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最果てに天深く  作者: 高原 景
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第二章 祭礼の時

 男は必死に駆けていた。しかし体は一向に前に進まないように思えた。脅えの奥底で、焦燥ばかりが膨らむ。空気を求めて喘ぐと生臭い匂いが鼻孔に広がり思わず咽た。家路を辿るのに、常とは異なり、街衆も避けるような暗く汚れた路地を選んだ。子どもの誕生日の祝いに間に合うように――その思いが災いした。

 振り返るとそれはなおそこにいて、徐々に近づいてくる。男は絶望の悲鳴をあげる。否、あげようとした。声は喉に張り付いて、そのままそこで消えた。もはや振り返らずともそれが男の体に覆いかぶさろうとしているのがわかった。

 男の体が傾ぎ、地面に打ち付けられた。男は僅かに残った思考で右足が喰われたことを悟る。それが最期だった。男はその肉体の一欠片すら残さずに呑みこまれた。

 街の一角での出来事である。



 夏から秋へと向かう季節の流れに人が気づくのは、空を見上げた時だと秋連(しゅうれん)は考える。夏の凶暴なまでに鮮やかな色彩と違い、秋のそれは柔らかくありながら、透徹として高い。

 星見(ほしみ)の塔から惣領家の屋敷へと続く道からは、空の下、穏やかな日差しにまどろむような街が一望できる。秋は祭礼の季節である。祭礼に向けて家々の白壁に黄色の布がかけられているのが目に鮮やかだった。秋の実りを神に感謝するその祭りが近づくにつれて、街は次第に活気を増していくのだ。

 多加羅惣領家の白壁にも壮麗な刺繍を施した布がかけられ、光を浴びてところどころ金色に輝いていた。秋連は表情一つ変えない衛兵に一礼して扉をくぐり、薄暗い屋敷の中へと入って行った。

 螺鈿細工が施された手すりに沿って階段を昇り、二階のさらに奥の廊下を進むと惣領の執務室がある。白い大理石と紅の絨毯の対比が鮮やかな廊下を歩いていた秋連は、執務室の手前で前方から歩いてくる人物に気づき道を開けた。惣領家の嫡男の透軌(とうき)とその教育係である学士(がくし)だった。

 端に寄って頭を下げる秋連の前で、学士がおもむろに足を止めた。

「惣領の元に行かれるのか?」

「はい」

「それは結構なことだ」

 何が結構なのか、と秋連は思わず顔をあげる。すでに初老に入る学士は頬のこけた険しい顔立ちの男だった。透軌が学士の後ろで所在なさ気に立ちつくしている。

「時に……例のお方の教育ははかどっておられるか?」

 何を言われたのか掴みかねた秋連は、相手が(かい)のことを言っていることにようやく気付く。

「はい、灰様はまじめな方ですので」

 学士はその答えが気に入らないかのように鼻を鳴らした。

「むろん、そうであろうな。何せ惣領が過大な信頼を寄せる星見役殿のことだ。どのような下賎な者でも立派に教育なさるでしょうな」

 言葉に込められた侮辱に思わず秋連は眉を顰める。学士は慇懃に頭を下げると、透軌を促して秋連の前を通り過ぎた。

「透軌様」

 咄嗟に秋連は声をかける。険しい表情で振り返る学士とは対照的に、透軌はどこか芒洋とした表情だった。

「ぜひ灰様とお話をなさってください。灰様が多加羅(たから)に来られて日が浅いとはいえ、従兄弟同士であられるのですから」

「無礼な!」

 秋連は学士を睨みつけた。

「無礼はどちらです。灰様は惣領家のお血筋、それを下賎呼ばわりとは、学士殿はよほど惣領家への忠誠が薄いと見える」

 学士は顔面を朱に染めてわなわなと唇を震わせた。秋連は透軌に向かって丁寧に頭を下げた。

「失礼いたします」

 透軌の戸惑ったような表情をちらりと見やり、秋連は執務室へと向かった。

「聞こえていたぞ」

 扉を開けて真っ先に掛けられた声に、秋連は苦々しくため息をつく。人の悪い笑みを浮かべる主は、椅子に深く腰掛けて面白そうに秋連の表情を観察している。 

「惣領が星見役を大袈裟に持ちあげるので、いらぬあてこすりを言われました」

「いいではないか。あの学士は自惚れが過ぎていかん。どうもあの高々とした鼻を見ると、少し折ってみたくなるのだ」

 要は馬鹿げたやっかみなのだ。並居る家臣の前で峰瀬(みなせ)が星見役を評価した。そのことが、学士には気に食わなかったのだ。一月も前のことをおそらくはずっと根に持っていたのだろう相手に、秋連は怒りよりも呆れを感じる。

