の蘇芳の衣の男達がその後に続いていた。騙し技を生業とする芸能家と自警団である。総勢三十人を優に超している。
「御覧じろう! 祭りの時ぞ、今まさに。我らの芸を御覧じろう!」
歌い手の一人が朗々と声をあげる。呼応するように奏者の一人がたあん、と太鼓を鳴らした。
わあっと沿道から歓声あがる。黒い衣の者達が一斉に光粉を宙にまいたのだ。微細なそれが、陽光を弾き、風と熱気に流されるままにちらちらと色彩を変えてたゆたう。さして珍しくもない騙し技の一つだが、多加羅の街衆には馴染みのないものだった。
「來螺だ!」
言ったのは雑踏の中の誰なのか、それに人々がざわめいた。
「御覧じろう! 我らの至誠を捧げんと、碧落の神のその元へ」
口上のようなそれに人々のどよめきはさらに大きくなった。供物を捧げんと参上したのだと、それは告げたのだ。前例のない出来事に辺りは途端に色めき立った。來螺の一団の後からも観衆が押し寄せるようについてきていた。今や人々は華やかな來螺の街衆を取り囲むようにして群れをなして神殿へと向かっている。灰は目の前を通り抜けるその集団にするりと入り込んだ。
やがて神殿が眼前に迫る。供物を捧げる儀式は街衆にも公開されるため、建物の中ではなく神殿の前の広場で行われる。そこには供物を捧げる祭壇があり、司祭達が整然と並んでいた。司祭長を筆頭に数多の司祭が立ち並ぶ様は、背後に聳える神殿の威容とともに壮観である。供物を捧げるのは街や集落の代表者だが、それ以外の人々も神への祈りをその場で捧げ、聖句を授かる。そのため常に人が絶えることはないが、祭礼の中にあってこの場の張りつめた静寂は乱れない。それが、不意にどよめきに揺れた。
何事か、と視線を巡らした人々の前に、來螺の一団が姿をあらわした。広場の周りを守る衛兵が呆気にとられたように目の前を通り過ぎる彼らを見つめている。おそらく留めるべきかどうか迷う以前に、何事が起ったのかもわかってはいないのだろう。さらに続く人波に厳かな場が俄かに喧騒に包まれた。
「何事ぞ」
柔らかく深い声が響いた。司祭長である。司祭の正装である足元までゆったりと身を包む衣は、長にのみ許される黒に近い深緑である。豪奢な椅子から立ち上がり來螺の一団を見やったその姿に対して、広場の真中まで進み出た采が深々と叩頭した。
「我ら來螺も供物を奉りたく、参上いたしました」
「來螺と申したか」
「はい」
「そなた達がなぜ供物を捧げる。多加羅の者ではなかろうに」
「神の御前に国の違いなど意味のないこと。我らも神の慈悲を賜わりとうございます」
喧騒に包まれていた広場はいつしかしんと静まり返っていた。落ち着いた采の言葉に、司祭長は暫し黙る。無論、彼とてこの申し出を断ることなどできはしない。神の前に、それはあまりに不敬である。それでも黙したのは、來螺という存在への忌避感によるものか、それとも意想外の出来事への戸惑いのせいなのか。
「ならばそなた達の真を捧げられるがよろしかろう」
厳かに響いた声に、采はさらに深く頭を下げると、すっと立ち上がった。広場に集まった全ての人々へと告げる。
「我らの最高の芸を神に捧げましょうぞ」
一目來螺の供物を見ようと詰め寄せる人々の間から、灰は抜け出した。神殿と面した位置にある路地までさがり、瞳を閉じて深く息を吸った。穂の原の流れは、一昨日星見の塔にある書物で何度も確認した。それを元に、采とは芸の流れを取り決めてはいる。しかし、全ては一度きり、どのように術を込めるかは灰次第である。
灰は目を開くと、一気に感覚を開いた。意識が風のように広がり、群がる人々の鼓動をすり抜けて広場の中央へと向かった。自警団の鮮やかな衣を掠め、奏者の一人、叶の傍らを奔り抜けて、ゆっくりと進み出る舞い手の、その密やかな足音を聞いた。そして立ち並ぶ司祭達の張り詰めた呼気をも、一瞬にして灰は感じ取る。
たあん、と太鼓の音が響く。
穂の原――怒りと告発の時の、それが始まりであった。
――はやちとせ――
歌い手の唱和が波紋のように広がり、それを追うようにして奏者が音色を奏でる。緩やかな笛と、震えるように柔らかく響く麗楊弓である。
――はやちとせ、せをよるかのちあけあけと――
僅かに顔を伏せた舞い手の左腕がゆるり、と空気を撫でる。羽衣が水のように揺れた。白蓮のように、寿ぎの舞の立ち姿である。
