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梓魏惣領家の庭園は精妙であり美麗である。屋敷をゆったりと取り巻き、木々の一本一本、小さな丘のなだらかな傾斜、楕円を描く小さな人口の湖など、どの角度から見ても絵画を思わせる景色となるよう配置されている。全てが計算し尽くされた自然の造形である。幾代か前の惣領が、余人にはうかがい知れぬ哲学的な発想から築いたとも言われているが、万からすれば惣領家代々に引き継がれた道楽の結晶だった。
精緻に保たれた庭園の様は素人目にも美しくはあるが、警護する身になれば些か厄介である。自然の森のように配された木々は、人が隠れるのに適している。丘のなめらかな輪郭も視界を遮り、庭園全体を把握するのを妨げていた。森の中に配された湖に至っては無用の長物としか思えぬ。森を通り過ぎるには湖を迂回するしかなく、端的に邪魔なのだ。
万の護衛の場所は相変わらず庭園の外延部が中心だった。日によって場所は変わるが、何時になれば屋敷に近付くことがかなうのかも定かではない。尤も益がなかったわけではない。屋敷の周囲の状況には詳しくなった。守りが薄く侵入に適しているのは何処か、十年前ならば北限の民にとって有益な情報となっただろう。
椎良は時折庭を漫ろ歩く。侍女に囲まれていることもあれば、椎良とその手を引く侍女、そして二十歳程の青年――おそらくあれが玄士の息子だろう、と万は思う――の三人だけのこともある。何れの時も椎良の顔は薄紗で隠されていた。玄士の息子は毎日のように椎良の元を訪れているようだった。庭を歩く二人の姿を見れば、青年が一方的に話し、椎良は時折相槌を打つだけだった。各所に配されて常に目を光らせている近衛兵の存在を青年が疎ましく思っているのは明らかだったが、無論追い払うことなど出来はしない。
焦れるように単調な日々が続いた。左程日数は経っていなかったが、まるで引き延ばされたかのように時間を長く感じるせいか、近衛隊に入ってからの期間が実際の二倍以上に思えた。清夜ならば己の感情に負けているだけだと言うだろう。
このような日々が変わらずずっと続くのかと思わずにはいられない。無論、そのようなことはあり得ない。問題はこの先、椎良が中央に赴く時だ。おそらく、万の経験が求められ、椎良の傍に仕えるようになった時、それこそが真の任務のはじまりだろう。今は無為な時間も悪くはない、と万は思う。状況の難しさはあれど、与えられた役割を果たす自信はあった。十代の頃のように己の感情に喰われることはないだろう。しかし、万には椎良と対面した時に己が何を感じるか、それだけが分からなかった。
薄紗に隠された椎良の顔を見たいという思いは、不思議とわかなかった。幼い思慕に浸り込む程記憶に捕われていないのだと安堵する反面、あるいは記憶に捕われすぎるが故に、実在する今から逃避しているだけか、とも万は考える。あるいは自分で思う程に執着はなくなっているのか。その何れであろうとも、惣領家に忠実な近衛兵には必要のない考えであり、感情だった。当然のことだが、一介の近衛兵と惣領家の間には越え難い一線がある。その線を踏み越えず此方側にいる限り、万は均衡を保つことが出来た。過去と現在の、あるいは未来の――時には感情と思考の。
だが、均衡は唐突に破られた。
その日は珍しく温もりを感じる陽気だった。万が配されたのは丘の斜面が森の端に交わる位置、既に何度か警護した場所である。樹陰に紛れるようにして立っていても、柔らかな陽光の暖かさを感じる。
数人の人影が視界の端に現れたのは、昼を過ぎた頃合いだった。遠目からでも、それが椎良とお付きの侍女、そして玄士の息子であることがわかった。椎良は普段の厚手の外套ではなく肩掛けを軽く羽織っている。歩くたびに、それが柔らかくたなびいた。いつものように屋敷の周囲を歩くのだろうと、三人の姿を見詰めていた万はふと目を眇めた。
青年が椎良の手を引く侍女に何かを言っている。まだ幼い侍女はどこか怯えた表情で椎良を見上げた。椎良が小さく頷く。少女は優雅に一礼すると二人に背を向けて駆けて行った。残され、佇む二人の姿を万は見詰める。青年が一方的に話しかけるのに、幾度か椎良は首を振った。業を煮やしたように青年が椎良の手を掴む。思わず身を竦めた椎良には構わずに、青年は屋敷に背を向けると歩き出した。
