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灰はゆっくりと山の斜面を登っていた。月の夜だったが、冴えわたるその光も鬱蒼としげる木々に阻まれて彼のところまでは届かない。幾重にも重ねられた薄紗のように、闇は少年の全身にまとわりつく。それをかき分けるようにして一心に上を目指していた。
村人が足を踏み入れないそこは、灰にとっては目を瞑っても歩けるほどに通いなれた場所である。しかし存在そのものが巨大な生き物のような自然の中で、過信は命の危険にすら繋がると灰は知っていた。意識を凝らし、灰は注意深く足を運んだ。息が白むほどに気温は下がっていたが、次第に体が温まる。
やがて木々の間に光が見えた。まばらに生える下草をかきわけて光のもとへと向かえば、天空にせり出した崖へと続いている。そこは、まるで天から斧で垂直に切り落としたかのように鋭く屹立していた。
闇に慣れた瞳には、月が眩しい。灰は眼を眇めるようにして崖の突端へと歩み出した。危うげなく立って眼下を見渡せば、村を抱く森が一望できる。左手にある聖堂はすでに山の陰となり見ることはかなわない。村にはぽつりとともった明かりがひとつ、まるで惑うように滲んでいた。
灰は膝を抱えて座り込むと、うねるように蠢く巨大な森を見つめた。そして瞳を閉じ、その動きに自身の呼吸を合わせる。圧倒的な静寂に潜む膨大な命の気配の中へと灰の意識は一気に飛び込んでいった。
太古から時を刻む大樹が吸い上げる水の音、風にそよぐ生まれたばかりの若木のしなり、闇に潜む老練な梟の視線、小さな虫をほおばりながらあたりをうかがう臆病な鼠、眠りながらも決して警戒を解かない巣立ったばかりの小鳥、狡猾に獲物を狙う成熟した狼の息遣い、それらの気配と同化し、分離し、やがて森の木々をうねらす巨大な風の一部となる。
遥かな高みから森を見下ろし、そこで灰は唐突に意識を体へと戻した。途端に岩肌と大気の冷たさを感じた。どれほどの時間そうしていたのか、すでに体のどこにも歩いてきたときの火照りは残っていない。岩と同化したかのように、芯から凍えていた。
灰は小さく苦笑する。自分の体を放り出していいことなどないと、何度も点然に叱られたことを思い出したのだ。それでもたった一人で山に登り、自然と同化し大気を駆けることを許してくれたのは、そうでもしなければ何もかもを投げ出してふさぎこんでしまいそうな少年の鬱屈をわかっていたからかもしれないし、そうすることが少年の厄介な力を安定させるためには必要だと考えたせいかもしれない。
(点然ではなく柳角だったっけ)
ぼんやりと思いながら灰は憂鬱に小さく息をついた。師匠と仰ぐ老人が死んでから一年、突然の訪問者の姿を灰は思い出す。琥珀の瞳の穏やかな表情の男が告げた言葉は、灰にとってさほど意外なものではなかった。老人は死ぬ前に、少年にいつか多加羅から迎えが来るであろうことを告げていた。その時どのような選択をするか、それは自分で決めればよいのだ、と。しかし、覚悟ができているからといって、動揺を感じないわけではない。
灰はふと視線を巡らせた。彼の鋭敏な感覚は、闇に紛れて近づいてくる存在をとらえていた。灰は立ち上がり、木立の間に目を凝らした。気配はやがて形を結び、一人の男の姿となった。弦である。自身が姿を現すよりも先に向けられた視線に、男は驚いた様子もなく影から歩み出す。昼間には決して見せなかった険しい表情で、灰は突然の侵入者に向き合った。
灰が感じた動揺、それは秋連が告げた峰瀬の言葉のせいばかりではない。むしろ、その大半はこの男のせいだった。一目見たときから灰は弦の持つ気配に覚えがあることに、まるで神経に針をつきたてられるような不快感とともに気づいていた。
弦は灰の様子に頓着することなく無機質な瞳を向けた。皓々と下界を照らし出す月の光にあらわになった顔は、のっぺりとした仮面のように表情がない。
「よくここがわかりましたね」
棘を含む灰の言葉に弦は答えた。
「何度もここには来ましたので。あなたがここで何を見ているのか、それが知りたかった」
灰は思わず顔を顰める。この場所は村人も恐れて近づかず、そうであるからこそ彼にとってはたった一人になれる大事な空間だったのだ。
「惣領はあなたが私の存在に気付いていると仰せでしたが、その様子では本当のようだ」
少年を岩壁の突端に追い詰めるように歩み出しながら弦は囁くように言った。
「あなたは怪魅師であられる」
灰は動揺を抑え込む。灰の思考を読んだように、弦は言葉を続けた。
