18
その後何の収穫もないまま二日が過ぎた。しかし全てが徒労だったわけではない。丹念で辛抱強い若衆の見回りは、次第に街の人々が彼らに向ける視線を変えていったのだろう。外延部の人々が、少しずつではあるが彼らに温かい声を掛けはじめたのである。これは若者達にとっても意外であり、嬉しいことだった。須樹にとっては喜ばしい誤算だったとも言える。
そして他愛のない人々との会話の中で、ある一つの噂が囁かれていることを若者達は知った。それは火災のあった夜に黒い外套に身を包んだ長身の男がうろついていたというものである。その人物が犯人に違いないというまことしやかな人々の話は、真実と信じるには手掛かりが少なすぎたが、虚偽と切り捨てることもまたできなかった。
噂の男は外套を目深に被っていたため顔は定かではないが、闇に紛れるようにして彷徨っていたという。外部の者に敏感な外延部の人々がそれを不審に思わないはずもなく、実際そのような人物がうろついていたことは事実と思われた。しかし一方で、ただ怪しいだけでその男を犯人と断じることもできない。
深夜に誰にも気づかれずに火を起こすことは存外に難しい。火打石を使ったとしても少なからず音が出る。特に小さな家々が靠れ合うようにして密集している外延部では、ごく僅かな物音でも人々が気付く可能性があった。そうであるからこそ、犯人は硝子筒などあらかじめ火を灯したものを持ち歩いていたのではないかと考えられているのだ。件の男はどうやらそのようなものを持ってはいなかったようだ。
次第に噂が多加羅の街に広がっても、結局噂以上の話に繋がらなかったのはその矛盾にやはり人々が気付いていたせいだった。
「仮にだ、その男が犯人だとして、なぜこの時期に火をつけることを思いついたんだと思う?」
「確かになあ」
「そもそも祭礼の季節に火は忌まれるだろ。金笹の畑に火が起こってみろ、一気に燃え広がるからな。それなのに神に実りを感謝する祭礼の前に火をつけるとは……」
「罰当たりな奴だ」
須樹は若衆達の会話を聞くともなしに聞きながら、注意深く道行く人々を眺める。会話を交わしながらも、誰もが同じように周囲に目を配っていた。すでに見慣れた街並みである。一塊になって歩く彼らにぎこちなさはない。須樹の範と仁識の範は、はじめこそ互いに距離を置いていたが、毎日ともに行動するうちに奇妙な連帯感が生じていた。
「こうも考えられる」
それまで須樹同様に黙って会話を聞いていた仁識が言葉を挟んだ。
「犯人は火をつけることで神を挑発しているのかもしれぬ。己の力を神に誇示してその裁きをためしているのかも」
「おいおい物騒なことを言うなよ」
冶都が思わず言うと、仁識は笑んだ。それにむっとした冶都だが、口でこの相手に勝てたためしはない。
「だいたいなんで神を……その、なんだ、挑発する必要があるんだ」
「さあな。だが火つけは示威行為のように思えんか? 卑劣なやり方だがな」
「挑発ではなく戒めを求めているのかもしれません」
これは灰である。仁識は面白そうに灰を見つめた。
「だが、まさか人が死ぬとは思わなかった……。犯人は自分が起こした火災で人を殺してしまうとは思わなかったんじゃないでしょうか」
「それはまたなぜ」
「あれだけ短期間に続け様に起こったのに、その後は途絶えているからです。本当に人を殺すのを躊躇わなければ、この手の犯罪はもっと頻発するような気がします」
なるほど、と冶都は呟いた。いつの間にか若者達も真剣に耳を傾けていた。二回目の放火は明確な悪意をもって行われたと考えられているが、その後ぱったりと火災は起こっていない。警備が強化されたせいもあるだろう。しかし果たしてそれだけなのだろうか。灰はなおも物思いに沈むような表情で言葉を紡いだ。
「それに、もしそうであれば犯人はここらのことをよく知らない、それなりに裕福な者かもしれません。この区域が街の中心部に比べて火の回りが早いことを知らずに放火し、予期せずして人が死んでしまった。犯人自身が己の招いた結果に最も驚愕したのかもしれません」