反射的に足を踏み出しかけた万は、寸でのところで思い留まった。青年の態度は明らかに強引だったが、一介の近衛兵が飛び出す場面ではない。それでも動かずにいるには、少なからぬ自制が必要だった。
椎良はなおも拒む様子を見せていたが、青年の力には抗しようもない。青年は華奢な体を半ば引きずるようにして森へと向かっていた。万が立つ方向である。茂みに隠れて彼の姿は見えないだろう。ひきかえ、万からは二人の姿がよく見えた。愚かな若者が何を考えているのか、万には手に取るようにわかる。体よく侍女を追い払い、この機会につれない姫を口説き落とすため人目につかぬ場所に行こうとしているのだろう。
これ以上近付いてほしくはないという、万の半ば祈るような思いとは裏腹に、二人の姿は次第に大きくなってくる。武骨な手に掴まれた椎良の手首は細く、滑らかに白い。青年の声が無遠慮な響きで耳に届いた。
「侍女を待つ必要はありません。私が良い場所にお連れしますよ」
「私の姿を見失って叱責されるのはあの子です。外套など取りに戻る必要はなかったのです」
「姫君がそのようにお考えになろうとも、お風邪を召されては結局あの侍女が責めを負いますよ。なに、待たせておけばよいのです。気の利かぬ侍女には程良い罰になりますからね」
「罰を与える必要はありません。外套を着ないと決めたのは私なのですから」
「ならば言い直しましょう。あれは、私からの罰ですよ。あの侍女は常に私と貴女の邪魔をしています」
「勝手なことを言わないでいただきたいわ。私は戻ります」
椎良の強い声音に、青年は足を止めた。明瞭な怒りと拒絶だった。青年が顔を歪め、椎良の手首をはなした。
「ではお戻りになったらよろしいでしょう」
青年の声は傲岸に響いた。青年から遠ざかるように後ろへ足を踏み出しかけた椎良の動きが止まる。どちらへ向かえばいいか分からないのだと、万は察した。椎良は散策の際は必ず決まった道を辿る。その軌跡がそのまま万にとっては踏み込めぬ境界を示しているように感じられた。あるいはその内に踏み込まずにいれば、過去からも今からも離れていることが出来ると。
しかし境界は破れた。傍若無人な若者の手によって、椎良自身がそこから引きずり出され、立ち尽くしている。万の眼には、椎良の姿が等身大の人形になったかのように映った。無音のうちに、椎良の全身から感情が削がれていく。その沈黙に、青年が笑みを浮かべた。己の優位を確信した者の笑みである。
「さ、姫君、お手を」
僅かに鼻にかかったような気取った声に、椎良が顔を上げた。薄紗に顔の輪郭が滲む。毅然と背筋を伸ばしたまま、椎良は右手を差し出した。ゆっくりと、まるで供物の屍肉を捧げるように、あるいは咎人に慈悲をたれる聖人のように。恭しくその手を取り、青年は屋敷へは引き返さずに木立の中へと歩み入る。下草を踏み締める音に、椎良も己が向かう先を察しただろう。だが、最早一言も発しようとはしなかった。今や椎良を守るのは彼女自身の矜持、それだけだった。
万は木々の向こうに二人の背が消えるまで見詰めていた。己の鼓動を震わせるのが何かわからぬまま、視線を外すことが出来ない。既に二人の姿はないというのに。足音すら聞こえない。残された静寂は虚ろだった。
理性と感情、何れかはわからぬが――あるいは両方が、二人を追うべきだと告げていた。森の中は危険だ。おそらく二人が森へと向かったのを知っているのは万だけである。無論、森の中に誰も潜んでいないことを確認してはいたが、森そのものが、盲目の者が歩くに適した場所ではない。目を離すべきではないのだ。例え先導者がいても――
万の中で何かが軋んだ。
万は大股に森の中へと歩み入った。これは任務のためだ、と理性が囁きかける奥底で、ふつふつと沸き起こる抑え難い情動があった。怒りである。あの青年は、椎良を虚仮にしたのだ。慕うように見せながら、その実彼女を嘲った。己がいなければ何も出来ぬ状況に椎良を陥れ、彼女の誇りを万の眼前で踏み躙ったのだ。
二人の気配を追うのは容易かった。青年の声を追い、木立の合間からその姿を捉える。ゆっくりと二人が進む先には、鏡のような湖があった。空と木々の姿を湖面に映し出し、鮮やかに無限の対比を成している。時折水面が揺れると、それは不安を誘う歪みとなった。
青年は椎良の手を引きながら、湖の淵に沿って歩く。大仰な身振りで話している様子を、万はひやりとしながら見やった。湖岸はぬかるんでいる。長く凝っていた雪が溶け、地面は水を含み足場が悪い。
