27
「地下道!?」
須樹と冶都の声が見事に重なった。
「そんなものがあるのか?」
「まあ、空を飛んだんでなければ、地下に潜るしか姿を消す方法はないでしょう。幽霊どころか土竜ですね」
大真面目に答えた灰に思わず須樹は脱力する。
「あ、いや、そうではなくてだな……」
「というのはまあ、冗談ですけど」
「冗談なのかよ!?」
これもまた大真面目な灰の言葉に今度は冶都が脱力する。ふと笑んだ灰だったが、鋭い眼差しになる。
「俺も詳しく知っているわけではないですが、多加羅の街には縦横無尽に走る地下道があると言われています。もとは採掘をしていた小さな山の上に街を築いたせいで坑道が地下に残されているとも、嘗ての支配者が戦時の備えとして築いたとも言われています。いくらなんでも坑道の上に街を築くということはないと思いますけど、本当に地下道あるとしたらかなりの規模のものだと思います」
「そんな話は聞いたこともないぞ」
「それはそうだろう。ほとんどの街衆は知らないはずだ。私が知っているのも昔玄士だった祖父の秘密文書を覗き見したせいだ。治水に関する文書か何かだったと思うが、地下道を水の道として有効活用できないかどうか、確かそんなことを吟味した内容だった。結局実現はしなかったようだな」
「お前、覗き見って……そんなことをしてたのか……」
呆れたように冶都が呟く。
「ああ、記憶もかなり曖昧だったから確信はなかったがな。だが若様なら知っているかもしれないとは思っていた」
「まさか灰もそんな方法で地下道のことを知ったんじゃないだろうな」
「俺が知っているのは秋連師匠……俺を預かってくれている星見役の人に教えてもらったからです。おそらく地下道のことはごく一部の者が知っているだけで、その全容を把握している人も少ないのでしょう。ただ、街のいたるところにその地下道への入口があって、地下を通ってかなりの範囲を行き来することができるのだとか。おそらく噂の人物が姿を消した場所には地下道への入口があったんでしょう」
仁識が須樹と冶都に向き直り言った。
「いいか、ここが肝心なんだ。噂の黒い外套の人物が火つけの犯人だとすると、そいつは普通の街衆ならば知らないはずの地下道の存在を知っていた。ここから導き出されることが何かわかるか?」
「まず、犯人は來螺の者ではあり得ない」
須樹がぽつりと言う。多加羅の街衆である彼らですら知らないことを、年に一度興行で街の外に訪れるだけの來螺の街衆が知っているはずがない。
「そして、犯人が多加羅の者であるとしても、地下道の存在を知っている者は限られている」
呟くように言ったのは灰だった。
「じゃあ、地下道を知ってる奴を探し出したらいいんだな!」
勢いづいて言った冶都だったが、それには仁識が無造作に答えた。
「それは無理だな。どれほどの人が知っているか、そもそも誰が知っているかもはっきりわからない」
「だが時間はあまりないのだろう。丈隼を助けるためにはどんなに小さな手掛かりでも追わないと手遅れになるぞ」
「だが闇雲に追っても、かえって時間ばかりが無駄になるだけだ」
須樹の言葉にもにべもなく返した仁識は、黙りこんでいる灰へ視線を投げた。暫し考える素振りで灰を見つめ、おもむろに問うた。
「若様、何か考えでもあるんですか?」
それまで何事かを考え込むように俯いていた灰が顔をあげる。自分を見つめる三人の顔を見回し、笑んだ。穏やかでありながら強かに――獰猛に。息を呑むようにして三人は黙りこむ。一瞬にして空気が変わった、と須樹は思う。まるで吸い寄せられるように灰の顔から目が離せない。
「祭礼が終われば審議が開かれ、おそらく丈隼の罪が確定するでしょう。祭礼が終わるまでに、俺は何としても犯人を捜し出したいと思っています」
「だがこれだけの情報でどうやって……」
言いかけた須樹は灰の視線に黙る。
「焙りだします」
「どうやるんです。さっきも言った通り、地下道の存在を知っている者が誰かも定かではない。わかったとしても、一人一人に問うわけにもいかないでしょう。そもそも噂の黒い外套の人物が犯人かどうかもわからないんですよ」
「そうですね。だが、犯人である可能性は高い。だから、博打を打ちます。一か八かの賭けですが、うまくいけば犯人が誰かがわかるでしょう」
しん、と場が静まった。息をつめるような静寂に灰の淡々とした声音ばかりが響く。
「俺は明日來螺の宿営所に行ってきます。犯人を焙りだすには彼らの力が必要です」
「どういうことだ?」
「若様、さっきから聞いていると犯人の目星がついているように聞こえますが、心当たりでもあるんですか?」
あっさりと灰が答えた。
「はい。今まで推測でしかなかったけど、今の話で大分確信が持てました」
「つまり、若様の方でも何か掴んでいるんですね」
