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最果てに天深く  作者: 高原 景
25/117

25

 せんが驚きに目を見開いた。束の間の沈黙の後、喘ぐように言った。

「でも……あの人は確かに犯人だって……」

「その証拠を知っているのか?」

「あの人は言ったんだ。その……來螺らいらの奴が硝子筒を持ってうろついていたと……火つけの現場でも確かに逃げる姿を見たって……」

「そう聞いただけだろう。丈隼たかはやはその夜は街に入っていない。それになぜ別の者に告発をさせる必要がある。自分で見たならば自分で告発すればいいんだ。見てもいないものを告発するのは、それも罪に問われることだ」

 静かだが鋭い灰の声音に、少年は戸惑ったように瞳を泳がす。

「答えろ、誰なんだ。泉に告発をさせたのは」

「知らない……」

「知らないはずがないだろう」

「本当に知らないんだ! 俺、そいつの顔も見てない!」

「どういうことだ?」

「そいつ、黒くて長い外套を着てて、顔も布で隠してたからどんな奴かもわからなかったんだよ」

「そいつが来たのはいつだ」

「おとついの夜中……いつもみたいに母さんのために冷たい水を汲みに井戸に行った時、声をかけられた」

 ぽつりと少年は答える。二日前の夜――灰はふと眉根を寄せた。

「そいつは何と言った?」

 少年はもはや抗わず、呟くように答える。

「自分は火つけの犯人を知ってるけど、多加羅の街の者ではないし警吏も自分の言葉を信じるとは思えない。でも見て見ぬふりもできないから、かわりに警吏に告発してほしいって」

「それで、頷いたのか」

「はじめは嫌だって言った。なんで見るからにがきの俺に声をかけるのかわからなかったし、だいたいそいつ何か変な感じがしたから。自分で言えばいいとも思った」

「でも、引き受けたんだな」

 少年は頷く。

「あの薬のためか」

 問いではなく確認だったが、少年はさらに小さく頷いた。

「あの薬はどんな痛みでも抑えるすごく高価なものだけど、告発してくれたらあげるって言われた。試しにちょっとだけお母さんに飲ませてごらんって」

 泉は足元を見つめたまま言う。まるで滴が落ちるように、ぽつりぽつりと語られる言葉を、灰は息を詰めるようにして聞き入る。そうせねば聞き取れぬほどに少年の声はか細かった。

「ちょっとだけ薬を飲ませたら、本当に母さんはすごく楽そうになった。俺、それでも少し迷った。でも、母さんが笑ったんだ……」

 くしゃりと泉の顔が歪む。

「毎日毎日、痛いから早く死にたいって……いっそのこと殺してくれって……そう言ってた母さんが、その薬飲んだら笑ったんだ。俺、それ見たらもうたまらなくなって……そいつの言う通りにするって約束した」

 不意に泉は顔をあげた。その瞳に涙はなく、しかし宿る光に灰は息をのむ。

「俺どうすればよかったんだよ! 誰も俺達みたいに貧しい奴らを助けてくれない。慈恵院じけいいんにどんだけ頼んだって薬の一つもくれなかったんだ。俺、間違ったことしたかもしんないけど、でも誰も母さんのこと助けてくれないじゃないか! どうしたらよかったんだよ!」

 悲痛な声だった。灰は返す言葉が見つからないまま、少年を見つめた。少年がどれほどに追い詰められていたか、灰は悟る。慈恵院は神殿が貧しい者のために開設している医療所だが、すべての人が救われるわけではない。得体の知れない病を患う女性の様子から、慈恵院でも癒すことは不可能だと判断されたのだろう。慈恵院は救える見込みが無いと見做した者までも受け入れることはない。

 漸く出た言葉は硬質に響いた。

「だが、告発すべきではなかった」

 泉の体が痙攣するように震え、灰を睨みつける瞳が揺らぐ。そこに浮かんだのは紛れもない怒りであり、憎しみにも似ていた。泉とて不審な男の言うままに告発をした、そのことを正しいこととは思っていないのだろう。しかし、貧しさの中、病による壮絶な痛みと絶望に惑う母親の姿を見続けた少年に、男の申し出を断ることはできなかった。母親の笑顔――それだけのために。