あまりに湖に近過ぎる、万が思ったその時だった。椎良を振り返り話していた青年が大きく体の均衡を崩した。左足が半ば水の中へと崩れた地面に取られる。大きく腕を振り回し、青年の体が傾いた。水の中へと落ちながら、あろうことか青年は両手で椎良の腕にしがみついた。
「馬鹿が!」
毒づき、万は走り出していた。椎良に青年の体を支える力がある筈もない。背中から水中へと落ちた青年に引きずられるようにして、椎良が湖に落ちた。激しい水音が二つ、水面が大きく揺らぐ。二人が沈んだ湖面を視野におさめたまま、万は駆けた。小枝が掠めたのか、頬に鋭い痛みがはしった。
湖岸に辿りついたその時、まるで水面から生えるようにして青年の頭が突き出した。大きく喘ぎながら忙しなく腕を動かし、ようようの体で岸へと泳ぎつく。地面にしがみついた相手に万は問うた。
「椎良様は!?」
青年がのろのろと顔を上げる。焦点を結ばぬ眼が万を捉えた。
「椎良様はどうなされたのだ!!」
青年は自失したように答えない。がちがちと歯の鳴る音が聞こえた。万は舌打ちをすると外套を脱いだ。もどかしい。手が震えぬのだけが救いだった。体と心を切り離す。自我の根底にまで染みついた、暗殺者としての訓練の賜物だ。鎧を外し、籠手と具足も放り出して、万は勢いをつけて湖に飛び込んだ。
水に包まれた瞬間、凍るような冷たさに全ての感覚が呑みこまれる。当然だ。冬の湖である。目を凝らし、大きく水をかく。鏡のような水面の下は、不透明に濁っていた。視界を白い影がなぐ。咄嗟に掴む。薄紗だ。さらに深く万は潜った。
不意に漆黒が視界に広がる。柔らかく、まるで誘うように揺れる。その黒髪に包まれて、椎良の顔が見えた。腕を伸ばす。その先で、椎良が瞳を開いた。青味を帯びた灰色が、万の姿を捉えたように見えた。
万は椎良の背に腕をまわし引き寄せる。椎良の手が万の頬に触れた。ごぼりと、椎良の口から空気の泡が漏れる。万は片腕で椎良の体を引き寄せ、水面を目指して水を蹴った。
水面に顔を出し、万は椎良の体を引き上げる。間近に顔を覗き込むと、瞼は閉ざされていた。意識がない。いまや水の冷たさは突き刺すような痛みとなって感じられる。まるで手足が石になったように、動きがままならなかった。漸く足が着く場所にまで辿りつくと、万は椎良の体を抱き上げる。がくりとのけぞった喉が白い。解けた髪は腰を覆う長さだった。濡れた衣が、柔らかな体の線をあらわにしている。
青年は岸辺にへたり込んでいた。全身が瘧の様に震えている。濡れそぼった椎良の体よりも、己の体の方を重く万は感じた。茫然と見詰める青年の横を通り過ぎ、己が脱ぎ捨てた外套の上に椎良を横たえる。殆ど水を飲んでいないのはわかっていた。微かな呼吸を確認し、万は思わず頭を下げた。安堵、感謝――そのような言葉では言い表せない、慟哭のように胸中を満たすものがあった。
外套で椎良の体を包み込み、万はいまだにへたり込んでいる青年を振り返った。
「わ……私は……」
震えた声で青年が言う。万の表情に目をやり言葉を呑み込んだ。怯えている。無理もないだろう、とどこかで冷静に万は思った。青年を殺してやりたいと思っている、それを万は隠すことすらしていない。拳を握り締める。殴り飛ばし、水に沈める。抵抗する体を押さえつける、その生々しい感触を現実のように感じることが出来る。
一呼吸、その間だけ己の激情に身をゆだね、万は拳をゆっくりと開いた。青年の顔から視線を逸らし、万は外套に包み込んだ椎良を抱き上げた。このままでは寒さに命を奪われかねない。
歩きかけた万の背に、青年が言った。
「ま……待て、近衛兵」
万は足を止める。相手の声は怯えと傲慢さが入り混じっている。万が立ち止ったことに意を得たのか、続く声音には高圧的な響きさえあった。
「椎良様は、わ……私がお連れする。お前のような者が手を触れてよい方ではない」
ゆっくりと振り返る。視線は合わせなかった。それが恭順と映ったのか、青年は立ち上がり万を睨みつけた。精一杯の虚勢だろう。
どうとでも出来た。そのまま背を向けて去ることは容易い。だが、渦巻く感情の奥底で、碇のように動かぬものがある。万の中で小さく声がした。
――目的を忘れるな。
彼が梓魏に戻った理由――この先降りかかるであろう災厄から椎良を守る。ここで玄士の息子の不興を買うのは得策ではない。
(忘れるな。お前は単なる近衛兵だ)
