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孤独な少女の記録

作者: 赤木司
掲載日:2026/03/28


   前編


         一


 キョーコはクラスで孤立していた。

 孤立、と聞くと、生徒達から否定的な印象を持たれ、辛辣な態度を取られ、故意にはぶられている状況を読者は想像するかもしれないが、どちらかと言うと、キョーコ自身がこの状況を選び取った——いや、決して積極的に望んだ訳ではなく、結果としての致し方ない行動ではあったものの、彼女は入学当初から、見知らぬ人間で埋め尽くされた教室という空間に、極度の緊張と不安を感じ、自発的に他人に声を掛ける事が出来ず、相手の方から話し掛けられても、如何にも早く会話を終わらせたいといった風に、不愛想で、素っ気なく、暗い、挙動不審な表情と返事でしか反応する事が出来ず、いつしか誰も相手にしなくなって、一か月経った頃には、もはや挽回する事が不可能な程の泥沼に陥っていたのだ。


 自己紹介の時から既に、この様な事態に陥るのは予告されていたようなものであった——自分の出番が来る遥か前の段階から、彼女は頭の中で、何度も何度もシミュレーションを繰り返し、無難な、恥ずかしくない、目立たぬ自己紹介で終えられるよう、想像上の練習を執拗に重ね、順番が近づくたびに緊張は高鳴り、いざ本番、ゆっくりと立ち上がって、機械の様なぎこちない動きで、顔をぐっと下げたまま、無数の視線を背中に感じながら教壇へ向かい、前に出ると、目線を床に向けながら、事前に固めていたセリフを、違和感のないよう慎重に言葉でなぞった……つもりであったが、あまりに脳内で練習を重ねすぎたのに加え、早く終わらせたい焦りと、皆に見られている事の緊張によって、異様な早口、弱々しい声量、不明瞭な活舌、もごもごと、全然聞き取れるレベルではなく——しかし、キョーコには己を客観視する余裕も無いので、必要最低限の事だけ述べ終わると、すぐに頭をペコっと下げて、逃げる様にそそくさと自分の席へ戻ってしまって、恐らくその、怪談じみた不気味な光景は、クラスメートに確実に悪い印象を与えたに違いない。


 誰も知らない、土地勘の無い、実家から相当距離のあるこの高校へ進学したキョーコは、入学当初から、自分以外の人間が皆知り合いで、ただ自分だけがよそ者であり、誰もが自分を凝視し、監視し、疑念と警戒の感情を抱いているかの様な被害妄想を感じ、緊張と恥じらいからか、顔を伏せて背中を丸めたまま、ガチガチに固まり、じっとして自由に動く事が出来ず、ただ黙って、周りの生徒の動きを、横目できょろきょろと追い、耳をそばだてて感じ取るしか方法が無く、そんな彼女を尻目に、教室内の、四十名あまりの生徒達は、気の合う仲間を探して、惹かれ合うように結び付き、誰に指示される訳でもなく、幾つかの小集団を形成し、日を追う毎に、教室内の人間関係が着実に固定化されていく、その光景を肌で感じながら、彼女は、何とかしなくてはと焦燥に駆られはするものの、キョーコの中では、自分が彼らにとって異星人として存在している事を勝手に前提としているので、話し掛けようとする度に、相手の不審な反応が生々しく想起され、気味悪がられるのでは、警戒されるのでは、驚かれるのでは、引かれるのでは、という深い懸念が先行し、同時に、自分が声を掛けた時、当然、周囲の生徒にもそのやり取りが聞える訳で、それがキョーコには、途轍もなく恥ずかしく感じられてしまう——わたしの話している声や姿が教室の誰かに見聞きされる事で、わたしの性格、印象、雰囲気、特徴、即ちわたしという生徒に関する様々な情報が、目の前の人物だけでなく、クラス中の皆に届いてしまう事が、何だか、あいつはどんな奴なんだろう、へえ、そんな趣味があるのか、見た目のイメージと違うな、などと、しっかり品定め、聞いてない振りをして、一言一言しっかり耳で咀嚼し、記憶に留める事で、わたしという人物の謎を解く為のヒント、その生態、法則を掴む為の貴重な資料、今後のクラス内での交流、自身の立ち振る舞いを考える上での、一材料として利用されているような、そんな感じがして、恥ずかしさと同時に、屈辱に似た強い抵抗を感じてしまう……。

 それに、誰かと仲良くなるという事は、学校の基本的なシステム上、今後一年間、いや、場合によっては三年間、良くも悪くも、その生徒と付き合っていかなければならない訳で、もしも、本当は気の合わない性格の子であれば、どうしよう、途中で、とても嫌な子に変化したら、どうしよう、或いはこちら側の変化で、相手と空気感の異なる人間に変貌してしまったら、どうしよう、わたしは人に向かって、はっきりとものを言えない人間だ、あなたとは合わないから、縁を切りたいだなんて、口が裂けても言えやしない、だから、興味のない会話にも付き合い、つまらない冗談にも笑い、思ってもいない感想を共有し、真逆の意見にも同意し、本音を抑え込んで、相手に合わせ続けなければいけなくなるだろう——それに加え、先方との付き合いを通じて、望む望まないに関わらず、相手の交友関係がこちらにも侵入してきて、人との繋がりが網の目状に増えていき、あまり気乗りしない相手とも関係を持たざるを得なくなるだろうし、また、仮に自分が特定の誰かに心を許して、その子だけに向かって、明るく、朗らかな、砕けた、柔らかな態度を見せたつもりでも、教室という狭い社会では、そのやり取り、交遊の様子が、否応なく他人の目に入り、これは飽くまで、信頼したその子に向けて見せた自分の姿なのに、周囲の子達は、わたしを見たままに、陽気で接しやすい人当たりの良い性格の子と誤認し、その人柄を前提にわたしに接触を図ってくるだろうから、わたしは彼女達の期待を裏切らないよう、親しみやすい印象を守る事に必死になって、いつも愛想の良い友好的な立ち振る舞いを強制される事となるだろう……。

 付き合いが増えれば増えるほど、対立や不和を避ける為に、一人一人への気遣い、譲歩、妥協に徹し、対面する相手に応じて異なる自分を使い分け、自分自身を嘘で塗り固め、繕い、騙し、演技し続けなければならず、思ってない事を口にし、感じてない気持ちを表情に出し、ただ円滑に、滞りなく、無難に学校生活を送り、人間関係をこなす事だけを目的とした、自我のない機械になってしまう——わたしはそれに耐えられるだろうか? 一度でも、教室内の誰かに心を開くと、取り返しの付かない事になってしまうんじゃないだろうか……。


 多感な時期は変化が著しい、しかし、一度でも集団に取り込まれ、特定の立ち位置を与えられ、公共上のイメージが固定化されれば、自分自身の変化を堂々と公にするのは容易な事ではない——なぜなら、一人の人物の変化は、固着化された安定的な集団内の秩序に亀裂を生じさせるからで、特に学校のクラスの様な、人事的変化や流動性のない、空間的にも酷く閉ざされた狭苦しい世界では、各クラスメートの立ち位置、集団内で求められる人格上の役回りが極端な膠着に陥りがちであり、他者からの根強い強制力が自然的にもたらされるものであって、それはまるで高度かつ繊細な建造物の様に、多角的な力の均衡の中で奇跡的な安定を保っているに等しく、その難しい均衡を支える柱の一部を、別の形状、別の素材に変化させようと思えば、模型全体に影響が出て、全てのパーツとの関係性を見直す必要性が生じてくる訳で、組織内で個人が担っていた役割を断りなしに降りれば、一時的にであれ混乱と停滞が生じてしまうのは必然であろう、これは人間関係でも同様であって、一人のクラスメートの人格的変貌は、学級全体の人間関係に刷新を要求する可能性を招き、新たな秩序に慣れるまで一定の負担を周囲に強いるものである——それは世界の法則が崩れたのと同義であり、他者が同じ他者であるのに、中身を別の他者として認識させる事は、これまで彼女という人物に抱いていた法則を、記憶を、接し方を改める労苦を突き付ける事であって、それは認識する他者にとって、精神的な気持ち悪さや、もどかしさ、よそよそしさ、触れてはいけない暗黙の了解を生ませる要因となるし、逆に当人の立場からすると、自己演出のプランを平然と変化させる事によって、自分自身が、集団内における不条理なもの、不可解な存在、無秩序な生き物、滑稽の対象へと転落する事を意味し、多大な羞恥心が植え付けられる切っ掛けとなるであろう、よって学校という現場では、個人の変化に対する圧力が潜在的に働く傾向にあり、特にそれは、キョーコの様に人目をやたら気にしがちで、他人の感情や現場の空気感に極めて敏感な少女にとって甚だ深刻な問題であり、彼女は自分自身の激しい内的変化を慎む事なく大っぴらに出来るほど、心臓の強い大胆な女ではなかった為、新しい自分を常に押し隠す必要に迫られていた。

 ひとたび学級の輪の中に積極的に参与すれば、たちまち集団の歯車として組み込まれ、各生徒の特性と意思の中に自己の存在を調合する事で、組織内における最適な位置と態度が公約数的に自然凝固し、無秩序だった分子の集まりが一定の場所に落ち着いて固定化し、いつしか抜け出す事が出来なくなって、他者に求められる自分の姿を維持するのに必死になり、己自身の素直な感情を発露する権限を失い、窮屈な思いで過ごし続ける事を余儀なくされるだろう、それは丁度、大勢の他者と手を繋いで大きな人間の輪を作る事で、仲間に入れてもらう利益を得ると同時に、両手が他人の手に委ねられて個人の身動きが取れなくなり、互いを束縛し合う鎖として機能し、常に集団的な意思によってしか行動が取れなくなるのと同じ事である。


 それを理解してか、入学当初からキョーコは、特に意識する訳でもなく自然と、排他的、閉鎖的、拒絶的なオーラ、まるで、こっちに来るな、話し掛けるなとでも言わんばかりの、突き刺さるような刺々しい空気感がこぼれ出てしまって、温かな教室内で、明らかに彼女のいる空間だけ冷え切った気流が検知されており、女の子同士が、顔を近付けてひそひそと、声が漏れないように秘密の会議をしていると、あの子、何なんだろうねと、自分の事を疑り、嗤い、気味悪がっているようで、酷く屈辱的であった——自分なんか、いない方がいいんだ、邪魔なんだ、迷惑なんだ、仲睦まじい学級の中に、一人、自分のような異物がいるだけで、クラスの一体感に水を差し、学園生活の謳歌を阻み、気懸かりなしに混合する事が出来ず、いつも意識の隅っこで、わたしという不気味な厄介者の存在が意識され、触れてはならないと気を遣わせて、和やかな空気を台無しにさせてしまっているんだ……授業中にわたしが指名を受けると、多少騒がしい雰囲気でも、まるで禁忌の話題に触れたかの様に、教室内が瞬時に、スイッチを切ったみたいに、ふっと静かになって、妙によそよそしい、緊張感のある、張り詰めた空気に変貌し、静寂に包まれる中、皆がわたしの発言に集中を払っているかの様な圧迫感に襲われ、恥ずかしくて、気まずくて、自信が無くて、喉がキュッと絞まって、細々とした、弱々しい、掠れた声で、ぼそっと呟き、挙動不審を露呈するばかりで、その重苦しい姿が、余計に教室内の緊迫感を助長し、悪循環を繰り返す……。

 英語の授業で、外国人教師が招かれ、生徒との英語での会話を、リズムに乗せながら、ゲームのように陽気に行うレッスンが開かれた時、教室が楽しげな雰囲気に包まれる中、キョーコは、極限の焦りと緊張に襲われていて、絶対に自分を指名するな、話し掛けるな、これは自分だけの問題じゃないんだ、自分が指名された途端に、教室の空気が死んでしまうんだと、もはや、泣きたいぐらいの、神に訴え掛けるような、痛切な思いに捕らわれていて、顔をぐっと下げ、背中を丸め、禍々しい空気を全身から放出し、無言の主張を発して、名前が呼ばれない事を必死に祈るばかりであった。


 ああ、本当に、申し訳なく思う、自分は、クラスの和気藹々とした雰囲気に乗ってあげようと思えば、出来ない訳じゃないのだ、ただ、今更、恥ずかしくてしょうがない、死にたいくらいに、とにかく、人と一体となる事、仲間に加わる事、混和する事が、怖い、自分が死んで行くようで、恐ろしい、趣味や価値観が全然合わない子達と、無理をして繋がりを深めても、苦痛が優ってしまうだろう、だからって、人に冷たくしたいんじゃない、邪険にしたいんじゃない、不快にさせたいんじゃない、ただ、どうしようもないのだ、自分を他人に合わせたくもないし、他人に自分を押し付けたくもない、だから、どうしても、内に閉じこもってしまうのだ、おこがましいんだろうか、自惚れているんだろうか、別に周りの子達を責めているんじゃない、かと言って自分が悪いと言い切る気にもなれない、強いて言うなら、学校という制度が悪いのだ——大体、どうして、偶然的に集められた、一定の学力くらいの共通点しかない赤の他人と、満遍なく気楽に仲良く出来ると言うのだろう、人は本来、バラバラの価値観、異なる考え方、多様な感覚を持っていて、合う合わないはどうしたって生じるはずなのに、全部を一緒くたにして、無理やり狭い空間に閉じ込められ、毎日顔を合わせる事を強要され、同じ仲間として過ごせ、仲良くやれと言われたって、上手くやっていけるはずがないんだ、トラブルが起きない訳がないんだ、ああ、何て残酷なんだろう、まるで色んな生物を壺の中に閉じ込めて争わせる、悪趣味な儀式みたいだ……。


          二


 実は、キョーコと同じ中学校から進学した女子生徒が、今のクラスに一人いるのだけども、これが逆に困った、なぜなら彼女は、その子とまともに会話した事がないからだった——キョーコの中学校からは、男女合わせて九人、振り分けは男子が四、女子は五人の生徒がこの高校へ進学したのだけれど、進学までの諸々の手続きや演習、受験当日の行動は、キョーコも含めたその五人でまとまって動いていて、一見何の問題もなく仲良くやっているように見えるのだが、実の所、その中の一人の女子、これを仮にAとすると、キョーコとAは、きちんと言葉を交わした事がなく、互いの名前を呼んだ事すら無いレベルで、当然、同学年として三年間も通っていれば、クラスが一緒にならずとも、名前くらいは覚えるし、すれ違う事もあるし、共通の友人を通じて情報が入ってくる事もある、しかし、いや、だからこそ、いざ互いが身近な範囲に置かれるようになった時、気軽に声を掛ける事が出来なかった。 この様な現象は以前から見られたのだが、新学級となって、初めて出会った生徒と、何か偶然の成り行きで、言葉を交える切っ掛けを得られぬまま、二カ月三カ月も経つと、今更話し掛ける事が出来なくなり、名前を呼ぶ事が極度に恥ずかしくなってくる——ほぼ毎日同じ教室の中で暮らしているというのに、一定期間、まともにコミュニケーションを交わす機会に恵まれぬと、相手と自分との空白の関係性、絶妙な距離感が、いつしか絶対化、固定化し、互いに関わり合わないという条約が暗に交わされ、踏み込んではならぬ境界が形成され、膠着状態の維持に努める心理が働き、交遊どころか喧嘩もしてはならないアンタッチャブルな存在と化し、同じクラスの同じ女の子同士であるにもかかわらず、到頭卒業まで一言も会話を交わさず、名前も呼ばずに終える……。

 一体あれは、何なのだろう、身に覚えのある人も少なくはないはずだ、相手が特に人見知りをするようなタイプでもなければ、こちらと全然異なった真逆の性格の持ち主という訳でもなく、いやむしろ、似たタイプの方が、妙に声を掛けづらく、正反対の雰囲気を持つ相手の方が、気軽に接しやすいようにすら思え、しかも、互いに全く情報のない状態で顔を合わせるより、以前からお互いに何となく知っている方が一歩を踏み出しづらいもので、例えば、友達がその子と一緒にいる現場に以前出くわした事があって、実際に話し掛けるチャンスが過去に何度かあったという関係の相手の方が、改めて初対面としての挨拶を交わすのが異様に恥ずかしく感じてしまうもので、以前さりげなく顔を合わせた際に、その時点で互いに声を掛けなかったとなると、次回からもう、双方の領域に踏み込まないという暗黙の協定が自然と締結されてしまって、今更な感じが出てしまいやたら気まずく、初めてではないのに初めましてと互いに気付かなかった振りをする事の照れが生じてしまう——これは丁度、友人との間に行われた貸し借りを、忘れたり顔を合わす機会がなかったりで、一定期間互いに触れる切っ掛けを逸し続けると、いつしか貸方と借方、双方ともに言い出しにくい空気が醸成され、いつも心の隅にある癖に故意に黙っていて、ある日突然、思い出したと言わんばかりに白々しい演技を行う瞬間が、猛烈に恥ずかしく、気まずく、ばつが悪い、あの感じに似ている。

 一度この様な特殊な関係性に陥ると、最早そこから距離を縮められる気がしない、たとえ声を掛けられるようになっても、深い仲になれるとは到底想像が付かず、どうも友達になる一歩手前で線が引かれている感じがして、完全に出会いをリセットしない限り決して取り払われない巨大な壁が佇んでいる様で、むしろ元々仲が悪く、憎み合い、折が合わない者同士の方が、ひょんな事を切っ掛けに、気兼ねのいらない近しい仲になれる可能性が残されているとすら思われる——詰まる所、肝心なのは、最初の一歩、出会い頭の瞬間である、もしも学生諸君がこの文章に目を通しているならば、一つ助言させて頂きたい、新たな学級や組織の中に足を踏み入れた時、内容など何でもいい、早い内に、全ての人間に声を掛けておく事、名前を呼んでおく事、また、友人が知らぬ生徒といる現場に出くわしたら、一言でも挨拶を投げ掛けるか、最悪でも会釈は交わしておく事、初めて互いを認識した時に、そこで意思疎通を僅少であれ交わしておいたかどうかで、二度目に顔を合わせた際のハードルが全然異なってくるもので、もしも最初の出会いで、人見知りをしている感じ、距離を取る様子を一度でも見せてしまうと、互いに何かを感じ取ってバリアを張り、声の掛けられない緊張状態に陥ってしまう可能性が生じ、以後、同一の現場に居合わす度に、地獄の気まずさを味わう事となる……。


 恐らくキョーコとA以外の三人は、この二人がその様な相互的不干渉状態、交流不可の膠着状態に陥っている事に気付いていないだろう——五人集まって話が弾んでいる時、別に敵愾心がある訳ではないので、Aを軸とした会話に場の流れが移行した際も、キョーコは適当に笑顔を作って、他の三人のガヤガヤした発話の流れの中に、呟くように言葉をさり気なく紛れ込ませて、三人を間に挟む形で間接的に触れ合い、さもAとの会話を問題なく成立させているかの様に装い、表面上においては仲良し五人組を繕う事で、他の三人にAとの距離感が露呈しないよう気を付けていたし、また、五人の内、一人二人抜けて、怪しい気配を感じ取ると、キョーコは誰かに一緒に付いていくか、先にその場を離れるかして、Aと二人きりになる状況を懸命に避けていたのである。


 しかし、そんな努力も空しく、いざ高校に進学し、新たな学級が始まりを告げた時、彼女を待ち受けていたのは、神のいたずらか、五人の内、キョーコとAが同じクラス、残りの三人が同じクラスという、考え得る最悪の状況であった……Aはキョーコと違って、普通にクラスに馴染んで、普通に友達がいたので、周りから声を掛けられるのは自然な光景なのだが、ある日の事——入学して間もない頃であった、授業中にグループ分けが為され、Aとキョーコが偶然同じ班に入った事があって、皆で協力しながら作業を進めていると、Aの友達が、不意に、何ら悪意のない平坦な調子で、

