16
「かつてこの地には偉大な神が宿っていると考えられていた。人々はそれを高占の神と呼んだ。多加羅という名はその古代の神の名が変化したものだ。おそらくはその獣と同じように自然の中の力が凝集した稀有な存在だったのだろう。人の言葉すら解し、時には恵みをもたらしたという」
峰瀬は小さく笑い叉駆を見詰めた。
「そのような逸話はあくまでも伝説だと思っていたが、その獣のような存在を見ると、もしかして真実あったことなのかもしれんな……しかし時が流れ、国という枠ができ人が支配者とそうでない者に分かれると、人は神の恵みを願うだけでは飽き足らず、神の威信を己のものとして利用するようになった。その神秘の力を支配の道具とし、単なる崇拝の対象としてだけではなく人智を超えた絶対的な存在として、近隣諸国への脅威となした。実際、人々は神が坐すと信じて、この地を恐れ服従した」
炎の爆ぜる鋭い音が響き、火の粉が散る。ゆらりと惑いながら、それはやがて虚空に溶けた。
「だが、どれほどに強大な力であろうと、自然の中にある以上いつかは消えていくものだ。全てのものが流転し、消滅し、再生するのが自然であるならば、この地の神とて例外ではなかった。しかし、支配者にとって、神が消えることはあってはならないことだったのだ。その支配の要として、神の存在はなくてはならないものとなっていたからだ」
愚行――しかし人とは常にしがみつくものなのだ。力と富に、欲望に。そして後に訪れる災厄を目にしてはじめて己の罪深さを悟る。
「時の支配者はまさに必死で消えゆく神の力を留めんとした。そのための一つの手段が神への生贄だった。彼は神の怒りを鎮めるためには命の犠牲が必要であると説いた。折しも天災が続いた時でもあり、人々は恐れ慄き大事な家族を自ら進んで差し出しさえしたのだ。どれほどの人が神に、この地に宿る力に捧げられたか、今となってはわからん。しかし僅かに残る文献によれば、生贄はかつてこの場所で」
言いながら峰瀬は大地に手を置く。
「残虐極まりない方法で、殺されたという」
灰は思わず顔を顰めた。陰惨な歴史の残滓は、木々に囲まれた小さな広場のどこにもない。空虚な静けさに、語る男の声とくゆる火の音が聞こえるばかりだ。
「その後長きに渡って生贄の習慣は続いた。支配者が神を留めるに必要なのが闇であると考えたのかどうかはわからぬ。しかし苦しみ悶えて死んだ数多の人々の思念や魂の欠片は、この地に宿る力に確かに吸収されたのだろう。やがて残ったのはもはや神とは呼べぬほどに歪み、汚れた力の塊だったが、その力は恐ろしいほどに強まっていた。消えることを懸念する必要がないほどにな」
「では、まさか……半月程前にこの山にあらわれた闇は……」
思わず呟いた灰の言葉に、峰瀬は頷いた。
「やはり気付いておったか。あれこそがこの地に宿り神と呼ばれたもののなれの果てだ」
あれが、神――かつて自然の中に清らで雄大な存在として在ったものが、人の思惑によって捻じ曲げられ汚された末があの姿だというのか。灰が闇に感じたのは、醜悪で歪な力ばかりだった。複雑に絡み合い、雑多に混ざり合ったそれは、かつて犠牲として差し出されたあまりにも多くの命の欠片であり、絶望と嘆きのうちに無理矢理命を奪われた者が残した負の力の集合体なのだ。
「あの闇が今あるような姿になったのは二百年程前のことだと考えられているが、人の命を与えられ膨れ上がった力は、やがてそれ自体が命を食らう存在としてこの地に巣食うようになり、崇拝や畏敬の対象ではなく、むしろ秘され隠された忌むべき存在となっていった。人は神の力を残すためではなく、その力を一時的にも抑えんがために生贄を捧げるようにすらなっていた。生贄の命の犠牲によって確かに一時的ではあれ闇の力はおさまったが、また時が過ぎれば闇は命を求めて溢れ出て来た」
あれほどの力の塊が無害なものであるはずがなく、見境もなく命あるものを求めて膨れ上がるその存在に、おそらく人はなす術もなかったのだろう。闇は破壊し呑みこみ、そしてさらに膨れ上がる。無数の命を食らい増殖することがその存在の在り方そのものであり、それはただ次代に命を継ぐためだけに生まれてくるように見える微小な生き物の在り方にも似ている。人が作った巨大で虚ろな闇の生き物なのだ。