束の間、万は椎良の顔を見詰めた。青白い小さな顔は、あどけなくさえ見えた。繊細に整った顔立ち、長い睫の一本一本まで脳裏に刻みつけて、万は椎良の体を再び地面に横たえた。ゆっくりと後ろに下がる。万が十分に離れたのを見てとり、青年が椎良に近付いた。僅かにぐらつきながらも青年は椎良を抱き上げる。外套で包んでおいて良かった、と万は思う。若者の衣の胸を汚す泥は、彼女につくことはないだろう。
青年はなおも躊躇うように万を見やる。敢えて正面から見詰め返すと、まるで逃げるように視線が逸らされた。
「椎良様が誤って水に落ちたなどと知られれば、皆にいらぬ不安を与える。このことは他言無用だ」
万は場違いにも笑い出しそうになった。傲慢さの影に見え隠れする卑屈さ。それがこの青年の本質なのだろう。どれ程装おうと、相手が抱く不安が万には透けて見えた。全て見たと――青年が椎良を巻き添えにし、なおかつ自分だけが岸に向かい彼女を助けようともしなかった、その一部始終を見ていたのだと言えば、青年の顔はどのように歪むだろうか。
だがそうしたところで何の意味もないだろう。
「承知致しました」
万は感情を削いだ声で答えた。
「お前も装束を改めて護衛の任に戻れ」
早口に言うと、万の答えも待たずに青年は木立の向こうへと歩み去った。
万はゆっくりと鎧一式を拾い上げる。食い込む寒さと冷たさはあまりに現実的で、体の内側が虚ろな穴になったような気分だった。無性に笑いたくもあったが、息を吸えばまるで胸に石が詰まったように苦しさを感じただけだった。
近衛兵舎まで誰にも会わなかったのは幸運だった。濡れそぼった姿では、必ず理由を問い質されただろう。任務を離れるため最も近くを警護していた近衛兵にだけは事の顛末を伝えたが、それが同室の矢束だったのも幸いした。彼ならば軽はずみに他言はしないだろう。
自室で体を拭き清め、適当な理由をこじつけて倉庫役から借りた装束と鎧一式を身につける。熱気の籠る厨房で芯まで冷え切った体を温める。冬には多くの近衛兵がしていることだ。その後、万は再び惣領家の屋敷へと向かった。同じ場所で警護につくまでさして時間は要さなかった。
見上げる屋敷は何も変わらない。だが、そこに、その中に椎良がいるのだと、万が強く意識したのはこの時が初めてだった。唐突に視界が晴れたような、静かだが鮮烈な感覚だった。
現実は容赦がなかった。過去への追憶は、今となっては感傷的で安っぽいものに感じられた。それまでの己の覚悟さえ、嘲笑いたくなる。何もわかっていなかった。椎良が生きているということ。守ると決めながら、あまりに遠いその存在。
――椎良の命が喪われたかもしれない、その、恐怖。
その日のうちに、玄士の息子が椎良の危難を救ったというまことしやかな噂が広まっても、万はさして意外には思わなかった。あの時の青年の様子からそうなるのではないかと半ば予想していたことである。万がどれ程のことを知っているのか、やはり不安だったのだろう。あの青年は自ら吹聴することで、己の身を守ったのだ。ここで万が真実を言ったところで、玄士の息子相手では結果は見えている。
約束通り沈黙を守った矢束だけが、何か言いたそうな表情を向けて来たが、それに対して万は肩を竦めただけだった。何を言う必要がある? 椎良を救ったのが誰か、そのようなことは重要ではない。本来ならば上官に報告すべきことだったが、ここでいらぬ注目を集めることこそ避けねばならなかった。
ありがたいことに、玄士の息子自らが吹聴したおかげで、皆が必要なことを知ることが出来た。正しい内容でないとはいえ、近衛兵が知っておくべきことはそれだけで十分だった。森は危険であり、姫君を近づけてはならない。玄士の息子が姫の散策に同行する時は特に目を配ること。青年の浅知恵は近衛隊には通じない。彼が椎良の命を救ったのだとしても、彼女を危険に巻き込んだ元凶であることは明らかだった。
任務を終え、装束を解く。適当に食事を済ませ、万は常よりも早く寝台に入った。疲れたのだという万の言葉を信じたのか、矢束は何も問おうとはしなかった。
眠りはなかなか訪れなかった。暗闇の中目を閉じれば、間近に見た椎良の容貌が鮮やかによみがえる。何度消そうとしても、水底から浮かび上がるように、万の思考を奪った。とうとう寝る努力を放棄して万は手を顔の前に持ち上げた。
そこにはいまだに仄かな感触が残っていた。
椎良が知ることはない。誰も、知ることはない。真実は湖面の下にある。現実を映す虚像の下に封じ込める。全てがそこに沈む。それでいい。
万は手を握り締め、おろした。