異世界に片足突っ込んだら、人生が好転するか?
「異世界というものが、どうやら今のキーワードらしいね。」
スマホを胸ポケットに入れて、紘一は隣にいた濱田に声をかけた。濱田もまたスマホを眺めている。濱田は興味なさそうに、少しだけ顔を上げたが、すぐに画面に戻った。腫れぼったい眼、開いているのか閉じているのかわからないような細い眼はすべてを物語っている。他人が見ても、区別のつかないその目が語ることが、紘一にはわかるのだった。
二人は放課後の美術室にいる。二人は高校生。そして二人とも美術部員なのだ。スマホは学校に持ってきていいものではないが、実際にはこうして、皆が持ってきている。ただし、それを表立って見せることはない。管理者、つまり先生がいないところで、こっそりと見るのである。以前は、持ち物検査とかいうものがあったそうだ。今でもどこかではあるのかもしれない。ただ二人のいる学校では、そこまでしなくてもという雰囲気が、全体に漂っている。おおらかな校風なのだった。
紘一は細身で背が低い。運動は苦手というほどではないが、文科系の方が自分にしっくりくると感じていて、ここにいる。
絵が好きなのだ。ほかの絵画好きが、絵の何を見ているのか、それに関しては、意外と、これまでに話し合ったことがないので、よくわからないが、紘一が惹かれるのは、技法だった。本格的に習ったわけではないし、自分としても美大に進もうなどとは、思っていない。自分の才能に関してはあきらめている。そのところにさらに投資しようとは考えていない。
そんな彼が、どうしても自分には出来ないことが、他人には出来ているという事実が、ある種の驚きと、称賛の気持ちを与えてくれるということが、絵を見ることに対する興味の根源だった。運動や、楽器ならば理解できる。出来る人ですら、鍛錬を重ねないと、出来ないようなものは分かりやすい。しかし絵を描くのに必要な、優れた資質というものは、理解しにくいところがある。筋肉や、反射神経や、ましてや器用さなどとも少し違うような気がする。集中力、忍耐、そのあたりは理解できる。色が出るまで、粘り強く色を作り続けるなんてことは、短気な紘一には無理な話だった。
これくらいの色でいいだろう。と、途中であきらめてしまうのだ。早く仕上げて、ほかの作品へ取り掛かりたいというのもある。だが、その次も同じことの繰り返しだった。妥協の産物が、次々と生まれてくるのだ。
風景画でも、静物画でも、人物画でも、水や空気や、あるいは光を、ここが重要なのだが、同じ道具で、見事に再現しているものがある。特に細かい作業などというものはなさそうに見える。器用さは、細かい部品を組み立ててゆくとか、何かを削り出すために繊細に指先の力の入れ具合をコントロールするなどということは、必要ではないようにも思われる。どのような色を使えば、このような表現が可能なのか?どれくらい絵の具を薄めて、どのくらいの厚みでカンバスに落とし込めば、このような効果が得られるのか?は所詮センスの問題なのだとも感じられる。
画家が対象物を見て、それに合わせて絵の具を選択するとき、そこにある実際の色との違いを、近づけて、詰めてゆくという行為をする。あるいは、それらしく見えるが、結果として違う色を選択したりする。その時画家の目は、何を見ているのか?