「Aとキョーコって同じ中学校だったの?」

 閃光の如き緊張が、一瞬の痙攣を伴って二人の体を貫き、心臓の鼓動が激しさを増し、張り詰めた空気が漂い、両者苦々しい愛想笑いを作ると、Aの方が先に返事をする、

「うん……」

「クラスは違ったの?」

「うん……」

「たまたま一緒になったんだ?」

「うん、まあ……」

「へえ……」

 普通なら、Aとキョーコ互いに言葉を掛け合っても良さそうなものだが、そのあまりの反応の悪さに、友人も何かを察したのだろう、納得したのかしてないのか曖昧な最後の返答が、如何にも、二人の間に佇む障壁を読み取って、これ以上踏み込んではいけない事を直感した一言の様に聞え、また、周りで一連の流れを様子見していた生徒達も、恐らく触れてはいけないところに触れたのだなと、見て見ぬ振りのような白々しい態度を繕っていて、釈然としないモヤモヤした雰囲気だけが現場を支配しており——そんな中、無言を貫き、下を向いて、不気味な照れ笑いだけを浮かべていたキョーコは、禁忌としている二人の絶妙な関係を、当事者が揃っている場で、はっきりと周囲に暴露された気がして、猛烈な恥辱と息苦しさに襲われており、家に帰ってからも、その光景がしばらく頭を離れず、数日にわたって、酷く苦々しい感情を引きずり続けるのだった。


 しかし、一番困ったのは、他のクラスになった三人組の存在で、彼女らはしばしば、キャッキャとはしゃぎながら、キョーコのクラスに押し掛けて、テンション高く彼女に絡んでくるのだが——キョーコは中学時代、仲の良い子だけを相手にしている時は、普通に冗談を飛ばし、おどけたり、ふざけたり、陽気な自分を見せる事も多々あったので、三人は当然、そのイメージのまま、今まで通り明るく楽しく接してきて、他のクラスにお邪魔する事の旅行気分も相まって、余計に無邪気で朗らかな調子をキョーコに押し付けてくる訳で、しかし、既にお分かりの通り、現在の彼女のクラス内での立ち位置、同級生に対して見せる人柄は、無口で、内向的で、陰気で、閉鎖的な人物として通っているので、今のクラスメートの手前、パブリックイメージと余りに解離する自分の姿を見せる訳にもいかず、もしも旧友たちの言動に合わせて、陽気に浮かれ騒いで見せれば、その余りものギャップに、途端に教室内は凍り付き、時が硬直し、緊張を走らせ、周りの生徒達は互いに顔を合わせて、嘲るような笑みを浮かべ、ヒソヒソ話を繰り広げるだろう、現に、誰にも心を開かぬ陰鬱な女子生徒にはおよそ似つかわしくない複数の騒がしい訪問客の登場に、既に周りの空気はざわっとしており、明らかに、他の生徒達が、こちらの方をさり気なく、横目で盗み見て、耳をそばだてて、入学以来謎多きこの女の秘密を読み取ろうとしているのが分かり、このままでは、自分が現場ごとに意識的に態度を使い分けている事や、平生の陰気な振る舞いが決して素の姿とは言えない事が露呈してしまうだろう、それはもはや、日記や検索履歴を盗み見られたのと同等の悲劇であり、プライドの高いキョーコには強烈な汚辱として襲い掛かるのであるが、かと言って、旧知の仲である彼女達の訪問を無下にして、あまり冷たい白けた態度を取るわけにも行かないし、落ち着いた態度で接したところで、こちらの意図を読み取って大人しくしてくれるようにも思えず、何をそんなに済ました態度を装っているんだとツッコミを入れられそうな気さえしてしまうし、そうやって己の見せ方に葛藤を来している心中を周囲に悟られるのも何だか惨めである——旧友が求める自分と現在の同級生が抱く印象との狭間でもがき、二種の自己との板挟み状態に陥ったキョーコは、折衷案的に、笑顔を作りながらも、声を潜めて、出来るだけ話が長引かないようあっさりとした返答に終始し、何とか無難にこのまま早く帰ってもらおうと彼女なりに画策するのであるが、段々調子に乗ってきた友人達は、最悪にも到頭Aにまで声を掛け、半ば強引にキョーコの下へ招き寄せると、同校出身の女子五人が揃ってしまった事によって、負の相乗効果と言おうか、不良グループの縄張り意識の様な、自己喧伝の感情が働いて、複数のろうそくの火を合わせたみたいに激化し、やけに強気の姿勢に出て、必要以上に声が大きく、同校五人衆ここにありと周囲にアピールするが如く、妙に大胆で開けっ広げな調子で騒ぎ立てて、それがキョーコには恥ずかしくて恥ずかしくて堪らず、今すぐ消えて居なくなりたい程の甚大な含羞に襲われており、唯一の救いとしては、これが昼ではなく授業間の休憩である為に、それほど長居はされず、五分足らずで出て行ってくれた事であるが、しかし、キョーコには熱した鉄板に手を置くような無限の長さに感じられ、三人娘が帰った後も、その残像と余韻がしばらく教室内を支配しており、周りの生徒は誰も触れなかったものの、明らかに現場にはもどかしい、よそよそしい、不穏な空気が残されていて、キョーコは一人、激しい心臓の高鳴りを直に感じながら、一連のくだりに対する同級生の感想が気に掛かるばかりで、粘つくようなねっとりとした羞恥心と共に、一日中そわそわした覚束ない様子で過ごし続ける事を余儀なくされたのだった(以降、再び彼女達が教室にやってくるのを察知すると、ちょうど今からロッカーに何か取りに行くところでしたと言わんばかりに、すっと立ち上がって廊下に向かい、この招かれざる客達を自然に外へ誘い出し、決して教室へは入れまいと先手を打つようになった)。


          三


 古文の授業中、それは突然訪れた——「二人一組になってください」、悪魔の言葉である、明らかにその瞬間、キョーコの隣の席、通常であれば、配置的に組む流れとなるであろう隣の席の女子が、あからさまに、キョーコと組む破目に陥るのを回避する目的で、すかさず、光の速度で、後ろの席の女子、しかも、躊躇なく声を掛けるほど仲が良い訳ではないはずの、保険的対象に過ぎない影の薄い女子に、猛烈な勢いで、腕を掴むように声を掛け——恐らく、授業内容の流れ的に、二人一組の指示が飛ぶ可能性を直前で察したのだろう、まだゴーサインが為される前に彼女は意識を背中に集中していたと思われ、合図と同時に最速のスタートを切ったのであるが、その他の生徒達も、磁気のスイッチを入れたように一瞬にして引かれ合い、次々と生徒同士のつがいが形成されてしまって、キョーコはあっという間に、この残酷な生存競争の淘汰に晒されるのだった。 この経験を持つ者は世に少なからずいるであろう、学校生活においてあれほど惨めな、哀れな、切ない瞬間はない——消え去りたい、飛び降りたい、閉じこもりたい、どんな言葉でも形容できない程の、強烈な羞恥心、トラウマ的な恥辱、汚辱、屈辱……。

 大抵こういう場合、身近なとこに入れてもらって三人組になるか、教師と組む破目になるかの二択だが、それはもはや、集団生活における死刑宣告と言っても過言ではないのである。


 和気藹々たる集団の中で、女が一人弁当と向き合わなければならない切なさが、愚鈍な男子どもには分かるまい……! 多くの女子生徒が、互いの机を合わせて、即席の女子会を形成し、楽し気な会話が飛び交う中で、ただ一人黙々と、おかずを口に運んでいく、あの惨めさが……。

 昼食及びその後の休憩時間は、キョーコにとって最も嫌な時間帯であり、初めの頃は、緊張からか御飯を口に運ぶ事さえままならず、今でもこの惨めな時間、魔の空間から一刻も早く抜け出したいが為に、弁当がまだ半分以上残っているにもかかわらず、食べ終わった振りをして、目立たぬように席を立ち、教室を出て、図書室に行って時間を潰したり、当てもなく校内をフラフラ歩いてみたり……かと言って、毎日同じ時間に席を空けると、あの子はいつもどこで何をやっているのだろうという疑念を抱かせたり、如何にも孤独の気まずさに耐えきれず逃げ出しましたという感を与えかねないので、昼食後もそのまま教室に残って、教科書類をカバンから取り出し、予習、復習、宿題をこなす、或いは、机の上に両腕を交差させ、そこに顔をうずめ、居眠りをする——と言っても、実際は勉強などしていないし、眠っている訳でもなく、それをしている「振り」に過ぎないのであるが、なんせ何もしないでぼーっとしていると、あからさまに孤立している感じを周囲に与えてしまうようで気まずく、哀れな奴、変な奴だと思われるのも癪なので、とにかく、何らかの行動に打ち込んで、この居心地の悪い時間を、誤魔化す、「自分は今、宿題をやっています」「自分は今、疲れて眠っています」、という意識過剰な自己弁護を周囲に発信し、孤立状態に意味を与えて正当化する事で、誰からも違和感を持たれまいと、空しい努力に腐心するのである。 入学して間もない頃、担任の教師との個別面談が実施された際、暗に、遠回しに、溶け込めていないんじゃないか、いじめか何か受けているんじゃないか、といったニュアンスの言葉を掛けられた事があった、また、心優しい周りの女子生徒に、明らかな気遣いで声を掛けられ、仲間に入れてあげようという親切を受けた事もあった、しかし、彼女にはそれが却って、哀れで惨めな独りぼっちの肖像を改めて突き付けられるようで、遥かに恥辱であり、同時に申し訳なくも思った——こういった、周囲からの妙な配慮が発生するのを避ける為、キョーコは普段から、「孤立状態を保ちながらも孤立的に見せない」努力を講じ、影を消そうと奮闘するのだが、それが逆に違和感を生じさせている事に本人は気付いておらず、言わば、後ろに身を引く事で列からはみ出てしまったり、自分を黒く塗り潰す事で真っ白なキャンパスから浮き出てしまったり、地味な服装をするが故に派手な身なりの人達の中で悪目立ちしてしまうようなものであった。


 辛い、切ない、やり切れない、何十人もの生徒が詰め込まれ、一年中通い続けなければならない教室という空間で、一人、たった一人で生き抜かなきゃいけない事、たとえ分からない事があっても聞けやしない、忘れ物をしたって貸してもらえない、誰かにノートを見せてもらう事すら出来ない、一緒に付いてきてくれる相手さえいない、課外授業、文化祭、競技会、いつも一人だ、皆が浮かれはしゃいでいても、自分だけはクールな気のない振りを装わなきゃいけない、クラスという共同体から切り離されているわたしが共に盛り上がるのは、既定の関係性をこじらせる違和感極まりない光景になるから、どれだけ皆が盛り上がっていても、無表情で冷めた態度を貫かなきゃいけない、そうしてわたしの存在が意識される度に、集団の一体感を阻害する、本当に、邪魔者だ、厄介者だ、余計者だ、こんな奴、消えていなくなればいいんだ……。


 今からでもチャンスはあるだろうか? そういえば、たった一人、自分と同じように、普段から俯いていて、ほとんど席を立たず、人と交わらず、言葉を発する瞬間を見る事のない、暗い雰囲気の男子生徒がいたのだけど、社会科見学の時に、現場から一人はぐれ、集合時間になっても戻って来ず、皆が心配している中、焦る様子も無くふらっと戻ってきて、教師が理由を詰問すると、そのマイペースな行動と、天然めいた不思議な受け答えに、周りの皆が思わず微笑をもらし、暖かな空気で包まれて、以降、その出来事を切っ掛けに、これまで誰も気に留める事のなかった陰鬱なイメージの男子生徒が、突如ユニークなキャラクターとして急浮上し、普通に声を掛けられるようになって、自然とクラスに溶け込み、結果、同学級で見るからに話し相手のいない生徒は、わたしただ一人という状態になってしまった……。

 自分もあんな一発逆転が考えられるだろうか? その時キョーコはふと、小学校六年生の時にいた、とある男子生徒の事を思い出した——小柄で、溌溂な、乱暴のしない、愛嬌のある、これと言って特筆すべき事もない、ありきたりな極普通の男子生徒がいたのだが、この子が、中学校に入学したのと同時に、急激に偉そうな、態度のでかい、口調の悪い、不良気取りの人格に変貌し、喧嘩一つした事ない癖に、俺は最強だとか、あんな奴俺の手に掛かれば一発だとか、聞いてるこっちが恥ずかしくなるような大言壮語、ビッグマウス、武勇を吹聴し、小学校時代の同級生にも、これまでの友好的な付き合いがまるでなかったかの如く、途端に呼び捨て、汚い言葉遣い、上から目線に変わって、一体、卒業から入学までの、たかだか二週間足らずの短い間に、何があったのか、その期間に、特殊な体験を経た事で、実際に内面的な変化が生じたのか、それとも、遥か以前から本人の中ではふつふつと変化が起こっていて、内なる変貌を公に発現させたいのは山々であったが、旧知の同級生の手前恥ずかしく、成りたい自分をずっと押し隠していただけで、それを中学校への進学を契機に前面へ押し出し、過去とは大きく異なる立ち位置でやっていこうと、そう決心したのか——どちらにしても、小学校時代の同級生が、ほぼそのまま地元の同じ中学校に進学して、彼の過去を知る人物がクラスにも複数名いるにもかかわらず、どうしてそんなにも大胆に、大っぴらに、恥じらいなく、自分の見せ方をひと思いに急変させる事が出来るのか、もしもかつての同級生から、お前そんなキャラクターじゃなかったじゃん、と禁断の一言を嘲笑しながら突き付けられたら、どうする積もりだったんだろう、わたしだったら、恥ずかしくて死にたくなるだろう——いや、むしろ、恥じらいの素振りを少しでも見せるから、相手に付け入る隙を生じさせるのであって、「初めから自分はこういう人物ですが何か?」、と堂々たる態度で平然とした振る舞いを貫徹すれば、却って相手の方が怯んで、速やかに変身の意向を周囲に容認させられるものなんだろうか……。


          四


 キョーコが人間関係に思い悩むようになったのは今に始まった事ではない、現在の彼女は自ら孤立を意識的に選び取っているような節があって、拒絶の意思を持つのは周囲ではなく飽くまでキョーコ自身の方なのであるが、幼少の頃はむしろ逆で、なぜかしら彼女は各現場の集団内で排外的な行為の対象となる事が多かった——恐らく彼女自身にどこか変わった所があったのだろう、悪い意味で言うと、鈍感な、良い意味で言うと、純朴な、言わば、「人目を気にせず猛進する野生児」、「自分の世界に浸り込む空想家」、常識や空気に縛られる事のない、自由奔放、マイペース、天然なところが、他の子供達に奇妙に映ったのだろう、それに加え、キョーコは他者に対する攻撃性は勿論の事、反抗の意思を抱く事さえ少なく、周りの子供達が、自分を悪く言ったり、意地悪をしたり、仲間外れにしたりする事を、哀しいと言うより、むしろ不思議に思っていた、なぜなら彼女は、人が人に興味を持つ意味が分からなかったからだ——どうして人は、人を意識するんだろう、どうして人は、人を気に掛けるんだろう、どうして人は、人に構おうとするんだろう、彼女にとって、他人とはどうでもいい存在、それは決して、傲慢な意味においてではなく、単純に、興味や関心の対象にならない、意識の中に現れない、注意が周囲へと向かわない、彼女にとって他者とは一個の機械で、ただ余計な接触や妨害や干渉を行わなければそれで十分な存在であった。

 悪意なき協調性の欠如、対人的な儀礼意識の不足、独特なしぐさや言葉遣い、容姿や作法への無関心、彼女を嘲弄の玩具として他人に提供するのに必要な条件は十分揃っていた——しかし、そうは言っても、幼児の頃はまだ、社会性、集団性、協調性を大人から本格的に求められる事は無く、子供達一人一人がバラバラに、銘々に、自由奔放に行動する事を一定の範囲内で許されているし、園児達の方にしても、共感や繋がり、派閥意識への関心は薄く、周りに目を向けずに独自の空間を作り、群れを成さず手前勝手に過ごす時間も多いものだから、幾らキョーコが変人の素質を持っていても、誰もが本来的に持つ幼児性の中に紛れ込んで、それほど困る事も無かった……しかし、小学生にもなると、そうも行かない——社会は複数の個人が同一の共同体を成すが故に社会なのであって、如何に独立的排他的状況にあろうと、資源の確保から加工製造まで完全な自給自足でない限り、他者の存在なくして生活の確立はあり得ず、一人の人間活動に必要な各物品、各作業、各サービスの充足を専門的に分業し、その分業自体がまた組織という個人の集合による分担業務として構成され、誰もが社会の担い手として成立するのであれば、当然そこには多種の共同体を支障なく維持する為の、万人が守るべき一定の規律、了解、礼法を必要とするわけであって、個人個人が思うままに剥き出しの自我を存分に発揮しながら社会生活を営めば、まともな共存を図れる訳がなかろう、義務教育以前においては、積極的な迷惑や我が儘を抑える程度の最低限なしつけに限られるもので、組織の成員たる立派な行動を求むるのは酷と言うものであるが、小学生にもなれば本格的な社会教育へと一歩足を踏み入れ、大人の世界、労働のシステムへの順応に向け、集団の一員である事の自覚を育ませ、他者との協調や組織内での役割分担を背負わせる事で、実際的な社会性を身に付ける為の訓練に代える訳であるが、半ば放置していたところで本能的に他者との関係を求め、自己と他者との価値観に要求と譲歩を争わせながら、徐々に複数の軸の交点が形成され、集団内での自己の落としどころを見出すものであって——即ち、自然と人為によって、子供達はクラス意識、仲間意識、集団意識に目覚め、人間同士の綿密な関係性、序列、役目を形成し、その中で、各々が各々の立ち位置を意識するようになる訳であって……。

 教室という空間が小さな社会としての機能を帯びるのを、時が進行するに連れて強化されていく中、キョーコは、己がますます不利な状況に追いやられるのを肌で感じざるを得なかった——学校生活において、如何に他者との関係、学級内での位置取りが重要な役割を果たすかを理解し、これまでの様に他の子供達を気にせず一匹で生きるのが困難である事に気付かされた、しかし、彼女にとって、他人とは不可解な、曖昧な、謎に満ちた存在でしかなかった故、彼女はまず子供という生き物の生態を知る事から始めなくてはならなかった、自身が一人の生徒として学業という責務を難なく切り抜ける事を目的に、人を知り、人に気に入られ、人と結び付かなくてはならず、その為の色々な処世術を考案し、人間関係の構築に試行錯誤するのを避けられなくなった——相手に好かれよう、誰にも嫌われないように過ごそう、自分というものを必死に抑え込んで、徹底して他人に気に入られる姿を演じよう……。


 彼女が実施した対策、それは「同化」であった——他人と同じになる事、他人と同じ意見を持つ事、他人と同じセンスを好む事、異なる行動を取らず、異なる発言を控え、異なる習慣を見せない事、影響力の高い生徒の動向を研究し、最新の流行を逐一チェックし、話題に取り残されないよう人の会話に注意を向け、同一の遊びに興じ、同一の習い事を始め、同一の物を購入し、同一の対象を好きになり、誰に対しても異論を挟まず、喧嘩をせず、対立を作らず、拒否せず、断らず……。

 自分の意見、自分の好み、自分の意志、そんな事はどうでもいい、A子と共にいれば、キョーコの好みはA子の好みに染まるし、B子と共にいれば、キョーコの価値観はB子の価値観を共有するし、C子と共にいれば、キョーコの意見はC子の意見に同調する——煩雑な人間関係を要求される学校という場において、自分を全く持たない事が、彼女にとって最良の処世術であった。

 如何なる派閥にも属すと同時に、如何なる派閥にも属さない態度を取り、特定の人物に肩を入れすぎず、人間関係の潤滑油的な役割を担い、常に八方美人、全方位外交を心掛ける事——彼女はリーダーという柄ではないし、人の上に立つのは何かと面倒事が多いのを理解していたので、人目を惹く行動や役割はなるべく避けており、特に目立った存在では無かったものの、誰に対しても優しく、柔和な、迎合的な態度を取る事によって、次第に彼女は、皆に愛される隠れた人気者として、上手く学園生活に溶け込む事に成功したのである。

