10 救世主瑠璃子
とその時救世主が現れたのだ。ドアをノックする音がしてドアが開いた。そこには笑顔の少女がいた。
「妹の瑠璃子です。ピアノだけでなくヴァイオリンの生の音も聴きたいというので、あと譜めくりをやってもらいます。」
「瑠璃子です、初めまして。お姉ちゃんがお世話になっています。私、お姉ちゃんからピアノ教わってるんです。今日はヴァイオリンの音も聴けるというので楽しみにしていました。よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしく」
小学校4年生といった感じの可愛い少女だった。金沢の実家に両親がいるという話だったので、てっきりこの家には響子一人で住んでいると思い込み、要らぬ心配をしてきたがその必要は無くなったことになり、英介は内心ホッとした。
そう言えば一人で住んでるとは言ってなかったな。響子はピアノに向かって左の方に座り、瑠璃子は響子の左に座ると思いきや、意外なことに右側に座ったので、英介は必然的にピアノの右の方に立ってヴァイオリンを弾くといった感じになり、自分の直ぐ側にいるのが響子ではなく小学生の瑠璃子なので、その意味でも誘惑はほぼ無くなったと言える感じになり、英介は音楽に100%集中できそうで嬉しかった。英介は心の中で「瑠璃子ちゃんありがとう」と言った。
いよいよベートーヴェンの『春』の練習が始まった。英介はいつものことだがヴァイオリンを弾き始めると所々音が外れて弾き直したりつっかえたりしたが、響子はその言葉通り忍耐強いというか常に優しくて、妹の瑠璃子もイライラすることなく付き合ってくれているので、英介はだんだん緊張がほぐれ、また二人の前で格好良く上手に弾いて見せようなどという邪心が消えて間違いやつっかえを気にせずに楽しく練習している自分に気がついた。
ベートーヴェンの『春』は響子にとっては楽勝の曲のようであった。英介にとっては自分のレベルを超えた難曲ではあるが、ヴァイオリンの先生に少しずつ丁寧に教えてもらい、難しいとは言ってもベートーヴェンの天才性が感じられる素晴らしい曲なので、とっても楽しい、というか至福の時間になりつつあった。
それは英介がちょうど大学生の時、好きな女の子がモーツァルトのレクイエムに参加するというのでそれまで全くクラシックとは無縁だったのに自分も参加した時のことを思い出させた。
彼女はソプラノ、英介はバリトンパートで、来る日も来る日もパート練習ばかりで彼女とは別室で顔さえ見られないし、パート練習は音楽的にもさっぱり面白くない、というより極めて退屈なものだった。
これでは参加した意味が無いと思い、今日の練習を最後にキッパリやめようと思って大学へ行くと、今日は初めて全部のパートがそろってアンサンブルをやるというのだ。
英介は面倒だなと思ったが、合唱の4つのパートが初めて一同が同じ場所にそろった。英介は眠くて欠伸が出そうだったが何とかこらえた。
指揮者がゆっくりタクトを振り始めオーケストラが演奏を始めた。確か低音部、つまりバリトンやバスから合唱が始まった。
いつもの退屈な、よくわからない旋律を一応歌っていると、その時急に空から天使が何十人と舞い降りてきた、正確に言うと女性のソプラノ、英介の片思いの彼女を含めたソプラノパートの女性たちが歌い始めたのだ。
その時英介は雷に打たれたような衝撃を受けた。右の方からこちらへとんでくる歌声は間違いなく天使のそれであった。この世のものとは思えない、あまりにも美しいハーモニーに酔いしれてしまった。
その美しい歌声の中に恋する彼女の声も入っているかと思うとますます魅力的に思えた。今日まで何とか練習を続けてきてよかったと心の底から思った。そしてもちろん最後まで続け、郵便貯金ホールでのコンサートまで漕ぎ着けたのだ。
英介にとって好みのかわいこちゃんと一緒に何かに取り組むというのはずっと夢だったのだ。今までそういうことはほとんど無かった。
時々ある種の女の子に好かれることはあったが、それは大抵英介の好みではなく、そういうとき英介は容赦なく切り捨てた。
ちょうど自分も色々な女の子にされてきたように。英語の研修や研究会でかわい子ちゃんとペアになれたらいいのに、と思っていると必ずと言っていいくらいそうでない子と組むことになり、英介は取り組むべきことに気乗りがせず、早く時間が過ぎないかと祈るばかりだったのだ。
それが、今は響子というべっぴんさんがとっても優しくベートーベンに一緒に取り組んでくれているのだ。英介はこれこそ至福だと思ったし、これがいつまでも続いたらいいな、と心の中で祈ったが、と同時に今までの経験から何かを期待すると必ずと言っていいくらい上手くいかないことを思い出し、その時その時を無心で過ごさなければ、と自分を戒めた。