目が違うのだ。と紘一は感じている。技法は鍛錬のたまものなのかもしれないが、それ以前に素質がものをいう世界なのだとも思える。だが、やり方さえ、良い例を多く収集して、それを分析し、マニュアル化できれば、ある程度のものはすべての人に描けるはずだ、とも考える。その意味で、技法には関心があるのだ。
だからと言って、それを習得して、所謂上手い絵を、自ら描こうとは思わない。やはり、あれは案外、相当に根気のいる作業なのだ。上手い人が描いているのを見るとそう思う。同時に、それは、とてもじゃないが、自分にはできないと感じている。そして、そういう部員が中には一人ぐらいいたっていいとは、自分で、自分を納得させているのだった。
その中でも、渾身の表現による作品というものだってある。この題材をこういう風に書けたらいいな、と感じていて、それに近いものが出来上がれば、何となく嬉しかったりする。(しかも短時間で!時間のかかるのは御免だ)しかし、それは誰かの作風の真似であって、自分のものではないのだ。技法にこだわるというのは、そういう危うさをはらんではいる。
一方で、濱田は違うのだ。濱田は、美術大学への進学を目指している。彼が絵に懸ける情熱は鬼気迫るものがあった。一度カンバスの前に立つと、誰も声をかけることなんてできない。仮にかけたとしても、返事までにかなりの時間がかかる。周囲の音が聞こえてないのだった。その位置から、動こうともしない。何時間でも、一点に集中して、絵と対象を睨みつけている。睨んでいる時間の方が、描いている時間よりも長いのだ。これが紘一だったら、睨んでいる時間なんてほぼなかった。手を動かさないと意味がないとばかりに、常に描き込んでいる。そして、さっさと仕上げて、次の作品にかかるのだ。
しかし、そうして時間をかけた絵がいい絵なのか?ということに関しては、紘一は分からなかった。デッサンなどは、三次元のものを二次元に落とし込むのだから、評価はたやすい。濱田に関して言えば、デッサン力は抜群だった。紘一が、やや形の崩れたものを描いているようなときでも、濱田は製図のように緻密に、そのものの形をとらえて、そのまま紙の上に表すことが出来た。
問題は、癖である。誰にでもこの癖というものはあって、誰が描いた絵なのかということに関しては、わかる人にはわかるのだ。紘一に言わせると、濱田の癖はかなり強烈だった。演歌歌手が普通の歌を普通に歌えないような、妙に粘っこい癖があるのだ。演歌歌手だって相当にうまいのだから、普通の歌を歌ってもいいはずだが、どうしてもおかしな具合に感じてしまう。そういうことだった。要するに、濱田は相当にうまいのだが、紘一にはピンとこない。いわゆるいい絵とはいいがたいのだ。どこかに垢抜けなさを感じてしまう。
しかし、それはあくまで、紘一にとってということに過ぎない。だが、高校生の紘一には、その認識はまだできなかった。濱田の絵は、時間をかけている割には、いい絵ではない。それは紘一にとって時間の無駄使いにしか見えなかった。そのこともあって、紘一の作業の早さは、加速してゆく。
その濱田が、紘一の言うことをうわの空で聞いている。だから紘一は、さらにしゃべり続けた。
「いつのころからか、ちらほらと目にするようになって、これを目にしない日はないくらいになったんだよな。もちろんそれを見るのは、ネットの中、創作物、本や、漫画、ゲームの世界であって、当たり前だけど、現実世界で見ることはほとんどないだろ」
ここで、紘一は話を一回止めて、濱田の反応をちらりと伺った。耳はこちらに向けてはいるが、まだスマホの画面に集中している。八対二といったところ。まだまだである。彼の関心を煽り、発言を引き出すには至らない。それは紘一にもわかっている。今の話は前振りに過ぎない。濱田の感覚に触れるのはこの後だ。
「創作側の一つの流行なのだろうね。現実世界をなぞるとなれば、それなりに取材や、下調べが必要だし、間違ったことを書いてしまっては、相応の気まずさというものが付きまとうだろ。でも、頭の中に浮かんできたことで構築する世界には、そのリスクは少ない。無責任に展開可能なんだよな」