 しかし、これが果たして、キョーコにとって本当に適切な選択であったと言い切れるかと問われれば、議論の余地は大いに残されているに違いない——なるほど、確かに、クラスの輪に加入する事によって、集団生活上の不便や疎外から解き放たれたのは事実である、しかし、それは同時に、自分らしさを徹底して押し殺す事を求められ、幾十もの他人に合わせ、日々変化する複雑な相関図の中で、器用に立ち回り、一人一人の心情を読み取り、気を払い、嫌な事を嫌と言えず、好きでもないものを好きと言い、面白くもない遊びや会話に文句ひとつ言わず興じ、必死の追従笑いを浮かべ、クラスメートと言葉を交わす度に、あの一言は余計だったんじゃないか、もっと良い言い回しがあったんじゃないか、などと「会話の出来」を反省し、自分の言動が不快感を与えてしまったかどうか、相手に嫌われてしまったかどうかを執拗に気に掛け、生徒同士のトラブルに度々振り回されては、いつも自分が調整役として暗躍しなければならない……。

 どうしていつも自分ばかりが一方的に気を遣い、譲歩し、追従しなければいけないのだろう、そのストレス、息苦しさを考えれば、却って、孤立していた方が楽だったんじゃないか、いっそいじめられっ子に転落してしまった方が自由なんじゃないか、他人に好かれる状態を維持する必要、他人の評価に気を揉む必要、他人の視線に縛られる必要がない分、むしろ勇気を出して皆の嫌われ者になってしまった方が、よっぽど負担の少ない生活を送れたんじゃないだろうか——クラスメートへの配慮に疲弊する度に、こういう疑念が何度も彼女の心を掠めるのだった。


 彼女はクラスメートとの会話に酷く神経を削った、相手が何を望んでいるか、どういう意図でこの話題を繰り出したか、どんな意見を述べれば相手が満足してくれるか、とにかく重要なのは、共感してやることだ、相手の考え、価値観、感じ方に同調して、自分とあなたとが一体であり、自分があなたの味方である事を示して、安心させてあげる事、女子にとって共感こそが最も喜ばしい贈り物であるように思われた——従って、キョーコは決して会話を先導するような事をしなかった、彼女の会話術は常に「後の先」を取り、相手の出方を伺い、動きに合わせ、俊敏に反応し、言外の要求を読み取って、欲する言葉を掛けてあげる事、ひたすら相手の発言にうなずく事、分かる分かると理解を示す事、これが彼女の基本的なコミュニケーション戦術であった。

 しかし、必ずしもこの戦略が功を奏するとは限らず、思わぬ事態を招いてしまう事もある——放課後、ある女子生徒との帰り道、当時人気を二分していたアーティスト、XとY、どちらが好きか、という話題になった時、キョーコは、例の如く、自分の方から答えを口に出さず、相手方の意思表示があるまで、話の上辺だけを行ったり来たり、XとY双方の情報を引き合いに出しながら、どっちつかずの言動を弄し、適当に悩んでいる振りをする、すると、先方が遂に尻尾を出し、自分はXの方が好きかな、と明確な宣言を口にしてきたので、待ってましたと言わんばかりに、キョーコもそれに同調して、ああ、そうだよね、いや、やっぱXだよね、うん、分かる、わたしもそう思う、と、余りあからさまになり過ぎないよう、自然な変節を心掛けて、滑らせるように言葉を紡ぎ出し、巧妙に相手との一体感を演出して見せ、最後の仕上げとして、XがYより魅力的である論拠をあれこれ並べ立て、怒涛の阿諛追従を畳みかけたのであるが……にもかかわらず、どうも相手の様子がおかしい、いまいち話に乗ってこない、表情が曇っている様にすら見える——まさか、と、キョーコが思った、次の瞬間だった、

「あ、えと、いや、あたしはYの方が好きなんだけどね……」

 しまった! キョーコに戦慄が走った——彼女は聞き間違いを犯していたのだ、非常事態発生である、如何にしてこの危機を乗り越えるべきか、まさか、この期に及んで、突如意見を翻す訳にも行かない、自分もXとYを取り違えていただなんて、さすがに無理がある、かと言って、真っ向から意見が対立する構図のまま話を展開するのは気まず過ぎて耐えられない、苦肉の策ではあるが、両者良いところがあると、相手の価値観にも同等の理解を示す以外無いように思われる——思わぬ相手の言葉に一瞬返答に窮したが、長い沈黙を作ると如何にも両者対立している感を与え、すれ違いの勃発を余計に強く意識させてしまいかねないので、キョーコはすかさず、ああ、いや、分かるよ、Yも凄く良いよね、だってさ、などと、先程の分析とは幾分異なる見解を調子よく矢継ぎ早に繰り出し、とにかく言葉巧みに多弁を仕掛ける事で、相手に考える間と発話の隙を与えず、何事も無かったかの様に誤魔化し、相手の理解が追いつく前に、どさくさに紛れて徐々に意見をすり替え、最終的にはYの方が上手であるかの様な結論を、さりげなく導き出したのである。

 その後、何とか表面上は取り繕って、他の話題に移ったものの、お互い何か奥に引っ掛かっているような、どうも釈然としない、居心地の悪い、微妙な雰囲気のなか帰路を辿り、そのまま各々の自宅へ続く道へ別れたのである。

 一人になった後、彼女は激しく落ち込んだ、ほとんど絶望した、そうして、恐怖でガタガタ震えた、先程のやり取りを機に、不審を抱かれ、疑いをもたれ、絆に亀裂が生じ、相手に合わせて自分を偽っている事、思ってない感情を口にしてきた事、共通事項が本当は無いという事実が露呈し、クラス中に広まって、信用を失って、誰も相手にしてくれなくなるんじゃないか、のけ者扱いにされるんじゃないか……。

 この出来事は彼女の中で強烈なトラウマとして残り、以降もふとした瞬間に度々想起され、その都度口元で小さな絶叫を行い、頭を振り乱しながら、忌まわしき記憶の映像を必死でかき消すのだった……。


          五


 以来キョーコは、幾ら相手への迎合を目的としていても、断定的な物言いをする事はなるべく避けた——もしも複数の人物が居合わせたら身動きが取れなくなるし、応対する人物によって発言を使い分けていた事が露呈する可能性が生じてしまう、それ故、他人が何と言おうと、出来るだけ自分の好みや意見をはっきりとは表明しないよう心掛けなければならなかった。 中でも特に、確然たる同意を決して明言してはならぬ禁断のテーマがあった、それは、他人の悪口であった……小学校二年の事、給食の時間、班同士で机を固め、食事を取っている最中、向かい合う二人の女子が、互いに顔を寄せながら、別の女子生徒の悪口——同クラスの女子内最大派閥、そのトップに君臨する、学級委員長に関する不平不満を述べ、陰口を叩き、愚痴をこぼしているのが聞き取れた、そうして、一通り言い終わると、彼女達は急に、キョーコの方を向き直って、そう思わない? と、意見の同意を求める素振りを見せてきた……その際、キョーコは、例の学級委員長に対する敵意は特にないのだけども、目の前の女子二人の態度が、妙に威圧的で、感情が高ぶっている様に感じ、否定しづらい空気があって、異論を唱えるのは好手では無いように思え、ならばいっそ、自分がここで相手の見解に追従し、不満の感情を汲んでやれば、ガス抜きの役割を果たし、秘密の共有による連帯意識が生まれ、自身の株も上がり、親密な関係性を手にする事が出来るだろう——そう企んだキョーコは、体を前に乗り出して、周りに聞こえないように、ヒソヒソ声で、うん、そうだね、確かに、ちょっと偉そうというか、調子に乗ってる感じはあるかもね、と、先方が使用した言葉をほぼそのまま流用、反復、補填、強化し、あからさまに取り入って見せたのだが……次の瞬間である——眼前の女子二人は、キョーコの発言に対し、言質を取ったぞと言わんばかりに、両者顔を合わせてハッとした表情を浮かべ、他人の秘め事を覗き込んでいる時のような下卑た薄笑いと共に、キョーコの顔をまじまじと見詰めてきて、たちまち片方の女子が、教室の奥を振り返って、例の女子生徒を呼びつけ、目の前まで来させ、そうしてキョーコの方を指差しながら、あなたの悪口を言ってたよ、と、堂々と目の前で告げ口してしまったのである……やられた、キョーコは瞬時にそう思った、明らかに最初からキョーコを罠にかける意図があってこの話を持ち掛けてきたのだ——しかし、この状況において彼女に何が出来よう、単純に二対一、圧力に負けたとは言え、否定的な論評を口にしたのは確かに事実ではあるし、何よりキョーコは人と口論する事の出来ない質だ、向こうが先に仕掛けたのだと弁解する事は、二人組への明確な宣戦布告となってしまう……。

 キョーコが何も言えずまごついていると、委員長は、密告者の言葉に疑問を持つ事なく真っ直ぐに受け取り、途端にムッとした表情を浮かべ、もうキョーコちゃんとは遊ばない、と残酷な一言を、吐き捨てるように冷たく言い放ち、傲然と立ち去ってしまって、その光景を、目の前の二人組は、ニヤニヤと嬉しそうな表情で眺めていたのである。 以来、キョーコは、休み時間になっても、委員長がそこにいる限り、女子達の輪に加わる事が出来ず、一人寂しい思いをして過ごす事となり、仲の良い女子に対しても、気を遣ってか遠慮がちな態度を取るようになってしまった。


 女の子同士のこういう陰湿な行動をキョーコは何度も目撃するようになって、クラスメートへの不信を強める事となった——例えば、下校中、キョーコを含めた三人で、愉快に会話を弾ませながら、仲睦まじい様子で、帰り道を歩んでいる時、その中の一人が、自宅の前まで来たので、話をまとめ上げ、バイバイと手を振って、笑顔でお別れをする、直後、残ったもう一人が、柔和な表情から、急に無表情、というより、冷たい、厳しい、怪訝な顔付、低く乾いた、刺々しい声色に変貌して、いなくなった子の悪口を、堰を切ったようにネチネチ説き始める……ある意味で、彼女が信頼されている証なのかもしれないが、表では決して口にしない他の生徒への不満や愚痴を、キョーコと二人きりになった途端に平気でこぼし、同意を求めてくる——そんな場面に何度も出くわすのである。 すると、自分もまた、知らないところで、同じ様に悪口を言われているのではないかと、疑心暗鬼に駆られてくる、集団から別れた直後に、後ろを振り返って、遠くから皆の様子を窺っていると、どうも自分の陰口で盛り上がっているような気がして仕方がない、教室の隅で、女の子同士顔を近づけて、ヒソヒソと内緒話の様な光景を目にすると、やはり自分の噂をネタにしているのではないかと不安に駆られ、近付きたいような近付きたくないような、微妙な心理の葛藤が生じる——彼女の小学校六年間は常にこんな調子であった。


          六


 誰に対しても良い顔をして、本音を抑えて迎合的な嘘を吐き、異論反論を表に出す事なく、親身になって相談に乗っている風を装い、波長の合う振りをして親近感を抱かせ、徐々に友達を増やしていく——小学生時代、狂わんばかりの必死の努力で継続してきたその手法に、いい加減嫌気が差し、疲弊を募らせ、さすがに続けていくのが辛くなり、今後も見境なく誰とでも仲良くしようとすると、気遣う部分が多くなりすぎて、心身が壊れるのではないかという恐怖が生じ、中学生になったのを機に、付き合う人数を一定に絞り、遠慮のいらない少数との交流を大事にし、余計な関係を築かないように気を付けなければならない、彼女はそう考えた。

 とは言え、付き合う相手を吟味して選ぼうと思えば、当然誰彼お構いなく話し掛ける訳にも行かないし、人に対する不信の感情が芽生え始めていたので、見知らぬ人に積極的な態度を取れず、新しい交遊関係を築くのは容易ではなかった——幸い、同じクラスに、小学校時代それなりに仲の良かった生徒(これをBとする)がいて、キョーコは、周りが知らない子ばかりで、不安と孤独感を覚えていた中、本当は大して好感を持っていなかったにもかかわらず、Bという旧友の存在が、まるで救世主、唯一の希望の光の如く頼もしい味方に映り、この子だけは離す訳には行かないと考え、藁にもすがる思いで接近し、どこへ行くにも彼女にくっついて回って、ひたすらBと同じ時間を共有する事を望んだ。

 成長によって各生徒との相性の異同が顕在化されて、交遊関係を気の合う少数の生徒に絞った事によって、一人の友人に寄り掛かる比重が増加し、集団社会における己自身の無力感や、臆病や、恐怖や、苦手意識の自覚が、希少な友人関係への依存的傾向を深化させる結果となって、自分が相手を強く求めるのと同等に、相手も自分を強く求めて欲しいと願うようになった——しかし、キョーコと違って、Bは特に人見知りするタイプではなかったので、彼女の想いをよそに、初対面の生徒にも気さくに声を掛け、分け隔てなく接し、幅広く交流を深め、キョーコ以外の子と触れ合う時間は増えていくばかりで、ただし、その交遊関係はキョーコの方にも流れてきて、Bを仲介役として彼女もクラスメートとの繋がりを得るので、決して彼女にとってマイナスでは無いはずなのだが、飽くまでキョーコはBのそんな社交的姿勢が気に入らない、歯がゆい、やるせない……まるで恋人に対する嫉妬、或いは友達に対するストーカー、Bが自分だけと話し、自分だけを頼り、自分だけと友達であって欲しい、わたしという友達がありながら、他に新しい友達を作ろうとするのが理解できない、自分以外の人と、愉快に会話を弾ませたり、一緒に帰ろうと声を掛けたりする瞬間を目撃すると、とても悲しく、切なく、惨めな思いに駆られ、涙が出そうになる、自分の知らない子が、廊下でBに話し掛けてきて、嬉しそうにはしゃいで応対するのを前にする度に、自分が隅へ追いやられ、優先順位が下がっていくみたいで、胸が張り裂けそうになる——部活だって、わざわざ興味のない同じ部活を選んだのに、すぐに他の新入生と仲良くなっていて、まるでわたしの事なんか気に留めていないみたいだ、彼女と同じ係になりたくて、Bが立候補したのを確認して自分も手を挙げ、二人で仲良く務める光景を思い描いたのに、そこに別の子が入ってきて、じゃんけんで決める事になって、結果わたしが負けて抜ける事になって、その瞬間酷く落ち込んで、深く傷付いたのに、Bは何とも思っていない平気な様子で、もう一人の子に普通に笑顔でよろしくねと言っていた……。

 自分にとっては唯一の親友でも、相手にとっては数多くいる友達、その一人に過ぎないという事実を突き付けられる瞬間が、キョーコには堪らない……まるで自分が故意に意地悪を受けているかの様な感傷に浸ってしまう……わたしなんて、居ても居なくてもどっちでもいい、幾らでも代わりの利くちっぽけな存在なんだろうか……あの子にとって、わたしは一体、何の為に存在しているんだろうか……どうしてわたしだけを頼って、わたしだけを求めて、わたしだけと共にいてくれないんだろうか……。


 中学生にもなると生徒一人一人の個性化が進み、性格や価値観の相違が徐々に明瞭となってくる、もともと人間関係に極端に気を払うたちであったキョーコは、多人数との交流に労力を費やす必要が減少された分、クラスメートを観察し、分析する時間が自然と増え、中でも、自分が恐れているからか、或いは憐れみからか、はたまた単なる好奇心からか、孤立的な状態に位置する女生徒に注意が向くようになって、そこから何か教訓や対策を見出そうとしている様にも見えた。

 孤立する人にも幾つかタイプがあるようだ、例えば、Cである——早くも前言を撤回する様だが、Cという女子は、孤立というより自立、独立という形容を用いた方が適切であるように思われる、というのも、Cは、端から他者への関心、興味、意識に乏しく、人とつるんだり、群れたり、じゃれたり、親しくする事に重きを置かない性格で、大抵どの時間も、一人マイペースに、淡々と、飄々と、ゆったりとした行動を貫き、かと言って、他人を拒絶する様な仕草を見せる訳でもなければ、逆に他人から拒絶されている訳でもなく、また、一人の時間を重視しているのかと問われれば、特にそういう感じも見受けられず、話し掛けられたら愛想よく返すし、誘われれば普通に参加もする、別に一人でいる自分を何とも思っていないらしく、孤独を誇るような事もなければ恥じ入るような事もなく、ただ当人にとってそれが自然な状態なだけの様である——それは周りの生徒にとっても同様で、彼女がどのグループにも属していないからと言って、特別気を遣う事も無ければ、ちょっかいを出す訳でもなく、用があれば話し掛けるし、なければ話し掛けない……後のキョーコの様に、異分子として明らかに集団から浮いている訳でもなく、独りという形で教室の風景に違和感なく溶け込んでおり、休み時間になっても、無理に自分の席から動こうとはせず、本を読んだり、ノートを取ったり、鏡を覗いたり、小物をいじったりと、一人で時間を潰す事に平気らしく、そこに何ら悲壮感も孤独感も漂わず、本人は至って充実しているようである——これがキョーコであればそうは行かないだろう、もしも長い休憩の合間に、いつも寄り集うメンバーが何かの拍子で一人残らず不在であったら、賑やかな教室で一人ポツンとしているのが気まずく、恥ずかしく、居心地が悪く、普段さほど懇意にしている訳でもない他所のグループに声を掛けてでも、他人から孤独に映る状況を何とか回避しようと必死になってしまうだろう。

 他人を忌避するのは他人を意識するからで、却ってCは、人に関心がなく、人の視線が気にならないが故に、人に壁を作らず、分け隔てを持たず、誰とでも支障なく接し、ある意味で最も人類愛に満ちた人物かもしれず、ただ能動的自発的に他人と関わろうという欲求に乏しいだけであり、だからこそ、よく知らない子と二人きりでも、さほど気まずさを覚えないし、無理に静寂の間を埋めようと、面白味のない話題を焦って振る事もせず、まるで二人ではなく一人でいるかの様に平気なのである。 人見知りしないからと言って社交的である訳でもなければ、逆に人付き合いに乏しいからと言って人見知りする性格とも限らず、人の目、評価、体裁を憂慮するか否かと社交性は必ずしも合致する訳ではなく、他者への積極性は、コミュニケーションへの関心及び公共的自己像への意識の大小に依拠するもので——唐突ではあるが、折角なので一旦話を止め、関心的、無関心的、意識型、無意識型なる概念を用いて、人間のタイプを四つのカテゴリーに分類してみようではないか。

 一つ、関心的無意識型——対人的欲求が強く、且つ他者の視線に無頓着な人間、見知らぬ人との触れ合いも何のその、社会的評価への懸念という制御装置が働かない為、最も交流に積極的である、二つ、関心的意識型——繋がりへの願望を持つものの、どう思われているかに敏感な人間、現在のキョーコの様な、典型的な人見知りタイプで、信頼できる特定の人物との付き合いだけを重んじ、友達の母数が少ない分、親友の比率は高い、三つ、無関心的意識型——人との触れ合いに興味がないと同時に、他者との接触や距離感を甚だ気に掛ける人間、他人に潔癖的で、一人を好み、基本的に防衛的、排他的、拒絶的な態度を取る、能動的な攻撃を仕掛ける訳ではないが、受動的な形で他者を寄せ付けないよう専心する、四つ、無関心的無意識型——人に関心も無ければ、人の評価にも鈍感な人間、これこそCに当てはまるもので、閉鎖的な訳でもなければ、開放的な訳でもなく、至って飄々としている、ある意味で幼児的で、社会性に乏しく、悪意なき無礼を働いてしまう可能性もあり、恐らくいじめられっ子の割合は最も高い(むろんこれらは単純化した図式である為、同じカテゴリーでも全ての人間が同じ態度を取る訳ではない、また、意識という言葉は自尊心と置き換えた方が適切かもしれない)。