「惣領は灰様が怪魅師であることを、柳角翁にお預けになる前から御存じでした」
言いながら、弦はゆったりと腕を組んだ。寛ぐようなその姿とは裏腹に、影が濃度を増すように、男の気配が膨れ上がる。名前を知っていたわけではない、姿すら見たことがない男でありながら、灰には男の持つ気配と視線にいやというほど覚えがあった。
「灰様の怪魅の力をもってすれば、私の存在などたやすく見つけられるはずです。たとえどんなにうまく森に潜んだところで無意味でしょう。それもすべておわかりのうえで、惣領は私にあなたを見守るようお命じになったのです」
灰はやはり、と心中に呟いた。灰が六年前に柳角に引き取られてから、折にふれ感じていた気配――まるで監視するかのようなそれが自分なのだと、臆面もなく男は告げる。
「私の役目はあなたの様子を逐一惣領にお知らせすること。私がこの森に潜んではあなたの様子を探っていたのもそのためです。六年前から惣領はあなたのことを考えておられたのです」
「白々しいことを」
押し殺した声に隠しようもなく怒りがこもっていた。
「密かに人に見張られていることが心地良いとでも? 俺のことを考えてなどよく言えたものだ」
「惣領は六年前のあの事件の折にあなたをお見捨てになることもできたのです。それを周囲の反対を押し切られて柳角翁にお預けになった。それも怪魅の力にいつか身を滅ぼすのではないかと懸念されたが故のこと。柳角翁ならば、お救いできるとお考えになったのです」
弦は何らの感情もうかがわせない声音で、淡々と語る。灰は強く拳を握りしめ、その痛みに縋るようにして後ずさりしそうになるのを耐えた。告げられる言葉の一つ一つが、刃に似ていた。
「六年前、惣領は灰様が怪魅師として強い力を有していることにお気づきになり、それが灰様にとって諸刃の剣であるとお考えになられました。怪魅の力を抑え、自らのものとするためにも柳角翁に灰様をお預けになったのです」
事実、と弦は言葉を継ぐ。
「あなたは怪魅師として生きるだけの技量を身につけられた」
灰は言葉もなく弦を睨みつけた。
と、不意に弦が動いた。灰は目を見開く。風のように、身構える暇すら与えず迫りくる男が、それとはわからぬほどの一動作で短剣を取り出す。鮮やかな銀――鋭い軌跡を描いて己へと振り下ろされるそれを、灰はただ凍りついたように見つめていた。
次の瞬間、弦の体が宙を舞った。非常な勢いで吹き飛ばされ背中から地面に叩きつけられる。衝撃に弦が呻いた。ようようの体で肩肘をついて上体を起こした弦は、少年の首に剣を突き立てる寸前に自らを吹き飛ばしたものを見やった。
そこにはほっそりとした少年を守るようにして立ちはだかる獣がいた。夜の闇よりもなお深い毛色、牛ほどの大きさもある狼に似たしなやかな姿に、牙蒙と呼ばれる所以である長く鋭い牙、炯々と輝く瞳が容赦なく弦を見据える。
弦がその時感じたのは圧倒的な存在を前にしたときの根源的な恐怖だった。常に何者に対しても冷静に反応すべく鍛えられた体が、まるで見えない鎖に縛られたように凍りつく。
「叉駆」
灰は獣の名を呼んだ。諭すようなその呼びかけに、獣はゆっくりと弦から離れた。月光を弾く巨大な体躯は、流線形を描き優美ですらあった。
灰は身をすりよせるようにして傍らに来た叉駆に苦笑を向けた。もとより感情を表さない存在ではあるが、獣の姿であればますますその意思などはかりようもない。それでも叉駆の瞳が不満そうな色を宿したことに灰は気づいていた。灰は低く唸る叉駆の背をなで、瞳を覗き込むようにして小さく頷いた。叉駆はなおも弦を睥睨するように見つめていたが、やがてゆらりと長い尾を振り、空気に溶けるようにして消えた。
息を呑んでその光景を見つめていた弦はようやく緊張を解いた。体を起こした弦は刃を地面に置いて頭を垂れた。
「無礼をお許しください」
まるでそれまでの態度が嘘であったかのような弦の言葉に、灰は眉を顰めた。そして悟る。弦は本気で短剣を振るったわけではないのだろう。もしも灰を殺すつもりであれば、叉駆も容赦しなかったに違いない。
「これも惣領がお命じになったのですか? 俺に力を使わせるためにこのようことを?」
「灰様がどれほどの力をお持ちなのか、確かめさせていただく必要があったのです」
弦が知る怪魅の力はせいぜい風凪と呼ばれる、空気を揺らがせる程度のものでしかない。しかし今目の前で起こったことは、それをはるかに凌駕していた。いまだに弦の体に残る戦慄が、灰の力の凄まじさを証明している。
「惣領は秋連様とは別に私にも言付けを託されました」
弦はさらに深く頭をさげる。
