13
「ねえ兄様、あの雲どんどん空の中に溶けていくわ」
稟は細い指を上空の雲へと向けた。灰は稟が指し示す先へと眼差しを投げた。雲は風に溶かされるようにその輪郭をぼかし、羽毛のように柔らかく崩れかけていた。
灰と稟は星見の塔へとゆっくり向かっていた。いつもならばひっきりなしにその日のことを話して聞かせる稟が、この時はおとなしく口数が少なかった。灰はその様子を見ながら、少女達とともにいた稟の姿を思い出していた。街で何度か稟を見かけたことはあっても、友達と一緒にいるところはそういえば見たことがなかった、と気付く。
雑踏に紛れてこちらを見つめていたその姿が、ふと心にかかった。今更ながらに覚えた違和感である。かつて柳角のもとにいた時、村人から避けられていた彼女が一人でぽつんと立ち尽くしていた姿が思い出され、ようやく違和感の正体がわかる。雑踏で見た彼女は人に囲まれてなお、記憶の中の姿よりも独りきりに見えたのだ。まるで浮き上がるように、とも言える。それは不思議な感覚だった。
改めて稟を見れば、その表情はどこか張りつめたものだ。先ほど、少女達に囲まれていた時にはなかったそれに、灰は問いかけた。
「稟、小学院で何かあったのか?」
稟は肯定も否定もせず、髪先をいじる。言葉にできない鬱屈がある時、稟はよくそうするのだ。無意識なのだろう。
「ねえ、あの雲はいつの間にか消えていくけど誰も気にもとめないよね」
不意に稟が言った。誘われるように再び雲に目をやった灰は、稟が何を言おうとしているのか掴みかねる。
「私、前いた村ではあの雲みたいだったと思うの」
ぽつりと稟が呟いた。
「誰にも気に留められずにゆらゆら漂ってるような感じ。あの雲みたいに寂しい感じはしないけど。誰にも気にされなくて、いつの間にか消えてなくなっちゃうの。でも今はなんだか自分が石ころみたいになった感じがする。自由に動くこともできなくて、誰かに蹴飛ばされて転がって、ぶつかればこつって音がする石ころ。私、あの雲みたいになりたいなあ」
最後はか細く、微かな葉擦れにも紛れそうな具合だった。一体何があったのかその言葉からは窺い知れないが、灰には秘めた意味がわかるような気がした。
「雲はいずれ地上にかえる」
「え?」
唐突な言葉に稟は灰の顔を振り仰いだ。灰はそれに笑んだ。
「師匠がよく言っていた。雲は水が空で結ぼれた姿だと。水と雲は本質は同じでありながら、その姿も周りに与えるものも違う。だが雲はいずれ水となって地上に降り注ぎ、遍く命の糧となって、再び天へとかえる。目に見えずとも消えたわけじゃない。姿を変えて天と地を結び、巡り巡って世界をつくる」
「お師匠様が?」
灰は頷いた。記憶を辿るように目を細める。穏やかなしわがれた声まで聞こえるようだった。かつて彼に多くを授けた老人が何をその言葉に込めていたのか、灰は今になってそれを考えずにはいられない。彼は深い目をして少年を見つめ、最後にこう言ったのだ。
――大いなる意思というものあらば、水と雲のみならずすべての事象、すべての命はそれに従っているに違いないが、ただ人という存在だけはそうではない。哀れで厄介なものだ。無明に生まれ、それすら気付かずに時を過ごし、傷つけ合い奪い合う生き物だ。水ほどに無垢でなく雲ほどに自由でなく、人同士姿形はそれぞれに似ていても途方もなく孤独でもある。だが、そうであるからこそ考える力を授けられたのかもしれぬ。己を自覚した時、初めて己が力の使いようもわかろう。どのように生き、どのように世界と関わっていくかもその時初めてわかるのだ。
「稟、多加羅に来たことが辛いか?」
灰の問いに稟は首を振る。迷いはなかった。
「辛くない。兄様がいるから私は辛くない」
その言葉を聞いて灰は思わず言葉に詰まった。稟は知らない。灰が無条件に信頼と愛情を寄せる少女にどれほど救われているかを。
「ね、兄様、明日は若衆はお休みなんでしょ?」
「うん」
「だったら朝山に行くのよね? 私も一緒に行っていい?」
思いつめたような表情のまま、稟は言った。その背後、彼方の雲は僅かの名残を残して消えつつあった。
次の日は、その季節には珍しい陰鬱な日だった。所々不穏な暗緑色に染まる分厚い雲が、空の一面を覆っている。今にも雨が降り出しそうな様子でありながら、大気はどこか煤けたような乾いた匂いに満ちていた。