 友人らしい友人を持たずとも惨めな学生生活を送るとは限らないその好例がCである、彼女が将来学生時代を振り返っても、友達がいなかった、と自嘲的に漏らす事はないであろうし、事実として一人ではあっても、決して独りぼっちであったと回想する事はないであろう、周りの方も、そのおっとりとした、天然要素の入った、不思議ちゃん的な、ふわっとした雰囲気、及びそれなりの器量の良さから、クラス皆から緩やかに愛され、温かく見守られており、特別な親友もいない代わりに、彼女を嫌う子もいないのである——こういった立ち位置の生徒こそが、雑多な付き合いを要される教室内の渡世において、実は最も生きやすく、過ごしやすく、溶け込みやすい存在なのではなかろうか、自分が視線を気にしている様子を中途半端に見せるから、周りも変に警戒して、壁が出来て、距離を生じせしめるのであって、たとえ失態を晒しても、失態であるという自覚を他者に露呈させず、当然かの如く平常を装っていれば、他者がその言動を醜態としてあげつらう条件を失うのと同様、初めから暗い顔を見せず、人見知りを匂わせず、のほほんと日々自分の歩幅で過ごしていれば、他の生徒達も、それが彼女という生物の本来的な生態と認識し、飾り物程度の当たり障りない印象しか持たず、良くも悪くも空気のような掴む事のない自然物として扱われ、何のいざこざにも悪意にも巻き込まれぬまま、無難な学生生活を終えられるのではなかろうか、特定の人間関係に拘泥せず、必要があれば誰とでも交わり、不要であれば無理につるまず、相手の求めに応じて適当に付き合ってあげる、それで十分支障なき穏やかな時間を過ごせるのではなかろうか——確かに、触れ合いの喜びや、信頼がもたらす安心感や、気軽な手助けは幾らか制限される事となるだろう、しかし、人付き合いの面倒な部分を同時に手放す事が出来るなら、それはそれで良いのではないか。


          七


 Cの他にも孤立的に生活している人物がいる、先程の図式を用いれば、Dという女は、恐らく無関心的意識型であろう、Cが他人を気にしないが故にのんびりと悠々自適に暮らしているのに比して、Dは明らかに、クラスメートに特有の感情を抱いて、意識的に寄せ付けないよう露骨な態度を取り、自ら孤独の立場を堅持している様に見え、その姿勢は見るからに同級生への軽蔑、嫌悪、反感を感じさせ、わたしに関わるなと言わんばかりの刺々しい空気を醸し出し、まるでいつも不機嫌であるかの様に、偏屈的且つ反抗的なのである——その姿勢は教師にも及び、しばしば彼女は教師に対して敵意剥き出しの反論を仕掛け、意見を挟み、不満気な表情を露骨に浮かべるのだが、キョーコはその度に不快な気分である、一対一ならまだしも、授業中の、皆が揃っている場所で、あからさまに喧嘩腰で先生に突っかかる様な事をされても、ただヒリついた緊張感を教室内にもたらし、クラスの皆に不安感を生じさせ(人間関係に過敏なキョーコは、他人同士口論中のハラハラする緊迫感がどうしても駄目で、途端に弱まってしまうのだった)、教師の心情を無暗に害し、無駄に授業を中断させるばかりで、巻き込まれた同級生には堪ったものではなく、なるほどそれが明らかに理不尽な言動に対する抵抗ならまだしも、別にどうしても受け入れがたい程の荒唐無稽な要求ではなく、多様な人間が混在する現場では必然的に訪れる、許容すべき妥協と譲歩の範囲内と思え、一々自分の見解と異なる他者に突っ掛かっていたら切りがなく、却ってその方が自己中心的で不寛容な態度にも思えるし、仮にこちらの主張を通そうと考えても、何もそんなのっけから好戦的で角の立つ態度で盾突く必要は無く、もっと友好的で謙虚な姿勢で弁論を仕掛ければ良いと思うのだ(百歩譲って、相手の言い分を明らかに不当な暴論であると感じたとしても、それに毅然と闘う姿勢を見せる事が必ずしも上等な処置であるとは限らず——それは丁度、侵略に対して有効策も現実味もないまま応戦に出る事で、無暗に被害拡大を招いて市民を余計危険に晒すようなもので、理想に縋り付いた感情論でしかなく、認識の正しさと、行動の正しさは別なのであって、たとえ相手側が悪であったとしても、それに無分別な抗戦の措置を取る事によって、こちらもまた一つの悪に転化させる可能性を起こす訳で、端から改善がもたらされる見込みが絶望的と分かっているのであれば、それは自然現象に怒りを発するようなもので、不毛どころか有害にさえなりかねない行為であり、人生には、たとえこちらが悪くなくとも大人になって身を引かなければならない局面が、多々あるものだ)。


 キョーコはDの態度に正義らしいものを感じた事がなかった、彼女が身の回りの人間に突っ掛かるのは、正義感でも道義心からでもなく、ただただ利己的で、傲慢で、狭量で、排他的なだけで、その原動力となるのは、自己への過信、自惚れ、思い上がり、要は、プライドが極端に高く、自分の感覚を正しく優れたものとする認識が根底にあるが故、対立的な意見を自身への存在否定として被害妄想的に解釈し、微々たる相違にもヒステリックに反応し、我意を突き付けなきゃ気が済まない、許せない、受け入れられない、それをさも、自分が被害者で相手が加害者、正義の抵抗、弱者の訴え、権力への反乱の如くイタイ立ち回りを披露して、英雄気取りの勘違いに陥っているとしか思えない——周りと異なる態度を取る自分、群れから距離を取る自分、他人と慣れ合わない自分、常識に疑問を抱く自分、世の中を斜めに見ている自分、既存の習慣に逆らう自分、空気を読まない自分を、格好良く、非凡な、孤高の証明であるという高慢な選民意識に嵌まり、もはや、意見の内容云々以前に、調和を乱し、水をさし、空気を読まない事それ自体が目的になっている様にさえ見えるのだ。


 班ごとに分かれた授業の際、賑やかに言葉を交わしながら皆で作業を進めている中、Dは終始非協力的な態度で、輪に参加せず、会話に入らず、こちらが気を遣って話を振っても、相変わらず冷ややかな表情、ぶっきらぼうな声で、素っ気ない返事をするばかりで、さすがに我慢できなくなったか、グループの中の一人が、そのあまりの突っぱねた姿勢に見兼ねて、思わず、怒ってるの? と、批判的な意味合いにしか聞えない率直な疑問を、呟くようにそっとぶつけてしまった事がある、

「は? 別に、普通だけど」

「だって、何か言い方がきついし、話に加わってくれないし、ムスっとしてるように見えるし……」

「だから? 何が悪いの? 何で興味のない話題に乗っかって、面白くもない話に笑わないといけないわけ?」

 Dの態度はいつもこうである、そうして最後には、まるで口癖、決め台詞かの如く、ここぞとばかりに、「同調圧力」なる概念を口に出して、周囲を黙らせようとし、どうもその言葉さえ使えば勝ちだと思っている節が見られる——キョーコはやはりこういうDの論調に反発を覚える、何か勘違いしていやしないか、こちらは何も、無理に話を合わせ、無理に笑い声を上げ、無理に自分を偽って、周りと同化しろと言っている訳じゃない、ただ、人としての最低限の礼儀を求めているだけだ、他人と異なるのは当たり前で、それでも他人と協調しなければ社会生活は成り立たないのだから、相手への一定の敬いや礼節を求められるのは当然で、ただ普通の、悪意のない、棘のない、自然な、素朴な態度を取れば良いだけの話であり、Dの態度は、明らかに「自然」の範囲を逸脱しており、その無表情、そのだんまり、その消極性は、どう考えても、一つのはっきりとした我々への意思表示であり、それは即ち侮蔑、嫌悪、反発の感情の表れで、自分を一段高いところに配置して、周囲を見下す意識が隠されているとしか思えない。 現に、Cだって、断るときは普通に断るが、その断り方も快活で、明朗で、却って気持ちが良いくらいだし、積極的に輪に入る訳でもなければ、無理に笑ったりもせず、表情の動きは至って乏しく、反応も基本は淡白である、しかし、そこに何ら悪意を感じさせない、嫌な感じは受け取れない、なぜならそれが当人の資質において自然であり、元来こういう人だからだ——これは丁度、店員の接客と一緒で、いわゆる「愛想のない」店員、表情が淡白で、声に張りがなく、身振りが乏しくとも、それが気に障る店員と、全然気にならない店員がいるのは、当人の持つ本来の人柄に態度が適合しているかどうかを、細部の様子から読み取って本質的なやる気と気遣いの有無を客側が判断するからであって、また、目下の人からのタメ口も、引っ掛かる場合もあれば自然に感じる場合もあり、それは相手の表情や抑揚、声質や挙動に、愛嬌や無邪気さ、友愛や人懐っこさが見られるか否かが判断を分かつからであろう。

 ある作品を面白いとは感じなかったとやんわり述べるのと、面白くないと冷たく言い切るのは別である、テレビを見ないと淡々と質問に答えるのと、テレビなんて見ないしと強気な語調で声高に主張するのはやはり別である、前者は害意や優越意識は感じられず、飽くまで私的な事実だけを他意なく述べたいという謙虚な意思を感じるが、後者は明らかに批判意識や自尊の感情を剥き出しにした棘のある言い回しであって、個人の自由や多様性で済まされる問題とは限らず、そこに異なる立場への明確な攻撃的意図や侮蔑感情が含まれている以上、当然その言動に反感を抱く者が現れて文句を言ってきたとしても、それは言論弾圧や自由の侵害には当てはまらず、飽くまで向こうが先に仕掛けてきた批判に対する反論という正当な権限の範囲内のはずなのだが、しかし反論を受けた当の本人は、己の態度の正しさを飽くまで貫き通さんとするが為に、「自分の価値観や思った事を口にしてはいけないのか」と、こちらの応戦を同調圧力や排外主義の一種にすり替える事で黙らせようとするのである。 キョーコが覚えた違和感はそういう類のもので、他人と積極的に交わろうとしない事と、他人を積極的に遠ざけようとする事は、やはり同じではないはずだ、Dは明らかにこちらを有害な、面倒な、厄介な、信用できないものと見なしている節があって、なるほどそれが実際に客観的に見て正しい判断なのであれば誰も文句は言えまい——しかしこちら側からすれば、自分達を「付き合うに値しない低レベルな種族」と卑下するような自虐的認識を施す事は出来ない訳で、周囲との交遊をあからさまに拒絶しようとする同級生が、どうあれその根源に不信と嫌忌が見え隠れしているのであれば、こっちはこっちで反感を覚えてしまうのも一つの権利であるはずだ(しかし高校時代のキョーコは、弱気な姿勢であれ殆ど同じような態度をクラス全員にとってしまうのだが)。

 人が人を避けようとするのは案件次第で善にもなれば悪にもなるだろう、しかしそれは個人対個人だからそう考えるのであって、個人対集団となるときまった見方が施されがちで、つまりは、集団と個人の関係を、加害者と被害者、悪と善の構図によって捉え、その罪状としていじめやら排外主義やら同調圧力やらが言い渡されるわけだが、これはおかしな話ではなかろうか、例えば、初めに拒絶的態度を取ったのが集団側ではなく個人側であったとして、集団とは言っても還元すれば一人一人の個人である、つまり個人側の人間は、身の回りにいる個々の生徒に対し、否という判断を下しているのであって、これは他者に対する拒絶なのだから、そこに嫌悪、憎悪、侮蔑、軽蔑等、何らかの否定的感情を持つ以上、無礼な、非常識な、軽率な、悪辣な態度という判断を下されてもおかしくはないはずで、単に少数派側は、数の上で圧倒的に不利である為に排斥する権力を持たず、集団的な力が働かず、孤立的な態度を取るしかないというだけで、どちらにしろ異なる存在への排斥の意思としては個人も集団も変わらないのではないか。

 一人の人間が一人の人間を嫌えば、悪と見なされる可能性を持つのに、一人の人間がより大きな対象、より多くの人間を嫌えば、悪どころかむしろ善や正義であると、つまり、その態度を「闘争」とか、「抵抗」とか、「反逆」とか、権力に対する弱者的立場の用語で形容され、美化がもたらされるのは一体どういう訳か、他人を嫌う事を必ずしも個人の自由で片付けてはならないのと同様に、ある個人が周囲の人々全般への排他的態度を示す事も、単に傲慢な意識から来る不当な軽視でしかないのであれば、特定の集団に対する差別的態度と言っても過言ではなく、たまたま当人もまたそこに属する一員であったというだけの話ではないか、それを、複数対個人という形式的な構図だけを見て取って、安易に少数派側、弱者側に同情を寄せ、善なる正義の被害者という評価を軽々に与えるのは、現代人が抱える時代病的な先入観、浅薄な固定観念に過ぎないのではないか(しかも、その複数とは、個人側による忌避的態度によって受動的にまとめ上げられた便宜的な括りであって、決して個人を排斥する意思の下に寄り集った意識的な共同体ではないのである)。

 仮に、不特定多数の偶然的な集まりに過ぎない複数人が、たまたま個々に同一の人物に対して反感を抱き、結果として多数に避けられている一生徒という状況が出来上がったとて、その現象自体に何の問題があろう、なぜ単純に原因が個人側にある可能性を考えずに、一人の人物を嫌う人間が自然的に複数となっただけで集団側が悪と断定され、単独者に対する否定の権利を奪われなければならないのか、それは言わば、刃物を振り回す通り魔を取り押さえるのに、警官一人で立ち向かわなくては卑怯であると言うようなものではないか。 自分は自分、わたしはわたし、それは結構だが、まるで周囲の人間を汚いもの扱いで、自分のテリトリーから締め出そうとすれば、こっちだって不快な気分に陥るのは免れざるを得ない、ある集団に恐怖を感じる人は、恐怖という感情から一見被害者的に見えなくもないが、「恐ろしい人達」という否定的認識を対象者に抱いている以上、向こうからすれば失礼な態度と思われても仕方がない、これを集団が個人に対して行えば、いじめだの差別だのとたちまち糾弾を浴びるけども、個人が集団に対して行ったってその心理構造は同じなはずで、たまたま排撃の対象が自身を取り囲む人々で、立場的に孤軍奮闘であるからと言ってどんな攻撃的態度も許されるなんて、そんな馬鹿な話あるはずがない、数が少ないから正しく、責めてはいけないだなんて、正しさに数なんて関係ないはずだ(正しさに数は関係ない、こういう類の言辞を我々は幾度も耳にしてきたはずだが、今この瞬間における「関係ない」とはむしろ、「数の多さ」ではなく「数の少なさ」なのである、かつて我々は数が多い事を論拠に正当性を押し通す時代を経験してきた、しかし現代はむしろ「数が少ないから正しい」という逆転された錯誤に陥っている、即ち「少数派は正しい」というバイアスこそが、現代版の「数の論理」なのである)。

 多数派が少数派に対して批判的態度を取る度に、いじめ認定や、差別認定や、同調圧力認定や、魔女狩り認定を食らうとなると、もはや、多数派は少数派に対して何も言えない事になってしまい、どんな少数派の傲慢も、横暴も、愚行も、多数派はただただ苦々しい思いを抑えながら一方的に屈従する破目になり、世のあらゆる存在や属性は、たまたま数の上で少ないという条件だけで「無敵化」する事になってしまうのではないか。


          八


 最後に、もう一人紹介したい女生徒がいる、Eというクラスメートは、恐らく最も癖のある、ややこしい、面倒な、手の掛かる人物で、何と言おうか、端的に形容すれば、所謂「かまってちゃん」とでも言うんだろうか、彼女は頻りに、自分を不幸に、被害者に、気の毒な人物に見せたがり、あらゆる手法を駆使しては同情を請い、慰めを要求し、憐れみを求め、可哀そうという形で構ってもらい、それによって自己の存在をアピール、他人の心に印象を植え付け、クラス内での一定の評価と地位を得ようという魂胆が見え隠れし、この世界を自分に用意された舞台と見なし、悲劇の主人公を気取って、度々周囲を煩わせ、困らせ、沈ませ、気を遣わせるのである。

 体育の授業か何かで団体競技が行われると、Eは基本的に身体能力が低く、意欲や積極性にも欠けている為、必然的に戦術上の穴となり、相手チームに狙われやすくなる、しかしそれは決して口裏を合わせた訳でも、意地悪な動機による訳でもなく、飽くまで一人一人が自然的に講じた戦略上の行為なのである、だが決してEはその様に受け取らない、彼女は普段の遊びでも、結果として攻撃の集中を浴びたり、得点に大差が付いたりすると、途端に自分が可哀そうで堪らなくなり、不意に泣き出して、いじめられたと騒ぎ出し、著しく空気を害するのである。

 Eは密かに忌み嫌われており、どの生徒も積極的につるもうとはしないのだが、キョーコの属すグループが、比較的大人しい、控えめの、温和な生徒の集まりなので、いつからかEが妙に付き纏って、いつもさり気なく混じって、さもファミリーの一員かの如く、当たり前みたいな顔でのうのうと加わって来る事があり、しかし、キョーコ含め他のメンバーも、性格的に邪険に出来ないたちなので、あからさまに無視や排斥は出来ず、かと言って、仲間として公式的に扱うのも何だか癪で、どうも負けた感じがしてしまう、なので、付いて来たいなら勝手に付いて来ればいいし、いないならいないでわざわざ声は掛けない、そんな放任の姿勢で、相手の自由に任せてそっとしておく事にした——そんな中、休日に、本来のメンバーで集まって、あるアーティストのコンサートに行った事があるのだが、後日、その時の思い出を皆で振り返っていると、何々? とEが顔を突っ込んできて、会話に入りたそうにしていたので、先日の出来事を脚色なくありのままに伝えた、すると、次の瞬間、Eは見る見る内に表情が沈んで、声が弱々しくなって、悲痛の面持ちを浮かべ、遂には、何で自分だけ省くの? 何でのけ者にするの? それっていじめじゃん、ひどい、などと涙ながらに訴え、非難の言葉を繰り出したのである。

 予期しない解釈に彼女達はまず驚いた、そもそもEを仲良しグループの一員という意識が無く、向こうが気まぐれで勝手に付いてきてるものだと思っていたから、声を掛ける必要などさらさら感じていなかった、仮に、普段から付き合いの深い間柄だとしても、偶然休日のイベントに誘いを掛けなかっだけで、いじめだなんだと深刻な言葉を以て告発し、被害者の意識において泣き出すだなんて、思いもしなかった——不意の涙に、驚きと、呆然と、反感の感情を表情に隠し切れない彼女達であったが、正面切った反論で返すと余計面倒な事になりそうなので、込み上げる不平をぐっと抑えて、ごめん、これからはちゃんと声を掛けるね、今度遊びに行こう、などと適当な慰めの言葉を掛け、無難に事を収めたのである。

 こういう事は一度や二度ではなかった、その度にクラスメートは内心反発を覚えながらも、Eの無遠慮ないじめ認定を怖れ、真っ向から不満をぶつける事が出来ず、腫れ物に触るように慎重に接し、独りぼっちの状況を作らないよう苦心する破目になった、Eもまた、教師に直訴、というより、教師に対して意味ありげな言葉や悲しげな表情を見せつけては、何かのっぴきならない事情を抱えている雰囲気を匂わせ、向こうから心配の声を掛けさせるよう仕向けており(こういう手法をEは普段からよく取った——何か複雑な背景を持っているとか、過去に辛い体験をしたとか、妙に思わせぶりな一言を、思わせぶりな表情でさらっと呟いて、如何にも「どうぞその先を聞いてください」とでも言いたげな訳ありの雰囲気を醸し出し、相手がそこに触れざるを得ない状況に追い込もうとする、その度にキョーコは、「また始まった」と内心では鬱陶しく思いながらも、何かあったの? と表面上心配する素振りを見せなければならなかった)、その際、はっきりといじめという言葉を使うのは避けながらも、同級生から不遇の扱いを受ける傾向にあるというニュアンスの主旨を吐露する事で、同級生から反論を受けないよう先手を打っていたのである。

