短編小説 『お菓子の家』
村に蔓延した飢饉は、人間から真っ先に「情」を奪った。
「口減らしだ。お前たちのような役立たずは、森へ行け」
親だったものから投げつけられたのは、別れの言葉ではなく、泥のついた石だった。ヘンゼルとグレーテルの兄妹は、着の身着のまま、冬の入り口の冷たい森へと追放された。
森での日々は、地獄そのものだった。
二人は這いつくばり、凍った土を掘り返しては、ミミズや虫の死骸、挙句の果てには自分の爪の間に溜まった泥まで飲み込んだ。喉を通るあらゆるものが砂利のように内臓を傷つけたが、それ以上に、胃が自分自身を消化し始めるような「空腹」という名の怪物が、彼らの正気をじりじりと削っていった。
そんな極限状態で辿り着いたのが、あの家だった。
色とりどりのマカロンの壁、琥珀糖の窓、シュガークッキーの屋根。
暴力的なまでのバターと砂糖の香りが、冬の森に漂っている。
「お兄ちゃん、食べていい? 食べていいよね。もうあんなに痛いのは嫌だよ」
グレーテルが震える声で懇願する。彼女の頬は削げ、目は血走っていた。
「ああ……。食べよう。二度と、あの空っぽの状態に戻らないように」
二人は憑りつかれたように家の壁を食らった。
だがこの家の「甘さ」には毒があった。食べれば食べるほど、肉体は人間であることをやめ、保存の利く「菓子」へと置換されていくのだ。
異変は、より多くを求めた妹の方に早く現れた。
数日もすると、グレーテルの衰弱は嘘のように消え、代わりに異常なまでの昂揚感が彼女を支配した。
「あはは! お兄ちゃん、見て! 私、全然お腹が空かないの! すごい、体が熱いよ!」
グレーテルは狂ったように笑い転げた。彼女が踊るたび、その肌からは脂汗の代わりに、どろりと粘りつく透明な糖蜜が溢れ出した。その匂いは、吐き気がするほど濃密なバニラの香りを放っている。
彼女の感情は、煮詰まる砂糖のように激しく沸騰していた。さっきまで歓喜の叫びを上げていたかと思えば、次の瞬間には「食べ物がなくなる」という恐怖に顔を歪め、獣のような唸り声を上げて壁を貪る。
「グレーテル。お前の足、変だぞ」
ヘンゼルの指摘通り、彼女の脚は膝から下がすでに透き通ったベッコウ飴へと変質し、床に癒着していた。
だが、彼女は気に留めない。それどころか、自分の腕を「バキッ」と景気よく折り取った。
断面からは血の一滴も流れず、ただ緻密に結晶化した純白の砂糖の芯が覗いている。
「動かなくていいよ! 痛くないもん。ほら、お兄ちゃんも食べて? 私、すっごく甘いの!」
グレーテルは、自分の腕だった「砂糖菓子」をヘンゼルの口に近づける。
脳に絡みつく様なとても甘い匂い、一口噛み砕く。
ガリ、ボリ。骨まで完全に固まった砂糖の塊が、ヘンゼルの脳に極上の快楽を叩き込んだ。
「……おいしい。おいしいよ、グレーテル」
ヘンゼルの理性は消失した。彼は妹だった極上のお菓子を、貪り食った。
妹が笑いながら自分を差し出し、兄も笑いながらそれを喰らう。やがてヘンゼルもまた、自身の指を、腕を、腹を、飴細工のように砕いては口に運び、自分という存在を胃袋の中に片付けていった。
最後の一片を飲み込み、二人の意識が完全に「甘い沈黙」に沈んだとき、そこには二つの精緻な砂糖人形が完成していた。
――数年後。
再び訪れた飢饉の折、森に迷い込んだ村の子供たちが、その家を見つける。
それは、かつて二人を追い出した村人たちの、子供達だろう。
「わあ、お菓子のお家だ! 門のところに、綺麗な人形が飾ってあるよ」
子供たちは無邪気に手を伸ばし、砂糖人形の頭をバキリと叩き割った。
その中には脳も血もなく、ただただ、美しく光る金平糖の群れが詰まっていた。
「あはは、甘い! これ、すごく甘いよ!」
子供たちは喜び勇んで、砂糖人形のお菓子を貪り始める。
そして、それを一口を飲み込んだ瞬間。
子供たちの瞳に、あの異常な、爛々とした光が宿る。
彼らの毛穴からは、甘ったるい死の匂いが漂い始め、新たな「依存」と「補修」の輪が回り始める。
老婆は家の奥で、編み物をしながら薄笑いを浮かべていた。
この森に飢えがある限り、この家が朽ちることはない。
次にこの家を形作るのは、今、笑いながら自分の指を舐めている、その子供たちなのだから。