「では、今頃戦々恐々としているかもしれんな。単なる放火だけではなく、殺人となると死罪は免れないだろう」
須樹は言う。
「灰の言うとおりだとしたらここらを見回ったところでますます犯人は見つけられんということだなあ」
冶都のぼやきに苦笑しかけた灰の傍らを人が通り過ぎた。まるで一陣の風のようにすれ違ったその気配に、灰はふと振り返った。その視線の先、全身を暗い色調の衣に身を包んだ男が立ち止り、灰を振り返った。ゆったりと頭を包む黒い布は流れるように首元に撓められ、目から下を覆う布のせいで顔立ちはわからない。深く暗い双眸がひたりと灰に据えられていた。
一瞬の視線の交錯――思わず立ち尽くした灰は冶都の声音にはっと我にかえる。
「灰、どうしたんだ?」
その声に前を行く若者達も振り返る。まるで影のようないでたちの人物は僅かに目を細め、踵を返した。そのまま遠ざかる姿に仁識が鋭い声をかけた。
「おい、待て」
いかにも不審な人物である。声をかけられた方はそれに足を止める。しかし振り向かないままに背を向けたその姿に、若者達の視線が険しくなった。
不意に男は身を翻すと走り出した。
「おい!」
咄嗟に冶都がその後を追う。若衆達も無言でその後に続いた。
走りぬける男と若者達の姿に、道行く人々から驚きと怒りの声があがった。逃げる男との距離はなかなか縮まらず、ともすれば見失いそうになる。
「須樹、まわり込め!」
仁識が鋭く叫んだ。須樹は範の面々に目配せをすると素早く家々の間の路地に走り込んだ。灰もまたそれに続き、細い道を駆ける。すでに何日も見回った区域は、複雑な路地の構造も大方が頭に入っている。男が逃げる先はさらに人通りの多い大通りである。そこに逃げ込まれる前に挟みうちにしようという仁識の言葉だった。大きく湾曲した道を逃げる男の前に回り込むために、最短の距離を走り抜ける。
入り組んだ道を駆け再び元の道へと踏み出した須樹達は、思惑通りに運んだことを知る。まさに今こちらに向かって走り来る男の姿があった。突然行く手にあらわれた須樹達に、男は足を止めた。そして背後に迫りつつある仁識の姿を振り返ると、身を翻し目の前の小路に飛び込んだ。
「まだ逃げるか!」
低く毒づいた冶都が真っ先に細い道へと飛び込む。その後を須樹の範が、そして仁識の範が追う。狭い道は圧するように迫る家壁のせいで仄暗く、微かに水の腐ったような臭いが漂う。駆ける足元で湿った音が響いた。
逃げる男は歩調を緩めることもなく緩やかな勾配をのぼると、路地が十字に交わった空間で不意に立ち止まり振り向いた。
「観念したか!」
冶都が男に迫る。男は落ち着いた仕草で手を祈るように組み合わせた。囁くように、深い声が流れた。男が歌うように言葉を紡いでいるのだ。言葉は波紋のように空気を揺らし、奇妙な余韻を残して響いた。足元からその音に絡め取られるような心地に陥り、灰ははっとする。
反響して聞こえるのは声のせいではない。発される言葉そのものが仄かな輪郭を纏って大気に滲み、力の波を発していた。言霊だ。それが男の腕に凝集するのが灰には見えた。男が短い気合とともに腕を一閃させたその瞬間、咄嗟に灰は前を行く冶都の衣を掴んだ。
「おわっ!!」
叫んだ冶都が体勢を崩す。その上を、空気が凪いだ。否、空気ではない。それは熱をもった波だ。鋭い軌跡を描いて空間を走り抜け、上空へと舞いあがって消えた。若者達はぎょっとして足を止める。対する男はなおも手を組み合わせたままひたと若衆の面々を睨み据えていた。
「なんだ! 今のは!」
「条斎士……」
灰は呟いた。目を凝らせば、黒い衣を透かして揺れる光が見える。条斎士の証である宝珠が輝いているのだ。それは烈しく深い緑だった。森を思わせる。
「条斎士だと!?」
数人の若衆が怯えたように後ずさった。灰は男を見据える。おそらく先ほどの熱波は命を奪うほどのものではあるまい。しかし人に向けるにはあまりに危険な技だ。明らかに戦闘を目的とするものであり、正面から浴びれば軽傷ではすまないだろう。