 しかし、その担任の教師は、それより以前に、教え子達から、Eの特殊な性向、つまり、どうでもいい事ですぐ泣き出したり、安易にこっちを加害者扱いしたり、皆が自分を気に掛けるのを無暗に欲したり、その自己中心的な被害者意識の実態を、愚痴を漏らすように度々聞かされており、それが頭にあった以上、Eの言葉をそのまま受け取って良いものかどうか疑問が持たれ、かと言って、受け持ちの生徒から悩み相談を受けたとなれば、立場的に何もしない訳には行かず、その為、担任の教師はホームルームの際、Eがいない瞬間を狙って、クラス全体に対し——仲間外れとか、人が傷つく言動とか、いじめの発端となるような事は避けるように、何が人を不快にさせるか分からないから、不用意な言動はしない事、相手が悲しそうな表情を浮かべたら、すぐにごめんなさいして、優しい言葉を掛けてあげる事、そんな積もりは無くても、周りからいじめに見えてしまう状況を作らないよう普段から気を配る事、いいね? と形式的な紋切り型の忠告を行う事で、教師としての体面を損なわないよう保ち、同時に、生徒達を責めるようなきつい言い回しは避けて、Eに対する皆の不満が溜まらない事にも配慮しており、実際彼の口調や表情には、「教育界全体がいじめの問題に過敏になっているから、何とか丁重に、無難に、優しく扱ってくれ、俺も立場上難しいんだ、申し訳ない」というメッセージが暗に込められている様に感じた。


 Eは周りの皆が自分を構ってくれないと気が済まず、まるで可哀そうと思われる事に快楽を感じ、皆が慰めてくれる瞬間が至福の時で、女の子が大好きな「共感」の変種たる「同情」を利用する事で他人との結びつきを感じ、不幸を匂わせる事で自己の評価を上げようと企み、ある種の自惚れに陥っている風にも見えた——周りを取り囲む人々を、醜くて、浅ましい、低劣で、横暴な、身勝手な人々と規定し、その中で、不幸に晒され、孤独を耐え忍び、人のエゴに傷付きながら、懸命に生きている自分という構図を描き、自分自身を、とっても心の繊細な、感受性豊かな、素朴な、清らかな、高邁な、人と違うものを持った特別な存在と見なして、隠れた驕りに浸っているとしか思えず、表面では、どうせわたしなんて……みたいな事を言っているが、よくよく聞いてみると、自分を卑下すると見せ掛けてその実、巧妙に自分を持ち上げている言動が目に付き、昔から少し変わっていてうまく場に馴染めないわたしは、人より本物を見抜けていて、優れた感性に恵まれているのだと、他者に対する自己の優越意識が見え隠れしており、それを示すように、いつだかキョーコは、Eからポエムめいたものを見せられた事があったが、そこに記されているのはとにかく、わたしは、わたしは、わたしは、とひたすら自分の世界に入り込んだ自己陶酔的な文章ばかりであった。


 自然との触れ合いを目的とした、学年全体のレクリエーションが海沿いの森にある施設で実施され、釣り堀で食材を自ら調達するプログラムがあって、その時、キョーコのグループの一人が、普段中々放流される事のない珍しい大物の魚を釣り上げて、その瞬間現場は大いに湧いて、管理人も驚きながら褒めてくれて、皆が集まってきて、記念写真を撮って、今日一番の盛り上がりを見せたのだが……しかし、次の瞬間、まさかの事態が起きた、Eが泣き出したのである、彼女曰く「お魚さんがかわいそう……」。

 え……? 皆一様に引いてしまった、この期に及んで、急に被捕食者に感情移入して、憐憫の言葉をはっきり表明し、悲痛の表情を露骨に浮かべて、ぽろぽろと涙を垂らす、するとどうだろう、必然的にこちらは悪者扱いで、「生き物の命を軽々に弄ぶ邪悪な人間達」と、「弱き者の目線に立つ慈悲に溢れた心優しい女の子」という構図が出来上がる、途端に空気は盛り下がり、現場は白け、誰もが呆然として言葉が出なかった——じゃあ彼女は菜食主義者なのかと問われれば全然そうではなく、給食に出された動物性食品を平気でパクパク食べる、つまりそこにあるのは目の前の皮相な印象に流された畸形的な動物愛であり、自身の情け深さや思いやり、独自的切り口や多角的視点を出し抜けにアピールしようとする独り善がり、及び孤独で傷付きやすい被害者気取りのナルシシスティックな自己像を重ね合わせた、飽くまでも自分自身に向けられた同情と耽溺の反映、要するに、今回のイベントで己自身がいまいち目立っていない事への強引なる奇策としか思えなかった。

 こういう風に、自己アピールの一環としての余計な一言を呟いて、場を急激に白けさせ、水をさし、盛り下げる様なけったいな事をEは平気でやるところがあって、皆で普通に楽しくわいわい、賑やかに話が弾んでいても、その会話や遊びの流れの中に出てきた一つの発言や行為を掴まえては、自身の持つ不幸なエピソードと繋ぎ合わせ、急に過去のいじめ体験だとか、ペットの喪失とか、人間関係のいざこざやら、事故やら病気やら、深刻な話題を強引な連想によって放り込んできて、その度に会話の流れが止まって、楽しげな雰囲気が台無しになって、重たい空気が漂うのである。

 Eは自身の悲劇的な体験や悩みの吐露を、時と場合を考慮する事なく、所かまわず放出し、しかもそれをどこか自慢気に、人としてのステータスかの如く露悪的に語るところがある——どうしてそんな事をするのか、キョーコには理解不能だった、不幸の告白にも節度やマナーが必要ではないのか、深刻な面持ちで言われた以上、それを冗談にしたり無下にしたりする訳にもいかない、相手の憂鬱に同化して、心情に入り込んで、悲しみを共有して、まるで自分もその不幸を抱えたかの如く陰気に振舞わなくてはならない、心配という感情は不安の一種、つまり自己ではなく他者の身に対する不安であり、当然の事ながら不安は一つのストレスである、となれば、己の苦悩を押し付け、己の心身を気に掛ける事を強要するのは、相手に重圧を背負わせ、同じ苦境へと引きずり込み、悩み苦しむ人間を無益に増やすのと変わらないのではないか、わざわざ大勢がいる前で、陰鬱な話題を提供して、気まずい空気を味わわせ、他人の愉快な時間を奪い、楽しむ行為を抑えつけ、気分を沈ませる、それはもはや、他人が幸福なのが許せないという妬みの変形であり、わたしの事を第一に考えろという独善的態度に過ぎないのではないか(ところで、こういう現象は古くから殊にメディアにおいて盛んに繰り広げられている、つまり、世の中のあらゆる言動や表現を、人類の悲惨な歴史や、痛ましい災害や、惨たらしい凶悪事件のイメージと是が非でも結び付け、細かな表現を取り上げては強引に連想を促し、「不謹慎である」、「配慮が足りない」、「意識が低い」、「歴史に無知である」、などと言っては勝手に被害者に成り代わって正義の鉄槌を下し、自粛や謝罪や撤回を頻りに要求し、表現の自由を徹底的に弾圧し、世の中から一切の娯楽を駆逐せんとするのである——もはやこの世に一人でも不幸やトラウマや悩みを抱える人間がいる限り、全人類がその最も深刻な部類に位置する人間と同化し、何を行うにも全力で気を配って神経をすり減らし、気分を害する可能性が無いか執拗に頭を悩ませて不安を抱き、少しでも誰かの気に障るようであれば即座に催しを中止し、苦難者を差し置いて朗らかな気分に浸るのを断じ、他人の苦悩を自分のものとして受け取って不幸を分かち合い、皆で手を取り合って暗鬱な気持ちに没入しなければならないらしいのだ)。


          九


 体育の時間、バレーボールの最中に、相手側が放った緩やかな山なりのボールが、のろまなEの頭部を直撃した事があった、無論故意によるものでは無いのだが、ボールが当たった瞬間、Eは、頭を押さえて、その場にしゃがみ込んで、うずくまって、無言のままじっと動かなくなってしまった、その姿を見た周りの女子達が、一斉にEの下に寄り集まって、ボールを放った生徒も、Eの目線に合わせてしゃがみ、背中に手を当て、顔を覗き込むようにして、心配と悲痛の表情で、大丈夫? 痛かった? ごめんね、わざとじゃないの、と声を掛け、プレーはしばし中断され、現場は不穏な空気に包まれた——そんな中キョーコは、他人の手前、一応駆け寄って、形だけでも輪の中に参与し、心配する雰囲気を体面上装ったのだが、内心はその一連の光景に強い違和感、或いは反感を覚えていた。

 まず第一に、素人がふわっと軽く放ったバレーボールが頭に当たったとて、うずくまって動けなくなる程の痛みがあるだろうか? 皮膚の表面に一瞬の刺激が走るくらいで、内部に響くほど長く引きずるような重い鈍痛がもたらされるとは思えず、仮に自分であれば、痛みに意識が奪われてもそれはほんの一瞬で、即座にこのハプニングを客観的に眺めた時の滑稽さや、攻撃側及びチームメイトに心配を掛けまいとする気遣いから、大丈夫大丈夫と自然と笑みがこぼれ、ユーモラスな言動で返したっていいはずで、ハハハと笑い飛ばせる程度の、事故、というより、取るに足らないドジ、ミス、笑い話にすら思われ——なるほど、痛みの感覚は人それぞれに違いない、しかし、仮にそれなりの強い痛みが走ったとしても、痛苦の感覚を緩和するにおいて、声を出したり、動き回ったり、笑い飛ばしたり、何らかのアクションを起こして気を紛れさせた方がよっぽど有効と思われるのに、Eはその逆で、ボールが当たったのと同時に、その場にしゃがみ込んで、声を発さず、体も動かさず、意志を持たないうなだれた石像の如く固まってしまって、意識を失っているのかとさえ思われる程ぐったりした様子で、正直なところ、邪な見方かもしれないけど、わたしにはどうも、彼女が痛みを積極的に味わい、自分の世界に入り込み、可哀そうな己の姿に心酔して、さあわたしを見てください、この哀れな悲劇の女を、皆で慰めてくださいと、周囲にひけらかしているようにさえ見えてしまうのだ。

 女の子のこういう光景を今まで何度か目撃した事があるけど、あれは一体なんなのか、わたしには不思議でならない、一体頭の中で何が起きてるんだろう、あの瞬間何を考えてるんだろう、わたしなら、周りの空気や視線に耐え兼ねて、極度の苦痛でない限り自然と起き上がって余裕を誇示してしまうだろう、軽い将棋倒しが起きた時や、ボヤが起きて現場が混乱した時、その場にいた女の人が地面にぐったりと倒れ込んで、一定時間じっとして動かなくなる瞬間がある——別に頭部への強い物理的衝撃があったようにも見えないから、決して気絶している訳じゃないだろう、つまり一種の錯乱状態というか、解離状態というか、精神的なショックやパニックによるものなんだろう、男の人が意識をしっかり保つ事で痛みを解決しようと悶えているのに対して、女の人は理性を放棄する事で苦痛を感じる意識そのものを遮断しているように思え、女性の方が痛みに強いと言われる俗説や、ヒステリー的な症状に陥りやすい傾向は、苦痛を前にした時の対処法の違いから来るもの何だろうか。

 キョーコが目の前の光景に覚えた違和感は、Eに対する不信だけではなく、周りに寄り集ってくる生徒達の行動に対しても同様だった、つまり、彼女達は皆、苦痛に浸っているEに駆け寄って、その身を案ずる表情と言葉を懸命に投げ掛けているが、どうもそれが、嘘臭いというか、表向きというか、形だけというか、実際は腹の中じゃ、「この程度で一々うずくまるな、わざわざ中断させんな、大袈裟なんだよ、演技はいいから早く立て、かまってちゃん発揮してんじゃねえよ、被害者面しやがって、面倒くせえなあ」、と口汚く罵倒している気がしてならなかった——つまり、嘘の痛がり方に対して、嘘の心配で返し、嘘と嘘が会話し、実体はどこにもなく、本体の代わりに幻影が、仮象が、幽霊が、ダミー同士がコミュニケーションを交わし、生身の人間が疎外される……普段からキョーコが女子の生態に対して疑心を抱く点が、この光景に全て詰まっているように見えてしまい、彼女は溜息の出るような失望と馬鹿馬鹿しさを感じ、同時に、その張りぼての輪の中に放り込まれ、周りと同じように嘘の態度を繕っている自分が、とても歯がゆく、苦々しく、苛立たしく思った。


 こういう姿を見させられると、男と女は違うものだという感を深めざるを得ない、いくら世間で性差に言及する事が禁忌とされ、男女の相違を語ればたちまちバッシングを受け、性差認識の虚構性、構築性、作為性を訴える声が強まろうと、キョーコの様な女、つまり、幼少以来ずっと周囲の女子達を懸命に観察し、粘り強く生態を分析し、実際的な傾向を見出し、構築された独自の理論に則った賢明な対策を切実に講じ、場に応じて態度をあくせくと使い分け、集団内の迫害や対立から逃れようと決死の努力を払ってきた少女にとって、性差の区別を頑なに拒否しようとする盲信的態度は、生ける男女の実態を無視した能天気な理想論として一蹴されざるを得なかった——一体、男女の平均的な違いを見極めて、それぞれの性別的傾向に適った制度を施し、必要に応じて柔軟に扱いを切り替え、各集団に見合った商品やサービスを開発したり、作業や仕事を便宜的に振り分けたりする事が、そんなにいけない事なんだろうか? 却って、ジェンダーに関係なく、一面的な認識を施し、異なる対応を禁止した方が、よっぽど抑圧的で、不合理で、非効率的で、互いに不利益な結果となるんじゃないだろうか、一般論や多数派に漏れる人間がいたって、そんなの誰だって、ある部分においては少数派側に属するわけで、その都度順応に努力を払う事、或いは多数派側に回った際に利益を被る事は、皆お互い様なのだから、自分が偶然例外的な存在であるからといって、一々ガミガミとクレームを入れて、差別だの偏見だのと騒ぎ立てて、各ジェンダーのイメージを持つ事自体を禁じるのが、本当に正義なんだろうか? それを言い出したら、何も認識するな、何も記憶するな、何の印象も思い浮かべるなと言っているのと変わらず、次々と社会的な不都合が生じてしまうんじゃないだろうか? 自分がマジョリティに合わせてあげよう、こっちが特殊だからしょうがないと、少数派側が歩み寄る事も、一つの思いやりであり、多様性の尊重なんじゃないだろうか。


 進学先を決める際、距離や学力的に見ると女子校の選択も有力な候補の一つだったのだが、個性の平均化が半ば強制的に参加条件を成しているかのような女子社会において、キョーコの様に自意識の強い女は、その世界に身を置くだけで苦痛極まりないもので、これまで女の世界や風習に疲れ、苦しみ、振り回され続け、その本性を見続けてきた彼女にとって、男子生徒の存在は、女子の陰湿且つ狡猾な潜在的二面性の発露に対する、一種の制御装置の役割を果たしており、その機能が働かないとなると、女同士の遠慮なき本性が思う存分発揮され、何か見てはいけないものを見てしまい、恐ろしいトラブルに巻き込まれるのではないか、そんな歪な偏見から、どうにも抵抗を感じてしまって、今一歩足を踏み入れる事が出来ず、結局これまで通り無難に共学の道を選ぶ方に落ち着いた、しかし、どちらにしろ、いざ高校に進学してみると、彼女はもはや、人と平凡な意思疎通を図る事さえままならず、勝手に壁を作り、通信を遮断し、内にこもる慣習が身に付いてしまっていて、中学三年間、同じ生徒とばかりつるんでいた為か、自分がゼロの状態から新しく人間関係をまともに築けない程、社交下手の病が進行していた事に本人も気付いておらず、こうなるともう、女子校だの共学だのという区別は殆ど意味を成さず、却って女子が男子に自己の存在をアピールするが如く金切り声をあげる瞬間や、裏表のスイッチを切り替える場面の目撃が、キョーコにとってストレスとなっただけの様にも思えた。


 中学卒業時、彼女の胸にあったのは、どちらかと言えば希望の方が大きかったのだ、それは結局、これまでの学生生活に対する反動であった、過去の人間関係を振り返ってみると、何でも言い合えると同時に言葉を発さずとも分かり合えるような、遠慮も気遣いも必要としない、そばにいるだけで心強くなれる、互いに確固たる信頼で繋がっている本当の友達は一人もいなかった、言葉の少なさや、礼儀の欠落や、短所の指摘や、正直な異論が、敵対ではなくむしろ友好の証明となるような親密な関係を一度も経験した事がなかった、それどころか、一度も本音で、自然体で、素顔で人と向き合った事すらなかった、こんな事を言うと傷付けるんじゃないか、不快にさせるんじゃないか、嫌われるんじゃないか、何を言う時も必ず一度頭の中で練って、警戒を持ってからでないと、言葉に表現する事が出来なかった。 今までの友達は、友達じゃなかったのだ、仕事仲間や顧客、つまりはビジネス的な繋がりに過ぎず、学校生活を無難に進める為の、己の身を守る為の、トラブルを避ける為の、契約上の友達であり、幾らでも代わりの利く、交換可能な道具の利用でしかなかったのだ——人と違うリアクションを取り、反対の感想を述べると、たちまち浮かない顔をされ、緊張が走り、気まずい空気が流れてしまう、たわいもない遊びやスポーツですら、ふわふわへらへらしながら、飽くまでこちらに敵意がなく、傷付けるつもりが無いことを分かりやすく表明しながら立ち向かわないと、簡単に亀裂や不穏が生じてしまう、本音で討論しようと思えば、すぐに喧嘩や仲違いの域まで極端に突っ切ってしまう、相手の短所や失敗を冗談にして距離を縮めようと思えば、容易に傷付いてしまう——だから、いつまで経っても他人行儀な、虚礼的な、本心を隠した付き合いから先へ踏み出せず、ちょっとした出来事で簡単に崩れ去り、途端に裏切りが生じてしまうような頼りない関係性しか築けず、ひたすら表面的な、事務的な、当たり障りのない、見え透いたコミュニケーションばかりが続く……そういう偽善的な人間同士の在り方を、仲が良い、平和的、美しいと解釈する文化に、キョーコは付いていけなくなった。 幼い頃は、人目を気にせずありのままに振舞っていたせいで、容赦ない悪罵を掛けられ、村八分の扱いを受け、汚いものを見るような目で蔑まされていた、そんな乱暴な力関係が嫌だったから、最底辺の地位から脱しようと、皆に気に入られる人間になる事を目指して、ひたすら周りの子供達に合わせる為の涙ぐましい努力を注いだ、するとどうだろう、それはそれで今度は、偽りの人間関係を維持し続ける為の苦しい演技を強いられ、不毛な会話をやり過ごし、意見の一致を無理に繕い、無神経な言動を受けても反発を押し殺して笑って受け流し、面倒な頼み事や誘いも決して拒否せず、徹底して自分を抑えつける日々に煩わされる破目になった——偽物の言葉、偽物の表情、偽物の共感、偽物の友情、もう嫌だ、もうたくさんだ、もう誰とも話したくない、誰とも関わりたくない、人の世界から抜け出したい……。


 人に合わせない事によって生じる苦難と、人に合わせる事によって生じる苦悩と、その両方を十分に経験したキョーコは、高校生になった今、人との接触それ自体を拒むしかなかった、単純に自分と感覚がばっちり一致する奇跡の様な相手と出会えれば良いものの、相変わらずキョーコにとって他人とは理解不能な謎の存在で、むしろその内面的な隔絶は幼少期より加速化している様にすら思え、自分の中の文化や世界観は年齢に比例して誰とも違う独自の方向へ発展していくばかりであった、すると必然、同級生とは話が合わなくなる、言葉に表現できない空気感や雰囲気、コミュニケーションの形に絶望的な距離が生じる、一緒にいても、遠くに離れているみたいな存在の断絶を感じる、生き物として別種というか、同じ空間なのに別の次元を生きているみたいな絶対的な孤独と空虚を覚える。