「私に関わりのないところで折っていただきたい」

「そう言うわりには、心にもない言葉でやりこめていたではないか」

「心にもないとは酷い」

 峰瀬は笑い声をあげると、机を挟んで置かれた椅子に座るように指し示した。

「今日は一体どのようなご用です?」

「伯父として甥の様子を聞こうと思ったのだ」

 にこやかに言う相手の真意をはかりかねて、秋連は疑い深い表情になるのを止めることができなかった。

「なんだ? 聞いてはいかんのか?」

「その甥を一月放っておかれた方のお言葉とは思えませんでしたので」

「私も多忙でな」

 秋連は目の前の相手が、一月前よりもさらにやつれていることに気づく。まるで生命力そのものが削り取られているように、かつての生気に溢れた逞しい面影が消えている。

「灰様は休暇以外は毎日若衆の鍛錬所に通い、街の見回りにも参加されているようです」

「そのようだな」

 秋連は峰瀬の顔をまじまじと見る。若衆での灰の動向を、峰瀬も知っているのか。では、知りたいというのは星見の塔での生活のことなのだろう。

「夕刻にはお戻りになり、食事の後に学術や書についてお話をさせていただいております」

「灰は優秀か?」

 秋連はしばし考える。

「ええ、優秀と言えるでしょうね。聡明であり発想力もある。何よりも洞察力が豊かであられる」

「そうか」

柳角翁(りゅうかくおう)を師となさっていたのですから、当然と言えば当然かもしれませんが。そう言えば最近は山によく行かれるようになりました。薬草を探しておられるようです」

「山へ?」

 峰瀬は興味をひかれたようだった。

「はい。灰様の部屋は何とも知れぬ植物だらけです。何でも惣領家の裏手の山には珍しい薬草が多くあるとかで、暇があればふらりと山に入っておられます」

 峰瀬はふと考えるように目を伏せた。

(りん)という少女も元気か?」

 秋連は意外の念を覚える。まさか峰瀬があの少女のことを気にかけているとは思っていなかったのだ。

「はい。小学院に毎日楽しそうに通っています。明るい、賢い子です。灰様とは本当の兄妹のように仲が良い」

「確か森に捨てられていたと聞いたが」

「そのようですね。そのために前住んでいた村では辛い目にもあっていたようですが、今は普通の子供として過ごせるのが何よりも良い影響になっているのでしょう」

 言いながら秋連の中である一つの考えが浮かぶ。唐突であり直観的なそれは急速に思考を形作り、明確な輪郭を持つ。しばし躊躇ってから、言った。

「灰様は早熟であられ、強くあられる。だがその強さはあまりにも脆く私には見えていました。周りから自らを閉ざすことで己を守ろうとしているのだと。しかし、それだけではなかったのかもしれません」

 無言で峰瀬は先を促す。

「あの少女の存在が灰様にとってはもしかして強さの源だったのかもしれません。私は灰様が経験してきたことを知りませんし、どれほどの傷を負っておられるかもわかりません。しかしその痛みに溺れることなく、昂然と前に進む強さをお持ちなのはわかります。それは、守るべき存在があったせいかもしれませんね」

「守るべき存在……」

「はい」

 秋連は微笑んだ。

「私が使者としてはじめて灰様とお会いした時、巡回薬師(じゅんかいくすし)になるのが夢なのだと仰っていましたが……あれは一時の子供らしい憧れなのではなく、彼の本質をあらわした言葉だったのかもしれません。おそらく、彼は弱い者や傷ついた者を守ることで、自身の脆さもまた真の強さへと変えていくことができるのではないでしょうか」

 そうすることでただ己のみを守る狭い壁を壊し、より広く豊かな人間性を得て生きていくことができるのではないだろうか。

 峰瀬は秋連の琥珀の瞳から視線を逸らす。それは彼らしくない動作だった。まるで逃げるような、と秋連は思い、さらに戸惑いを覚えた。既視感である。以前にも同じような思いを、危うさを峰瀬に感じたことがある。あれは、峰瀬が灰の過去について語った時ではなかっただろうか。

