寝言
とある夜、駅舎から出た男は足を止め、ぐるりと周囲を見渡した。そして、スーツの袖を軽く押し上げ、腕時計に目を落とす。
五時二分……あと三分か。
いや、おれは何やってんだろうな。こんなことで早引けしてくるなんて。しかも課長に嫌味まで言われて……クソッ、あの野郎。思い出したら腹が立ってきた……。
男は苛立ちながら、再び駅前の通りを見回した。
そろそろだ。たしか、妻の寝言では――午後五時五分、駅前、赤い車、四十代男性、轢かれて死ぬ――だったはず……あっ!
「あら、あなた、おかえりなさい。今日は早かったのね」
家に帰ると、妻がソファで伸びをしながら言った。男は視線を逸らし、もごもごと答える。
「ああ、ただいま……その、事故を見たよ」
「事故?」
「ああ、駅前でさ……」
確かに事故が起きた。昨晩、妻が寝言で呟いていた内容通りに、四十代くらいの男が赤い車に轢かれ、死んだのだ。男は驚きでしばらく動けなかった。やがて、現場に集まった人々のざわめきを背に、どこか夢の中にいるような気分で家へ帰ってきた。
寝言の件は伏せ、事故の話だけを伝えると、妻は驚きはしたものの、それはあくまで『近隣で起きた事件』に対する反応であり、深く気にする様子はなかった。どうやら、妻には夢の記憶が残っていないようだ。
さすがに偶然だろう。男はそう処理することにした。
しかし、数日後の夜。再び妻は寝言を呟いた。
『午後四時二十分、東町七丁目の丁字路、黒いオートバイ、ひったくり、おばあさんが転んで死ぬ……』
そして、それをなぞるかのように、事件は現実となった。
「これは偶然なんかじゃない……」
ある夜、男は寝室でぽつりと呟いた。
「……だが、だからといって、おれに何ができる? 事故を未然に防ぐ? 下手したら、こっちが巻き込まれるかもしれない。生活が第一だ。おれにも超能力があるならまだしも……」
「なにブツブツ言ってるの? もう寝るから電気消して。明日も朝早いんだから」
「あ、はい……」
部屋の灯りを消しても、男は眠れそうになかった。暗闇の中、隣のベッドで眠る妻に自然と目がいく。
また妻が“予言”したらどうする……見て見ぬふりをするしかないか。……いや、何か使い道があるのでは? 仕事に、出世に利用する方法が……。いや、そんな都合よくいかないか。ああ、どうせなら、あの上司が事故にでも遭ってくれたら……あ、そうか。
考えに耽るうち、男の脳裏にあるアイデアが浮かんだ。そっと身体を起こし、妻の耳元へ口を近づける。
「えー……夫の会社の上司……いや、まずは同僚の早山だな。あいつが先に昇進するだろう。よし……夫の会社の同僚、早山、駅のホームから転落、電車に轢かれて死ぬ。……頼むぞ、昇進したら車を買ってやるからさ。夫の会社の同僚、早山、駅のホームから――」
男は呪文のように繰り返し囁き続けた。そして、数週間後の夜――。
「ははははは! やった、やったぞ! 昇進だ!」
夜道を歩きながら、男は声を上げて笑った。喜びが抑えきれない。すれ違う通行人から訝し気な視線を向けられたが、一切気にならなかった。警察に怪しまれることはない。自分が手を下したわけではないのだ。
やった……! 早山が死に、課長も会社の階段から転げ落ちて死んだ! ついでに口うるさいお局のクソババアも死んだ! 全部、妻の寝言通りに! 一言一句違わず言わせるのに、かなり時間がかかったがうまくいった。ああ、すべて妻のおかげだ。彼女は何も知らないだろうが、約束通り新車を買ってやろう。ローンでな。だが、これでようやく、おれを見直すに違いない。妻のほうが稼ぎが多く、肩身が狭かったが、これからは……おっ、噂をすればだ。
「おーい! はははは! お前も今帰りか! いいタイミングだな! おーい! ん、お、おい、止まれ、あ、まさか――」
夫を車で轢いた妻は、警察の取り調べで静かに供述した。
「最近、ずっと寝不足で……」