 一番の問題は彼女が他人の視線や心情を過度に気に掛けてしまう点にある、他人と異なると言ったって、誰だって少なからず特殊な性質を抱えているし、個人的な嗜好やルールなど皆不揃いなのが当たり前なのだが、細かな相違は一々気にせず、大体で仲間を選び、何となくで付き合い、気の合う部分にだけ目を向けるのが世間というもので、精神の厳格な結びつきなど求めやしないものだ、しかし、キョーコにはそれが出来ない、それは彼女が、他人にどう思われているかに過敏で、自分が否定される事態を極度に恐れているからで、己の飾らない素直な言動が、人と軋轢を生んだり、人を不愉快にさせたり、人から笑われたりする事に耐えられないのである——故に彼女は、「完全な理解者」、「全面的な共感者」を欲してしまい、他人との中途半端な付き合いが出来ず、どうしても他人を「親友か敵か」で考えてしまう傾向にあり、例えばCの様に、固定のグループに依存する事なく、マイペースな生活を守りながら、緩く穏やかにクラスに溶け込むという生き方が出来ず、互いに激しく依存するか、一切接触を持たないかのどちらかに偏ってしまうのだ。 自分を前面に出して嫌われるのも嫌だし、自分を偽って興味のない他人と付き合いを持つのも嫌だ、この二つの道はどちらもたっぷり味わわされてきた、しかし社会で生きている以上必ず他人という存在は付き纏う、となればもはや、自分が進むべき道は、そもそも他人に自分を意識させない事、存在させない事、透明人間になる事、つまり、外部への遮断、閉鎖、籠城、言わば、「外の中の引きこもり」——これが対集団的姿勢として彼女の辿り着いた最終形態であった。


 こうして我々は冒頭の描写に戻るのだ——彼女はこういった逃避的態度を、自分らしさを傷付けない為の正当防衛だと信じていた、しかし、今のキョーコのどこが自分らしいと言うのだろう、むしろ、今までとは比ではないほど素直な自分を地面深くに埋めて隠し、何者でもない空白の人間に成り下がっているではないか、他人の視線を強く意識しすぎるが故の孤立である以上、これこそ最も演技がかった姿であって、自分というものは微塵も存在せず、ただ人とぶつかる事を恐れ、嫌われる事を恐れ、恥を掻く事を恐れて、誰にも興味を持たれまいと、暗くて無口な生徒という役を全力で演じているだけではないか……。



   後編


          十


 キョーコにはどこにも居場所がなかった、学校に居場所がなく、家の中にも居場所がない、まして社交性も行動力もない彼女に、それ以外の空間に新しい安住の地を発掘する勇気があろうはずもなかった——学校生活に馴染めず、人間関係から逃げ出す事を目的に、別の世界に飛び込んだ事を深刻に語る人がいるけども、それだけの度胸や大胆さがあれば、まだマシな存在なはずで、より繊細で、神経質で、柔弱で、過敏な人間は、そう易々と退学に踏み切ったり、家族や近所の視線を振り切ったり、より複雑で大きな世界へ飛び込むだなんて、そんな思い切った行動は取れやしないものだ、彼女はそう思った。


 キョーコは一人っ子であったが、彼女にとっては父も母も、祖父母も、親戚も、身内は皆一様に謎の存在で、到底分かり合えるとは思えず、よその子供として見知らぬ大人を眺めているような奇異な感じが、思春期になるに連れて増して行く一方であった——例えば父は、昔から寡黙な人で何を考えているかよく分からず、用事のある時以外ほとんど言葉を交わす機会がなく、職場も自宅からはそれなりに距離がある為、早く家を出ては遅く家に帰ってきて、在宅の時間がそもそも少ない状況にあり、特に単身赴任の時期は稀にしか帰ってこない為、キョーコが高校生になってからというものの、父と顔を合わせ同一の空間を共有する度に、向こうは何とも思っていないだろうが、こちらとしては妙に照れ臭く、気まずく、まるで初対面みたいに他人行儀な態度を取って、実の父親に人見知りしてしまうところがあって、話し掛けるにも相応の思い切りを必要としなければならなかった。


 しかし、最近のキョーコにとって一番厄介なのは、年の節目や冠婚葬祭の時にやって来る親戚の存在であった——彼女が高校生になった直後、祖父が亡くなって、その葬儀の為に、親戚一同がキョーコの家に集ったのだが、その際彼女が深く気に病んだ対象が、母の姉の娘、つまりはいとこに位置する、同い年のFという存在であった。

 大抵の者はそうであろうが、小さい頃はいとこ同士顔を合わせる度、余計な事を考えず仲良く遊び、いつまでもこの時間が続くのを望み、いざ別れの瞬間が訪れると寂しさを感じ、すぐに次の再会を待ち侘びるものだ、しかし、時が進み、成長を重ねる中で、徐々に互いの趣味や空気感、相性に懸隔が生じ、性格的な相違が明瞭になってきて、見えない壁が自然と築き上げられ、暗に双方が敬遠し、顔を合わせるのが億劫になり、いつしか全然連絡を取らず、積極的に訪ねる事もなく、年始や盆になっても親だけが帰省するようになる——こういう現象はそう珍しくないであろう。

 しかし、祖父の葬儀となると流石にそうは行かない、当然Fはやってくる、最後に会ってから一年は経過している、思春期における一年というのは中高齢者の一年とはまるで重みが違う、信じられない程の変貌を遂げる人だっている、前回会った時も既にお互い若干よそよそしく、その会話や笑顔には社交辞令的な嘘臭さがあった、その子と久々に顔を合わせるのだ、ああ、気まずいなあ、何て喋ればいいんだろう、顔を合わせた時、どんなリアクションで迎えればいいんだろう、到着した途端に飛び出して笑顔で出迎えるのも何だか白々しい、かと言ってしばらく自分の部屋から出てこなかったらわざと避けている感じを与えかねないし、いざ大勢の親戚の前に姿を現さなければならない段階となると、満を持しての登場の様で異様に気恥ずかしく、顔を見せる切っ掛けを失って永遠に部屋から出られなくなってしまう、せめて無邪気な子供達が複数いれば自然とその喧騒に紛れるだろうけど、少なくとも昔から付き合いのある相手はFだけなので、幾ら遠い親戚の覚えのない小さい子供達がやってきたとしても、大したカモフラージュにはならないだろう、それに、周りの大人達からすれば、同い年で古くから度々顔を合わせているFとわたしが、互いに距離を置いて今一つ触れ合わずにいるのは、何であの二人いつもの様におしゃべりして仲良く交わらないんだろうと、妙な邪推や疑問、気遣いを場にもたらしてしまって、変に空気を害する事となるだろう、最悪の場合、二人の様子を見た無神経で鈍感な大人が、わたしとFの前で無遠慮にその事を突っ込んできて、途轍もない気まずさが二人に圧し掛かる事態を招くだろう、つまり、Fとの付き合いの問題は、彼女に対してだけでなく、他の大人達への体裁の問題でもあるのだ——祖父が亡くなった直後だというのに、キョーコが一番最初に浮かんだ気懸かりはそんな事ばかりであった。


 当日になって、親戚が家に到着した時、後々の面倒を考えて、結局キョーコは思い切って積極的に玄関で出迎える事を選択したが、Fの姿が目に入った瞬間、キョーコは少々面喰った——不良少女というか、陰気なギャルというか、些かやさぐれた印象を与える容貌、気怠そうな佇まい、近付きがたい表情、見るからにキョーコとは相容れないヤンチャな世界観が瞬時に看取され、思わぬ先制攻撃を食らったような心持ちがしたが、しかし、ここへ来て怯む訳にも行かず、勇気を振り絞って、「久しぶり」と手を小さく振り、必死の笑みを作りながら挨拶を投げ掛けた、すると、Fは条件反射的な笑みを小さく浮かべて、「うん」と一言だけうなずきながら呟くだけであった——これがキョーコには良い気がしなかった、こちらの善意による問い掛け、必死の歩み寄りに対して、その応答が少々素っ気なさすぎやしないか、もっと言葉のラリーが続くような、気の利いた返しをしてくれても良いはずじゃないか、嘘でもいいから、もう少し親和的な態度を繕うのが人としての礼儀じゃないか……。

 一応キョーコは、その後も二言三言、久々の再開時における形式的な常套句を慣例に沿って投げ掛けてはみたものの、至って相手の反応は乏しく、まるで「面倒な虚飾や社交辞令に苦労するぐらいなら、いっそ余計な会話はしないようにしよう」と事前に腹を決めてやってきたかの様にも見えた。


 その後、葬式が完全に済むまでの約三日間、キョーコはFとの距離感に酷く苦心した——お互い腹の内では面倒臭いと思っている癖に、それを堂々とは表に出さず、表面的な会話が上滑りしていくばかりで、子供同士の悲しい社交辞令が繰り返されており、葬儀の合間、待機中の過ごし方や、会食における席の位置取りなど、絶えず近づいたり離れたり、互いを無視するのも気が引けると同時に心のこもらない言葉のやり取りも煩わしい、そんな葛藤に振り回されながら、二人に対する周囲の視線も相まって、居心地悪い事この上なく、何をしてても息が詰まるようで、とにかく全てが一刻も早く終わりを迎える事を熱心に祈るばかりであった。

 葬儀終わり、近しい親戚のみがキョーコの家に集い、複数の大人達とキョーコ、Fがリビングでくつろいでいた中、不意に外から声を掛けられ、何らかの用事で大人達のみ一斉に外出する事となった、一同立ち上がって出掛ける準備をし始めたのを見て、キョーコは即時に危機を察し、激しい焦燥に襲われた——このままでは、わたしとFの二人きりになってしまう……キョーコにとって、特に仲が良い訳ではない相手と部屋で取り残されるのは、密閉空間に一酸化炭素を発生させるに等しく、一刻も早く脱出しなくてはならない猛烈な焦りと吐き気と苦痛をもたらすもので、それゆえ大人達がぞろぞろし始めた瞬間に、自分もこの移動に紛れて部屋を出て行こうかと考えが過ったが、それだとあからさまにFを避けた感じになってしまいそうで、一瞬二の足を踏んで出遅れてしまい、今更もう動けなくなり、さらには、最悪な事に、大人連中の一人が出ていく間際、「じゃあ出掛けてくるから、しばらく二人で仲良く」と、互いの存在を意識せざるを得ないような滅茶苦茶余計な一言を残していって、キョーコはただただ苦笑を浮かべるしかなかったのである。

 しーんとした部屋、さてどうしたものか、とにかく何か話し掛けないと、天井に押し潰されるような空気の重たさに窒息死してしまう、焦燥で一杯のキョーコは、取り敢えずFの方をチラと見て、何か言葉を紡ごうと脳内を高速回転させて適当な話題を死に物狂いで探索したのだが、何をしゃべりかけても芝居がかった空疎な素振りになってしまう気がしてならず、一方のFはというと、こんな状況に追い込まれてもまるで素知らぬ顔で淡々と携帯をいじり続け、その外面には一切の変化が見られず、至って平然とした態度を取り続けており、流石にこうして二人きりになってしまったのだから多少こちらに意識を向けてくれたって良いような気もするが、どうやらこの三日間で、皮相的な会話がいい加減面倒になったか、キョーコとの友和に見切りを付けたのか、もはや体裁を繕う意志、距離感を埋める配慮さえ感じられず、もうどうでもいいやと完全に開き直って、嫌いたきゃ嫌えばいいさと意思表示をしている様にさえ見えた。 地獄の様な気まずさの中、キョーコは瞬時に三つの選択肢を捻り出した——一つ、飽くまで粘り強くFに対話を仕掛ける、しかし、相手がまともに応対してくれるだろうか、如何にも迷惑そうな表情を浮かべられたら、それこそ決定打、致命傷であり、完全な絶縁宣言となって、修復不可能な状態に陥ってしまうのではないか、二つ、自分も携帯を取り出して時間を潰す、しかし、いとこ同士二人きりの空間で、明らかに互いを暗に意識し合っているのに、意思疎通を図らず各自別個の行動に打ち込むのは、客観的に見て奇妙極まりないし、ほとんど相手に喧嘩を売っているような、どちらが先にギブアップするかの根比べみたいな、絶妙な緊迫感のなか何にも集中出来やしないだろう、三つ、現場を離れる、なるほど、確かに部屋を出ていく瞬間は途轍もないばつの悪さに襲われ、背中にFの動かさない視線が突き刺さり、「こっちの存在が気に掛かって逃げ出したな」と思われる事必至であるが、どうあれこのまま居続けても何にもならないのであれば、一瞬の苦痛を我慢した後に解放された時間を長く過ごす方が遥かにマシではないか……三つの選択肢が書かれたボールが竜巻の如く吹き荒れ、その中に手を突っ込んで一つの決断を掴みだす——「部屋から離れる」。

 キョーコはおもむろに立ち上がって、葬儀の疲れと長時間座りっぱなしの為に、如何にも体がなまっているかの如く、こもる声を出しながら体を大きく伸ばす事で、違和感のない自然な起立を演出し、立ち上がったついでと言わんばかりに、ちょっとトイレ、と相手にちょうど聞えるくらいにボソッと呟いて、部屋を出ていく大義名分を拵え、リビングを離れてトイレの前まで移動すると、アリバイ作りとしてドアを強めに音を立てて開け、ちょうど用を足し終える程度の時間を中で待機し、そうして再びドアを開け、元の部屋へ戻ることなく二階の自室へと階段を上っていき、一度トイレに行くという名目で抜け出した以上そのままリビングに帰らなくても不自然ではないだろうと、別の目的を経由する事で部屋からの離脱に正当な根拠を与え、地獄からの滑らかな逃走を彼女なりに精一杯画策するのであった。


          十一


 結局、二人の距離感は最後まで縮まらぬままであったが、葬儀の期間中、キョーコにとってストレスの種となるのはFの存在だけではなかった——問題の形はまるで異なるものの、母とその二人の姉から成す三姉妹の存在が、キョーコには頭を抱えるほどの苦悶の原因となっており、Fが距離を取ってくるが故に苦心せざるを得ないのに対して、逆にこの叔母達は、距離を詰めすぎるのだ。

 何よりまず、キョーコの精神に著しい苦痛をもたらすのは、そのけたたましい騒音であった——昔からそうなのだが、母を含めたおばさん三姉妹が一つ屋根の下に集うと、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃと、騒がしいおしゃべりの祭典が瞬く間に開催され、取り留めのない与太話が次から次へと繰り広げられ、さらにそこへ、近所に住む祖母が加わる事で、もはや制御の仕様のない、四体の狂ったスピーカー、悪夢の様な雑音のカルテット、公害にも似た音の暴力が発生し、キョーコはいつもこれに深く悩まされおり、淑女達によるその怒涛のおしゃべりが、鉄と鉄をこすり合わせるような、工場の不愉快なけたたましい機械音となって、キョーコの耳をつんざき、鼓膜を打ち抜き、脳を揺さぶり、頭痛と胃痛をもたらし、甚大なストレスとなって、心身を疲弊、消耗させるのである。 一番の問題は音量ではなくその内容にある——同じところをぐるぐると絶えず循環するような、何が面白いのかさっぱり分からない、出口のない無内容な会話、相手の発言に対する返答として成立しているとは思えない、まるで一つのテーマに別のテーマで返すかのような、無理問答に近い、非論理的な、文脈の欠けた言葉の応酬、各人が持ち寄った、近親者に関する詰まらない情報に対して一々発せられる、怪鳥の叫び声のようなド派手なリアクション……彼女達がやっているのは音の交換だ、建設的な論議や確固たる目的を見据えた言葉のやり取りは一つとしてない、キョーコにはどう聞いても話が噛み合っていると思えなくとも、当人同士の中ではコミュニケーションが成立しているようで、要はどうでもいい話題を振って、大袈裟なリアクションを取って、馬鹿丸出しの哄笑をあげて、互いの信頼と無事を確かめ合う、それで十分なのだ。

 会話のうるささに留まらず、過敏で多感な年齢のキョーコに対するデリカシーのない踏み入った質問、それに伴う下品で無神経な笑い声の反響、自然的に強要される愛想笑い、仕舞いには、これ食べな、ここ座りな、これあげる、こうした方が良い、ほら、ほら、ほら、と目まぐるしく乱射されるお節介の弾丸——ああ、もう、話し掛けないで欲しい、そっとしといて欲しい、構わないで欲しい、早く帰って欲しい、苦しい、話を合わせるのが、表情を繕うのが、苦しい……。


 キョーコは普段から母を嫌っていた、単純に性格の悪い女だと思った、しかしその性格の悪さは、遠くから眺める第三者には一見分からず、身近な人間や洞察に優れた者にしか感じ取れないような、巧妙な性格の悪さに思えた——言わなくてもいい一言、神経を逆撫でする言い回し、無駄に尖った表現、冷ややかで粗野な返答、人を小馬鹿にしたようなリアクション、卑しいものを見るような目付き、それがまた、はっきりとした、明確な、直接的な暴言暴力でないところが、却って狡賢く、汚く、嫌らしく感じた。 表情の動きや言葉の節々に相手への侮蔑をそれとなく込めているのがキョーコにはありありと感じ取れるのだが、本人は至って、自分が何か悪い事でも言いましたか? とでも主張するかの様な、図太い傲然たる挑発的な態度で迎え、ストレートな言動を取らない事で非難への予防線を張っているようにも思えた——これが身内ではなく他人との衝突となるとさらに判然とした形で表れるもので、つまり、言いたい事を面と向かって憤然とぶつけるのではなく、むしろ温厚にさえ見える態度を繕い、怒りに満ちれば満ちるほど、外面には却って気品溢れるマダムの様相を取り、過剰な程の嘘臭い作り笑顔で、オホホホと笑い声を上げながら、よそ行きの甲高い声の調子で、丁寧な言い回しをしながらも確実に毒を盛り、ニコニコしながら言葉に棘を出し、威圧的なおどろおどろしいオーラを醸し出し、言外に憎しみを込める事で、それとなく真意を相手に仄めかし、文句を察知させ、隠されたメッセージを汲み取らせようとする、もしもその際知り合いを連れ添っているなら、その人に向かって聞こえよがしの大声で不満を述べる事で、間接的に標的の耳に届くよう攻撃を仕掛ける——こんな風に遠回しに、婉曲的に、暗々裏に本意を表現する事で、あからさまな対立構図に陥るのを回避し、安全な立場を保ちながらも、内心の苦情をしっかり相手に理解させようと企み、飽くまで自分自身が悪者に映らないように、潔白な善人として通るように、自分は何もしてません、何の暴力も振るっていませんし、面と向かって誹謗した覚えもありませんと、いつでも自分が被害者の立場に転換できるよう体裁を保ち、何かあった時に言い訳の利く巧妙な手口を取る……どうあれ自分は品行方正というスタンスから頑なに一歩を踏み出そうとしない、そんなところが、キョーコにはむしろ卑怯狡猾でしかない浅ましい下等な態度に思えてならなかった。


 母の腹立たしい、悪意ある、嫌味な言葉や表情がちらつく度、キョーコはストレスを募らせる、しかし、母は至って己の悪意に無自覚で、自分が何か不快な行為をしたという認識がなく、例えば「馬鹿」と言われたならその言葉を捉えて非難する事は可能だけども、母の侮蔑的意図は迂遠的な表現や細かい素振りを通して発現されるために、いまいちどう難詰すれば良いか分からないところがあり、そういう時、相手の言動をそっくりそのまま誇張して真似て見せる事で、その身振りの浅ましさを鏡として突き付けるという手法を人はしばしば取るものだが、それはそれでこっちが馬鹿で性悪な人間のように感じられて、繊細な自尊心を持つキョーコには強い抵抗が生じてしまうのだった。 たとえこっちが怒りを発しても、絶対に向こうは非を認めない、というか、何を非難されているのかすら理解する事が出来ない、己を客観的に見る脳が足りない、「その軽蔑するような目付きや表情や言い回しを止めてくれ」と訴えたところで、本人には何の事やらさっぱり分からないし、仮にそれを理解したところで、その細かな言動は否定的感情を伝達する一時的形式に過ぎないので、母の価値観が根本的に変わらぬ限り、また別の形を取って排他的意識が表現されるに違いなく、その度にああだこうだと指摘していたらキリがない。