「貴様、何者だ!」
仁識の範の血気盛んな一人が叫ぶ。鋭い声に、男の目が細まる。それが笑んだためであることが灰にはわかった。男はゆったりと優雅にお辞儀をしてみせ、嘲るように言った。
「誉れ高き多加羅の若衆に名乗るほどの者ではございません」
「お前が街に火をかけた狼藉者か!」
「いやはや、人違いもいいところでございます。私はしがない旅人にございますれば」
「ならばなぜ逃げた! 後ろ暗いことがあるからではないのか!」
「おや、これは異なこと。そちらが血相を変えて追って来るから逃げたまでのこと」
低い声音に、灰はふと眉を顰めた。
(この声、どこかで聞いたことがある……)
美声と言えるだろう、張りのある若々しい声だ。
「火つけの犯人ではないとしても、なぜあのような場所をうろついていた」
仁識の落ち着いた声が問うた。
「旅人と言うが、見ればその衣、絹の光沢だ。どこの御曹司の悪ふざけかは知らんが、火つけの犯人でないと言うならばその顔見せてみろ。後ろ暗いことがなければ見せられよう」
まるで滑るような気配で仁識が前に踏み出す。腰の剣に軽く手をかけただけのその姿に、しかし男は僅かに身を引いたようだった。男の視線が鋭くなる。嘲る声音はそのままに、口調ががらりと変わった。
「なるほど……若衆随一の剣の使い手、仁識とはお前のことか。博露院を放逐されたと聞いたが、どうやら噂通りの阿呆ではなさそうだ。愚者の振りをしてまでなぜ若衆などにいる?」
「私を知っているのか?」
仁識の声音が凍る。男はそれには答えず、警戒もあらわな若者達へと視線を走らせた。
「そちらは次期若衆頭と目されながら、身分ゆえにかなわなかった須樹か」
男の目が灰を捉える。先ほどと同じ纏わりつくようなそれに、灰は知らず身構えた。
「そして多加羅惣領家の御方にお目見えできようとは……光栄の至り」
「なぜそれを知っている」
問うたのは須樹だった。その背に灰を庇うように一歩踏み出す。彼らは街の見回りの際にも決して灰の素生を街衆に明かしはしなかったのだ。無用の騒動を避けるためであり、何かと複雑な立場の少年を慮ってのことだった。
「惣領家の者までもが街の捜索か。多加羅も物騒なことだ。それもたかだか火つけの犯人一人を見つけられぬとは、腑抜けたものだな」
あからさまな愚弄だった。
「……気に食わんな。力ずくでその正体暴いてやろうか」
底冷えのする声音で言った仁識が男へと踏み出す。
「仁識、やめろ! 相手は条斎士だぞ」
須樹の警告の声にも仁識は止まらない。
一気に間合いを詰めると組み打ちの要領で相手の衣を掴もうとして、その手が空を切った。細い路地にも関わらず男が驚く程の素早さで身を翻したのだ。鋭く舌打ちをした仁識が男へと足払いをかける。見事な身のこなしだった。咄嗟にそれをも避けた男だったが、さすがに体勢を保つことができず大きく体が揺らぐ。すかさず男を押さえ込もうとした仁識だったが、大きく後方に飛ぶ。その足元を穿ったのは先ほどと同じ熱の刃だった。
男が再び大きく腕を振るう。冶都に向けて放ったのとは比べ物にならぬほどの力の塊だった。僅かに歪んで見える陽炎のようなそれを、仁識は身軽に避ける。獲物を逃した力が壁際に積まれた木材にぶつかり、木の裂ける鋭い音が響いた。不敵な笑みを浮かべた仁識だったが、その笑みが途中で強張る。まるで狙い澄ましていたかのように男が交差していた腕を振るったのだ。
鞭のように撓る二筋の波が絡み合うようにして空間を走る。一筋の波を身を屈めて避けた仁識が大きく目を見開いて迫る第二の波を見据える。容赦なく走る熱波の塊に、若者達の間に戦慄が走った。避けられない。
「やめろ!」
叫んだのは誰だったか、灰にはわからなかった。考えるより先に体が動く。仁識の前に飛び出すと、のたうち走る塊を正面から受け止めるようにして左手で掴んだ。掌に走ったのはまるで火の中に手を突っ込んだような灼熱の感覚だった。それに思わず唇を噛みしめると、血の味が口中に広がる。それでも抗いのたうつそれを握る手にさらに力を込めると、やがて罅割れるようにして手の中の熱波の輪郭が薄れた。崩れかけた力が最後の悲鳴のように揺らいだ。それはしなりながら灰の腕に巻きつくと、衣を引き裂いて赤黒い筋を肌に残し、霧散した。