「灰、お前が何を考えているのか俺達にも話してくれないか」
須樹の言葉は真摯に響いた。その真剣な面差しを暫し見詰めた灰は、小さく頷く。
「俺の話をする前に皆にはわかっていてほしいと思います。おそらく、真の犯人は容易く捕えることのできる人物ではありません。下手に関わると危険なのはこちらの方です」
灰は怪訝な表情の若者達をゆるりと見回し、問うた。
「それでも犯人を追う気がありますか?」
「愚問ですね」
「俺達の気持ちはもう先程伝えたはずだ」
「そうだぞ。俺達を信じろよ」
迷いのない答えに、灰は目を伏せる。確かに愚問だったのだろう。それでも問わずにはいられなかった。
「先程の地下道の話ですが、秋連師匠から聞いた時、なぜこれほどまでに人々がその存在を知らないのか、疑問に思いました。まるで秘されているかのようだと」
低く灰は言う。
「おそらく地下道自体は今の多加羅惣領家がこの地を支配する前からあったのでしょう。戦時の備えとして築かれたとしたら、その当時には秘する意味もあったと思います。でも今では街衆に秘する意味はあまりありません。隠すべきものではないと思います。だが、不自然なほど存在が知られていない。でも考えればそれも当然のことだったのかもしれません」
街の下を縦横に走る地下道――まるで街の血管のようなそれを、人々が知らないわけ――灰は確信を込めて言う。
「地下は神殿の領域です」
暫しの沈黙の後、仁識が鋭く呟いた。
「墓所か」
灰は頷く。
「神殿の墓所は神聖な場所であるがゆえに、聖職者以外の立ち入りが禁止されています。広大な墓所を地下に築き、それを支配する神殿は、言ってみれば大地の司です。何人たりともその権威を冒涜してはならない。仁識さんが覗き見たという治水の計画も、おそらく実現されることは到底不可能なものだったのでしょう」
こんなところにも帝国の支配の衡がある。神殿は人々の精神のみならず、人々が生きる大地をも縛る。人の命が土に還るは理、しかしそれにより人を支配するは、やはり人の所業である。神ではあり得ない。作為――神とは所詮、作為なのだ、と灰は思う。
「おそらく多加羅の地下道は神殿に連なる不可侵の領域に属するものとなっているのでしょう。たとえ墓所を侵すものではなくとも、みだりに人が踏み込むことは許されない状況になっているのだと思います。存在自体が秘されているのも無理はない。もしかすると地下道自体が神殿の管轄として管理されているのかもしれません」
束の間、張り詰めた沈黙が辺りを覆った。
「つまり、若様は真の犯人は神殿に属する者だと考えておられるのですか?」
灰は頷かず、ただ正面から仁識を見つめる。その眼差しがすでに答えになっていた。忽然と姿を消したという件の人物が、もしも地下道を利用していたのだとしたら、ただその存在を知っているだけではない。自由に街を行き来することができるほどにその構造を熟知しているということだ。神殿の不可侵の領域である地下道をそこまで知っている人物が何者であるのか、答えはおのずと知れる。
「おそらくそうだとは思っていました。ただ、俺が知っていることだけではどうしても決め手に欠けていた。地下道の話を聞いて漸く確信が持てました」
「なぜ灰は神殿の者が犯人だと思っていたんだ?」
当然の疑問である。
「若様が知っていることを、私達にも教えてもらえるんでしょうね」
仁識の問いかけに灰は頷くと、静かに語り出した。
密やかに夜は深まっていった。
「客は帰ったのかい?」
問う声に、灰は振り返った。厨房の入口に、壁に靠れるようにして立つ秋連の姿があった。茶器を戻しに来た彼を待っていた、というわけでもないのだろう。秋連の手には今しがた書庫から持って来たらしい書物がある。通りすがりに厨房からもれる光に気付いた、というところか。秋連は何を思うのか、穏やかな眼差しで少年を見つめるばかりだ。
おそらく秋連は何かを気付いているのだろう。今回の件ばかりではない。峰瀬に託されたことについても――いつだったか、惣領の言葉を伝えに来た弦との会話を秋連には聞かれているのだ。心配をかけているという自覚が灰にはある。それでも、この同じ場所で闇の中、壁を隔てて対峙した時と同様に、秋連に今起こっていることを言う気にはなれなかった。
秋連は峰瀬の命により灰を預かっているに過ぎない。それが意味することがわからぬほどに灰は幼くはなかった。灰が陥っている状況、それを知れば秋連は灰に手を差し伸べるかもしれない。それはすなわち、秋連に与えられた役割を逸脱する行為だ。灰と稟を温かく迎え入れてくれた秋連に、これ以上の負担をかけることはできない。
不意に灰は帰り際に仁識が残した言葉を思い出す。灰は若衆を抜けたことを秋連達、星見の塔の住人には言っていない。そのことに、須樹達は気付いていたらしい。この先どうするのか、と問うたのは須樹だったが、いつか話さねばならないと答えた彼に、仁識は言った。とりあえず今は無用の心配をかける必要もあるまい、若衆を抜けたことは言うな、と。