 また、母の発言に明らかな間違いや暴論を見出し、それを指摘したとしても、こちらの言い分を理解するだけの理知がなく、体だけ成長した児童を相手にしているかの様に、論理的な会話のやり取りが成立せず、互いの言葉はすれ違うばかりで、永遠に議論が噛み合う事は無いし、母の記憶違いや誤認を正そうとしても、なぜか絶対に信じようとはせず、キョーコ本人に関する事ですら、何を言っても是正してはくれず、古いイメージを押し付けては、何度も同じ過ちを繰り返す……。

 論理の飛躍、認識の固定化、悪意に満ちた解釈、不合理な判断、無思慮な言動——いい加減にして欲しい、黙って欲しい、ほっといて欲しい、逃げ出したい、離れたい……母の姿を前にする度に、頭を抱え、精神を病みそうになる程の激しい負担に晒されるキョーコであったが、結局は諦念という形で乗り越えるしかない事に気が付き、仮に彼女が母の過ちを指摘しても、向こうが反抗の姿勢を少しでも見せると、キョーコは早々に見切りを付け、「うん、ごめん、こっちが勘違いしてた、何でもない」と降伏を宣言して敗北に陥らざるを得なかった——頭の悪い人間と頭の良い人間がいれば、必然的に賢者が愚者に合わさざるを得なくなる、何故なら能力的物理的に不可能だからである、早く走れる人間が足の遅い人間に合わせる事は出来ても、その逆は出来ない、よって賢人は愚人に妥協譲歩せざるを得ない、強制的な力で何とか出来るならまだしも、親と子の序列の中では何の権限も与えられず、排撃する事も離別する事も出来やしない、従ってキョーコは最終的に必ず屈服という選択を迫られるのであった。

 詰まる所こちらが気にしないよう努めるしかないのだけども、毎日同じ空間に居合わせ、言葉を交わす度に不愉快な言動に晒されては、感情を抑えられなくなる事もある、ある日、母との言い争いの最中、どうしても我慢できなくなって、まるで児童の兄弟喧嘩みたいに、思わず母の肩の辺りをえいと叩いてしまった、するとどうだろう、母はイタっと言いながらその個所を押さえ、顔を伏せてじっとした後、軽蔑の目付きでキョーコを一瞥するのみであった——これがキョーコには却って憎らしくて憎らしくて堪らなかった、むしろ暴力に対して暴力で返してくれたらどれだけ良かった事か、たとえ叩き返されてもそれ以上続ける気はなかったし、互いのストレスを一発ずつ対等な立場で儀式的に発散し合った方が、よっぽど友好的で健全なぶつかり合いの様に思え、一種のじゃれ合いと化してわだかまりが雲散し、笑顔を見せる事だって出来た、それを、これ見よがしに被害者風のリアクションを取り、弱者の態度を装い、演技がかった自己憐憫的な痛がり方で一方的に耐え忍ぶのは、如何にも悪人と善人という俯瞰的構図を当てはめられ、暗に侮蔑を込めながら距離を取られるようで、キョーコには遥かに不快であった。

 こっちとしては、相手の粗末な知性と野暮な精神の為に主張が理解されず、延々と話し合いが平行線を辿る以上、訴えを受理してもらうという意図を断念して、ただ胸の苛立ちを発散させる方向に切り替えるしかなく、それが母の様な無神経な相手には、痛打という物理的手法以外見当たらず、しかしそれは飽くまで、メンタル的に追い詰められた真の弱者の、忍従に耐えられなくなって思わず飛び出した、最後の抵抗手段としての、救いを求めるような決死の一振りであって、キョーコにとっては、元々向こうから不意に押し付けられたストレスという荷物を、ただそのまま相手にお返ししただけの話であり、先に手を出したのはあちら側なのであるが、例によって母は自分が娘に何かした覚えは無く、その不快な言動は無意識レベルで行われているので、自分を被害者と認識する姿勢を改めるはずが無く(一つ例を示せば、母には舌打ちや溜息癖の様なものがあって、キョーコがそれにムカッと来て舌打ちで返しても、母はさらなる大きな舌打ちであからさまにやり返すだけで、そこには自分の行為が諍いの起点となっているという認識がまるで見られず——つまり元々自分が先にやった事に完全に無意識であり、母にとっては正当な報復でしかなく、一回裏の攻撃に過ぎないと本気で思い込んでいるのである)、その上、児戯的なものとは言え一応暴力という形で応戦してしまった以上、通りすがり的な他者の視点においてはキョーコ側が不利に陥りがちなのは明白で、それがキョーコには途轍もなく苦々しく、関係上は子供という弱者である自分に対して、飽くまで非暴力の態度を貫く母の方が、遥かに汚い姿勢に感じられてならなかった。


 敵対する場合だけでなく、そもそも母のコミュニケーション文化がキョーコにはさっぱり分からなかった、人付き合いに関して外向的でおしゃべり好きな母と、人見知りの酷い内気なキョーコは、正に水と油であった——初対面の訪問客や、初めて行ったお店の従業員に対して、軽々しく声を掛けて笑顔で長々と不要な世間話を交わらせる意味が分からない、その度に長い時間待たされるし、母の頓珍漢な言葉に身内として恥ずかしい思いがするし、玄関先で話し込まれると廊下に出て行きづらくなるし、せめて自分がいない時にやって欲しいとうんざりするばかりであった。 こちらに分があるとなった途端に遠慮なくクレームを告げる大胆さや、分からない事があると即座に店員に聞ける行動力や、マニュアルにはない特殊な要望を平気でお願い出来る図太さが、キョーコには考えられない事であった——なんせキョーコはただ店員に話し掛けるのさえ勇気を奮い起こす必要があって、どうも自分が迷惑で面倒で厄介な客と思われてしまいそうで、何度も二の足を踏んではタイミングを逃し、最終的に目的を果たさないで帰ってしまう事も珍しくなかった。


 大人同士の付き合いを見てみると、何だか面倒というか、不合理というか、滑稽というか、不可解に思えてならなかった——近所の人が訪ねてきて、お土産だかお裾分けだか品物を渡され、遠慮の素振りをお約束的に見せながらも甘んじて受け取り、さて何を返せば良いかと酷く頭を悩ませ、あれこれ考え抜いた末にお返しすると、今度はそれへのさらなるお返しが贈られてきて、こちらも負けじと根気強く贈り返して……一体これは何の儀式なのか、まるで贈答品を武器として攻撃し、相手が戦意を喪失するまでターン制のバトルを繰り広げているようで、ほとんど嫌がらせの域に達しており、執念深い女同士の報復合戦にも似た、若干の狂気さえ感じさせる異様な光景、目をぎらつかせ、毛を逆立てた、戦闘態勢の野獣の様に興奮した様子で、これでもか、これでもかと、互いに物を押し付け合う不毛な闘争……お歳暮やら、年賀状やら、冠婚葬祭やら、金銭と物品が行ったり来たり、大して必要じゃないと分かっている品を贈る為に、互いに蓄財とエネルギーを消耗し合う——そんな母の狂奔を昔から見ていて、キョーコは不思議でならなかった、余計な贈り物など、初めからしなければ良いのに……。


          十二


 母が魚の調理か何かをしている時、溜まった油に反応したのか、あっという間に炎が燃え盛って、換気扇に届きそうな程の勢いで火が上がった事があった、途端、母はパニックを引き起こして、キャーキャーと叫び声を上げながら、妖婆の如き引きつった表情で、鍋や食器をひっくり返したり、どこで聞いたかマヨネーズをありったけぶっかけたり、まるで回転する独楽が所狭しとあちこち弾け回るみたいに、混乱に取り憑かれた様子で台所を猛然と駆け回っていて——直後、異変に気付いた父が、持ち前の冷静さ、平生からの情緒の平坦さを発揮し、迅速かつ淡々と、落ち着き払った様子で、キッチンに掛けてある手拭き用のタオルを、最小の動作で無駄なく手に取り、蛇口をひねり、水に濡らし、それをグリルにふわっと、全体を包むように掛ける、すると、燃え盛る炎は瞬時に勢いを失い、煙だけがモクモクと上がって、無事に消化される……のは良かったのだけれど、母が散々、余計な処置を施し、アクロバティックな大立ち回りを披露した為に、台所は泥棒が入ったかの如く滅茶苦茶に荒らされ、一家はその惨憺たる光景を前にして、巨大な台風が通過した後のような呆然と虚脱に支配されていたのだった。


 母の狂乱癖はいつもそうだ、キョーコが助手席に乗って、母が運転役を務めていた時、己の不注意でしかないにもかかわらず、車線をはみ出して、対向車とぶつかりそうになると、わーきゃー叫んで、ハンドルを右に左にと、周りの光景も目に入らず、アクセルもブレーキも分からないまま、激しく蛇行して、縁石に乗り上げて、危うく民家や通行人に突っ込みそうになって、結局は大事には至らなかったけども、そうやって不意の危機がやってくると、母は瞬時に冷静さを失い、頭が真っ白になり、パニックを引き起こし、我を忘れて不合理な対処に没入してしまう——何より我慢できないのは、まるでその危機的状況が、己のミスではなく、外部から前触れなく強制的に襲ってきたかの様に、恐怖で気が狂ったみたいに叫び散らす事や(それは向こうが覚える感情であって、あんたが取っていいリアクションではないはずだ)、落ち着いた直後に、ああ怖かった、もう嫌だわあ、と、まるで自分もまた犠牲者の一人で、何の落ち度も無く、偶然生じた自然現象かの如くに、罪の自覚や反省の色の見えない言葉を呟く事で、そこには他人あるいは自分自身に対しても責任を隠蔽しようとする欺瞞の心理が密かに働いており、キョーコはそんな母の姿を前に、その横面を思い切りぶん殴ってしまいたい衝動に駆られ、横目で睨みつけてじっと凝視しながら、心の中で目一杯軽蔑するばかりであった。


 こういう母をキョーコは非常に動物的だと思った、つまり理性や自我が確立されていないのだ、科学的な思考や客観的な視点を欠き、不測の事態に適切に対処出来ず、すぐに判断力を喪失し、論理的思考を放棄し、感情に任せ、狂乱に陥り、この傾向がより強まると、苦しみの感情から逃れる為に、現実的な問題の解決からは目を背け、意識の遮断の方を肉体が選択し、失神やヒステリーの様な解離症状を引き起こして、自ら理性からの離脱を図ろうとする——娘にはその姿が、目の前の現象に反射的なアクションを起こすだけの知能劣悪な下等生物に見えてならなかった。 キョーコが高校に入学して早々、急激な環境の変化と、学校及び家庭での孤独感によるストレスからか、原因のはっきりしない体調不良に襲われ、頭痛や眩暈、吐き気や微熱、その他様々な細かい症状があり、医者に自律神経の問題と言われた事があって、それは一か月足らずで自然に治まったのだけども、診察から数日たって、母が急に、ああ、何だか眩暈がしてきた、気分が悪くなってきたと、今まで一度もそんな事なかった癖に、やけにぐったりとした様子を見せ、自分もあんたと同じになった、年齢の影響かしら、などと症状を娘と同一視して、己の疲弊と体調不良を妙にアピールしてきた事があった、また、いつだか父が後方から追突事故を起こされ、首に一か月程度の怪我を負うと、その数週間後、母がスーパーの駐車場で、互いに低速度で走行しながらやんわりとバンパーをぶつけてしまった時、強い衝撃などなかったにもかかわらず、首がおかしくなったと過度に騒ぎ立てて、相手側も「そんなはずは……」と戸惑っているようだった。 つまり、母は「無意識の同化」を行っているのである——集団意識、帰属意識、共同意識が本能的に強く、自意識が欠落している為に、他者と自己との区別が曖昧で、身近な人物や目に飛び込んだものを無自覚に模倣、摂取、同一視してしまうところがあって(或いはそこには被害者意識の強さを動因としている可能性もある、つまり他人がある不幸な状況にあると、自分も負けてはいけない、自分の方がより苦しいに決まっているというある種の嫉妬心から、同情の対象として映るよう意図的に体調悪化を引き起こす心理が働いてしまう、要は不幸な自分に酔っているのである)、例えば人が鼻歌を口ずさんでいると自然にうつって自分も口ずさんだり、他人の特殊な言葉遣いをいつの間にか自分も口走ったり、つい周囲につられて本能的に同じ行動を取ってしまうのだ——なんて流されやすい人なんだろう、キョーコはそう思った、自分というものが欠片も無いんじゃないか、母は考えるという事を知らないのだ、頭の中がいつも空っぽだから、何にでも簡単に染まってしまうのだ(しかし、こういう暗愚な母の生態に対して、キョーコは軽蔑を覚えると同時に、何だか哀れで、悲しく、切なくも感じた、つまり、脆弱な理性を頼りにこれまで生きてきて、そうしてこれからも生きていかなければいけない事、自分でそれと意識すること無く、身を置く環境に流され、知覚されるものに洗脳され、混沌たる世に振り回されていく事が、何だか、無力な幼い子供が、劣悪な環境でもなお毎日を素朴に、純粋に、懸命に生き抜こうとしている、そんな切ない姿にも映り、運命の残酷さ、神の無慈悲を感じて、暗澹たる思いに駆られるのだった)。

 こういう姿は学校の同級生にも時折見られた——体育館や校庭に全校生徒が集められて、直立したまま長い時間が過ぎると、低血圧あるいは熱中症からか、気分が悪くなって座り込む生徒が出てくる、それは珍しくなかったのだが、ある時、一人の女子が座り込むと、それを発端に、まるで伝播するように、周囲の女子が次々に同じ行動を取って、中には明らかに様子を伺いながら座り込むような子もいて、どうもそれが、周囲に関係なく事実として体調が悪化したというより、一種の集団心理の表れの様に見えてならず、キョーコはそこに、自我の脆弱さ、影響の受けやすさ、無意識の一体化を見出して、心配や同情どころか、むしろ軽蔑の目で眺めていたのである。


          十三


 こんな調子であるから、度々キョーコと母親はぶつかるのだが、ある日、キョーコがいつも以上にやる気のない姿、気持ちのこもらぬ生返事、反抗的な態度を見せるものだから、到頭堪忍袋の緒が切れたか、母は甚だしく激高し、普段の軽い小言や注意とは異なって、長々とした本格的な説教が始まり、激しい剣幕で声を荒げながら、大体あんたはね、と、これまで溜まっていた怒りを矢継ぎ早に突き付け、感情を噴出させており、しかし、キョーコはキョーコで、どうせ言っても理解しないであろう数々の不平不満を普段から我慢して内に仕舞い込んでいるのだから、こっちだけ反省する姿勢を見せるのは不平等と思い、半ば意識的に無関心を装って、顔色一つ変えず、ソファーに腰掛けながら淡々と携帯をいじって、小うるさい瞬間をやり過ごそうとしていた……その時である、自宅電話の着信が鳴り響いた——とりあえず一旦休戦、と思われたが、母は全然無反応で、相変わらずくどくどと小言を浴びせるばかり、しかし決して電話に応じない訳ではないらしく、飽くまで説教は途切れさせず、キョーコの方を向いたまま、体の位置だけはゆっくりと、着実に電話の方へ接近し、厳しい顔つきで、罵倒を続けながら、留守と判断されかねないぎりぎりのコール数で、受話器に手に掛け、取り上げた、その瞬間……。

 どうであろう! 受話器を手にとってから、耳元に届くまでの、一秒にも満たないほんの一寸の間に、彼女の表情は、恐ろしき鬼の形相から、聖母の如き柔和な微笑へと変貌し、声のオクターブが三段階も四段階も上がって、まるで別人格が不意に飛び出してきたかの様に、鮮やかな変身を遂げたではないか……! にこやかに上がった口角、ぱっちり見開いた目、高く澄み渡った柔らかな声、直前まで苛烈な説教に専心していたという事実を、どうして相手が想像できよう——キョーコは、その極端な変貌を前に、おかしみが込み上げ、思わず苦笑を漏らしてしまい、その反応に気付いた母は、甲高い声の調子は些かも変えないまま、表情だけが先程の恐ろしい般若面に戻り、それだけでなく、発せられる言葉は間違いなく通話相手に向けたそれにもかかわらず、口の動きだけはキョーコに対する文句の口パクという、熟練の腹話術師にも劣らぬ見事な芸当を披露し、その姿にキョーコはますます可笑しさがこみ上げてきて……しかし、笑ってばかりもいられなかった、滑稽であると同時に、一体これは、大人の女であれば、本能的に誰でも出来るものなのだろうかと、ある種の恐ろしさ、おぞましさ、気味の悪さに駆られ、これまでの経験も相まって、女はみんな手品師だと、不信の感情をより募らせる結果となって、母が談笑を続ける中、キョーコは急に馬鹿馬鹿しい不愉快な気分に陥って、すっと立ち上がり、隙を見てリビングを抜け出し、さっさと自分の部屋へと戻ってしまった。


 キョーコが女性に対して不信を抱く要因を全て兼ね備えたような人間、それが母であった、一体、メディアを覘いてみれば、世の母親という存在を、困苦に耐え、忍従を強いられ、無理解に晒され、多忙な日々を生きる中で、利他的且つ犠牲的な態度を取る、心優しい聖なる存在として、同情的目線で性善説的に描かれてばかりで、こういう取り上げられ方を前にする度に、自分の母親とは随分異なるものだと違和感を覚える一方であった、いや、自分の母のみならず、周りを見渡してみても、同級生や、いとこ、祖母、叔母、友人の母、近所のおばさん、先生、その他、自分の知っている現実の女は、フィクションに見られるよりも、もっと無神経な、無情な、無恥な、無遠慮な、無節操な、無分別な、無思慮な、無計画な、無知な、無能な、無責任な人々ばかりで、世間に発信される世の女性像との認識に著しい隔たりを感じていた。 彼女にとっては、父の方がまだ立派に感じるらしかった、確かによく分からない存在ではあるものの、父親に対する認識が芽生えた当初から、日々黙々と、文句を言わず、愚痴をこぼさず、弱みを見せず、同情を請う事なく、休む姿を見た事ないほど機械的に働き、いざという時に頼りになる父の方が、尊敬と悲哀を感じ、ただ生真面目に、規則的に生きて、人生を謳歌する意欲を捨て、ひたすら家族を養うロボットと化す、その古い昭和的な男の生き方に、一体生きてて何が楽しいんだろうという若干の薄気味悪さを感じてしまうと同時に、その背中を見て、なんて悲しい生き物なんだろうという切なさにも駆られ、やけに自分の苦労をこれ見よがしにアピールしたり、不幸を売りにするテレビやラジオを熱心に視聴して慰めに浸る母とは対照的に感じた。


 キョーコにはそもそも家族という観念自体が謎であり、家族愛なるものが一体どういうものなのか全然理解できなかった、家族愛とはつまり習慣的な愛情で、関係性や立場を抜きにして相手の本質自体が目指された純然たる好意ではなく、繁殖や生育などの生物的本能によって仕込まれた打算的な所有欲であり、実際にその人の性格や価値観や能力諸々を批評した上での敬愛ではなく、飽くまで家族という制度、血縁的関係性においてのみ有効な功利的感情であって、それはもはや人間に対する愛というより貴重品に対する執着と似たような損得の意識なのではないか——家族を愛するのは当たり前というけども、むしろ家族という戸籍上の繋がりを以て左右される感情や認識というのは、幾分不純で非人間的なものではないのか、当然ながら親も兄弟も自分で選び取った訳じゃない、親側からしたって配偶者は選べても実際どんな子供が生まれてくるかなんて分かりゃしない、しつけや教育なんてほとんど無力だ、生得の資質に従って親の意図しない方向へ勝手に育つ、そんな偶然的な対象を本気で愛せる事の方が甚だ偽善的で不自然極まりなく、それは学校の同級生に対する感覚と同様、たまたま身近な位置関係にあるというだけで、どうして一番大切な存在と見なす事が出来るのか……。


