寝癖王子
黒沼先生、あなたは一体何だったのですか――
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野湖町。
人口およそ三千人の、山と湖に囲まれた小さな町。
新学期が始まり、白浜への喪失感を僅かに引きずったまま、美波は世界史の小テストを見つめていた。
答案用紙の隅に赤く書かれた「98」の数字。かつてない高得点だが、誇らしさよりも空虚感の方が勝っていた。
「はぁ……白浜さんに会いたい」
アンニュイなため息が机に落ちる。
ふと気づくと、渚が真隣に立っていた。神妙な顔で、じっとこちらを見ている。
「……何? 無言で立つの怖いからやめて」
「クズのヤンキーみたいなバンド知ってる?」
「は?」
「ヤンキーデニムみたいな名前の。最近気になってるんよ」
「知らん……」
「クズの歌聴いたことない? ヒモとかゴミとか。あっ! 思い出した。スキニーパンツや。ヤンキーデニムてwwww ごめん、スキニーパンツやったwww」
「……もしかしてヤングスキニーのこと言ってる?」
それだ!と渚が指を鳴らした、その瞬間。
ガラッ。
教室のドアが開き、担任の館林が入ってきた。その後ろには見慣れない若い男性が立っている。
「座れー、HRやるぞー。教育実習の先生を紹介するな。黒沼先生、お願いします」
館林に促されてその男性が教壇に歩み出た瞬間、爽やかな風が教室を吹き抜けた。まるで映画のワンシーンのように、世界がスローモーションになる。
柔和な顔立ちにスラリとしたシルエット。
真新しいリクルートスーツが初々しく、横顔にはアンニュイな影。どこかミステリアスな雰囲気をまとっていた。
(な、中村倫也の上位互換や……ッ!)
美波と渚をはじめ、クラス全員が息を呑む。美しいものの前に男女の壁はない。だが、さらに衝撃は続いた。
その前髪は空を切り裂くように跳ね上がり、横髪は稲妻のように爆発していた。
圧倒的美貌に、不釣り合いなほど堂々とした寝癖である。
「明日からお世話になります。黒沼です。わかりやすい授業を心がけて頑張っていきますのでみなさんよろしくお願いします」
少し恥ずかしそうに寝癖頭を下げ、はにかんだその笑顔に、美波と渚は即落ちした。
***
寝癖王子こと実習の黒沼先生は、毎回ちがう寝癖で教壇に立った。
そのたびにクラスはざわめき、ノートの片隅には「本日の美しき寝癖」が記録されていく。
やがて美波と渚が合作したノート漫画「推しの寝癖が尊すぎる件」が回覧され、その写メがXで拡散。#寝癖王子 が連日トレンド入りし、美波のフォロワーは一瞬で3万を超えた。
「同じ寝癖をつけたい……!」
美波と渚をはじめとするクラスメイトたちは、推し活として毛質の研究を始めた。
休み時間、机の上に落ちた髪を拾い集め、顕微鏡で覗き込む。
「断面が楕円形だ……これは癖毛の特徴。黒沼先生の可能性が高い!」
「違う、この剛毛は板倉先生の胸毛だ! 拾う前に気づけ!」
「俺、髪伸ばすために野球部辞めるわ」
美波と渚はすでに“毛質鑑定士”として覚醒していた。
「ケラチン密度が高いほど寝癖は持続する」
「この髪は成長期、瑞々しい。寝癖が映える状態といえる」
顕微鏡だけでは物足りず、今度は数値化に走り出す。
「偏平率を出せばいいんだよ。長軸÷短軸……ほら、この楕円率!」
「サンプル30本の平均値を取れ。誤差分布から標準偏差を計算するんだ」
「確率95%で、これは寝癖王子の毛!」
黒板には「今日の毛髪統計分析」が貼り出され、数式とグラフが並んだ。
気づけば教室は、まるで鑑識研究所のようだった。
そして副作用のように、理科と数学の成績が爆上がりしていった。
生物分野はほぼ満点、数ⅡBの統計では学年平均を軽く引き離す。
突然の成績急上昇に、担任の館林は頭を抱えた。
「お前ら……なんで突然数理だけ全国レベルになっとるんや」
***
ある日の放課後。
廊下で黒沼先生に出くわした美波と渚は、思わず声をかけてしまった。
「あの……先生の寝癖って、どうして毎回そんなに尊いんですか」
黒沼先生は驚いたように髪を撫で、苦笑する。
「……ただ、朝が苦手なだけだよ。直す時間がなくてさ。でも明日は最終日だし、ちゃんと整えてくるよ」
申し訳なさそうに肩をすくめる先生に、二人は「余計なこと言った……」と目を閉じた。だが同時に、完璧な姿が見られるかもしれないという期待に胸が弾む。
――そして実習最終日。
教壇に立った黒沼先生は、深々と頭を下げた。
「短い間でしたが、本当にありがとうございました」
その髪には、過去最大級の寝癖が盛大に炸裂していた。寝坊である。
クラスは涙と拍手に包まれ、まるで卒業式のようだった。
去りゆく背中を見送りながら、美波と渚はそっと呟く。
「……黒沼先生。また来てくれますよね」
残されたのは、SNSに残る数千件の#寝癖王子、クラス全員が身につけた異様に高い毛髪鑑識能力、そして急激に上がりすぎた野湖高校の理数系成績だった。