「人には、この地に宿った歪み荒れ狂う力をもはや抑えることはかなわなかった。だが一人の条斎士だけはいかにしてか彼の力を鎮め、抑えることができた。我らの祖先である男だ。彼はこの地を治める支配者に仕え二役を担った。表向きは条斎士の束ねとして南軍を率いるとともに神に仕える祭祀として信仰の柱となり、密かに危険な存在でしかなくなったかつての神を鎮める役目を担ったのだ。彼がいなければ、おそらくこの地に宿る力は溢れ出し、多くの国がそれに呑みこまれただろう。その頃は諸国が相争う時代となっており、西方の白沙那が台頭した頃でもあった。一神を奉ずる白沙那にとって、自然そのものに宿る力を崇拝するこの地の人々は異端であり、最も忌むべき存在だったが、多加羅に宿る強大な力は彼らにとっても無視できぬ脅威と映っていた」
なぜ白沙那帝国が多加羅惣領家をこの地に残しているのか、灰はその理由をようやく悟る。その思考をなぞるように峰瀬の声が届いた。
「闇を抑える秘術は、条斎士の子孫へと受け継がれていった。一族がかつて仕えていた国は滅んだが、白沙那帝国には我々の祖先を滅ぼし、あるいは追放することができなかった。それをすれば、抑えられている厄介な力が溢れ出すことを知っていたからだ。結果、一族はこの地を含む所領を治める存在、多加羅惣領家として残された。白沙那としては厄介このうえない存在であり、できれば滅ぼしたかっただろうな。だが彼らにはどのようにしてあの存在を抑えるのかがわからず、我々の祖先もまた決して明かしはしなかった。それこそが己を守る唯一の要であることを知っていたからだ」
そしておそらく沙羅久が残されたのは、多加羅が残された真の目的を隠すためだったのだろう。沙羅久が滅ぼされていたならば、人は多加羅のみが残されたことを疑問に思う。やがて多加羅に宿る闇の力が明らかになれば、信仰のもと異端を厳しく排する白沙那帝国が、その内部に御すことのかなわぬ忌まわしき――そして人智を超えた大いなる力を宿していることを人は知るだろう。それは帝国の支配とその思想や信仰そのものの土台を揺るがしかねないことなのだ。
「では、今でも惣領家はあの力を抑えているんですね?」
灰の言葉に峰瀬は苦く息をついた。
「確かに最初の男は才長けた者だったのだろう。条斎士であった彼は闇の力を言霊の法術で縛り、言霊そのものを己の魂に刻むことで闇を支配下に置いた。その言霊は今でも厳しく隠され、秘術によって惣領から惣領へと魂に刻むことで代々受け継がれている。惣領以外はそれを知ることはかなわぬし、ただ一人のみが魂に引き継ぐことができる。すなわち惣領となりその刻印を継ぐ者が、闇を抑え己が支配下に置くべく定められた者となるのだ」
峰瀬の言葉は淡々と響くが、灰は言いようのない不安を覚えた。抑えたその響きの向こうにあるのはどのような思いなのか、声はぞろりと地を這うように落ちる。
「だが、惣領家の者が皆闇に耐え得るわけではない。そもそも条斎士として法術が使える者でなければその言霊を操ることすらままならぬ。意志の力で行う者がいなかったわけではないが、それは容易なことではない。そのうえ闇の力は徐々に言霊の縛りを圧しつつあるのだ。事実、闇は時にその支配から抜けだして溢れ出ることすらある。君が見たというこの前のそれがまさにそうだ。私の祖父は優秀な条斎士だったと聞くが、闇を抑えるために己が力を高めんと邪法に手を出し、結果気が狂って自殺した。私の父は……唯人で何の力もなく、闇を抑えるために十数人の無辜の人間を闇に食らわせた。結果、闇は一時的に鎮まったが、それとて一時しのぎでしかない。それどころかさらに闇の力が強まっただけだった」
そして、と峰瀬は低く続けた。
「私にはもはや闇を抑えるだけの力は残っていない」
叉駆が灰の肩先にその鼻面を押し当てる。灰の動揺を敏感に察したのか、甘えるような仕草で寄り添いながらも、その瞳は油断なく峰瀬を凝視していた。
「でも……」
灰は言い淀む。躊躇ったのではなく、ただ目の前の男をどう呼ぶか迷ったせいだった。
