18 ヴァイオリンの尽きない悩み
この曲は短くて2分ちょっとで終わってしまう。けれども英介にとっては弾きにくい箇所が2か所ほどあった。それは前半にある。移弦の際に隣の弦に触れて雑音が生じてしまう時があるのだ。
後半は油断さえしなければ大体大丈夫という感じだが、最後のハーモニクスをビシッと美しく決めなければならない。
最後の音は一番右にあるE線上で弾くのだが、油断をすると弓が隣のA線に触れて雑音が生じ、最後が締まらないのだ。
右手はできるだけ力を抜いて、弾くというよりも滑らせる感じだとある本に書いてあった。左手は第一関節を曲げるようにして弦を押さえ、移弦の際は弓よりも左手の指の移動を速くする、ヴァイオリン本体は顎でしっかり固定する。
ビブラートは特にポイントとなる所では特に指を大きめに振動させて響かせる、などの点に注意して演奏している。
響子のピアノとは最初タイミングがなかなか合わなかったが、日を重ねるにつれてだんだん合うようになり、また苦手な部分は一人の時に集中的に練習するようにしたので、最近はとても楽しく弾けるようになってきた。
響子のピアノは素晴らしくて、うっとりしながらヴァイオリンを弾いたが、つい感情が昂ってくるとちょっと目を瞑ってみたり格好をつけてしまい、そんな時は音程を間違えてしまったり、つい弓に力が入り過ぎて隣の弦に触れてしまって雑音が生じてしまったりするので、曲の中に入りつつも、一方で冷静な面も保つようにして淡々と弾くようにすると割とミスしないで弾けることに気づいた。
英介は一ヶ月に一度の頻度で響子の家でヴァイオリンの合奏練習をやっているが、そもそもヴァイオリン自体は1週間に1回30分のペースで個人レッスンを受けているのだ。
いい大人になってもう16年もやっているが、ろくに練習せずに何となく惰性で通っていた期間もあり、結構回り道をしてきたとも言えるし、音楽的才能が無いということも恐らくあり、その割にあまりうまいとは言えない。
ヴァイオリンが趣味だと言うと大抵の人は
「ヴァイオリンをやっているんですか。すごいですね。」
「いや、ただ毎週30分の個人レッスンを受けて家で少し練習しているというだけのことです。大したことないんです。」
とここまではいいのだが、
「どのくらいやっているんですか?」
「そうですね、16年くらいですかね。」
「そんなに長く!それじゃかなり弾けるようになってるんでしょうね。」
この会話が辛い。彼の演奏を聴いたらお世辞にも上手とは言えないものなので軽蔑されることだろう。ヴァイオリンは難しい。思ったように引けなくてやめようと思ったことは10回以上ある。
それでも段々レッスンの時だけは仕事やプライベートの辛いことや悩みを忘れて音楽だけの世界に浸ることができ、リフレッシュされるようになり、更に自分にとってはかなりレベルが高いと思われるクラシックの曲を先生に指導してもらうようになってからは更にレッスンが楽しくなり、以前は日々の練習は仕事で疲れてしまってゼロかせいぜい15分程度だったのに、この3年ほどは1時間くらい毎日練習するのが普通になっている。
更にボーイングや弓の持ち方などいろいろな問題点を改善するために、先生のアドバイスの他に関係する本を読んだり、youTube上でのいろいろなヴァイオリン関係の動画を見て研究するようになり、少しずつではあるが、確実に技術レベルは上がってきているように思われて嬉しくもあるのだ。
その音楽教室で年に一度の発表会がある。実は5年前にモーツアルトのアイネクライネナハトムジークを演奏して大失敗してショックを受け、実はその時もやめてしまおうと思ったものだが、それ以来人前では弾かないと決めていたのだ。
レッスン及び家での毎日の練習は楽しいのだから、それでいいじゃないかと思うようにしていた。そんなある日、英介の好きな人気女優Aさん、この方は元宝塚のトップスターであり、退団後も舞台に、テレビに、映画に大活躍している方だが、その方がテレビに出演していたのでなんとなく見ていたら、これほどのキャリアを持っている彼女でさえも今だに舞台に立つ時は途中でセリフが抜けてしまうなどの恐怖感があるというのだ。
けれども今後も舞台に立ち続けることが自分にとって大切だと話しているのを聞いて、英介ももう一度発表会に出てみようと思うようになり、すぐに先生に連絡して了承してもらってから2ヶ月後の発表会に申し込んだのだ。
曲は現在響子たちと練習をしているクロード・ドビュッシーの美しい夕暮れだ。2ヶ月にわたってヴァイオリンの先生から集中的に指導を受けた。最初はこの曲のだいたいの音程は一人でも取れて短くもあり、発表会は余裕だなとと思っていたのだが、細かいところまで指導を受け、一度だけ行われるスタジオでのピアノとの音合わせをした時から思ったより難しく、自分の弱点が露呈される箇所もあり、練習が大変になってきたのだ。
ピアノの伴奏は録音させてもらったので、それを流しながら何度も何度も繰り返し練習した。気に入らなくて途中でやめて最初からやり直すことも数知れず。けれども本番前の最後のレッスンで大体大丈夫かな、というところまで仕上がったのだ。




