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最果てに天深く  作者: 高原 景
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24

 翌日の早朝、かいは星見の塔を出るとまっすぐに來螺らいらの宿営所を目指した。げんが告発者の情報を彼に伝えたのは払暁である。そしてその内容は、灰にとってあまりに意想外なものだった。何事かと心配する娃菜えなを振り切り朝食も取らずに飛び出したのは、新たな情報を得て覚えた焦燥のせいだった。

 道すがらいつものように頭に布を巻く彼の背後で、弦は耳を疑うようなことを淡々と告げた。峰瀬みなせは彼を灰の配下にした、という。どういうことか、と問えば、弦は一言――影にはわかりかねます――とのみ答えた。

 灰は一人、足早に街を抜ける。祭礼まで二日となり街は祭り一色である。もっとも早朝であるため日中の喧騒はないが、あと二刻もすれば大通りは露店に埋め尽くされ、多くの人で賑わうだろう。めまぐるしい思考に意識の大半を奪われ、気づけば気持ちが急くままに足が速まっていた。いつの間にか弦は姿を消している。それにも気付かぬほどに気が漫ろだったのか、と灰は思う。弦が彼をどこかで見ているとしても、文字通り影から仕えるつもりなのだろう。灰にとっては突然に配下になったと言われても納得のできるものではなかったが、峰瀬の命であれば――それがどのような意図であろうとも――弦を拒んだところで意味がないことはわかっていた。

 隔壁を潜り抜けると、やがて來螺の店と宿営所が見えてきた。

 來螺の宿営所は多加羅の街を囲む壁の外、金笹きんざさが一面に広がるその手前にある。もっとも祭礼が迫るこの時期は金笹の収穫期であり、刈り取られたあとの赤味を帯びた大地の面積が次第に広くなっていた。そして金色の鮮やかさのかわりに目につくのが、いくつも立ち並ぶ來螺の幕舎ばくしゃである。

 興行が行われる店は一様に白い幕舎だが、それがどのような娯楽を提供するかは白の中に刷毛で引いたように伸びる一条の色彩でわかる。ずんぐりとした円柱の上に円錐を乗せたような幕舎の、その頂上から地面に接するまでを結ぶ幅広の色彩は、紅であれば舞を、翡翠であれば演劇を、そして群青であれば歌曲や楽器の演奏を供することを意味する。その他にも占いや一風変わった手技、めくらましや騙し技といったものを供する店もあり、客足は絶えることがない。

 多加羅の街衆も多く訪れるこの興行は、來螺でも名のある大店が主体となっている。大店のお抱えの芸能家以外にも自発的に興行に参加する芸能家は多い。彼らにとっては客に娯楽を供するだけでなく、來螺の大店に認められる好機との意識が強い。自然と芸は研ぎ澄まされ、高度なものとなっていた。そして、それらが來螺の供する娯楽の中でも上澄みであることは暗黙の了解であった。真に來螺を來螺たらしめるもっとも淫靡な娯楽は、興行のおいては厳密に排されているのだ。

 灰が訪れたのはまだ朝早い時分であり、店も閉じていた。時折すれ違う來螺の街衆らしき人々は束の間灰を見つめ、さして興味もなさそうに視線を逸らす。しかし灰は逸らされた視線のままに人々の気持ちまでも己から逸れたとは思わなかった。なお密やかに向けられるのは外部の者への警戒であり、それに少年が気付いたのは自身も幼い時を來螺で過ごしたからに他ならない。

 閑散とした幕舎の間を歩けば、奇妙に乾いた空気が白々と漂っていた。目指す群青の帯の幕舎はすぐに見つかった。近づけば微かな音色が漏れ聞こえた。優しくたおやかなそれは、麗楊弓れいようきゅうという八弦の楽器だ。店を開く前に、修練も兼ねて奏者達が楽器を奏でているのだろう。

 灰はそっと幕舎の入口の布を押し開いた。中を見れば奥の一段高い舞台を取り囲むように卓と椅子が並べられ、舞台の上では性別も年齢も様々な数人の奏者が楽器を抱えている。柔らかな仄暗さの中、音色はまどろむように響いていた。そして思った通り、かのの姿があった。中央で半ば顔を俯けるようにして弦を爪弾いている。そのため静かに幕舎の内側に滑り込んだ灰に気付いたのは、彼女ではなく別の奏者だった。