灰は焼け爛れた手のひらをゆっくりと開いた。茫然とそれを見つめていたのは若衆達だけではなかった。条斎士である男もまた、唖然として灰を見つめている。
「灰!」
少年に駈け寄ろうとした須樹は、しかしその表情に思わず足を止める。
「その力、人に向けてよいものではないぞ。沙羅久惣領家の二男殿」
ひそりと呟くように灰は言った。宵の空にも似て深みを増した瞳が、ひたと目の前の男に据えられる。絶句した須樹は思わず男を見やった。凝然と立ち尽くす男もまた、驚きに大きく目を見開いているようだった。
「沙羅久だと……!?」
「聡達……」
須樹もまた茫然と呟いた。まじまじと見れば、眼の前の人物は緩衝地の街でまみえた相手と背格好が似ている。そしてその声、張りのある心地よい声でありながら、奥底に揶揄するような皮肉な響きを宿したそれが、確かに記憶に残るものと重なった。
「多加羅の街で一体何をしている」
灰の問いに男は答えなかった。しかし不意に肩を震わせたかと思うと、大声で笑い出した。灰は顔を顰める。響く笑い声に、人の神経を逆撫でする、音程の外れた旋律にも似た歪みがあった。男は不意に顔を覆う布を取り去る。なおも笑いを滲ませる声で言った。
「面白いな。俺のことを知っているとは」
露わになった顔――それは確かに聡達だった。聡達は己を見つめる若者達を睥睨した。楽しげとも言える表情であり、声音でありながら、その瞳には一片の笑みの気配もない。
須樹は聡達を凝視する。すでに一度目にした相手である。だが、以前対した時とは何かが違う。――酷薄――ふと心に浮かんだのはその言葉だった。今、聡達に対して感じるのは、鋭い刃で肌を撫でられたような寒気のする危うい感覚だ。初めて出会った時には感じなかったものだ。
「聞いたことに答えてもらおう。ここで一体何をしているのだ」
灰の低い声に聡達は笑いをおさめるとおもむろに腕を若者達に向かって突き出した。袖をまくりあげるとそこには銀に輝く腕輪があった。表面には複雑に絡み合う線が見える。
「俺は聖遣使だ」
灰は目を見開いた。聖遣使――彼もその名は知識として知ってはいる。
「多加羅に不穏の気配あり。ゆえに俺が遣わされた。行く手を阻むは不敬と知れ」
言いながらゆっくりと灰へと近づく。須樹が咄嗟に灰の左手に立つと、仁識もまた素早く前に進み出た。灰の左右を固めるその動きにも聡達は頓着せず、三歩の距離を残して立ち止った。油断なく見守る彼らの前で聡達は笑む。囁くように言った。
「俺はお前を知っている」
訝しげに眉を顰める灰に向かって、聡達が懐から何かを取り出す。聡達が掲げて見せたそれは刃渡りが大剣の半分程もある刀だった。思わず若者達は身構えるが、聡達が刃を抜く気配はなかった。
かなり古いものなのだろう。黒い鞘には細かい傷が数多ある。そしてそこには美しい獣の姿が躍動的に嵌めこまれていた。須樹にはその図柄に見覚えがあった。市場で灰が見たことがあると言っていたものだ。思わず傍らの灰を見やると、その顔は血の気が引いて青褪めている。じっと刀を凝視するその表情に、聡達は笑みを深めた。
「多加羅惣領家の灰、俺はずっとお前に会いたかったぞ」
「どういうことだ」
灰が低く問うた。張り詰めた表情で聡達を睨みつけた。聡達はそれには答えず刀を再び懐にしまうと、背を向けた。
「今日は邪魔者が多い。答えはいずれ知れよう」
そのまま遠ざかる相手に幾人かの若者が後を追おうとして、仁識の厳しい声に足を止める。
「追うな! 行かせるんだ」
聡達は緩やかな坂をのぼり、再び振り返る。口角を吊り上げ傲然と若衆を見下ろした。澱む静寂に声が響く。
「やがて多加羅は滅びる。俺達が滅ぼす。せいぜい足掻くことだ。力ない相手を潰したところで面白くもないからな」
