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最果てに天深く  作者: 高原 景
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29

 せんの朝は早い。その日も彼は陽が昇るのと同時に起き、井戸へと水を汲みに行った。何気なく見やった空は夜の気配の濃紫を宿しながら、水のように澄んでいる。祭礼の日は晴れそうだった。

 祭礼の時ばかりは小学院も休みである。妹がはしゃぐのだろうなととりとめのない思いにとらわれ、彼は小さく笑う。彼自身は小学院に行かなくなって久しい。父親が生きている頃から貧しい生活ではあったが、母親が病に倒れてからは毎日の食事にも事欠くほどだ。彼自身も少しでも家計を支えるためにこの季節には金笹きんざさ農家の収穫の手伝いをしている。厳しい労働にも関わらず給金は微々たるものだったが、幼い子どもを雇ってくれるところは他になかった。

 その仕事も祭礼の三日間は休みだったが、泉は祭礼を楽しむ心地にはなれなかった。無論、彼とて他の子どもたちと同様に祭礼を心待ちにしていた頃はあったのだ。父親がいた時には家族で街に繰り出し、祭礼三日目の若衆わかしゅう剣舞つるぎまいは必ず見に行ったものだった。しかしそのような思い出も、泉には遠く感じられた。

(去年も剣舞を見なかったな……)

 ぼんやりと思いながら水の入った重い桶を抱え、ふと振り返った時、その姿が目に入った。近づいてくる人影がある。まじまじと見やると、それはかいだった。二日前に突然にあらわれた相手である。思わず立ち尽くす彼の前まで来た灰は、片手に持っていた布嚢を差し出した。

「約束の薬だ」

 無言でいる泉には構わず、灰は言葉を続けた。

「三種類ある。痛みを抑えるものと精神を安定させるもの、それから夜に眠れない場合に飲むものだ。最初の二つは一日に四回、もう一つは場合に合わせて服用すればいい。一回に飲む量や服用の仕方は紙に書いておいた。これだけの量があれば当分の間はもつはずだ」

 泉は桶を足元に置くと、布嚢を受け取り中を覗いた。灰が言ったとおり三つの素焼きの壺と、説明を書いているのだろう巻紙が入れてある。泉は茫然と灰の顔を見上げた。

「もう来ないと思ってた。薬のことだって口先だけのことだと……」

 呟くように泉は言う。灰は僅かに首を傾げた。

「麻薬は捨てたのか?」

 小さく首を振る泉に、灰は何も言わなかった。

 灰が突然に泉の元を訪れたあの後、泉は何度も仙境香せんきょうこうを捨てようとしたが、一時でも母親に笑顔をもたらしたそれを捨てることはどうしてもできなかった。そして時が経つほどに灰の言葉は空々しく、その存在自体がまやかしのように思えてきたのだ。

「お前の言うことがだんだん信じられなくなった。もしかして警吏けいりが突然来て、俺のこと捕えるんじゃないかと思ってた」

「そうか」

 泉は穏やかな灰の言葉にちらりと視線をあげる。

「怒らないのか?」

「どうして怒る必要があるんだ?」

 逆に問い返されて泉は答えに詰まる。それに灰は笑んで、踵を返した。そのまま去って行く姿に、突然泉は焦燥を覚える。その感情のままに声をかけていた。

「なあ、お前來螺(らいら)の街衆なのか?」

 捕まった來螺の若者を知っていて彼を助けるのだと言った灰を、來螺の者だと考えたのは無理もないことだろう。もしそうならば祭礼が終われば灰は來螺へと帰るのだろう、と泉は考える。もう会えないのかもしれない――不意にそう思い、出た言葉だった。なぜそんなことを思ったのか、泉自身にもわからなかったが――。問われた方は僅かに沈黙した。束の間考えるように俯き、小さく苦笑する。

「さあ、どうだろうな」

 呟くような答えを残して灰は去って行った。泉はそれを立ち尽くして見送る。手が白くなるほどにしっかりと布嚢を握りしめていた。


 泉の家から一区画離れた場所で灰は立ち止まり、ゆるりと視線を横に流した。そこには、家壁に靠れるようにして立つ仁識にしきの姿があった。泉との会話が聞こえるほどの距離ではない。しかし灰が泉に布嚢を渡したその場面を見ていただろうことは間違いなかった。

 灰が仁識の存在に気付いたのは、泉の家へと向かう途中、大通りを下り外延部に近づいた辺りだった。鍛錬所たんれんじょへ向かう途上で灰の姿を見かけたらしい仁識は、そのまま灰の後をつけてきたのだ。なぜ彼が灰に声をかけなかったのか、しかとはわからずとも想像はついていた。

 灰は一昨日星見(ほしみ)の塔を訪れた仁識達に、全てを語っていない。それにおそらく仁識は気付いていたのだ。灰が密かに何を考え動いているのか確かめたいという思いが仁識にはあったのではないか、と灰は考える。もっともそれがわかっても言えぬことはあまりに多い。

