人間
異端を排斥し同胞と徒党を組んできた我らにとって、差異を忌むことこそあれど、賛美する謂れは無いだろう。差異とはまさしく地獄への片道切符であった。そんな我らであるから、差異を謳歌するとまではいかなくとも、受容することでさえ土台無茶な話であると言える。中途半端な寛容さは我が身欲しさの保身に劣る。それどころか身を滅ぼすことさえあり得る。どちらが合理的かなんて一目瞭然だろう。議論にもならない。寛容さが効力を発揮するのは、限られた範囲におけるごくごく特殊な条件下のみ。合理的かどうかで説得しようとするなんて、ペテン師か奇術師でなければ不可能だろう。全ての選択は合理的だ。余すことなく。側から見ればどんなに滑稽だとしても。愚鈍だとしても。奇妙だとしても。理のない択は存在しない。完璧な法が存在しないのと同様に。どんなに精巧な法を整備しようとも、法の穴を潜り抜けることが容易いように、理はどこにでも顔をのぞかせる。アラスカの凍てついた大地でさえ。今にも沈みゆく島々の砂浜でさえ。凡庸な風景の奥底でさえも。ままならならぬもの。都合よく改竄しようだなんて余りにも虫が良すぎやしないか? 苦労無くして栄華なし。我々の繁栄は、砕けた無数の頭蓋骨の上にある。我々が異端だと切り捨てた全ての人々の上に。冷酷だとか、残虐だとか悠長な事を言っている暇など無かったのだ。そうするしかなかったのだし、そうする以外あり得なかったことは今ここに歴史が証明している。社会とは等質な同志の集合である。寛容である前に徹底的に不寛容であれ。それが何をもたらすかをはっきりと自覚していなかったとしても。それが合理的であると何かが告げているならば。
このような言説は悪くない。全然悪くない。社会一般にまかり通っていたとしても何ら不思議ではない。だが、それでも否と宣言せねばなるまい。誰もがそれを肯と認めたとしても。まず第一にバランスが悪い。ひとつの強烈で偏った言説は、単純に人を蝕む。例えそれが偏っているようには見えなかったとしても。どんなに公明正大を期していたとしても。だからそれの効力が人の容量を超えないくらいにまで希釈する必要がある。きちんと噛み砕いて消化できるまで待つのだ。そうでなければそこら辺の獣の方が何万倍もましと言われてしまうではないか。手負いの獣ほど手に負えないものはない。しかも自ら負傷してまで突っ込んでくるとは。第二に美しくない。どもりがない。躊躇いがない。物理的などもりではなく精神的などもりが。ラグがない。言説が奥深くまで浸透しすぎると人が口を通してイデオロギーを語っているんだか、イデオロギーが口を介して人を騙っているんだか分からなくなる。物言いがストレートすぎて面食らってしまう。悪魔がニタニタとこちらを覗いている。始まる前は何か言える気がする。なんとか死力を尽くして、地べたを這いずり回って相応しい言葉を探した。どんどんと萎んでいく風船。辛うじて細い糸を繋いだような気がする。何か意味を為したのかもしれないし、結局何も言えなかったのかもしれない。例え無意味だったとしてもそれはそれで良かったのだ。合理的である前にまず人間的であれ!それが我々を人間たらしめる唯一の術なのだから。