灰と稟が星見の塔を出たのは払暁のことである。夜の名残を秘めた靄に覆われながらも、山はすでに活動をはじめた生き物の気配に満ちていた。若衆の休息日には決まって山に入る灰に、稟がついてくるのははじめてのことである。
「兄様、見て」
稟がしゃがみこんで指さす先を見てみれば、下草に半ば埋もれるようにして滲むような紅の花が咲いていた。秋に咲く野草である。
「きれい……」
稟は呟くと指先で花びらに触れる。花はその細い茎をかそけく揺らした。少女は軽やかな足取りで歩きまわり、木々の梢に目を細め、藪を覗き込んでは名も知れぬ小さな花や実りを見出す。
「おいで、稟」
灰は手招くと、すぐ後ろに聞こえる少女の足音に気を配りながら、すでに見知った木々の間をゆっくりと登って行った。かつて星見の塔の窓辺で見た何とは知れない闇の塊は、あれ以来あらわれてはいなかった。それでも灰は山に踏みこむ時には常になく慎重にならざるを得ない。稟を連れて山に入ることに抵抗がなかったわけではないが、昨日突然一緒に行きたいと言った少女を拒絶することはできなかった。
やがて歩く先の木々が途絶え、開けた場所へと出る。山の中腹にあるそこは、さほど高い位置にあるわけではなかったが、街とその向こうに広がる金笹の畑を見渡すことができた。稟は灰と並んでその景色を眺めると、僅かに紅潮した顔を綻ばせた。
遥かな地平には太陽が顔を出しているのだろう。厚い雲を透かして光の円が波状に広がり、畑がくすんだ金色に輝いている。渦巻くような天空の様相と比して街は厳として静寂に沈み、巨大な一つの岩のようにも見えた
灰が木の幹を背に座り込むと稟もまたそれに倣い、灰に寄り添うようにして膝を抱え込んだ。それもまた稟が落ち込んだ時に見せる癖である。
「多加羅の街は大きいのね」
返事を求めての言葉ではないのだろう。灰はただ複雑な影を刻む街並みを見つめた。
「小学院にね、朗という子がいるの」
暫くの沈黙の後ぽつりと稟が言った。
「その子のお父さんがね、突然いなくなってしまったんだって」
言いながら稟は足元の草を撫でる。稟はたとえ名も知れぬ他愛のない草でも抜こうとはしない。戯れにも決してそのようなことはしない少女なのだ。
「朗の家はとても貧しいから、お父さんがいなくなると生活が苦しくて、朗も小学院をやめて働かなきゃだめだって言うの。朗はお父さんがいなくなってとても辛そうだった」
遠く小さな家の煙突から細く煙がたなびく。淡くくゆりながらそれはやがて上空の鈍色の中に溶けていった。
「一人の子がね、朗のお父さんはきっと貧しいのが嫌になって家族を捨てて來螺にでも行っちゃったんだろう、って言ったの。來螺ってみんな怖くてひどいところなんだって考えてるのね。でも男の人にとってはとても楽しい場所なんだって」
灰は敢えて言葉を挟むことはしなかった。來螺という街がどのような場所か、稟に言ってどうなるものでもない。そして少女が知るに相応しいことでもないだろう。
「私、來螺ってよく知らないけど、その子が朗を傷つけるために言ったんだって思ったの。わざと嫌な思いをさせるために言ったんだって……。だからついひどいこと言わないでって、辛い思いをしてる人にどうしてそんなこと言うのってその子に言っちゃったの。その子黙って、そのうち泣き出したわ」
灰はちらりと稟の表情を窺う。稟はなおも指先で優しく草の葉を撫でていた。どうやら稟が落ち込んでいる原因は他にあるようだ。
「そうしたら朗が私に向かって言ったの。お前みたいに裕福な奴に僕の気持ちがわかるもんかって。変に味方面するなって。朗は怒って、でもなんだか悔しそうに私のこと睨んでた。私そんなつもりで言ったんじゃなかったの。朗を傷つけるつもりで言ったんじゃなかったのに」
稟の声は次第に小さくなり、その膝元にこぼれるようにして消えた。
灰は蹲る稟の姿に、ふと胸が詰まるような思いに駆られた。あの小さな村で受けた村人からの冷たい仕打ちにも稟は決して涙は見せなかった。あからさまな偏見や、無言に込められた嫌悪にも彼女は卑屈にならず、例えどれほどに辛くともそれを出すことはなかった。だが、稟が今心に抱える痛みは、傷つけられることへのそれではない。期せずして人を傷つけてしまったことへの後悔であり、恐れだった。