無責任という言葉を強調した。六対四。濱田のゲージが上がってきた。この話に対して、何を言おうか考えている様子が、体から発散している。思った通りだ。さらに続ける。
「それに、ある意味創作側にとっては、楽な仕事なのだともいえるだろ。現実世界での経験を積んでいくよりも、バーチャルな世界に浸っていることの多い現代的な人としては、そのやり方の方が、身近でなじみの行為で、自分にはそれが合っていると感じているのかもしれないよ。作家としては、未経験のものに手を出さないってルール。あれだね」
四対六。逆転である。スマホの方が上の空になってきた。集中しきれていない。
「反対に、昔ながらに、時間をかけて、現場を実地に歩いては、ルポタージュ風な作品を仕上げるというようなことからは、最も遠いんだよ。現場は、もちろん危険なところだって多いんだから、真実、命がけさ。それが、じっと家にいて、調べ物はネットですまし、テレビからヒントを得て、ゲームで気分転換をしたら、また机に向かうというお気軽なスタイルで、手っ取り早く、今の創作は行われるんだ」
お気軽という言葉を強調する。濱田がスマホの画面を閉じた。細い眼をさらに細めて、発言の機会をうかがい始めている。
「実際に、流行作家が忙しすぎて、現地に取材に行けず、震災を題材にした物語を書くのに、テレビのドキュメンタリーやニュースを見て、それからヒントを得て、書いています、なんてことを平気で言うんだ。ちょっと違う気がするだろ。それに、そこから得るものが大いにあるなんてことは、望めない。報道ですら、既に選択されて、そぎ落とされた情報なのに、そこからさらに選択を繰り返すなんて、先細りの先細りだよ。そういったもので、現実を知った気になっている人間が、それを参考にして、お手軽に創作に向かうといった悪循環が、異世界物と言われるジャンルからは色濃く漂ってくるんだよ」
「それはお前の意見だろ。事実じゃないよな」
濱田が耐え切れなくなって、ついに口を開いた。因みにこのセリフは彼の決まり文句だ。濱田に話しかける時は、私の意見としてはとか、私はそのように思うとかいう文言を、厳密につけなくてはいけない。単に言い切るだけでは、必ずこの応酬を食らってしまうのだ。
そのほかにも数パターンあって、
「それは誰が、どのような形で発表したんだ?」とか、
「大勢というのは、何人の事なのだ?それは具体的に、誰と誰なんだ?」とか、
「皆というのは本当なのか?数パーセントではないのか?反対の意見はないのか?」と、言ったものがある。
最初は驚いてしまうが、もちろん彼に悪気はなさそうだ。会話を通して、自分の優位を示そうとする、そのような人間もいるし、或いは、常にだれかをやり込めてやろうと、虎視眈々と構えている、そうした人間もたまにはいるものだが、彼はそうではなかった。少なくとも、紘一には、そのように見えていた。
これを食らうと、たいていの人間は、彼と話をしなくなるか、逆に面白がってこれらのセリフを引き出すために、敢えて誘い水をかけるタイプに分かれてしまう。彼のやり方に合わせて話すのは、だれしも苦痛なので、そういったタイプはほとんどいないのだ。
英語なら、アイシンク・・とはじまる文章は日常的だ。しかし、日本語で、それが珍しいところを見ると、そのことは文脈から、あるいは個人的な特徴から、察してくれと、そういうことなのだろう。あるいは、人の意見を尊重すること自体が、軽く見られているのかもしれない。それを濱田のような人間が、厳密に規定してほしいというのは、察することが出来ないのか、それともそこは、尊重するがゆえに、やはり確認しておきたいのか、それは分からない。両方かもしれない。ともかく、話の内容は、その詳細に至るまで、はっきりさせておきたいと、こういうことらしい。