 キョーコは、若さとは無関係に、結婚という発想や文化を本来的に持たず、家庭という観念が根本的に欠落していた、しかしそれは異性との同居を苦に思うが故ではなく、むしろ逆なのであって、他者に対する依存、肉体の要求、精神的な信頼、つまりは打算なき純然たる恋愛状態への憧れがあまりにも強すぎる為であって、恋人の段階は良くても、そこから夫婦という肩書に移行するとなると、互いの自由意志による情熱的な密着が、書類上の正式な契約を交わした途端に、家族という共同体を維持する事のみを目的とした、義務化された機械的な関係性に堕落し、二人の仲が冷めてしまう気がして、同時に、親族との複雑な血縁上の連関が、囚人同士の鎖の連なりや、張り巡らされた蜘蛛の巣のような恐ろしいもの、つまり、各個人を強制的に結び付け、多方向からがんじがらめに縛り付け、自分という存在を浸食せんとする、窮屈な囲いとして映り、むしろ、随意による他者との結び付きよりも、家系や血縁による制度的な繋がりの方が、遥かに空疎で、不自然で、非人間的な、まやかしの関係に感じられるのだった。

 故にキョーコは、恋愛というものを、結婚、出産、子育てへ向けた過程として認識するのを嫌い、恋愛はただ恋愛そのものが目的であって、その先に何かを見据えるのではなく、それ自体の永遠的持続によって完結すべきものと見なしていた——もしも本気で人を好きになったら、二十四時間その人の事で頭がいっぱいになって、何もかもを知り尽くしたくなって、気付かれないようにそっと後ろを追い続けて、好きな気持ちが抑えられなくなって、まるでストーカーみたいになってしまうだろう、万一付き合うなんて事になれば、相手の人間関係を男女に関わらず一切断ち切らせて、わたし以外との人付き合いを全面的に禁じて、他の女との何気ない会話でさえ激しい怒りに駆られて、男友達との遊びでさえ嫉妬に狂って、わたしがいるだけで後は何もいらないではないかと、子供みたいに喚き散らしてしまうだろう、何なら愛しのパートナーを部屋に閉じ込めて、勝手な外出を禁じて、首輪を付けてリードでつないで、ペットを飼うように毎日ひたむきに可愛がってあげるだろう、そうしてわたし自身も、その存在の全てを愛する相手に捧げるだろう、この肉体も、精神も、金銭も、所持品も、何もかもを最愛のパートナーに費やすだろう、心の底から本気でわたしだけを愛してくれるなら、どんな要求も願望も叶えてあげるだろう、欲するがままにわたしを求める事に絶対的な愛を感じ取るだろう、恋人をわたしの所有物にすると同時にわたしもまたその人の所有物となろう、そうして、まるでこの世にわたしとあなたの二人しか存在しないかの様なロマンチックな日々を送るだろう……。


          十四


 ある日、キョーコは到頭、母に対し、学校を辞めたいという主旨の話を真剣に切り出した——これまでも学校に通う事の不満や、辛さや、退学という選択肢を、愚痴を述べる様にボソッと漏らす事はあったが、その度に母から返ってくる言葉は、じゃあどうするの? という真剣味のないお決まりの文句で、キョーコは、その質問形式の反論に、明確な、具体的な、納得の行く返答を用意する事が出来ず、必ず軽くあしらわれるのが落ちであった、しかし、今回はかなり本気の強い意志を持っており、母の説伏に対して敢然と抗弁を仕掛け、それに対して母が再反論し、互いに相手を論難し合う長い問答が続いた、キョーコは懸命に己の実情を訴えるが、本当の深部を曝け出す事には抵抗があったので、母は何が問題なのか良く理解出来ず、相変わらず深刻を感じない粗略な態度で応対するばかりだった——次第にキョーコは泣き出した、あまりの無理解、無神経、無情を感じ、悲しみが込み上げ、涙を抑えられなくなり、同時に、一度も言葉にせず抑え込んでいた種々の思いが喉元まで逆流してきた、そんなキョーコを見て、母は溜息を吐いて呆れ、困惑と嫌悪の表情を浮かべる一方だった、すると、キョーコは余計に泣きじゃくった、そうして、手の付けられなくなった子供みたいに、涙を流し、鼻水を垂らし、声を震わせ、しゃくり上げ、泣き喚き、叫び散らしながら、彼女自身が、生まれてから今の今まで、抱えていた苦しみ、溜めていた不満、我慢していた悩み、その全てが、ダムの決壊の如く、止め処なく溢れ出した——


 あたしは子供の頃からずっと辛かった、人と触れ合うのが苦しかった、人が何を考えているのかが分からない、人とどう接すればいいのかが分からない、自分だけ違う生き物の様に感じた、世界でただ一人取り残されていると思った、誰とも分かり合える気がしなかった、でも、嫌われたくなかった、のけ者にされるのが悲しかった、人を怒らせるのが怖かった、人を傷つけるのも、人に傷つけられるのも嫌だった、だから、一生懸命自分を隠した、本音を押し殺して、必死で他人に合わせて、皆と同じになろうとした、言いたい事を言わず、ひたすら顔色を伺って、人の気持ちばかり気にして、相手に取り入ろうと、輪に溶け込もうと、無我夢中で頑張った、悪口を言われても決して言い返さず、気にしていない振りをして受け流した、対立するのが怖くて、相手を傷付けるのが怖くて、言おうと思えば言えた一言を、無理に抑え込んできた、反論しようと思えば出来た、弱点をあげつらう事だって出来た、でもやらなかった、相手を負かす事、落ち込ませる事、距離が出来る事が嫌だった、哀れみや罪悪感に駆られてしまって、人を責める事が出来なかった、わたしはただ平和な、対等な、信頼し合える関係でありたかった——お母さんに対してもそうだ、お母さんが幾らわたしに、無神経な言葉を吐き、嫌味を言い、軽率で自分勝手な行動を取っても、同じ事をして苦しめてやろうとはしなかった、取り返しの付かない関係になる気がして、自分が悪人になってしまう気がして、人の悪意も責任も、馬鹿な振りを装って全部引き受けた、たとえ苦しい事があっても、誰かに気を遣わせるのが嫌で、負担を負わせるのが嫌で、重たい深刻な空気が嫌で、軽々しく暗い表情を見せつけて同情を請おうなどとはせずに、却って能天気な、朗らかな、無頓着な自分を装って、平気な振りをしていた、でも、本当は、誰よりも苦しくて、誰より辛くて、誰よりも我慢していたんだ……だけど、もう無理、もう疲れた、もう嫌なんだ、これ以上、抑える事が出来ない、抱える事が出来ない、苦痛に耐えられない、わたしには、分からないんだ、他人も分からないし、自分も分からないし、どうすればいいかも分からない、とにかくもう、離れたい、逃げたい、消え去りたい、全部投げ出して、一人になりたい、もう、嫌だ、無理なんだ、もう……。


 ……その間、母は、キョーコの狂乱に憑かれたような怒涛の哀訴に、怯む訳でもなければ憐れむ訳でもなく、ただじっと厳しい表情で相手の目を見詰め、不意にやってきたこの面倒事をどう解決しようかと、つまり、この我が儘な、奇妙な、理解し難い、聞き分けのない娘に対し、どの様な態度を以て答えれば、無難に諭し、上手く丸め込み、潤滑に問題を収束させる事が出来るか、ただそれだけが重要である様に思えた——内心は怒りと軽蔑に溢れ、口汚く罵倒してやりたい気分であったが、憔悴し切っているキョーコの姿を見ると、頭ごなしの説教で返すのは得策でないように思え、しかしまた、親としては当然、厳しい受験を経て合格し、普通に通えている様にしか見えない娘が、不可解極まる理由を並べ立て、真剣に辞めたいなどと切り出されても、これまでに費やした苦労や費用だって現実問題としてあるのだから、黙って受け入れる訳にも行かない、同時に、泣き喚く中で時折挟まれる、母そのものへの個人攻撃も、彼女には当然気に食わない、そう考えた時、最も適切なのは、感情的にならず、落ち着いた口調で、相手の心情を汲んでいる風を装いながら、計画の無謀さや、将来の損失など、客観的に共有可能な現実的デメリットを、一つずつ丁寧に挙げ、行動の愚かさ、考えの甘さを、キョーコ自ら気付かせ、詰将棋の様に、ゆっくりと着実に追い込み、現状維持という結論に至るようさり気なく誘導する——それが最善の道筋であると思われた。


 キョーコの主張が終わった後、少し間をおいて、母はしゃべり出した——のだが、発言権が母に移り、聞き手に回ったキョーコは、この時点で既に、自身の泣訴を聞いている時の母の表情や、直後にその口から飛び出した言葉の内容と調子から、こちらの決死の告白に何の情も感じておらず、何を言っているのかさえ理解しておらず、ただ表面上親身な態度を装い、思いやっている振りを見せ、実際は狡猾に、巧妙に、怜悧に自身の意志を押し通し、詐欺師の如く柔らかに言いくるめて、最終的には退学の選択を廃案に導こうとしているのがありありと読み取れた、従ってキョーコは、母が何をしゃべってても心ここにあらずで、まだ続いている呼吸の乱れや喉元の痙攣が収まるのを待ちながら、放心状態で斜め下辺りをボーっと見つめているばかりであった……もうこれ以上母と向かい合っていても有益な時間は得られないだろう、そう判断せざるを得なかったキョーコは、母の説法が続く中、おもむろに立ち上がり、ふらふらとリビングを出て、二階の自分の部屋へと上って行ってしまった——母は特にそれを止める素振りを見せず、頬杖をついて溜息を吐き、しばらく考え事に耽っていた、すると、キョーコが階段を下り、玄関から出ていく音が聞えた、しかし、母は何だかもう、今までの娘とのやり取りから、何を言っても無駄な様な気がして、色々と疲れを感じ、余計なお節介をせずそっとしておく事に決め、半ばやけっぱちな気持ちになって、まだやり残していた主婦としての業務を、淡々と片付ける事で気を紛らわせようと意識を転じた。


          十五


 外に出たキョーコは、母が追ってくるか或いは窓から覗き見ている可能性も考え、ひとまず家から距離を取ろうと、すっかり暗くなった路地を小走りで抜けた——特に行くべき場所がある訳ではなく、とにかく一人になりたい一心で飛び出しては来たものの、夜中の外出を近所の人達に目撃されるのも嫌なので、とりあえず住宅街から出ようと考えそのまま駆け足で突き進み、人とすれ違う時は腫れた顔を隠して、ジョギングの振りを装った。 しばらくして疲れたので、人気のない静かな公園の、周りから見えない端っこのベンチへと腰掛け、暗闇と夜風に晒されながら、キョーコは一人、虚ろな表情で考えた——


 これからどうすればいいんだろう、母が自分に協力的でないのは明白だ、お父さんだって基本は同じだろう、こんな田舎では、親だけでなく親戚、近所、クラスメート、先生、かつての知り合い一切に、途端に退学の噂が広まって、何事かとゴシップ的なネタを提供する事になって、それは思い浮かべるだけでも凄く恥ずかしく、後ろめたい、屈辱的な事であり、心理的に根強い抵抗があるのは事実で、実際に連絡が来たり街で出くわしたりして真相を尋ねられても、さっきみたいに胸の内を明かすのは死んでも嫌だから、何をどう答えればいいんだろうと、何か相手に責められているかの様な甚だ窮屈で怯えた状態に陥って、途轍もなく惨めな思いをする事だろう、どうせならもう、これまでの浅薄な、か細い、偽りの友人関係は一切清算したいし、特に今の高校に通う中学時代の同級生には、何が何でも顔を合わせたくないから、まるで逃亡犯の様にこそこそ隠れながら生きる事になるだろう、何より、辞めたところでどこか当てがある訳でもないし、世間知らずで行動力に乏しい自分が、すぐに生業を見つけて自立できるなんて保証は当然ない、他の学校に通ったところで結局はおんなじ事だし、定時制とか通信とかはあるけれど、いつかは社会に出て、人と関わって、現場のルールの中で生きていかなければいけない訳で、生活資金を独立的に保持できるような特別な才能が自分にあるとも思えない……他人を変えようとしたって、人が人を変えられないのは経験上分かっている、だからと言って、逃げ続けてばかりいたところで、行き着く果てはひきこもりか何かで、どこかで現実を受け入れなければならないのも分かってる……。


 目の前に敵がいれば、選択肢は主に三つ、闘争と、逃走と、投降である、キョーコは、敵と闘う事が無益である事、同時に、敵からの逃亡もまた一時凌ぎにしかならず、その瞬間は良くても、永遠に巣の中へ身を隠す訳にはいかない事も理解していた——となると、残された選択肢は一つ、敵への投降、屈服、譲歩、つまり、自分自身を変える事……。


 そうだ、結局は、自分を変えるしかないんだ、世の中は、自分に都合よく出来ていない、自分の意志が何でもかんでも通るように作られてはいない、たとえ、自分が正しいと思っていても、自分が被害者と感じていたとしても、それでも、曲げなきゃいけない事、捨てなきゃいけない事、諦めなきゃいけない事がある、でもそれは決して、信念を裏切る事じゃない、自分に嘘を吐く事じゃない、ただ現実を直視するだけだ、事実を事実として理解するだけだ、自分を苦しみから解放してあげるだけだ、小っちゃい子みたいに意地っ張りになったところで、何がどうなると言うんだ、願いが通じないと分かっているなら、ただ自分を追い詰めるだけじゃないか、今までずっと、好きでもない他人と同じ目線に下りる事を、自分の尊厳を傷付ける事のように感じていた、人に合わせて自分を偽る事を、格好悪くて卑しい事だと信じ込んでいた、でも、実際は子供の駄々と変わらないじゃないか、大体、自分は自分だなんて、どれだけ自分を偉いと思っているんだ、わたしはわたしと突っ張って、尖って、気取って、格好つけて、それは一見高潔で、気高く、立派な姿にも見えなくはないけど、ただ単に閉鎖的で、不寛容で、傲慢なだけじゃないか、自分と異なる人を受け入れよう、相手を尊重しようという精神が足りないだけじゃないか。 自分らしくと人は言う、まるでそのメッセージが確実にその人の為になる言葉であるかの様に、でも、自分らしさへのこだわりは、むしろ人生の重荷、足枷、抑圧になるんじゃないだろうか、人を追い詰める危険性を持っているんじゃないだろうか、自分で自分をガチガチにして、理想に捕らわれて、身動きが取れなくなってしまうんじゃないだろうか、それならいっそ、意固地にならず、プライドを捨てて、素直に流されたり、他人の感覚を受け入れたりする事も、決して悪い事ではないと、むしろ必要な事、あなたの為になる事なんだと、そう諭してあげた方が良いんじゃないだろうか。

 歩み寄るといったって、何も卑屈になって、無理に自分を殺して、必死で取り入って、身を削ってまで屈従する必要はない、ただ、大人が子供の相手をしてあげる時みたいに、向こうの目線に立って、良い行いも悪い行いも優しく受け止めて、温かく寄り添って、親切に歩み寄って、微笑ましく見守る、それだけでいい、慈悲の心、謙虚な姿勢、隣人への愛情、寛容な精神を持ち、もっと気持ちを楽にして、細かい事を気にせず、肩の力を抜いて、ハードルを下げて、意識を緩めて、朗らかに、伸びやかに、能天気に生きればいい、自分を捨てる事は、決して劣化じゃない、進化なのだ、それは他人の為のみならず、自分自身の為であり、敗北ではなく勝利、人としての成長、大人への一歩なのだ。 同時に、自分自身も、素直にさらけ出して行こう、もっと開放的に、自然体に、臆せずに、好きなものを主張して、出来ないものは出来ないと言って、苦しい事は苦しいと言って、本当の自分を知ってもらおう、自分を合わせる事と、自分を出していく事は、決して矛盾する事じゃなかった、むしろ、大きな心を持つ事によって、片意地張らず他人に合わせられるし、自分が嫌われる事にも寛容になれるのだ、つまり、人の価値観を受け入れるという事は、自分への否定的な評価をも受け入れるという事だから、その分本当の自分を気楽にさらけ出すことが出来るようになるのだ、人に歩み寄れば歩み寄るほど自分が消えていくと思ったら大間違いなんだ、むしろ、他人の価値観を受け入れられるからこそ、他人の意見や評価が気にならなくなって、自分らしく振舞えるようになるんだ。 今までわたしは、あまりにも人との衝突や否定的な評価が怖くて、人付き合いを、ゼロか百かでしか考えることが出来なかった、一つのすれ違いを恐れて、十の共感を投げ出していた、一人の敵を作る事を恐れて、十の仲間を遠ざけていた、自分の全部を肯定的に受け止めてくれる人しか信用する事が出来なかった、でも、そんなの無茶だ、あり得ない理想だ、自分勝手な我がままだ、合うところは合う、合わないところは合わない、それで良いじゃないか、たくさんの違いがあると互いに認め、その上でなお一緒にいる事に価値を感じるなら、一緒にいればいい、お互いに必要な部分、分かち合える部分が少しでもあるなら、それだけで十分友達でいられるはずだ、何も、全部が全部、感覚を一致させる必要なんてないんだ。

 だから、もっと無神経に、適当に、粗雑に、散漫に人と接していこう、馬鹿にされたり、笑われたり、困らせたり、怒らせたりしたって、別にいいじゃないか、何か起きたって、気にしなければいい、あるいは、素直に謝ればいい、ただそれだけじゃないか、人の気持ちを考えないくらいで丁度いいのだ、人を意に介さない方が、却って人に対して気さくに、フレンドリーに、親切に、大らかになれるのだ、何より、人はわたしが思ってるほど、わたしを強く意識なんかしてないし、強く求めてもいないはずだ、他に考える事はいっぱいあるし、こっちに関心を持ってもすぐに別の事に意識が奪われるだろう、それなのに、嫌われる事を極度に恐れるわたしは、まるで皆が皆わたしの事を始終考えているかのような、自意識過剰な妄想に浸っていただけなんだ。


 すぐに変われはしないだろう、明日から急に明るく朗らかな人懐こいクラスメートに変貌するなんて出来やしない、でも、ちょっとずつ、ちょっとずつで良いんだ、毎日毎日、一歩ずつ前進して、いつか周りに受け入れてもらえるように、溶け込めるように、自分を出していけるようになればいい、今は難しくても、いずれクラスが変わったら、これまでの態度を一思いに捨てるチャンスが来る、その時まで、心の中だけでも前向きな変化を育ませ、いつか訪れる解放の日に備えるのだ。 そうだ、現に、ついさっきだって、今まで誰にも言わずひた隠しにしていた感情を、思い切ってぶつけられたじゃないか、ずっと恥ずかしくて、重苦しくて、後ろめたくて、他人に打ち明けられなかった本当の気持ちを、一番身近な人に向かって、感情を爆発させながら、一遍にさらけ出すことが出来た、それだけでも大きな成長だし、既に変化はもう始まっているんだ……。


 キョーコは、母に対して全ての思いをぶちまけて、たくさん泣きじゃくった事によって、気持ちが幾分すっきりして、考えが大人になって、心のつっかえが取れたように感じた——公園の隅っこで一人ベンチに座る中、暗闇で覆われていた心に光が差し込み、徐々に晴れ渡り、目の前が明るくなり、陰に満ちた表情からは笑顔がこぼれ、俯いた顔が正面を向き始め、排気ガスの様に淀んでいた外の空気も、爽やかで清澄な自然の匂いに変わったように感じた。

 そうして、キョーコは、走りたくなった、どこでもいい、遠くへと駆けて行きたかった、幸いにして明日は休日である、駅前の通りでは、仕事を終えた会社員や遊び盛りの若者達で賑わっている事だろう、彼女は街の喧騒を、夜のネオンを、人の賑わいを味わいたくなった。

 彼女は立ち上がった、足を前に踏み出し、ゆっくりと歩いて公園を出た、そうして歩く速度を速め、徐々に小走りになった、そのまま少しずつペースを上げ、手足を大きく振って、遂には全力疾走となった——キョーコはまるで、子供の追いかけっこみたいに、はしゃぐ様に笑みを浮かべ、乱雑なフォームで、髪を振り乱し、激しく息を吐き出しながら、遠くにぼんやり見える街の明かりを道標に、優しく照らされる月光の下、夜の路傍を駆け抜けた。


 息の続く限り走り続けよう——彼女はそう思った。

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