「なんだと!」
「やめろ! 冶都」
須樹は聡達に向かおうとする冶都の大柄な体を阻んだ。それを冷笑して見やった聡達は、踵をかえすと細い路地を曲がって姿を消した。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなると灰は傷ついた腕を抱え地面に膝をつく。足元が崩れ落ちるような感覚に立っていることができなかった。額の奥深くが脈打つように痛む。灰は湧き起る体の震えをおさえようと全身を強張らせ、強く瞳を閉じた。
瞬間、闇に沈んだ視界に鮮烈な像が浮かんだ。それは一条の輝きだった。研ぎ澄まされた銀だ。翻るように走り、切り裂き、深々と抉る。その度に散る紅は硬質なそれとは対照的に柔らかく、奔放に宙を舞う――
――宙を舞い、そして立ち尽くす幼かった彼に降り注いだ。飛び散った紅は、母が愛していた白い大輪の花をも汚し、ゆっくりと花弁の先端に結実した紅玉にも似た雫が地に落ちた。かそけく揺れる花の向こうで、母親が切り裂かれ殺されるのを、身動きもできぬまま彼は見ていた。母親の胸に呑みこまれる刃の、肉を穿つその音まで彼は聞き取ることができた。ゆっくりと崩れた体が鈍い音をたて、流れる銀の髪が、血潮に呑み込まれていく。母親の胸に突き立てられた刀――その柄に埋め込まれた踊るように疾駆する獣の向こうで、すでに命の輝きが失せた紫苑の虚ろな瞳が彼を見つめていた。
鮮烈な記憶の奔流に、灰は焼け爛れた手を握りしめた。傷の痛みに意識が冴えた。
(なぜ、忘れていた)
あれは母の守り刀だ。もとは祖母のものだったという。祖母とまだ幼かった紫弥が多加羅から追放された折唯一身につけていたものだ。そして祖母が死んだ後大切に身に帯びていたその守り刀で、母親は命を奪われた。
(あの刀……なぜあいつが持っている)
刀は母を殺した男が持って逃げたはずだ。彼女の胸から血を迸らせて引き抜かれた銀の軌跡が生々しく脳裏に浮かぶ。灰はこみ上げる嘔吐感を抑える。汗が額を伝い、地面に落ちた。
「大丈夫か」
ただならぬ灰の様子に須樹がしゃがみ込んで問う。灰はそれに頷くと、大きく息を吸い、目を開いた。記憶の残像は消え、路地の湿った地面が見えた。
「はやく治療しないと……鍛錬所に戻ろう。いや、医術者のところがいいか」
「そうだな。ひどい傷だ」
「これぐらいなら自分で何とかできます」
言うと灰はゆっくりと立ち上がった。利き手とは逆の手で法術を受け止めたのは咄嗟の判断だった。右手があれば治療は自分でできるだろう。眩暈は続いていたが、ここで倒れるわけにはいかない。周りを見ればいつの間にか気遣わしげな表情の仲間達に取り囲まれていた。おそらく酷い顔色をしているのだろう、と灰は苦く思う。痛みのせいだと皆の目には映るだろう。その方が良い。
「すまなかった。奴を甘く見た」
低く仁識が言った。仁識は苦々しい表情で、灰の腕に残るのたうつ炎にも似た傷を見つめていた。
「いらぬ手出しをするべきではなかった」
「……仁識でも謝ることがあるんだな」
ぼそりと呟いた冶都が仁識に睨まれて視線を逸らした。
「なぜ追わせてくれなかったんですか」
問うたのは仁識の範の若者だった。聡達を追おうとして仁識に止められた一人である。
「奴は聖遣使だ。下手に手出しをしたら罪に問われかねん」
「何なのです。その聖遣使ってのは」
「神殿に仕える条斎士で、あらゆる異端を狩る者だ。もっとも力の強い一握りの者しかなれんとは聞いているが、怪魅師や邪法に手を染める者を狩り出し、捕える。時に殺すことも辞さない連中だ。そして聖遣使は皇帝の直属としての身分も与えられ、その任務に当たってはあらゆる特権が許されている。あいつが言うように邪魔をしただけで不敬の罪に問われることもある。奴等には関わらない方がいい」