灰は信頼と尊敬すら抱く己の師に向き合った。
「三人は先程帰りました」
「そうか。君も早く寝た方がいい」
「はい」
答えて秋連の横をすり抜ける。しんと冷えた廊下を歩くと、その背に静かな声が投げかけられた。
「なぜ、と問えば、君は答えるのだろうか」
呟くような声音だった。一体誰への問いかけなのか、無論この場にいるのは灰しかいないのだが、それでも少年はそう思う。――一体誰への――
「問おうともせぬ者に答える者などいようはずもないな」
秋連は静かに言うと、立ち止ったままの灰を追い越し、廊下の端にある彼の部屋へと向かって行った。
「お休み」
たった一度振り返り言うと、秋連は静かに扉を閉ざした。
灰は暫し立ち尽くす。足元から這い上がる冷気が、ゆっくりと熱を奪っていった。
祭礼を一日後に控えたその日は、朝から珍しくも小雨が煙るように降っていた。濡れるのが気になるほどでもない、肌を撫でるような優しい雨である。
灰が再び來螺の宿営所を訪れたのはまだ昼にならぬ時分である。道すがらに彼の前に姿をあらわした弦は、調べた結果を淡々と告げた。容易に調べられることではなかったろう。どのような手段で調べたのか、それは灰にもしかとはわからなかったが、聞いて弦が答えるとも思えなかった。
灰が來螺の宿営所に行くことを言葉少なに告げても弦はとりたてて何も言おうとはしなかったが、ただ一人で行くことについては僅かに懸念を見せた。せめて自分もともに、という弦の言葉を灰は認めるわけにはいかなかった。
昨日と同様に幕舎で麗楊弓の稽古に出ていた叶は、姿を見せた灰が開口一番に言った言葉に目を見開いた。灰は、宿営所の責任者との面会を求めたのである。
そして店舗よりさらに奥まった場所にある小さな幕舎の一つに、今灰はいた。生成りの幕舎はいかにも実用を重視したものらしく、内部はまるで小さな執務室のような様相を呈している。たった一人卓の前の椅子に座り、待つこと半刻ほど、やがて近づいてくる足音を灰は聞いた。かなりの人数である。
幕舎に入って来たのはいずれも壮年の男性が数人と叶、そして鍛錬所まで来ていた自警団の若者達である。中心にいるのは五十も半ばに見える、がっちりとした体格に厳めしい風貌の男だった。自警団の中でも高い地位にいるのだろう、落ち着いた眼差しの奥には人を射抜くような鋭さがある。立ち上がった灰の前にその男が進み出た。
「私が宿営所の代表者、采だ」
「俺は……」
男は手を振って灰の言葉を遮る。
「君のことは知っている。君の母上もな。大きくなったものだ」
灰を凝視するその眼差しが、ふと細められる。まるで少年を透かして、その背後に何かを見ようとでもするかのようなそれは、しかし一瞬だった。
「そして今では多加羅惣領家の若君と聞く。そのような方が一体私にどのような用があるのか」
「丈隼のことです」
叶や自警団の若者達の表情から察するに、すでにこの采という男は大方の事情を聞いているのだろう。それでも灰が躊躇いもなく出した名に、男の表情が鋭くなる。
「こちらの若者達が先日とんでもない御迷惑をおかけしたようだ。だが、丈隼の件はあくまでも來螺の問題、多加羅惣領家の方に口出しをしていただきたくはない」
硬質な声音だった。灰にとっては采の反応はむしろ想像していたとおりのものではあったが、無意識に一瞬すっと息を吸う。ここで失敗は許されない。
「俺がここに来たのは多加羅惣領家の者としてではありません。多加羅惣領家はこのことには関知していません」
「ほう」
「俺が今日ここへ来たのは、あくまでも個人としてです。丈隼を助けるためにどうしても皆さんのお力をお貸しいただきたい」
あくまでも無表情な采はにべもなく言った。
「聞けば君は丈隼を救うために真の犯人を見つけ出せばいいと言ったらしいが、まさか我々に犯人捜しを手伝えとでも言うつもりなのか。我々とて丈隼の身を案じぬではない。だが子どもの戯言に付き合うほど暇でもないのだ。この興行には我々の生活がかかっている」
采は灰が若衆に背を向けたことも聞いて知っているのだろう。言葉には多分に皮肉が込められていた。後先考えずに若衆を飛び出し、挙句の果てには來螺を頼るか、と言葉は告げている。采の背後でもどかしげな叶の表情がちらりと見えた。灰はまっすぐに采と向き合うと言った。
「真の犯人の目星はついています」
采が僅かに目を見開いた。
「ただ犯人を焙りだすためにはどうしても來螺の力が必要なのです」
叶が驚きの表情を浮かべる。それは自警団の若者達と、采の背後に控える男達も同様だった。
采ははかるように灰を凝視していたが、小さく嘆息すると苦い声音で言った。
「話を聞こう」