「あれが告発した少年ですか」

 後をつけていたことを知られたにも関わらず悪びれずに――もっとも灰を待ち構えていた様子から、端から姿を隠すつもりはなかったのだろうことは想像がつくが――仁識が言った。問いに頷いた灰を見やり、仁識は鼻を鳴らした。

須樹すぎ達は一昨日の話で納得していたようだが、私は違う。若様は告発した少年を警吏に突き出すのはむごいことだとお考えのようだが、丈隼たかはやを助けるためにはそれも必要でしょう。少なくとも警吏には、告発が虚偽であったことを知らせるべきだと思いますね。來螺の力を借りて何をなさろうとしているかは知らないが、いらぬ情けで結局何も救えぬということになりかねない」

 灰が仁識達に伝えたのは、犯人が神殿の内部にいるだろうという根拠、そして犯人を焙り出すために來螺の力を借りるということだけである。真実を明かさぬことへの不満を、灰は仁識の言葉から感じ取る。

「それに、若様の行為はあの少年の救いにはならない」

「……何が言いたいんですか」

「先程あの子どもに渡していたのは、母親のための薬でしょう」

 やはり読まれている。灰は仁識や須樹達には泉の名も、住んでいる場所も伝えてはいない。そして彼が薬を渡すつもりでいることも黙っていたのだ。殊更に言うべきこととも思えなかったせいである。

「若様は薬を渡してどうなさるおつもりですか。多加羅にはあのような少年は数多いる。ただ一人救うだけでは根本的には何も変わりません。貧困には理由がある。構造を変えないことには、真実の救いにはならない。一回薬を渡したところで結局、また元の状態に戻るだけです。それともあの少年にだけ薬を渡し続ける気ですか。それなら、結局若様の自己満足、ということです」

「俺があの子に薬を渡したのは自分の気持ちのためです。そういう意味では確かに自己満足ですね」

 灰はあっさりと仁識の言を認めた。仁識の眉が僅かに寄せられる。しかし何も言わずに肩を竦めると灰から視線を逸らした。仁識の苦々しい表情を、灰は静かに見つめるだけだった。

 暫し気まずい沈黙に立ち尽くしたその時、灰の意識を揺るがして、空間が歪んだ。それに灰は身を強張らせ、視線を巡らした。耳には捉えられぬ軋みに、大気が震える。まるで意識が鋭利な銛に刺し貫かれるような不快な感覚に、灰は覚えがあった。いつだったか、深夜に山から滲み出てのたうっていた闇、嘗て神であったという、その波動と同じものだ。

 なぜ、と思う前に悟っていた。言霊の縛りから零れ落ちた闇の一部が、まだ大方の人々が眠りに落ちている街のどこかにいる。雑多な存在を無理矢理縒り合わせたような醜怪な気配は、嘗て目にした巨大な闇の塊に比べればはるかに小さなものだったが、大気を歪つに震わせその存在を明確に伝えていた。

 突然表情を険しくして虚空を睨みつける灰に、仁識が怪訝な表情を浮かべる。灰ははっと視線を一点に振り向ける。闇を捉えた。

「すみません。話は今度……」

 灰はぽつりと言葉を残して駆け出した。

 峰瀬みなせより多加羅に巣食う闇の存在を告げられてから常に探っていたそれが、今まさに掴めたのだ。普段ならば制御する鋭い感覚を可能な限り灰は開く。意識の波が、駆ける彼より速く広がっていった。眼には現実を映しながら、意識はまるで空を飛ぶ鳥のように街を俯瞰する。知覚するわけではないが、まるで第二の視野のようなそれを灰は追う。

 小さな家々が寄り集まる一角、細い路地に闇はいた。蹲るようにして暗がりに潜み、今まさに溢れ出さんとしている。そして大気を打つようにして届いたのは、貪欲な波動――呑み込み、破壊し、取り込まんとする獰猛な衝動だった。それが向けられている先に、仄かな命の気配がある。

(まずい!)

 灰はさらに足を速める。掴んだ方角を目指して大通りを走り抜け、人が一人通り抜けるのがやっとの路地を過ぎると、前方を低い壁が阻んでいた。それを駆ける勢いのまま弾みをつけて飛び越える。着地の時に僅かに体勢が崩れ足首に鈍い痛みが走ったが、構ってはいられなかった。

 ほぼ真直ぐに目的の場所に辿りつけたのは、僥倖だった。灰は次第に近付いてくる異形の気配を追い、一つの路地へと走り込んだ。そこには幼児が一人、彼に背を向けてぽつんと立ち尽くしている。命の灯が、滲むようにその体を縁取っているのを灰は見る。そしてその向こう、道の奥にまるで粘つく液体のように、闇が在った。闇は今まさに伸びあがり、触手のような腕を獲物に伸ばさんとしていた。

 灰は幼子の元へと駆け寄り手を伸ばす。ひっさらうようにその体を抱き上げるのと、鞭が撓るような勢いで闇が空間を奔ったのは同時だった。獲物をとらえ損ねた触手がそのままの勢いで蹲る闇へと吸い込まれる。

 闇が膨れ上る。灰は真正面から闇が放つ凶暴な波動に対していた。物理的な圧力にすら感じられるそれは、言うならば怨嗟、妄執、そして純粋なまでの切望だった。喰らう、ただそれだけの焼けつくような衝動である。