「俺は丈隼のことを知っている。彼が無実であることも知っている。何としても丈隼は助け出す」

 淡々と響く声音に、少年は体を強張らせた。

「じゃあ俺を警吏に突き出すのかよ。偽の告発をしたって。あの薬のことも警吏に言うつもりだろ」

 ふと灰は笑んだ。突き放すような言葉を投げた者には不似合いなほどの柔らかなそれに、泉は虚をつかれたようだった。

「いいや、そんなことはしない。俺が追っているのは泉に告発をさせた奴だ。そいつが誰かわかれば丈隼の容疑を晴らすことができる」

「でも……」

「それに、俺は薬師だ。病人を癒す立場の者が、病を悪化させるような真似はできない」

「……どういうことだよ」

「泉が警吏に捕まったら、母親はどうなる。精神的な打撃だけで、病は取り返しがつかないほどに悪化することもある。俺はそのようなことはしたくない」

 少年は戸惑ったように灰を見つめ、身じろぐ。灰は諭すようになおも言った。

「いいか泉、母親を助けたければあの薬は二度と使うな。今ならまださほど依存症状は出ていないはずだ。あの麻薬は人に知られないように捨てた方がいい。もしも持っていることを知られたら警吏に捕われるからな」

「……そんなの、あの薬やめたってどうせ母さんは助からないだろ」

「それは俺にもわからないが、できるだけのことをしてみる」

 泉は訝しげに灰を見た。

「薬を処方してみる。前にいた村でも似たような患者がいたから、もしかして同じ病かもしれない」

「俺、金持ってねえよ」

 灰は首を傾げた。

「金なんていらない。俺がやりたいからやるんだ」

 泉ははっきりと顔を顰め、苦々しく言った。

「哀れみかよ」

 腹立たしげでありながら、どこか傷ついたような響きがあった。だが、それにも灰は穏やかな視線を返しただけだった。

「違うな。俺は人に哀れみを抱ける程、清い人間じゃない。治療するのは自分のためだ」

 黙りこんだ泉をそのままに、灰は家の中へと入る。ゆっくりと寝台に近寄れば、女は意識が朦朧としているのか虚ろな視線を彼に投げた。まだ幼い子供たちの母親である。おそらく四十にもなっていないだろう女の顔は、まるで老婆のようだった。痩せこけた顔は深く皺が刻まれている。苦痛にやつれたその様子が、かつて柳角が看ていた患者の姿と重なった。

 寝台の傍らに灰は膝をつく。そっと病人の手首を持って脈をはかりながら、灰は目を細めた。閉ざしていた意識の扉を開く。女性の体を縁取る命の光が見えた。淡く揺らめく光の全体に、刺草のような翳りが纏わりついている。病の影だ。

(やはりあの患者と同じだ)

 森林地帯にいた時、柳角が看ていた患者の中にも、同じ影を纏う者がいた。その患者が患っていたのは命をおとすほどの病ではない。しかしその痛みによって生きる意志を奪い、自ら死を願う程に人を追い詰める病だ。

 背後に近づいてくる泉に、灰は問うた。

「いつから症状が出た」

「去年、父さんが死んで暫くしてからだ。関節が痛いって言って、でも貧しいから必死に働いてたんだ。それがある日急に立てないほどの激痛になった。全身が痛いみたいなんだ。まるで切り裂かれてるみたいだって。それからずっと寝た切りだ」

「そうか……」

「何の病かわかるのか? 治せるのか?」

「わからない。ただ、俺が思っているとおりの病だとしたら、命を奪うようなものではないはずだ」

 なおも虚ろな女の顔を覗き込み、灰はゆっくりと立ち上がった。振り返り、己を見つめる少年を見やった。

「なるべく早くに薬を持ってくる。俺の師匠が同じような症状の患者に処方していたものだから、もしかして効くかもしれない」

 泉はなおも疑わしげに灰を見ていたが、ぽつりと言った。

「俺に告発しろって言った男、多分まだ若かった」

 今度は灰が目を見開く。

「声音を低くしてたけど、何となくわかるだろ、そういうのって。そいつ多分まだ三十歳にはなってない。それにちょっと訛りがあった。なんとなくだけど、濁音が間延びして聞こえるんだ。背はかなり高くて、太ってはいない」