「……惣領はこの前あの闇を青い光で抑えていました」
峰瀬は笑ったようだったが、それは苦いものだった。
「君には抑えたように見えたのか。事実は逆だ。私は己の力をあれに食わせたのだ」
言いながら胸元を探り、玉を連ねた首飾りを衣の下から引き出した。微かな光を纏うそれを、峰瀬は見つめる。
「これは条斎士の証である宝珠だ。条斎士は日々の修行の中でこの宝珠に己の力を注ぎ込み、蓄える。条斎士が法術を使う際には宝珠にこめられた力を利用するのだ。宝珠の力を借りずして法術を行うは、条斎士にとっても非常に難しい。だが、これにこめた私の力はもはや尽きつつある」
灰は目を細めてその青い連なりを見つめた。そして気付く。かつて接見の間で見た時よりもその光の力が弱まっているのだ。鮮やかだった色彩がくすみ、翳りを帯びて錆びた浅葱に揺らめいている。
「すでに祖父の時代から闇が目覚める周期は短くなりつつあったが、父の代を経て言霊の効果はあまりに脆くなった。私は周期的に溢れだす闇を抑えるために、条斎士としての力を奴に食わせ、その力とともに注ぐ言霊の呪によって辛うじて抑えているに過ぎないのだ。だが、おそらくこの私の行為すら闇を肥大化させる一助にしかなってはおらんだろう」
峰瀬はその下に潜むものを透かし見ようとでもするように大地に視線を落とす。目に見えてやつれたその頬に鋭く影がさした。峰瀬が闇を抑えるには、もはや宝珠だけでは無理なのだ。彼が言うように、玉には僅かな力の残滓しか感じられない。
「まさか……」
言いかけて灰は後悔した。言葉にするにはあまりに不吉であり、それが真実であると悟るが故にあまりに残酷なものだったのだ。峰瀬の病み衰えた様子は、命そのものが闇に食われているせいではないのか――おそらく峰瀬は己の命そのものを削って法術を行使しているのだ。そうしなければならぬほどに峰瀬の力は弱まっており、その力と命を呑みこんで巨大化した闇は、やがて力尽きた彼をもその内に取り込むに違いない。その瞬間に代々受け継がれた言霊もまた彼の魂とともに消滅する。
そのまま黙り込んだ少年を前に、峰瀬は告げた。
「君を多加羅へ呼んだのは、もはや私の力で闇を抑えられなくなるのも時間の問題だと思ったからだ。怪魅師ならばあの力を抑えることが……もしかしたら消滅させることさえできるかもしれぬ」
彼の父もそう考えたのだということが今の峰瀬にはわかる。多くの人を闇に食わせた男は己の無力さに歯噛みし、あるいはどこかで安堵しながら、己に代わって闇を御する存在を欲したのだ。
「無理です。怪魅の力を持っていてもあのような存在を抑えることは人には無理だ」
咄嗟に灰は言った。不意に巨大な闇と対した時の恐怖が蘇る。峰瀬の言に肯うことなど到底できなかった。
「灰、もはや一刻の猶予もないのだ。半月前のあの時、とうとう私の力では完全に封じることができず、闇の一部が言霊の呪縛から零れ落ちた。すでに二人の人間がそれに食われている」
灰は鋭く息をのんだ。
「放っておけば犠牲者はさらに増えるだろう。だが、私にはどうすることもできんのだ。一度言霊の呪縛が切れてしまえば再び封じることはかなわぬ。私にはそれほどの才も力もない」
峰瀬の瞳に硬質な色が宿る。
「灰、怪魅の力でその零れ落ちた闇の欠片を消してほしい。君以外には誰にもできぬことだ。おそらく今奴は街のどこかに蹲っているはずだ。二人の人間を呑みこんだことでしばらくは命を欲することもあるまい。次の犠牲者が出る前に何としても探し出して滅するのだ」
声音に懇願の響きはない。要請という形の命令であることが灰にはわかった。峰瀬の言葉に灰はまるで追い詰められたような心地に陥る。否、と言うのは容易い。だがそれを言ってどうする。どこかで再び闇が蠢き、なすすべもなく人が呑みこまれるのを見て見ぬふりをするのか。
「その力で命を救うのだ」
大地の上で、灰は己があまりに脆弱で、あまりに卑小に感じられた。足下に眠る闇は今はその存在すらわからないが、再びまみえるその時、果たして立ち向かうことができるだろうか。
「わかりました」
ようやく灰は答えた。迷い、恐れ、しかしそれでも峰瀬を正面から見返した。