紘一に関して言うと、誘い水をかけるわけではないが、マイペースなのである。うっかりと言い切ってしまって、濱田に決まり文句を言われた後では、反省するが、すぐに忘れてしまう。自分の話を続けたい衝動に、流されてしまうのだ。しかし、濱田の疑問は、時折紘一の目を開かせてくれるという、利点を認めているところではある。自分を高めてくれる友人というのは、ありがたいものだ。そのときは腹が立つこともあるが、馴れ合いで、堕落してゆく関係よりもずっといい。
その濱田に、構わずに紘一は畳みかける。考えていることをすっかり吐き出したい気分なのだ。このところ考えていることを濱田の意見を通して整理してみたくなっていた。このような時に、議題が何であるにしろ、真剣に、批判を恐れずに発言してくれるのも、彼の良いところだった。根がすごくまじめなのだ。
「でもさ、こうした作品は昔からずっとあっただろ。指輪物語とかさ。そのお手軽群の中でも、やはり優れたものは、残ってきたし、これは優れていると感じさせる何かを持った作品というものは、どんな分野でも、あるんだよ」
「優れている?それはどういう意味だ?人気があるということか?それともオリジナリティの問題か?」
濱田が、ある特定の言葉が気になるようだが、大筋に関係ないので、聞かないふりをする。
「作家の妄想をぶちまけただけのものでも、その世界に深く入り込んで、精密なジオラマを作るみたいに、細部にわたるまで綿密に作り上げたものだったりすると、すごいって言われたりするよね。でもさ指輪物語なんかは、キャラクターの差別化、いわゆる書き分けがあいまいでボケているんだよ。残念ながらね」
「メリーとピピンの事か?確かにもったいない話だが、二人のキャラクターが効果的に生かされているとは、俺としても言い難いな。二人の会話を読んでいて、どちらがどちらの発言か、わからないときがあるからな。もう少し肉付けをして、キャラを立たせれば、もっと面白くなったんだがなあ・・・
しかしなあ、あれは伝承形式の物語の体を取っているだろう?そういうものは、主役はあくまでも出来事であって、登場人物は、役割に過ぎないんだな。先ずは、良い者と、悪い者が居る。で、あの二人は、良い者の主役の友人さ。同じ部族のね。つまり、桃太郎や、猿蟹合戦が、豊かな人物造形をしているとは言えないのは、面白い出来事の話だからだよ。だが!」
と言って濱田は、人差し指を顔の横で立てた。
「俺が思うに、異世界物がお気軽だというのは賛成できないな。創作物としては純粋なものだろう。あくまで予測に過ぎないが、すべてを自分の頭の中で生み出して、世界を作ってゆくのは、大変な作業だろうよ。そこははっきりと評価されるわけだから・・・」
「すべて頭の中で生み出すといったって、人間の心理描写や、人間そのものの性格付けなんかは、現に存在しているものを下敷きにして、持ってくるわけだろう。その部分も想像で、というわけにはいかないよ。しかし肝心なのは、その下敷きに対する考察が薄っぺらいと、手ごたえがないんだよ」
「確かにな。子供向きだったり、若年層向きだったりするゆえんだな。純文学レベルに、物事の深層をえぐって、隠れているものを表出させるような力量を持った作家には、俺に関して言うと、お目にかかったことがない。あるいはものの見方における新鮮な切り口だってそうだな。エンターテイメントやジュブナイルにそれは不必要だという向きもあるけれど、それは違うと俺は思うね。普段言語化しないものを言語化するのは、やはり俺にとっては、知的興奮を誘うんだよ。それは、読み手が子供でも一緒だと、俺は思うね」
「ゲースロなんかはさ、総合的には結構いい線いっているけど、あれの舞台設定は、英国の歴史を基本にして、入れ替えただけだろう」
「どうでもいいけど、俺は早く続きが読みたいんだよな。ジョージはいらない仕事ばかりしていて、肝心の仕事になかなか手を付けていないように俺には見えるね。むしろ手を付けられないのじゃないかな、と俺は思う」
「創作意欲が減退している?」