 見つめる灰から泉は視線を逸らす。不機嫌な声音で言った。

「俺が気付いたのはこれだけだ。あとは何も知らない」

 灰は笑んだ。

「ありがとう」

 泉はさらに顔を歪めた。灰は少年の脇をすり抜けて家の外へ出る。眩しさに目を細めて歩けば、追いかけてくる足音がした。

「おい!」

 振り返ると泉が睨みつけるようにして灰を見ている。

「お前の名前、何だ! もっかい言えよ!」

 まるで怒っているかのような声音に、灰は苦笑した。

「灰だ」

 言いながら再び少年に背を向ける。歩き出した灰の顔に笑みはなかった。厳しい表情で前を見据えると、なおも自分を見つめている泉の視線を感じながら、足早にその場を去った。


 灰が足を止めたのは街を貫く大通りに戻ってからである。すでに露店の準備をはじめている人々を見やり、さりげなく路地へと入る。家壁に背を預けて暫し地面を見つめる灰の横に人の気配が近づいてきた。意図を察して姿をあらわした弦は、相変わらずの無表情で己の主となった少年を見つめた。

「話は聞こえていましたか?」

「いえ、聞こえるほどの位置にはいませんでしたので」

 それを聞いて灰は小さく頷く。

「泉は二日前の夜に、一人の男に告発を頼まれたようです。男の正体はわかりませんでした。ただ、その男は泉に見返りとして仙境香を渡しています」

 弦は僅かに目を見開いた。

「泉はそれを痛みを抑える薬だと思っていたようです。病身の母親のために、告発を引き受けたと言っていました」

「あの少年が偽りの告発をしたことを警吏に言わないのですか?」

「それはできません。言ったところで丈隼の容疑が晴れる明確な根拠にはならないでしょう。それにいかなる理由であれ虚偽の告発をし、そのうえ仙境香を持っていたら泉自身が罪に問われかねません」

 警吏にとって、漸く捕えた火つけの犯人である。容易く釈放することはないだろう。少年が偽りの告発をしたことが明らかになったとしても、正体がわからぬとはいえ少年に犯人を見たと伝えている人物がいるのだ。新たに泉が罪に問われるだけで、告発そのものは依然として無効になるわけではないだろう。灰は苦々しく思う。警吏はおそらく、都合の良い面しか見ない。

「多加羅では麻薬は厳しく禁じられていると俺は聞いています」

 言ったきり灰は黙りこんだ。惑いと、窺い知れない思考に沈むその表情を弦は見つめる。

「多加羅において裏でそのようなものを扱う組織がないわけではありませんが、仙境香までも扱っているとは思えません。あれは容易く手に入るものではございません」

 低く弦が言えば、灰は顔をあげる。正面から弦を見つめ言った。

「仙境香を確実に入手できる場所は、国境地帯でも限られています。そもそも東方にしか生えない植物から採れる麻薬なのですから……。そして入手できる場所は……」

 灰の視線が再び地面に落ちた。迷うように、沈黙が落ちる。ぽつりと言った。

「來螺」

 弦は肯定も否定もせずに灰の言葉を聞く。

「來螺であれば手に入れることはできます。耶來やらいという組織を知っていますか?」

「名前だけは」

「自警団が表の顔であれば、耶來は來螺の裏の顔です。あらゆるものを集め、売り、人身売買から殺人まで、どのような汚い仕事でも引き受ける。仙境香も耶來ならば扱っているはずです」