詩句は歌う――はや千歳、瀬を寄る彼の地、明々と――遥かな古の時より幾星霜、水豊かに潤う彼の地は常に光明に輝いていた――
それは豊穣の大地への賛歌であった。
詩句は波となり、舞はそれにたゆたう一輪の花のよう、かすめるような笛と弦が、戯れに吹き過ぎる風にも似て、ただ夢幻のままに時が過ぎる。それに、人々はうっとりと酔いしれた。
たあん、と不意に太鼓の音が響き、ふと音が途絶えた。束の間の静寂の後、澄んだ乙女の歌声――くのせいかみにひとたちて、まこと、しらすな、はねやちと、さらささらなるさらしなに――
ふと、司祭長が眉根を寄せた。
(九の制、上に人立ちて、誠、白沙、羽や地と、更さ更なる更し名に……)
響く詩句を、彼は心中に繰り返す。
――九つの法を布き、賢き君主が上に立ち、人の誠も、豊かなる水も、空に地に生きる全てのものも、繰り返し生まれいずる時の中でますますその名を響かせる――このうえもなき国の栄華を誇らかに歌うそれに、しかし彼ははっとする。その歌を彼は知っていた。同様に気付いたらしい気配が隣でする。
「司祭長、これはまさか……」
ひそりと問いかけられ、彼は振り返らぬまま、厳しい表情で頷いた。なおも国の繁栄を歌う唱和が続く。その裏に秘められた凄まじいまでの恨み――。司祭長の心中に生じたのは怒りであった。神に供物を捧げると殊勝に言いながら、よもやこのようなものを奉じるとは――これほどの侮辱があろうか。いかに供物といえども、見過ごしにできぬ事態に立ち上がろうとしたその時、不意に鋭く太鼓の音が響いた。
たゆたうようなゆるやかな雰囲気に酔っていた広場の人々の多くがびくりと身を震わせた。突如響いた太鼓の音が、まるでそれまでの空気を引き裂くように、なおも叩きつけられる。
だあん、だあん、だあん!
黒衣の一団が、ふわりと宙に光粉をまく。先程大通りで披露したものとは違う、それは葵と呼ばれる。舞い手が仄かな群青に包まれる。優美に物憂く、凶の気配――青の帳の向こうで、それまでふわりと舞っていた舞い手が不意に高く足をあげる。華麗に、野生の獣に似て荒々しく。衣が大きく舞いあがり、その瞬間、身に纏う碧羅が紅に染まった。一瞬のそれに人々がどよめく。
騙し技師が宙に投げた葵、それが羽衣の特殊な染め粉と触れ合うことで、その色彩を紅に変じたのだ。血のように鮮やかに、禍々しいまでに美しい色彩を纏い、舞い手が天に腕をのべた。
――われたたずむはほのはらに、きみにちかいしこのおもい、はやちとせ、はやちとせ――
「やめよ!」
立ち上がり叫んだ司祭長の言葉は、しかしなおも叩きつけられる太鼓の音と、歌い手の高らかな詠唱にかき消される。
――このみをやきしおもいをば、ほのうみとわにつつむらん、かのせのいのちつきるまで――
「なんという……」
司祭長の呟きは真実苦々しかった。
――我佇むは穂の原に、君に誓いしこの想い、はや千歳、はや千歳、この身を焼きし想いをば、穂の海永久に包むらん、彼の世の命尽きるまで――豊かなる実りの原、穂の原に佇み、あなたへ誓う愛はどれほどの時がたっても消えはしない、たとえ幾千年でも、あなたへの身を焦がすような想いは穂の海に包まれてとどまるだろう、この世界が尽きるその日まで。
激しいまでの愛、最後にそれを歌い終えて、すっと波が退くように静寂が落ちた。
舞い手が優美に身を屈めお辞儀をすると、背後へ下がる。
異様な沈黙が辺りを覆っていた。立ち上がり、怒りに身を震わせる司祭長の姿のせいばかりではない。広場に集う人々の多くが、最後になってこの芸が何であるのかを悟ったのだ。穂の原、と。穂の原が持つ、もう一つの意味はあまりに有名である。そしてそれほどに広く知られた詩句でありながら、ひそりとおちた静寂に誰もがその名を口に出せずにいた。容易く口にすることも憚られる、その凄まじいまでの恨みの言霊を人々は知っている。体制に背き、圧政者を弾劾する歌であり、裏の名を炎の原という、それを――
口を開きかけた司祭長の言葉は、しかしそのまま発されることはなかった。つんざくような悲鳴が彼の背後で突然あがった。
男は、茫然とその集団を見ていた。大通りから広場へと踏み出して来たのは明らかに国境地帯の、それも來螺の者である。数にして数十人、物見高い人々を引き連れて姿をあらわした彼らは、神へと供物を捧げることを望んだ。