「そりゃわからんさ。でも、多くの人の例で言うと、意欲があるときは、その対象にのめりこむものだろ?事実は、他の仕事はしているが、長い間販売予告すら出ないという状況さ。仕事が出来ないわけじゃない。肝心な、それが出来てないんだ」
「死ぬまでに読めるかなあ?」
「その答えは俺にはわからんね。だが、確率的に言えば、ジョージの年齢と、あの体から考えられる健康状態を鑑みれば、未完の大作で終わる可能性の方が高いだろう」
「そう濱田なら思うわけだ」
「いや、これは事実認識からくる、計算の結果だよ」
濱田が真顔でそういった瞬間に、美術室の入り口のドアが開いて、下級生の女子が勢いよく二人入ってきた。小さくキャッという声とともに、
「やった」という歓声が、これまた小さく、しかし聞こえる範囲で教室に響く。女子は、二人で楽しそうに笑いながら、準備室に消えていった。新学年になって、紘一と濱田は最上級生になった。五月という、年間でも、気候が一番いい時期の、まだ受験でピリピリしていないのんびりした教室で、その二人はいつもの事とばかりに、平然としている。
こうした女子は、校内には、少なからずいた。紘一のファンクラブなのである。歓声は、思いがけないところで、紘一に出会った事で発せられたものである。このように、あからさまにキャーキャー言うのは、つまり紘一がグラウンドで走っていたりすると、校舎の窓から、紘一の周回に合わせて手を振ったりする連中や、廊下ですれ違いざまに、今のようにどよめいたりするのは、下級生に多い。
同級生では、別のクラスにいる濱田に会いに行ったりすると、教室内の一部の女子たちの空気が一瞬にして変わったり、体育の時間に紘一がファインプレーをしたりすると、胸の前で小さく拍手をしたり、授業中にあてられたりすると、後ろの方で、女子たちがささやいたりするパターンが多かった。そういった少しひそやかな感じで、応援したり、噂をするといった具合なのだった。
これが、今はもういないが、上級生になると、まったく趣が違ってきて、いわゆる言伝を言いつかるという具合になる。紘一のファンである、とある女子のところに、何かを届けてほしいと、その友人から言いつかるという具合だ。で、紘一がその何か、本であったり、タオルであったりしたがを、その女子の先輩に渡すさまを、言伝たほうは少し離れたところで、二人の照れ具合を眺めて楽しむという、そのような感じである。要するに、からかわれているのだが、まあ罪のない範囲だ。
こうしたことは、中学生の後半から紘一には起き始めた。最初は戸惑ったが、一年生のころは、実際に同じクラスの女子たちが先輩の噂をしたり、校舎の窓から手を振ったりしているのを見ていたから、あの存在が自分に代替わりしたのだと、そう思った。
全部とは言わないまでも、ある特定の女の子たちの学生生活には、そうした存在が必要なのであって、それに自分が、条件が合って、なっているというだけなのだ。扱い的には漫画のキャラクターと変わらない。だから、紘一自身は、どこにでもある普通の話だと思っている。
だが実際には、そのようなことが普通のわけはない。ほかの男子からは、やっかみや羨望を向けられていたのは事実である。
しかしどれだけ羨ましがられたところで、紘一にはあまりそれがピンと来ないのだった。きゃあきゃあ言ったり、周囲でざわつく女の子たちが、それ以上の行動を起こすかというと、そういうわけでもなく、そこからの進展はないのだ。向こうから積極的に話しかけてくるような事とかは、まずなかった。これではその中の誰かと、特別親しくなったりとかは、ありえない。
もちろん、話しかけてきたとしても、紘一が女の子との話術にたけているかというと、そういうわけでは決してなく、どちらかというと話下手な紘一にしてみれば、かえってがっかりさせるようなことがないだけに、むしろ安心の状態ではあったのだ。