「まるで父親のようだな」

 ぽつりと峰瀬が言った。皮肉さは感じられない言い方だったが、秋連はその言葉にふとひっかかりを覚えた。

「からかわないでいただきたい」

 意図した以上に声は暗く響いた。

「そんなつもりで言ったのではなかったが……すまんな」

 峰瀬が神妙に言う。秋連は苦笑した。

「いえ、私こそどうかしていますね。だが……私には父親など無理です。何より家族を持つ気にはなれません」

「お前の妻と子供への裏切りになると思っているのか?」

 静かな問いかけだった。秋連はその言葉を意外なほど冷静に受け止める自分に気づいた。

「……どうでしょうか。私の子はこの世に生まれることもできませんでした。ですが、それも今となってはどこか遠い夢のようです。忘却とはこのようなものなのでしょうか。あるいは……喪失にも人は慣れるということなのかもしれません」

 ひそりと秋連は言う。峰瀬は緩やかに首を振った。

「いや、お前は忘れてなどいないのだろう。それほどまでに想われるのはきっと幸せなことに違いないだろうな」

「それはあなたも同じなのではありませんか?」

「お前は私と妻の関係がどのようなものだったのか、知りはしまい」

 生々しい痛みが籠る口調だった。峰瀬はちらりと己の言葉を悔やむような素振りを見せたが、おどけたように笑ってみせる。それは過去への憐憫に堕す己を自嘲する姿にも見えた。

「よくある勢力結婚だったからな。互いに愛情を求めていなかったのだろう」

 秋連は反射的に出かけた言葉を呑みこんだ。それは違うのだと――峰瀬の妻となった女性がどれほどに彼を愛し、狂おしいまでにその愛情に飢えていたか。峰瀬とて気付かなかったわけがない。無口なおとなしい女性だった。だがその内に秘めた迸るような想いに気づかぬ夫がいるだろうか。

 しかし秋連は軽い口調でまったく違うことを言う。

悠緋(ゆうひ)様はあなたにも奥様にも似ておられないようですね。気が強く真直ぐであらせられる」

「ああ、あの気の強さは妻にはなかった。むしろ妻に似ているのは透軌だろうな」

「そういえば今年の祭礼は悠緋様が巫女役(みこやく)をつとめるのでしょう? 街衆が楽しみにしています」

 峰瀬は秋連らしい気遣いに苦笑しながらも話を合わせる。

「あのじゃじゃ馬につとめられるか、今から女官どもが気を揉んでいる」

 会話は浮遊感を伴っていた。まるで何かを誤魔化すように――一体何を誤魔化すというのか――秋連はぼんやりと思う。他愛もない会話に気まずさは消えていた。そしてそれらの言葉の欠片に埋もれるようにして隠されたものが単なる感傷だったのか、秋連にもわからなかった。

 

 秋連が峰瀬のもとを辞したのは屋敷に入ってから一刻もたたぬ頃であったが、彼がそれに気づいたのは外に出て中天に輝く太陽を見た時だった。さほど位置を変じていないそれに、確かな存在として在る己の肉体と意識が乖離したかのような齟齬を覚える。

 秋連は星見の塔への道ではなく街へと向かって歩き出した。真直ぐに帰る気にはなれなかった。石畳の道は掃き清められ、一歩ごとに小気味良い音を響かせる。それがどこか虚ろに聞こえた。

 次第に下る坂の両端に並ぶのは、立派な門構えに奥行のある屋敷である。いずれも上位の貴族のものだ。門の前を守る衛兵はそれぞれの貴族が雇った者なのか、華麗な装束に身を包み、質素な短袖の衣を着た秋連に胡乱な視線を送る。閑散とした道を通り抜け防壁をくぐると、街は途端に様相を変えた。

 防壁の向こうは、さほどの名家でもない中位や下位の貴族と裕福な商人の屋敷があり、その間を埋めるように庶民の家々が連なっている。道行く人々も様々に装い、それぞれが活気に満ちた表情で秋連の傍らを通り過ぎて行く。祭礼が近いため、鮮やかな色彩を身につけている者が多かった。中でも目につく黄色は、全ての実りを象徴している。

 街の中央をまっすぐに伸びる道は多加羅の街の入り口である大門から惣領家を一直線に結ぶ。街の中心部から放射状に延びる通りの中でも最も大きく、人波が絶えない。秋連はその通りから横に逸れ、細い路地へと入った。迫る家壁に遮られて陽光は届かない。地面が露出した道はじめじめと湿り、しめやかな足音だけが響いた。

 幼い頃から慣れ親しんだ道である。秋連は意識の大半を渦巻く思考に奪われながら、それでも懐かしさを感じずにはいられなかった。下男として惣領家の屋敷にあがる父親を見送ってから、小学院へ行く前にこの道を通り必ず向かった場所がある。子どもの頃には長く感じた道も、今ではあっけないほどに短い。何とは知れない木箱が積み上げられた横をすり抜け、再び大きな道へと出ると目の前に高く聳え立つ神殿があった。