「私、友達ができて本当に嬉しかったの。でもこの頃どんどん怖くなる。前は一人でいても平気だったのに、今は周りを大切に思えば思うほど壊れたらどうしようって思う。でもどれだけ仲良くなっても、その人が心の中で何を思うかなんて全然わからないの」
それは誰しも同じなのだと言えようはずもなかった。人に拒まれ、疎まれ続けてきた少女なのである。
「私、朗のことをわかってるつもりになってたんだ。それで朗に言われた時に腹を立てたの。あなたのために言ったのにって……」
「まだそう思ってる?」
「わからないの。だってまだ心の片隅では、私が言ったことは間違ってないって思ってるの。そんな自分が嫌なの。すごく汚い気がする。そう思ってたら、どれだけ友達と一緒にいて、おしゃべりして笑ってても、どんどん一人ぼっちな気持ちになっていくの。こんなに私は汚いのに、知らないふりして表面だけで笑ってて、みんなもそれには気づかないの」
「朗が傷ついたことはわかったんだよね?」
稟は俯き、そして小さく頷いた。
では、人と関わるということはこういうことなのだ。複雑な心を抱えて混じり合うこともなく、同じ空間にいながら隔絶してそれぞれに孤独であり、確固としてありながら曖昧な境界で接する存在――不意に灰の内部に沸き起こったのは、慄きであり、薄膜に覆われた視界が突然に晴れたような新鮮な驚きだった。それは未知の感覚である。だが、それを言葉にすることは灰にはできなかった。たとえできたとしてもこの場に相応しいものではなかっただろう。
「稟、ならば受け止めるしかないよ」
「受け止める?」
灰は頷いた。なだらかに傾斜して広がる街並み、そこに一体どれほどの人がいるのだろうか。眠りに抱かれ、あるいは目覚め、そして当たり前のように一日を始める、その不思議。
「稟が傷つけるつもりがなくても、朗が稟の言葉に辛い思いをしたのだとしたら、稟はその事をまず受け止めて、認めるんだ。それは多分、とても辛いことだけど、必要なことなんだと俺は思うよ。そこからじゃないと、朗の気持ちも考えることはできないんじゃないかな」
稟はしばし灰の言葉を噛みしめるようにして俯いていたが、こっくりと頷いた。次に顔を上げた時にはそこに惑いはなかった。
「私、ちゃんと受け止める」
灰は答えなかった。答えられなかった。眩しい思いで稟を見つめる。稟は前を向いて歩いて行けるだろう。やがてその朗という子と向き合うこともできるに違いない。
「ありがとう、兄様。兄様に聞いてもらって良かった」
にこりと笑んだ稟はその澄んだ眼差しで灰を見つめる。灰はそれにただ頷くことしかできなかった。立ちあがった稟は大きく伸びをした。その動きが途中で止まる。
「あれ、何かな」
呟くような声に灰も立ちあがる。稟が指さす方を見れば、街の一角に薄墨色の煙が立ち上っていた。煙突からのささやかなものではない。
「火事だ」
煙が立ちのぼるすぐ脇の家の窓が開き、人影がのぞく。遠く表情もわからないその人物は、慌てふためいたように顔を引っ込めた。その一角が騒然とするまでさほどの時間はかからず、程無くしてその原因たる炎も消し止められたのだろう。燻るような細い煙もやがて消えた。
「良かった。消し止められたんだね」
稟がほっとしたように言った。見詰める先で、突然の災厄に見舞われたその一角も次第に落ち着きを取り戻しているようだった。
岩山を刻んだような街の陰影はいつしか平坦で柔らかな輪郭の中に沈み、明瞭に街の姿が浮かびあがる。灰と稟はどちらからともなく顔を見合わせると、ゆっくりと山を下って行った。おそらく娃菜が起き出して、四人分の朝食を作り出している頃だろう。
余談ですが……今回は灰というキャラが書き手にとってとんでもなく難物だとわかった部分です。なんでそういうことを言うんだ! ……と、書いている本人がじたばたした覚えが。今思えば、灰がこの時点で他者に向けていた視線は、木や風が人間に向ける意識(があると仮定して、ですが)に近かったんだろうな、と。
ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!