 弦は灰が言わんとすることを察する。ひそりと問うた。

「つまり、灰様は來螺の者が裏にいるとお考えなのですか?」

「わかりません……」

 答えた灰はなおも地面を睨みつけた。もしや、と思う。丈隼を告発させたという人物が來螺の者である可能性は皆無と言えるだろうか。來螺の者であれば、それも興行に来ている者であれば丈隼の行動は把握できるはずだ。そうであれば、彼を窮地に追い込む状況を作り出すこともさほど難しくはないだろう。

(だが、それは違う。……違うはずだ)

 灰は強く思う。仮に犯人が來螺の者であれば丈隼に罪を被せる目的は何だ。丈隼への恨み? 丈隼の精悍な顔が浮かぶ。あけっぴろげな笑顔と、こちらを見つめるまっすぐな瞳がそれに被さった。

「確かに興行に来ている者の中に真の犯人がいたら、丈隼に罪を被せるのは簡単です。仙境香を手に入れられる可能性も高い。でも、興行に来るのは自警団に連なる者ばかりです。自警団と耶來は微妙な力関係を築いていて、普段から互いに接触することを極力避けています。もしも自警団の中に耶來と接触して仙境香を手に入れる者がいたとしたら、それは自警団にとって大きな裏切りとなる。そのような者がいるとは思えません。それに一回目の火災は來螺の人達が来る前に起こっています」

「だが、可能性は皆無ではございません。先に多加羅に潜り込むことがないとは言い切れないでしょう」

 弦が指摘する。

「告発した者は丈隼の行動を把握していました。そして泉に告発をさせるために多加羅では到底入手が困難な仙境香を渡したのです。これだけでも十分に來螺の者の中に犯人がいると考えられます」

 冷静な言葉である。灰にも弦の言わんとすることはわかる。自身とて、考えずにはいられなかったことなのだ。

「だが、なぜこの時期に告発をしたのか……犯人が來螺の者であるなど、誰も考えていませんでした。犯人は身を潜めていれば捕まることはなかったはずです。それを二日前に突然動き、丈隼に罪をなすりつけている」

 少年が何を言おうとしているのか、弦ははかりかねる。

「何かが、真の犯人にそうさせる何かがあったのだと俺は思います」

 そして、それこそが鍵なのだ、と灰は言う。言いながらもなお色濃くその表情にあるのは迷いだった。弦にもその迷いがわかる。泉から得た情報は極僅かなものである。少年に告発をさせた男の手掛かりは、絶望的なまでに少ない。そしてその僅かな手掛かりは新たな疑惑を生んだ。すなわち、真の犯人が來螺の者である可能性である。

「たとえば、告発をさせた人物が耶來の者である可能性はないでしょうか? 丈隼を罪に陥れたことも來螺内部の抗争によるものだとしたら、あり得ることです」

「耶來が多加羅で事を起こすとは思えません。それに自警団と耶來は互いに相容れないとはいえ、表だって対立することはまずありません」

 灰が知る耶來とは、來螺の街の裏側に巣食う闇である。祭礼のために興行に来ている一団が來螺の上辺の華やかさの一部だとすれば、耶來こそ、來螺を來螺たらしめる底辺の暗がりであり、尽きぬ快楽を満たす源だ。だが、彼らは決して表に姿をあらわそうとはしない。自警団との関係も敵対というよりは、歪ではあるが協調と言ってもよいものだ。互いに表と裏から來螺を支える存在である。どちらが欠けても來螺は成り立たない。

「灰様、こうなっては來螺の者の手を借りることはおやめになった方がよろしいでしょう。來螺の者の中に犯人がいる可能性が皆無でない限り、彼らを信じることはできません。あの若者達から真の犯人にこちらの動きが伝わる危険もあります」

 灰は唇をかみしめた。弦の言葉に頷くべきなのはわかっていたが、それでも逡巡せずにはいられない。もとより來螺の若者達の力は極力借りないつもりではいた。しかし彼一人で何ができるというのか。仮に來螺の中に真の犯人がいるのだとすれば、若者達の手を借りねば到底見つけ出すことは叶わない。

 もっとも、灰にはどうしても來螺の者が犯人だとは思えない。口に出すにはあまりに確証がないとはいえ、昨日から考え続けて辿り着いたのは全く違う犯人像なのである。迷うほどに、時は過ぎる。焦りに思考が惑った。