「惣領は灰様の怪魅師としての力を必要とされています。今の多加羅のために是非とも来ていただきたいと仰せです」
冴え冴えとした月の光は、冷たく澄んだ夜の大気にしみいるように降り注ぐ。長い静寂に弦はただ岩肌を見つめていた。ようやく答えた灰の言葉は、心もとなく揺れていた。
「都では怪魅師は問答無用で捕えられると聞いています。異端審問で処刑されることもあると。それに、六年前のことをご存知ならばわかるはずです。この力は忌まわしい……禁忌の力です。なぜこんな力を……」
「それは灰様が多加羅に来られる決心をなされば、惣領御自らがお話をされるとのこと。私ごときにはわかりかねます。しかし、今は多加羅にとって非常の時であるとお考えください。そしてあなた様のお力がどうしても必要なのだと」
それに、と弦は顔を上げる。
「惣領はあの少女もともに多加羅に来るように仰せです。一人残すことはできぬであろうとお考えになられ、お伝えするようにとのことです」
灰は小さく息をついた。目の前の男が幾度も感じた視線の主であれば、当然稟のことも峰瀬に伝わっている、ということだ。
「そこまでわかっておられて、なぜあの方に使者の役割を? 秋連様は俺の力のこともご存じないのでしょう」
「私は決して表の舞台には出ぬ者、いわば影です。私の言葉は影の言葉、それをお忘れなきように」
「つまり、俺が多加羅に行く表向きの理由と裏の理由があるのですか? 怪魅師として赴くのが真実であり、多加羅一族の者として行くのはそれを隠すための口実ですか?」
弦は少年の洞察力に驚きながらも、静かに言う。
「それも惣領に直接お聞ききください。私はただ惣領のお言葉をお伝えすることしかできません。くれぐれも怪魅師であることは人に知られぬよう、たとえどのように高貴な身分であれ、知られれば容赦なく捕えられましょう」
灰にとっては噂でしか知らない話ではあるが、白沙那帝国が異端と目した存在に対して異常なまでに厳しいのは事実なのだ。それがわかっていながら異端とされている怪魅の力を必要としている峰瀬の意図はどこにあるのか、灰には見当もつかない。
伝えるべきことを伝えたのだろう、弦は再び頭を下げると素早く立ち上がり踵を返した。しかし、ふと考えるように立ち止まる。不意に和らいだ弦の気配に灰は視線を向けた。
「まだ何かありますか?」
問いかける灰に対する弦の声には苦笑が含まれていた。
「はい。最後に一つ、そのお言葉遣いをおやめください。私は多加羅につかえる影です。影には影に相応しい身分というものがあります。灰様は多加羅の惣領家のお血筋、私の主なのですから」
そう告げて去っていく背が闇にまぎれて消えるのを見届けてから、灰はため息をついた。緊張が解けた体が不意に重く感じられた。あるいは、それは伝えられた言葉の重さだろうか。
(覚悟していたはずだ)
だが、このような形で、ではなかった。灰は己の手を見つめる。不意に、鋭い銀の軌跡が脳裏に浮かんだ。灰は強く頭を振って残像を振り払う。弦が短剣を振り下ろしたあの時、叉駆があらわれなければ己はどうしていただろう。
すがるようにして見上げた月は、透徹と澄み渡った天空に遠く輝くばかりだった。いつまでも立ち尽くす少年に、月は何も応えはしなかった。
秋連は涼やかな鳥の声で目覚めた。
見上げれば複雑な曲線を描く木目が目にやさしい。見慣れぬそれに、どこにいるのかを思い出した秋連はゆっくりと体を起こした。引き戸の隙間から差し込む光は淡く、まだ早朝であることがわかる。
隣を見ればすでに弦の姿はなかった。旅の間を通して、弦が秋連よりも先に寝たことも、後に目覚めたこともなかった。一体いつ寝ているのか、と思わずにはいられなかったが、それも数日共に過ごすうちに慣れてしまうものらしい。
秋連はがたごとと音を鳴らしながら聖堂の表に面した引き戸を開けた。さっと差し込む朝日はひんやりとした大気とあいまって急速に意識を覚醒させる。大きく伸びをすれば、よほど熟睡したのだろう、旅の疲れが消えていた。
夜露に濡れないようにと室内に置いていた靴を掴み、秋連は外へと向かった。聖堂の前の広場から村を見渡す。
森が、山が、そして村が目覚める様に秋連は見とれた。静けさの中に沈む夜の気配に眩い光が縦糸のようにからみ、刻々と色を変えながら、長い時の中で作り上げられた一つの調和が姿をあらわす。見事な織物が仕上がるかのようなそれは、秋連の心に深く穏やかな感動をもたらした。
「起きていらしたんですか」
背後からかけられた声に振り返ると、堂の裏手から歩いてくる灰の姿があった。