つまり彼女たちは、紘一の外面だけで、その遊びの対象にしているということだ。内面は関係ないのだし、遊びだから、深い関係は、逆に望んでいないというわけだった。これでは、喜んでいいのかどうか、わからない。しかし周囲の人間からすると、そこまでの内情は、なかなか理解しきれないのも確かだった。誰もが、こういう状況を経験するというわけではないのだから。
一方で、その当事者である紘一の好みで言うと、そうした女子たちは子供っぽい連中が多くて、それは紘一の興味の対象ではなかった。紘一は、どちらかというと、どっしりと地に足のついたような、しっかりした大人の女性が好みだったが、そうした女子は、このファンクラブ的なものからは、遠い位置にいたのであって、それも含めて、ほかの男子からすると、うらやむべき様なこの状況が、特にうれしくもない紘一ではあった。
スラリと入口の扉音を立てて、また誰かが入ってきた。
「ここにいたのか」
と言って入ってきたのは、女子である。背筋を伸ばし、胸をツンと張り、そのくせ油っ気のない髪を広がるがままに、これまた思い切りよく肩のところでバッサリと切った髪型で、ほとんど外見には関心がないように、それに関することは何もしていないように見える。実際に何もしていないのだろう。その精神性と、見かけは別だといわんばかりで、そういうエネルギーを全身から発していた。
「なんだ?大槻女史」といったのは濱田である。
大槻は、周囲からは女史と呼ばれていて、なんとなくそのことが、ことさらに、彼女にふさわしい威厳を与えていた。ただ、彼女は、この美術部の部長でもあるのだから、その威厳はまんざらでもないのだ。
紘一は黙っている。因みに紘一は大槻の事を女史とは言わない。何故だかは分からない。女史という言葉は、最近では差別用語らしいが、そのこととは関係がない。もちろん濱田達だって差別しているわけではない。本来の尊敬を込めて言っているのだ。無論そのことで大槻からクレームはこない。
そして、実を言うと、紘一が親しくなりたいのは、この大槻のような女性なのだ。それが異性を対象とする好奇心なのかどうか、経験の乏しい紘一にはわからない。理想の恋人というには、まったく違うこの大槻が気になって仕方がないのだが、一方で、テニス部の早坂も気になっている。早坂も、真っ黒の顔に、長めの、日に褪せて、傷んだ髪を一つに括り、コートの上の夏の暑さと、冬の寒さで、乾いてひび割れた唇には、リップクリームだけを付けている。しかしその下には、白い歯が美しい輝きを放っていて、時折笑うと、その輝きにハッとさせられるのだ。そして、いつもラケットを抱えた姿で、授業が終わると、さっさとテニスコートに消えてゆくのが彼女の全てだった。
二人に共通しているのは、夢中になれる何かを持っていて、それ以外の事は目に入らないというところだった。だったら、何かに夢中な人がいいかというとそうではない。美術部というところには、オタクと呼ばれる人も多い。そのほとんどが、何かに夢中なのだが、何かが違うのである。二次元と、現実社会の差かも知れない。絵にしたって、テニスにしたって、身体的な動きを伴うものだが、鍛錬や自己に打ち克つ的な、そうした精神性が伴うのがいいのかもしれなかった。
大槻はむろん絵に夢中になっていて、やはり濱田のように真剣に絵に対している。納得するまで、絵から離れないのは、濱田と同じ。時間もかかる。紘一のように、要領よくいい加減に仕上げるようなタイプは、おそらく相いれないだろうと、そう思っているから、ほんとは話をしてみたいのに、紘一の方からは、気が引けて、そうでなくとも普段から滅多に女子と話をすることのない紘一が、余計に話しかけることが出来ないのだった。
「美術展の事だけど・・・」
大槻は濱田に話しかけている。今度行われる県の美術展に出品する作品の事なのだ。大槻は紘一の方には声をかけてはこない。紘一の絵に対する姿勢を考えれば、この仕打ちは正当ではあったが、そこに気遣いを見せるタイプの女子ではないのだと、紘一は今更ながらに、二人の間に立ちはだかる壁の大きさを思い知らされる。
「そういうところがいいんだよ」