彼にとって祭礼とは、司祭として務めるべき義務に過ぎない。彼には、神へと捧げられる供物のどれもが俗っぽく、人々が唱える祈りがあまりに耳障りに感じられる。しかし俗世に染まり、神の慈悲を乞うにそのような方法でしか果たせぬ人々のことを憐れにも思う。そう思えばこそ、この無意味な行事にも耐えられた。しかし突然あらわれた來螺の集団に、男の心中は乱れる。
そして、穂の原が始まる。男は戦慄とともにそれを見ていた。彼は瞬時に悟ったのだ。それが己に向けられた怒りであり、告発であると。
――はやちとせ、せをよるかのち、あけあけと――
――疾風屠せ、背を縒る彼の血、朱々と――風よ、大軍となりて裏切り者をなぎ倒せ、いまだに忘れ得ぬあの方の苦しみ、あの方の流した血に赤々と染まるあの地へと風よ奔れ――
蒼白な面で目の前に繰り広げられる弾劾を見ながら、それでも男は動揺を一切出しはしなかった。たかが來螺の者どもに一体何ができるというのか。たまさか真実をいかにしてか知ったとしても、誰が彼に手を出せるというのか。
その時、彼は気づく。広場の中央に、何かがいる。圧倒的な力を感じさせるそれに空間が撓んでいた。男は目を細める。陽炎のように広場の真中に揺らめいているもの、それを通して見える舞い手の姿が曖昧に歪む。
(一体、何が……)
男は目を見開いた。不確かだった像が、不意に一つの形を結んだ。巨大な鷹閃が、そこにいた。猛々しく、優美に、男を睥睨している。
(神よ……)
男は茫然と呟く。鷹閃は巨大な猛禽である。しかし人の前には滅多に姿を見せず、幻とすら言われ、その稀有さゆえに神の使いと考えられているのだ。男は虚脱したまま、なおも己を見つめる存在を凝視していた。もはや周りの者達にはその存在が見えていないということすら気付いていない。恍惚と思う。
(神よ、漸く私の元に……)
――くのせいかみにひとたちて、まこと、しらすな、はねやちと、さらささらなるさらしなに――
隠れ歌の言霊は、恨みと怒りを秘めて響く。
――制圧者である仇は、誠実なるあのお方を貶め、国はまるで砂漠のように荒れ果て、空飛ぶ命でさえ地に落ちた。たとえどれほどに時がたとうとも、何度でもお前の名を裏切り者の名として晒してやる――
ぼろり、と男の目の前で崇高なる生き物の輪郭が崩れた。腐り落ちるようにどろどろと地に落ちるそれを見て、男はひっと声にならない悲鳴をあげた。地に落ちた肉塊の紅が、次の瞬間ぶわりと広がった。醜くまき散らされたそれが、扇のように大気を染め上げる。火炎となって、燃え上がっていた。
男の体が凍りつく。炎は今や遥か頭上にまで燃え上がっている。狂おしく、荒々しくのたうつそれに、目が吸い寄せられていた。
――我佇むは炎の原に、君に誓いしこの思い、疾風屠せ、はや千歳、この身を焼きし思いをば、炎の海永久に包むらん、彼の背の命尽きるまで――
――私は今でも炎に包まれた地に立ち尽くしている。胸にあのお方への誓いを秘めて、風よ大軍となって裏切り者を滅ぼしてしまえ、たとえどれほどの時が流れようとも、あの裏切り者の命尽きるまで、この身を焼きつくす復讐の思いは炎の海となって燃え続けるだろう――
どこか遠くで、男はその言葉を聞く。彼への断罪を――なぜ、と彼は思う。神は、彼のもとへ来たのではなかったのか。なぜ――
高く高く燃え上がっていた炎が、揺れた。ぐにゃりと歪み、巨大な獣の形となる。牙蒙という、その名を彼は知らなかったが、己を射竦める朱の眼差しに鼓動さえも凍りつくようである。
次の瞬間、炎が男に向かって奔った。獣のあぎとが、その禍々しい紅と、ぬらりと鋭い牙が眼前に迫る。凝固したままそれを見つめていた彼の中で、何かが決壊した。
獣に呑みこまれる寸前、彼は悲鳴をあげていた。
「穂の原」の「九の制上に人立ちて」の部分は、当初「一番上に人を入れる」というメッセージが秘められている、という風に書いていたんですが、(つまり九ににんべんをつけて「仇」になる、と。)さすがに漢字の形(概念??)そのものを異世界ファンタジーに入れることに抵抗があったため、今回削りました。「穂の原」の意味自体は変えていないですが。もうちょっとうまい仕掛けを入れたかったのですが……考えついたらまた修正します。
次で第二章は最後です。今後ともよろしくお願いいたします!