「あら、かわいらしいお客様」

 おっとりと甘やかに言ったのは、三十も半ばに見える婀娜な雰囲気の奏者である。その声につられて顔をあげた叶は驚きに目を見開くと、楽器を置いて駆け寄ってきた。まとめずに背に流した髪が軽やかに揺れる。

「灰、どうして……」

 言いかけて叶はふと口を噤む。灰の表情から読み取ったのだろう。灰は周りに聞こえぬよう密やかに言った。

「叶、告発者がわかった」

 鋭く息をのむ叶に、灰はさらに声を潜めた。

「俺はこれからそいつに会いに行こうと思う」

「一体誰なの?」

「多加羅の街衆だ」

 簡潔に過ぎる言葉に、思わず叶は顔を顰める。顔を寄せ合うようにして小声で話す二人に、舞台の上にいる奏者が胡乱な視線を向けていた。

「叶、このことは自警団の連中には伝えないでほしい」

「どういうこと?」

 ふと灰は迷うような素振りを見せた。そして微かに感じられるのは焦燥にも似た張り詰めた気配だ。叶はそれに不安を感じる。

「とにかく一回確かめてみないと……」

 言い淀んだ灰は一回かぶりを振ると正面から叶を見つめた。薄暗がりに、冴えた瞳が強く彼女をとらえる。それにふと引き込まれる心地になった叶は、次の言葉に目を見開いた。

「叶には言うべきだよな。告発者は子どもだった。それもまだ小学院に通っているような年齢だ」

「子ども……」

 叶は呟く。犯人か、少なくとも犯人に関わりのある者が告発したに違いないと思っていた二人にとって、子どもが告発者だということはあまりにも予想外のことである。そして叶は灰の張りつめた表情の訳を悟った。

 果たして告発者を追うことで丈隼たかはやの無実を証明することが可能なのか――とんでもない思い違いの末、間違った方向に進んでしまうのではないか。時間が過ぎるほどに、丈隼の無実を明らかにする手立ては減る。ここで道筋を間違え無駄に時間をかければ、それが後に取り返しのつかないことになる可能性とてあるのだ。

 告発者さえわかれば、と考えていた彼らにとっては、新たに得た情報はむしろこの先の不安を覚えずにはいられないものだった。

「とりあえず会って探ってみる。イーリヤ達には無茶をしないでおとなしくしておいてほしい」

 先の読めない状況で自警団の若者達が出てきては、かえって収拾のつかない事態になりかねない、ということだ。昨日の彼らの様子を見れば、そう思ったところで致し方のないことではある。叶にもそれはわかったが、懸念を口に出さずにはいられなかった。

「灰、何でも一人で背負いこもうとしてはだめよ。何より、一人でできることには限りがある。このことには丈隼の命がかかっているんだから」

 厳しい言葉だった。そこにあるのは灰への気遣いばかりではない。諫言でもあるそれに灰は頷く。彼とてわかっていた。もしも真の犯人を捜し出すことができなければ、丈隼は十中八九死罪となるだろう。己一人だけで何もかもできるとは考えてはいない。だが、昨日、自警団の若者達が見せた激昂した様子を思えば、軽々しく力を借りる気にもなれなかった。ことは迅速に、しかしあくまでも慎重に行わねばならないのだ。

「またわかったことがあれば知らせる」

「わかったわ。くれぐれも気をつけて」

 叶の言葉に灰は小さく頷くと幕舎を後にした。それを見送った叶は視線を感じて振り向く。奏者達が一様に彼女を見つめていた。

「一体どういうお客様?」

 言ったのは、先程灰をかわいらしいと評した奏者だ。さて、困った、と叶は思案する。灰が、かつて來螺一と評された歌い手である紫弥しやの息子なのを言ってよいものか――だが、彼は多加羅惣領家の一員でもある。そして六年前の悲惨な事件を思えば、真実を言うのは躊躇われた。迷った末に、結局叶は無難な言葉を選んだ。