とは、以前紘一が、悔し紛れに濱田に言ったセリフである。
しかしそれに関しては、濱田の意見は辛らつだ。
「お前はさ、すべての女子を我が物にしたいんだよ。靡かない奴は、ことさらに興味を掻き立てられる。ただそれだけのことだと、俺は思うね」
「そうなのかなあ?」
紘一は自分でもわからない。だが、何か話してみたいのは、いや話を聞いてみたいのは、間違いのない気持ちなのだ。大槻の口から、大槻が今夢中になっているものに関しての意見を聞きたかった。それは、早坂も同じことだ。
誰かが、何かに夢中になっている時に、そのことに関しての意見を聞きたいという、ただ、そのことに思える。ただ、それが何でもいいというわけではない。そのものに関しては、紘一自身がある程度の興味をそそられるものでなければいけなかった。テニスに関して言うと、紘一自身はやらないが、ある選手に似ていると言われたことがあって、気になって、テレビで試合を見て以来、その華麗な動きに魅せられて、好きになったのだ。
だが、相手はもっと重要である。誰でもいいからというわけではない。そこのところは、実は、微妙な塩梅なのだった。その相手に対する気持ちが、恋かと言われても、よくわからない。きっと一生分からないのだろうと、今は思ってしまう。ある人は全く眼中にないが、ある人に関してはその一挙一動が目を引いてしまう。何かがきっかけで、気になりだすこともある。そうした心というものは、常に揺れ動いているのだが、それを分析してみても、よくわからないのだ。あるいはこれが恋に発展する流れなのだろうが、その流れの中に入ったことのない紘一にはまだわからない。
しかし、濱田の気持ちはもっと複雑である。紘一がモテることは、知らんふりを決め込んではいるが、当然知っている。自分だって、ああいう風になれたらいいなあとは思いつつも、現実にはそうではない。実際、そうではない男子の方が圧倒的に多いのだが、それは慰めにはならなかった。
しかも、その状況に紘一自身が慣れてしまっていて、平然と構えているのが、いや、より正確に言うと、そのように濱田には時折見えること、それ自体が余計に腹が立った。それに関して、デレデレしたり、にやついたりしていてほしかった。そうすれば、その態度に文句も言えるのだ。それが当たり前のように構えられたのでは、こちらだって知らんふりを決め込むしかないだろう。
その余裕の態度が、本当に余裕から出たものでないことは、うっすらと濱田は分かっている。紘一が、モテて当然といったような、自信家でないことは濱田が一番よく分かっている。それは余裕のように見えるが、そうではないのだった。冷静に考えて、どちらかというと、状況にうんざりしているといった方が、正しい気がした。そのあたりの心理は、そうなったことのない濱田にはわからない。それは、大概のものを認識して、言語化できる能力を実年齢以上に有する濱田にとって、理解できないことの一つでもあった。
だから、大槻のような、紘一に全く関心を抱かない女子には、ある意味で心の中で、密かに、複雑な喝采を送っていたのだ。
紘一と濱田のように、長年の友人でありながら、言い出せない秘めた思いを抱えている関係性というのは、ありふれていて、どこにでもあるものだ。
だが、秘めた思いというものは、大槻にもあった。実は、大槻は、紘一が気になって仕方がない。しかし、多くの女子たちと同じようにはふるまえなかった。いつも堂々としていて、プライドの塊のような、この大槻という女性は、実は自分に自信がない。そういう自分ではいけないというその思いそのものからして、既に自信がないことへの表れとなっているのだが、普段の態度の大きさというのは、そうした自分の本性を人に知られたくないということへの防御だった。
実を言うと、大槻は、紘一を見ることすらできなかった。このような近くで彼を見てしまったら、目に現れるであろう自分の思いを、見透かされそうで怖かったのだ。だから、努めて濱田だけを見て、濱田とだけ話をするようにしている。普段は、遠くから紘一を見ていた。視線が合わないようにして、仮にそうなったとしても、目の色を読み取れないほど遠くからしか、彼を見ることが出来なかった。