「灰様、相手は仙境香までも所持している輩です。灰様の動きを知れば何を仕掛けてくるかわかりません。御自身の身の安全もお考えください。犯人を焙りだしたいというお考えはわかりますが、ここは何よりも慎重に動かねば結果として丈隼を助けることもできないでしょう」

 灰の思惑を正確に読んでいるらしい弦の言葉である。おそらくは、己の存在を犯人に知らしめようとするような灰の行為そのものへの懸念を込めているのだろう。

「私をお使いください。そのために私はいるのです」

 断固とした響きに、灰は思わず弦を見やった。

「來螺の者は私が調べて参ります」

 灰はかぶりを振った。その瞳が不意に強さを帯びる。そこに最早逡巡はない。

「いえ、それはだめです」

「なぜですか。この件は一刻を争うことでございます。おそらく祭礼が終わればただちに審議が行われ丈隼の有罪は確定するでしょう」

 弦は彼にしては珍しく、強い声音で言った。

「灰様、お命じください」

 灰は嘆息した。弦が彼の配下になった、それを認め難い己の心情を抑える。何より、彼一人でできることなどたかが知れているのだ。諦めに似た表情を浮かべると言った。

「ならば命じます。ただし調べていただきたいのは來螺の者についてではありません」

 次に語られた灰の言葉に弦は瞠目する。それは彼にとっては予想だにしない内容だった。だが、彼は灰の命令に言葉少なく肯うと、素早く雑踏に紛れて姿を消す。それを見送り灰自身もまた大通りへと踏み出した。

 來螺の者を調べるという弦に敢えて違うことを命じたのは、殆どが己の直感による決定だった。直感を過信する危険性は承知していたが、それでも灰は敢えてそちらを選んだのだ。

(もしも間違っていたら……)

 考え、頭を振る。間違っていたら、丈隼を助けるのはさらに困難になる。だが、泉が語った言葉の中にも手掛かりはあったのだ。まだ明確に形を成さず、しかし目を凝らせば一つの道筋が灰には見える。それでも沸き起こるのは焦燥ばかりだった。とんでもない思い違いをしているのではないか――体の芯が冷えるようなその不安を抑え、灰は迷いを振り払うように歩を進めた。時が、ないのだ。


 灰は俄かに人の流れが増した道を歩きながら、己の思考に沈みこんでいた。そのため視線を感じて顔を上げた時に、はじめて彼を見つめる少年達に気付いた。若衆わかしゅうである。

 丁度鍛錬所に向かう道すがらであるらしい彼らは、灰を凝視している。その面々が加倉かくらとは一線を画す平民の身分の者であることに灰は気付いた。貴族の子弟が示すような悪意を向けてくるわけではないが、須樹達のように親しく言葉を交わすわけでもなく、常に距離を置いていた連中である。若者達が一様に浮かべる表情に、灰は息をのんだ。これまではよそよそしい態度でしか接してこない相手だったが、今そこにあるのは、嫌悪と蔑みの色だった。

 灰は歩調を緩めることなく、彼らの傍らを通り過ぎた。その瞬間、無造作に声が投げられた。

「來螺の下郎が」

 思わず足を止めていた。振り返らない彼にさらに別の一人が言う。

「二度と若衆へは来るな」

 それ以上は言わず、若者達は立ち尽くす灰をそのままに遠ざかる。その気配を追いながら、灰は拳を握っていた。まだ癒えていない左手が鈍く痛む。それとは別に、きりりと痛むのはどこなのか。灰は握っていた拳を解いた。見れば白い包帯にぽつりと紅が滲んでいる。

 ――どこも、痛むはずがない。痛むならばそれは己が弱いだけだ。

 灰は苦く笑む。何を期待していたのか。多加羅惣領家の者として向けられる空虚な敬意と、來螺の者として向けられる蔑みと、どちらも灰にとっては同じものだ。

 灰は顔をあげる。振り返ることもなく、その場を後にした。

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