「昔來螺にいて、多加羅に移住した子です。知り合いなんです」

 にっこりと笑んで言えば、女はふうん、とため息とも吐息ともつかない声をあげた。

「まあ、そうなの。來螺にいたならきっと良い売り物になったでしょうに……」

 叶の顔が引き攣る。普段から苦手な相手の、あまりにあけすけな言葉だった。快楽を売り物とする來螺の商品は、人である。女の言葉に沸き起こる怒りを抑え、叶は微笑んだ。

「さあ、それはどうでしょう。あの子、無愛想だから客受けしないと思います」

 言いながら、さらに何か言おうとする女から視線をそらし、舞台の上に戻る。楽器をとりあげてこれ見よがしに調弦をはじめた叶に、女は口を噤むと肩を竦めた。

(腹が立つったら)

 叶は心中に呟き、幕舎の入口に視線を投げた。祈るように、願うように瞳を閉じる。

(頼むわよ、灰)

 内心の焦りと迷いを抑え、そっと麗楊弓を爪弾けば甘い音が響いた。


 歩調を緩めることなく灰は再び多加羅の街へと戻った。叶と話したせいもあり、気持ちは幾分落ち着いていた。もしや己はとんでもない見誤りをしたのではないかという不安と、それでも唯一の手掛かりを冷静に追わねばならないという思いとで胸中が揺れていた。灰は不意に足を止めると、大きく息を吸った。のびをするようにして上を見上げれば、一日晴天であることを思わせる天涯である。

(落ち着け。何もせぬうちに焦ってどうする)

 己に言い聞かせ、再び歩き始めた時には感情を削ぎ落としたような集中のみがその表情にはあった。

 弦が灰に伝えた情報とはこうである。警吏に告発があったのは昨日の早朝だった。つまり、警吏けいりは告発の後、殆ど間を置かずに丈隼を連行したということだ。そして、告発を行ったのは外延部に住む十歳になる少年だという。少年は病身の母親と妹とで暮らしている。父親はいない。少年曰く、火災のあった夜、病気の母親のために冷たい水を汲むため共用の井戸に向かったところ、一人の青年が硝子筒を持って歩いていたという。その青年は年の頃十七、八、傍目にも国境地帯の者であることがわかった。不審に思って問えば、興行のために多加羅へと来て街の外に宿営している來螺の者だという。何のためにうろついているのか気になりはしたが、そのまま青年は去って行った。そして深夜、一区画離れた地区で火の手があがった。

 警吏はその告発をもとに來螺の宿営所へと向かい、少年が言った外見と合致する丈隼を連行した、ということだ。

 何とも杜撰な話だ、というのが灰の思いだった。なぜ火つけのためにうろついていて、問われるままに來螺の者であることを明かすのか、なぜ少年はすぐに警吏に知らせず、かなりの日数を経てから知らせたのか。それもその間、捕まらぬ犯人に対して並々ならぬ警戒を人々が感じていたのを少年も気付かぬはずがない。

 告発者が子どもであることにどうやら己は必要以上に動揺していたらしい、と灰は自嘲する。犯人にたどり着けるかもしれないということとてもとより見込みでしかないのだ。そして告発者の話が明らかに虚偽であることは疑いようがない。無論、その子どもが犯人自身といわずとも犯人と共謀することもあろう。丈隼を告発する遣り口の狡猾さを思えば、むしろ子どもの背後に何者かがいるという構図が鮮明になるというものだ。問題は告発内容の稚拙さではない。一度丈隼が犯人と目されれば、無実を証明することが難しいというその点である。それこそが丈隼を罪に陥れようとする者の意図だ。

 さらに不運なのは、來螺の者達も丈隼が深夜に確実に宿営所にいたことを証言できなかったことだ。その夜、見回りの当番に当たっていなかった丈隼は早々と就寝し、その後彼が抜け出さなかったかどうかまで自警団の面々にはわからなかった。そして丈隼が街をうろついていないと言い張っても、結局は丈隼の言か、告発者である少年の言か、そのどちらを信じるか、ということになる。警吏は少年の言を信じたのだ。あるいは警吏としては、疑わしきを野放しにできなかったのかもしれないが、いずれにせよ一度容疑者として捕えられてしまえば、先行して丈隼が犯人であるという既成事実ができあがってしまう危険性が高い。

 考えるままに歩けば目的の地域が近づいてくる。

 伝えられた少年が住むという界隈は、外延部の中でも特に貧しい人々が住む区域だった。ひしめき合う家々は互いに寄り掛かるように、あるいは押しつぶすように靠れ合い、中には崩れかけているものもある。迷うことなく道を進めば、古びた井戸があった。しかるにこれが話に出てきたものだろう。