「ああ、ぐっすり眠れたせいか疲れがよくとれたよ」
思わずざっくばらんに答えた秋連は、丁寧に言いなおそうかと考え、やめた。この景色の前では人の身分も立場も、何もかもが遠くばかげたことに思われる。そもそもこの少年が、表面的な言葉や取り繕った恭しい態度に愚かしい喜びを見出すとも思えなかった。
灰もまた秋連の横に立ち、幾層にも重なる空の色彩を見つめた。
すっくりと立つ少年は物思わしげでありながら、どこか遥か彼方に意識を投げ飛ばしたような空虚さがあった。秋連はまじまじとその横顔を見ながら、ふと、彼が一睡もしていないのではないか、と考える。直観的なそれに、しかし秋連は確信を抱いた。思えば、灰に対面する前にはどのように話を切り出そうか、そればかりを考えていたのだが、いざ本人を前にすると呆れるほど直截な物言いになってしまったものだ。今も胸に残るもどかしさは、とらえどころのない相手への戸惑いではなく、言葉を飾ることのできない自分への苛立ちだったのかもしれない、と秋連は思う。
「俺は、いつかこの村を出て行こうと思っていました」
ぽつりと呟くように少年が言った。銀の髪が風に揺れて不思議に青を思わせる色に染まっていた。
「巡回薬師になって色々な場所に行ってみたいんです」
「巡回薬師?」
思わず秋連は問い返す。はい、と答えた少年は大きく笑んだ。まるで空気そのものが変わるような華やかさに秋連は息をのむ。年相応の笑顔でありながら人を魅了するそれは、遠くかすむ記憶の底から、一人の乙女の姿をいやがうえにも呼び起こす。
「遠く見知らぬ土地まで旅をし、世界中の動物や植物、薬草を調べる」
「そして敵も味方もなくすべての命を癒す……か」
秋連は驚いた表情の灰に笑んでみせた。
「私はそういったことにはいささか詳しくてね。巡回薬師は今では滅多に見られないが、僅かに残っているというのも聞いたことがある」
「はい。師匠もよく言っておられました」
しかし、と言おうとして秋連は言葉を飲み込んだ。
巡回薬師はどの国にも属さず、どの勢力にも阿らず、季節を追うようにして諸国を巡り、知識や技術の探求と命を癒すことにのみすべてを捧げる存在である。しかし、時として彼らは迫害の対象ともなりうる。諸国を放浪する彼らを間諜と疑い、優れた知識を邪法と罵る人々によって、数多くの巡回薬師が虐殺された歴史がこの国にもあった。
だが、それを言って何になるというのか。そのようなことはおそらく少年も知っているのだ。巡回薬師になりたいという言葉にこめられているのは、理想に憧れる子供の夢ではなく、遠く得ることのできない夢への諦観のように秋連には感じられた。それは十四歳の少年が持つにはあまりにも悲しい。
村の家の前で小さな人影がのびをしているのが見える。気づけば夜の気配は消えつつあった。
「母が、俺に言ったことがあります」
秋連は思わず灰の顔を見る。そこに笑顔はもうなかった。
「運命に従容と従うも、昂然と立ち向かうも己次第だと」
「運命――」
頷き、灰は正面から秋連を見つめた。少年が初めて見せた強い瞳だった。
「俺は多加羅に行きます」
言葉は決然と響く。
「それは、君にとっては運命に立ち向かう、ということなのかい?」
その問いはほとんど無意識に出たものだった。零れ落ちた言葉を睨みつけるように、灰は地面を見つめる。秋連は、その姿に初めて等身大の少年を見たように思う。そう、まだ少年だ。たった十四年を生きただけの存在なのだ。
「わかりません」
己には知らされていないことが、少年にこのような表情をさせる何事かが、恐らくあるのだろうと秋連は思う。そしてそれは、彼に知らされるべきことでもないのだろう。これまでもそうであったように、彼はただ傍観者であればいいのだ。秋連は自身に納得させるようにそう考える。
「ただ、俺は逃げるわけにはいかないんです」
何から、とは問わずに秋連は新たな一日へと動き出した村を見やった。仄かに霞む朝の光の粒子は、鮮やかな緑と人々の出す堅実で陽気な物音の中に、ひっそりと消えていた。
序章が終わりました。これだけでも結構な分量がありますね。
この物語は別のサイトでも投稿しているのですが、今回改めて見返すと直す箇所が多くて大変です。誤字・脱字だけでなく、文章が変だったり拙かったり。大分前に書いたとはいえ、こんなに下手だったのか! という感じで……。いえ、今でも大して進歩はしていないのですが、少しはましになったと思いたいものです。
ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!