 無明の圧迫に背筋がぞわりと粟立つ。灰は視線に力を込めて闇を睨みつけた。一瞬深く息を吸う。周りで空気が軋んだ。怪魅けみの力だ。どうやればいいのか考える前に、想念のままに空間を撓める。周囲で不可視の網が張り巡らされる。空気が変質し、闇への盾を築いていた。うねるように熱を孕み、闇を押し包まんとする。

 と、その時背後に駆け寄ってくる足音が響いた。

「若様!」

 響いた声に、灰の体が強張る。一瞬意識が逸れた、その瞬間を闇は逃さなかった。幾筋もの触手が空気を裂いて灰に向かう。無音の攻撃の大方は網に絡めとられ弾かれたが、数本の触手が網を搔い潜り灰へと奔った。

 灰は身を翻して一本を避け、二本目は背後にさがることで逃れた。しかし抱き上げた子どもの重さに動きが鈍っていた。三本目と四本目が絡み合うようにして眼前に迫る。子どもを己の体で庇うように半身をさげ、灰は闇に左手をあげた。まるでその手一つで闇を留めんとするように――

 咄嗟に灰は左手を大きく振るっていた。張り巡らされていた空気の網がその動きで一瞬にして束ねられ、さらにはそこに飛び込むようにして強靭な気配が一体化し、空間を奔る。叉駆だ。力は颶風となって闇へと迫り、その触手を正面から裂いた。そして道の奥に蹲る闇の本体をも砕くかに見えたその時、唐突に闇が消えた。はじめから何も存在していなかったかのような虚ろな空間を、不可視の刃はなおも地面を切り裂いて奔り抜けていった。

 闇を捕えそこねた刃はそのまま霧散したが、叉駆は大気を駆けのぼり、遥かな高みから灰のもとへと一気に降り立った。姿をあらわさぬまま灰を包みこむと、叉駆は密やかに気配を消した。

 暫し凝然と立ち尽くしていた灰は大きく肩で息をつき、腕の中で硬直している子どもをそっと地面におろした。改めて見れば、子どもはまだ三歳にもならないほどの幼さである。何が起こったかわかってはいないだろう。脅えた顔で灰を見つめていた子どもは、さほど離れていない場所から響いてきた声に、ぱっと顔を振り向けると一散に駆けて行った。名を呼ぶ声は母親のものだろう。その姿を目で追い、灰は漸く背後を振り返った。

 覚束ない足取りで子どもが駆けて行くその先に、凍りついたように彼を凝視している仁識の姿があった。子どもがすれ違うのにも目をやらず、ただ灰のみを見つめる仁識の顔は青褪めている。灰の背後にはまるで巨大な獣の爪に抉られたような傷が一条、地面に奔っている。灰が片手を振るうだけで刻まれたそれ――

「今のは、何です」

 ひそりと、問いかけられた。低く張り詰めた囁きだった。闇に対しての問いなのか、灰自身への問いなのか――おそらくは両方に向けられたものなのだろう。

 灰は答えず、仁識の横をすり抜ける。すれ違いざまにぽつりと言った。

「知らずともよいことです」

 そのまま振り返らずに歩み去る。背後に彼を凝視する視線を感じ、しかし振り返ることなど到底できなかった。仁識は一連の出来事を見ていただろう。仁識がどう思っているのか、今の灰にはそれを考える余裕もない。

 すべてを見ていた仁識に一体何を言えるというのか。決して知られてはならないことだった。そして間違っても、巻き込んではならないことだ。まさか追って来るとは思わなかったにせよ、これは己の落ち度だ、と灰は苦く思う。仁識に対してただ沈黙することしか灰にはできない。

 歩きながら、灰は震えそうになるのを、拳を握りしめて抑えつけた。体の芯に戦慄が凝っている。対峙した闇の暗さが、今更ながらに恐ろしかった。

(なぜ、この時に――)

 どれほど意識を凝らしても、闇の気配はもはや感じられない。だが、闇は確かにいたのだ。人を喰らわんと姿をあらわしたそれが、また人を襲うであろうことは明らかである。祭礼に酔う無防備な人々が集うこの街のどこかで――。どうしたらいい――焦燥のまま灰は唇をかみしめた。

 道を行けば、目覚め動き出す人の気配が俄かに迫ってくる。闇を追った時のままに鋭敏過ぎる灰の感覚には、朝まだきの静寂に凝る熱気が、喧騒にも似て感じられた。それは待ちに待った時への興奮と期待に満ちている。

 いまだにしずまらない鼓動とは裏腹に、全身の熱は冷たい予感に攫われるように引いていた。

 ――祭礼が始まる。

 修正が多くて多くて……疲れました。読み直すたびにどこかおかしいところが見つかるという……まだまだありそうですが、更新します。

 さて、怪魅師としての灰の力ですが、本格的に出たのは今回がはじめてですね。第二章はあと二話くらい続きまして、その後第三章に入ります。

 今後ともよろしくお願いいたします!

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