「俺の力でどれほどのことができるかはわかりませんが、やってみます」
「頼む」
峰瀬は小さく頭を下げた。そのため、一瞬浮かんだ表情――愉悦にも似た暗い自嘲の影に少年は気付かなかった。――闇を滅し、命を救う――その言葉が灰にとってどのように響くのか峰瀬にはわかっていた。弦から、そして秋連から聞く少年の姿が真実であれば、そして峰瀬自身が思う少年の姿に誤りがなければ、彼が決して拒むことはないだろうことを知っていたのだ。峰瀬が怪魅師である灰を必要としていると、そのためだけに多加羅に招じられたのだと知らされてなお、否と言わなかったように――
そして峰瀬の思惑に気付かぬまま、彼はこの場にいる。むろん、少年は知らぬままでよいのだ。峰瀬にとって残された方法がもはやこれ以外にはなかったのも事実であり、彼が真に思うことを告げていたら、灰は決して多加羅の地を踏もうとはしなかっただろう。灰の持つ怪魅の力がいかほどのものであるか、六年前に見た少年を取り巻く力の奔流以外に峰瀬は知らない。しかし叉駆の存在が灰の潜在能力の高さをあらわしていた。
頭をあげた峰瀬は、内心を悟らせぬ灰の顔を正面から見る。嘗て來螺のほとりで見た娘の面影が、忘れ得ぬ表情がそこにあった。そして悟る。向かい合って座り言葉を交わしてなお、この少年との間には深い断絶がある。灰は己を惣領家の人間であるとは考えていない。この先も決して多加羅惣領家とそれに連なる存在に膝を屈することはないだろう。
嘗て己の父親が汚した風の娘は、しかしその精神において決して屈伏することはなかったと聞く。そして紫弥がそうであったように、目の前の少年もまた手が届く程の距離にいながら、相容れない隔絶した地平にいるのだ。風の民が本来そのような人々であるのか、それとも滅びゆく病んだ一族に染まらぬほどに彼らの魂が強いのか、峰瀬にはわからなかった。
いずれにせよわかる必要もないことだ、と峰瀬は思う。
からりと音が響いて、篝火の薪が小さく崩れた。
再び姿をあらわした弦の導きで灰が星見の塔に戻ったのはまだ深夜にもならぬ時分だった。
峰瀬は灰が応諾して後は多くを語らず、弦もまた無言で少年のもとを去った。灰がどのように感じるか、それは彼らにとってさほどの問題ではないのだ。灰は淡々と思う。多加羅が抱えてきた歴史と、今街で起こっていることの深刻さに比べれば、それは瑣末な事柄であり一顧だにする価値すらないことだ。
そして少年自身は、己の葛藤や思いを峰瀬に見せるつもりなど毛頭なかった。もとより惣領家の血を引くことは灰にとって災厄以外の何者でもない。今更血族としての親和を求められることの方が彼にとっては苦痛だった。峰瀬が怪魅師である灰の力を利用するために多加羅に呼び寄せることを知ってなおそれを拒絶しなかったのは、峰瀬の思惑など灰にはさして重要ではなかったからである。己の怪魅の力に向き合うこと、それは灰にとって逃げることのできない選択だった。だからこそ、彼は多加羅へ来ることに頷いたのだ。
灰が幼かった頃、怪魅の力は息をするほどに当たり前な己の一部だった。しかし六年前を境に彼は厳しく己の内の力を封じた。自然と一体化し、その雄大な力を感じ取ること以外に、決して自らその力で働きかけようとすることはなかったのだ。その枷を、灰は解くこととなる。覚悟を決め自ら選んだことではあったが、それでも灰は僅かに燻る躊躇いと恐れを自覚していた。
灰は眠れぬまま寝台に横たわり夜のざらついた時の流れに身を任せた。木々の囁きや、その梢の下で蠢くもの達の鼓動を感じ取る鋭敏な感覚を頑なに封じ、常に身近に感じていた仄かな叉駆の気配すら拒絶して、深く己を閉ざした。今だけは、と灰は思う。思わぬ面影との再会で否応なく沸き起こる過去への追憶と、漠とした不安に彩られた未来への恐れ、その挟間にあって、何も考えず、何にも惑わずにいたかった。
だが、後に灰はこの時の己を悔やむこととなる。
その夜再び街に火の手があがった。深夜であったため気付くのが遅れ、その場所が街の外延部という木造の建物も多く建つ地区であったことも災いして、二人が死んだ。
祭礼の十日前の夜だった。