 多加羅の神殿は、正五角形の建物の三方に塔を配した正規の様式で建築されている。正面には神の父性と母性をあらわす二つの塔があり、聖性をあらわす塔は最も奥まった五角形の頂点にある。正五角形の内部は、前方の二つの塔と奥の塔を結ぶように二等辺三角形の広間となっており、その最奥、三角形の頂点で司祭が祈りと託宣を告げる。壁で仕切られた両端の三角形は、司祭やその見習い達が修行し生活する領域だった。

 厳めしい神殿の塔にも、今は祭礼に向けて布がふんだんに飾られ、その色彩が目に鮮やかだった。秋連は足早に神殿の門を通り抜け、目を伏せて建物の横手から裏へと歩いて行った。やがて開けた場所へと出た。広い一面は手入れの行き届いた芝生に覆われ、中央部に白壁の小さな建物がある。大人の背丈ほどの四角い建物には鋼鉄製の扉が一つあるきりだ。そしてその前には溢れるほどの花が供えられている。決して途絶えることのない死者への花だ。

 固く閉ざされた扉の向こうを、地下へと続くその先を秋連は見たことがない。かつて彼の父母の、そして顔も見ぬ赤子とともにこの世を去った妻の骨を納めたそこは、多加羅で亡くなった人々が眠る墓所だった。

 秋連は膝をつき、大地に触れる。しっとりとした土の感触が、幼い頃の思慕を呼び起こす。異国の生まれだったという母は、秋連がまだ五つにもならないうちにこの世を去った。かすかに記憶に残る面影は、琥珀の瞳を優しく潤ませる笑顔だ。母が死んだ後、男手一つで彼を育てた父は、滅多に彼女のことを語ろうとはしなかった。ただ黙々と働き、決して楽ではない生活の中で秋連を小学院と、より高度な学問を教える博露院(はくろいん)へと通わせた。父親の心に深く穿たれた喪失の穴は病でこの世を去るその最期まで癒えることはなく、秋連が十五の冬に逝った。

 そして緑の上、零れるように咲き乱れる白い小花が、忘れ得ない儚い人を思わせる。

「君がいてくれたらと毎日思っている、なんて言ったら、また笑われるのかな……」

 呼びかけは大地に落ちる。神の腕に迎え入れられた妻の魂に呼びかけを行うなど、司祭が見れば眉を顰めるだろう。神殿の教えでは神の元へと還った魂は現生とは切り離され、清らかにある。汚れを負う残された人が、死者に呼びかけを行うことは罪とされた。生きる者は、死んだ者を偲び、祝福することしかできないのだ。

「私達の子供は君の魂に抱かれているのだろうな」

 密やかな語りかけに答える者はない。

「君の叔母さんはまだ私のところにいるよ。君のことが忘れられないんだ」

 娃菜(えな)の穏やかな笑顔にひそむ影は、かつて父親に見たものと似ている。はやくに両親を亡くした姪を実の娘のように育てた娃菜は、今もこの墓所を訪れようとはしない。秋連に対する彼女の献身は、かつて手塩にかけて育てた姪への無言の追慕だった。

 なお蹲るようにして秋連は澄んだ甘い空気の中に惑う。神に祈ることは、とうの昔にやめていた。神殿の威容に背を向けたのが何時の頃からなのか、秋連自身にもわからなかったが、それでもこの場所に足を運ぶのをやめることは出来なかった。

 空はあえかに高く、花は鈴やかに優しい。

 秋連は瞳をとじた。視界を覆った闇に残像のように花弁が揺れたように思った。喪失は秋連の人生に穿たれた深い洞だった。埋めることのかなわぬ洞は、虚無に似ていた。峰瀬もまた、埋めようのない洞を内に秘めているのだろうか。そして、灰は――灰もまた喪失を知る者だ。灰が他者を守ることで強くなるのであれば、自身はどうなのだろう、と秋連は思う。虚無は安寧に似ている。そこに在れば、静かに生きていけるだろう。今までと同じように――。

 秋連は妻を連想した白い花を見やる。秋日に照らされた花々はやがて散るだろう。人の思いを受けながら、置き去りにされ忘れ去られてやがてはその香りも絶え失せる。その儚さと強さを心に刻むようにしばし瞑目し、秋連は静かに歩み去った。

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