 辺りを見回せば目的の家はすぐにわかった。扉の前に褪せた紅の布が下げられている。凶を祓う目的のそれは、弦が言っていたとおりのものだ。もしかして、と灰は思う。弦は昨夜のうちにこの家の所在を突き止めていたのかもしれない。警吏の記録だけでこのような細かい目印までわかるものではない。

 灰は家の前で立ち止まる。どうしたものか、と暫し目を眇めて家を見やった。と、突然目の前の扉が開くと、一人の子どもが勢いよく飛び出して来た。すんでのところで身をかわした灰はそれが幼い少女であることに気付いた。少女も驚いた顔で立ち竦む。見る限り稟よりも年が下だ。六つか七つといったところだろう。

「おい、ちゃんと顔を洗えよ」

 次いで家の中から響いたのは少年の声だ。灰の視線が鋭くそちらに振り向けられた。

「それから母さんのために布を濡らしてきてくれ」

 言いながら家の中から出てきたのは、まさに十歳程の少年だった。くっきりと吊り上がった眉とすっとした鼻筋が目を引く、幼い中にも鋭い陰影のある顔立ちだ。灰が相手に持った第一印象は奇妙なことに、少年がひどく痩せている、ということだった。

「……あんた誰だ?」

 少年は自分を見つめる灰に気付くと胡乱気に言った。

せんか?」

「ああ、そうだよ。あんたは誰だよ」

 再度の少年の問いかけに灰は答える。

「俺は灰だ。聞きたいことがあって来た」

「何だよ」

 無愛想な物言いの影に、警戒が漂っている。それを見ながら灰は迷う。単刀直入に問うても少年が答えるとは思えない。そもそも罪人を告発した者は厳重に秘されるのが通常なのだ。この少年がもしも犯人と繋がっているならば、下手なことを言えばかえって事は困難になってしまう可能性もある。

 しかし、もしこの少年が犯人と繋がっていれば、と灰は考える。そうであれば灰が火つけの件を追っていることは犯人に伝わる。丈隼に罪をなすりつけたと考えているであろう犯人にとってそれがどのような意味を持つか――

(うまくすれば焙りだせるか?)

 灰は心を決める。

「火つけの件について聞きたい」

 少年が目を見開いた。一瞬少年の顔に浮かんだ表情に灰は目を細める。

「火つけ……?」

 声は頼りなく揺れた。

「君は火つけの犯人を見たというが、それは本当か?」

 少年の顔に驚愕と、隠しようのない怯えが浮かんだ。

「何……何言ってんだよ。俺、そんなこと知らねえよ」

「そんなはずはない。昨日の朝、來螺の者を火つけの犯人として告発しただろう」

「知らねえよ! いきなり来て訳わかんねえこと言ってんじゃねえよ!」

「その告発のせいで、昨日來螺の者が捕えられた」

 すっと灰の瞳が熱を失った。それに少年は息をのむ。

「名も知らないだろう。捕えられたのは丈隼という者だ」

「丈隼……?」

「ああ、そうだ」

 少年は血の気の引いた顔で、厳しく己を見つめる灰を睨み返す。追い詰められた獣が毛を逆立てるように、そこにあるのは敵愾心ばかりだ。

「何を言ってるか俺には全然わかんねえよ。丈隼だかなんだか知らないけど……」

 少年の声は家の中から突然響いた呻き声にかき消された。苦しげな女性の声だ。さっと少年が踵を返すと、半ば駆けるようにして家の中へと入った。灰も咄嗟に後を追った。尋常ではない声だ。

 家の中には澱んだ空気が凝っていた。煤けた壁と床はところどころ亀裂が入り、僅かな家具もどれもが傾き壊れかけている。一間だけの小さな空間の奥には蹲るように寝台が置かれ、その上に人影があった。呻き声はそこからである。

「泉……泉……薬をおくれ。体中が……痛くてしょうがない……」

「待って、今あげるから」

 少年は言うと、傾いた小さな卓の上に置いてある紙包みを取り上げた。少年がそれを開くと薄茶色の粉が中にはあった。灰は仄かな甘い香りに眉根を寄せた。

(これは……)