淡々と響く仁識の言葉に、灰は我知らず顔を伏せた。聖遣使の話は柳角に聞いて知っていた。あの銀の腕輪、聖遣使の証であるそれに刻まれているのは、白沙那が古くから守り伝える神殿の護法の呪だという。異端に対する残虐な逸話に事欠かない聖遣使だが、実際に存在することを知っている者は多くはない。聖なる使いを意味するその名とは裏腹に、帝国の暗部に属する者達なのだ。
その聖遣使がなぜ、多加羅にいるのか。多加羅に不穏な気配あり、と聡達は言っていた。それはどういうことなのか。まさかあの闇と関わりがあるのだろうか。灰はきつく唇をかむ。闇の気配はまだ掴めてすらいない。
須樹もまた相手に感じた危うい雰囲気を思い出していた。歪な影を孕む危うさだ。そして気付く。聡達には何かが欠落しているのだ。人が人と対して得る共感、互いの個を認め合う境界――聡達にはそれがない。彼に感じたのは躊躇いなく力を振るい、容赦なく相手を追い詰める冷徹さだ。それが任務とあらば命を奪うことも辞さない聖遣使ゆえのものなのか、それとも皮肉気な表情の下に隠した聡達自身の性なのか、短い対面ではわからない。いずれにせよ関わり合いになりたい相手ではなかった。灰への含みのある物言いも気になるが、当の灰に問える状況ではない。一刻も早く治療すべきである。
「しかし沙羅久惣領家の人間が、聖遣使とはいえ多加羅に潜り込むとは……惣領はこのことを御存じなのか? そういえば、灰はなぜ奴が聡達とわかったんだ? 向こうも前から知っているような口ぶりだったが」
冶都が言う。もっともな疑問ではあったが灰には答えることができなかった。なぜ、と問いたいのは彼の方だ。聡達が灰に向けた言葉はあまりに不可解だった。そしてあの刀、忌まわしい記憶に繋がるそれをなぜ聡達が持っているのか。
「前に一度緩衝地帯の街で会ったんだよ。灰もその場にいた。とにかく戻ろう」
須樹は言うと、皆を促した。
細い路地から踏み出した彼らはまるで灰の周りを固めるようにして一団となって歩き出す。周囲を守るようにして歩く彼らに灰が戸惑いの表情を浮かべた。
「俺は大丈夫です。星見の塔に戻って自分で治療します。みんなは鍛錬所に戻ってください」
「それはだめだ。あの聡達とやらがうろついているんだぞ。奴はどうやらお前に含みがあるようだからな。自分で治療すると言うなら星見の塔まで送る」
冶都の言葉である。申し合わせたわけでもない若者達が一様に頷いた。
「そうだな。だが、条斎士の法術を素手で受け止めるとは無茶苦茶だ。そんなことができるとは聞いたこともないぞ」
呆れたように一人が言う。
「うむ。無茶な若様だ」
「俺は心臓が止まるかと思ったぞ。あの光景、到底忘れられそうにない」
「俺条斎士の法術を見たのも初めてだよ……夢に出てきそうだ」
軽口のように言い合うその言葉を聞きながら、須樹と仁識は素早く視線を交わし合った。おそらく同じことを互いに考えているだろうことがわかった。若者達は灰のことを受け入れてはいるが、剣術で劣る彼のことを、いざという時には足手纏いになりかねない存在であると考えていた。いわばお荷物である。だが、先ほどの出来事は若者達が持つ灰への印象を変えたようだ。まるで灰をからかうような会話を交わしながら、しかしそこにあるのは紛れもない少年への驚嘆であり、畏怖に近い、だが尊敬というにはまだ曖昧な感情だ。
須樹は灰を見やった。周囲の態度の変化にも一向に頓着していないらしい淡々とした表情でありながら、普段にはない張り詰めた何かがそこにはある。傷の痛みのせいだけとは思えなかった。
「大丈夫か?」
思わず問えば、俯いていた灰はっとしたように須樹を仰ぎ見た。
「大丈夫です」
落ち着いた声音だった。到底信じることのできぬその言葉ではあったが、それ以上問うことを阻む硬質な響きに須樹は続く言葉を呑みこんだ。
灰は気付かれぬように小さく息をつく。若者達の気遣いが、須樹の言葉が、ともすれば荒れ狂う何とも知れぬ情動に引きずられる己を現に引き戻す。胸中に沸き起こる波立つそれは、惑い揺れ、結ぼれないまま霧散した。
(呑みこまれるな。しっかしりしろ)
灰は顔をあげると前を見据える。浮きたつ街の様子は鮮やかに、妙に乾いて見えた。