 見つめる前で少年は粉を少量湯呑に入れると、水瓶から柄杓で水を注いだ。それを母親へと差し出すのを、咄嗟に灰は少年の腕を掴んで止めていた。

「何するんだよ」

「さっきの粉、見せてみろ」

「何だよ、お前。勝手に入って来て、早く出てけよ!」

「いいから見せるんだ」

 灰の険しい表情に少年は気圧されたように黙ると、紙包みを灰に渡した。灰は紙の上の粉を注意深く見詰める。やはり甘い、脳髄に滲みるような匂いだ。指先にほんの僅かだけつけて舐めれば、瞬間視界に火花が散った。強烈な眩暈にも似たそれを、しかし灰は予測していたため強く瞳を閉じることで耐えた。実際に火花が散ったわけではない。視覚が異常に冴えて、物の輪郭がまるで燃え上がるようにくっきりと見えただけだ。

「何やってんだよ! 貴重な薬なんだよ! 返せ!」

 灰の手から少年が紙包みをひったくる。灰は視界が正常に戻ったのを確かめると、少年を見やった。問う声音は低い。

「それが何か知っているのか?」

「知ってるよ! 痛みを抑える薬だ!」

「違う。それは麻薬だ。それも強烈な依存作用がある。確かに痛みは感じなくなるだろうが、心臓には大きな負担がかかる。いずれはそれによって死に至るものだ」

 淡々と語る灰の言葉に少年は目を見開いた。

「……嘘だ。だって、これはなかなか手に入らない貴重な薬だって……」

「それを誰に聞いた」

「これをくれた人が……」

 灰は目を細める。

 仙境香せんきょうこうという。それは可憐な花を咲かせる山野草の根から僅かに取れる麻薬だ。そのまま口にすれば視界が鮮明になる程度の効果だが、水に溶かして摂取すれば幻覚と感覚の麻痺を招き、強い依存作用がある。そして常用すれば心臓に大きな負担がかかり、やがてはそのせいで死ぬ者も多いと聞く。もとより数の少ない珍しい植物から採取されるため、非常に稀少なものでもあった。貧しい者が手に入れられるものではない。そして麻薬を厳しく禁じる多加羅においては、持っているだけでも罪に問われるだろう。

 灰は少年の腕を掴んで家の外に引きずり出すと、目線を合わせるようにして膝をついた。少年の顔を正面から覗き込む。

「母親が何の病を患っているかは知らないが、あの麻薬を服用していれば、いずれそのせいで命を落とすことになる。病で体が弱っているところに、さらに心臓に負担をかけることになるからな」

「何……言って……お前何なんだよ」

 少年の表情が泣き出しそうに歪む。

「俺は……」

 灰はふと言葉を呑みこみ、静かに告げる。

「俺は薬師くすしだ」

「薬師……」

「ああ、そうだ。あの麻薬を誰にもらった」

「誰って……そんなことお前には関係ない……」

 少年の声が震える。まるで怯えるようなそれに、灰は眉を顰めた。火つけについて聞きたいことがあると言った時にも見せた表情だ。思考が形作られるよりも先に収斂する直感にまかせて言った。

「あの麻薬を得る代償に、何をした」

 ひそりと響く。少年は大きく目を見開いた。

「あれは容易く手に入るものではない。ましてや多加羅ではなおさらだ」

 強張った少年の表情を、灰は睨みつける。その時、おずおずと近寄る気配があった。振り返れば先程の少女が怯えた表情でこちらを見つめている。その少女もまた、ひどく痩せていた。乱れた髪にも艶はなく、一目で栄養状態の悪さが見て取れる。

「お兄ちゃん……この人、誰……?」

「お前は向こうに行ってろよ」

「でも……」

「いいから行ってろ!」

 鋭い兄の叫び声に少女は一瞬立ち竦み、怯えた小動物さながらに駆け去って行った。それを見送り、少年はきつい瞳で灰を見返した。

「泉、あの麻薬の代償として警吏に來螺の者を売ったのか?」

 あまりに断片的な、そして単刀直入な言葉だった。しかし少年にはそれで十分だった。

「ああ、そうだよ! 悪いかよ! だってどうせ火つけの犯人には違いがないんだろ!? どこで俺が警吏に言ったのを知ったか知らないけど、俺は間違ったことはしてない!」

 怯えと怒りをないまぜにした少年の顔を見つめ、灰は淡々と言葉を返した。

「それは違う。告発された來螺の者は無実だ。泉は関係のない者に罪を被せる片棒をかつがされたんだ」

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