三人三様で、それぞれに思惑はあったが、別段気まずい空気にはならなかった。ごくごく普通に時間は流れてゆく。紘一の方も、大槻に関しては、意識が下がっていって、自分の展覧会作品の事を考えていた。きっとそれが、二人の間の微妙な緊張感をやわらげたに違いなく、その自然さが大槻の背中を、何となくだが、ふと押すきっかけになった。
「紘一君は、何を出すつもりなの?展覧会」
そう語りかけたことに、自分でも驚いたし、濱田の方でも同じ思いを抱いたようで、瞬間的にだが、顔色を変えることになった。珍しいこともあるものだ、という表情である。
というのも、普段、大槻から紘一に話しかけることは滅多にないことだったからだ。紘一と大槻は、同じ中学出身だった。濱田は別の中学である。中学時代は、接点がなかったが、とは言うものの、お互いにお互いの事は知っていた。紘一は全校を通じて有名人だったし、大槻も、美術的才能においては、有名だったからだ。彼女は、中学時代から、様々なコンクールにおいて、その存在感を、普段は目につかないのにも関わらず、その時ばかりは、ことのほかアピールするような、そういう存在だった。
だから、同じ中学のよしみで、当時の事にまつわる話題は、いくらでもあるはずなのだ。しかし、うわさ話などには興味のない二人の間には、そうした話をする機会はなかった。大槻の興味はがぜん美術であり、別の中学から来た濱田とは、そのことに関して話すことがあっても、紘一とはそういう展開にはならなかったのだ。
「別に、考えてないかな・・」
急に質問を振られた紘一はそう答えてしまった。もっとほかの言い方があったのにと思うのは、次の瞬間で、そのあとひどく後悔することになるのだが、それはまた後の話だ。ちょっとした失敗よりも、驚いた方がこの時は大きかった。大槻もまた、自分の発言に驚いた感情をまだ引きずったまま、
「そう、考えておいてね」
というのが、精一杯だった。そのぎりぎりの思いは、表情に、わずかだが出てしまっていた。
女子に話しかけられて、まともに会話できないのは、紘一のいつもの事ではあった。それは別に珍しいことではなかったが、大槻が、ある種の動揺のようなものを隠せないのは、今までに見せなかった素振りだった。それについて、濱田もまた、驚いたが、彼に関しては男女間の機微が理解できるほど経験がない。だから、彼としては、珍しいことが重なったという風にしか、この場は理解できず、二人を交互に見つめては、その無表情は崩れることがなかった。
こういう場合、経験豊富な者ならば、ははーんと察知して、にやつくか、もっと二人に好意的な人物であったならば、気を利かせて、この後の展開を引き出してやるくらいの気遣いは出来るタイミングではあったが、濱田に関してはどちらでもない。
「紘一、去年描いた、海を見つめる女の子の絵があっただろう?俺はあれが好きだから、あれにしておけよ」と、だけ言う。
「!」
目を白黒させるというのは、まさにこういうことだ、視点の定まらない目をあちらこちらにさまよわせて、紘一は何と言ったものか、慌てふためいた。
実は、その女の子は、海をバックにして、背中しか描かれていない。絵描きはその海を見つめる女の子を、背中から見つめているのだ。その女の子のモデルが大槻であるというのは、紘一しか知らない。もちろんそのまま写実的に描いてしまえば、わかってしまうが、絵の中の大槻はかなりデフォルメされている。しかし雰囲気は、思いをのせるように描いただけあって、紘一にとって、彼にだけ、この絵の女の子は、大槻そのものだった。
しかし、そのことはこの二人にはわからない。
「私もあれがいいな」と、言ったのはその本人だ。
紘一は、細かく何度も、首を縦に振るのが精一杯だった。
あの作品は紘一には珍しく時間をかけて描いたものだった。小さな作品で、作品に時間がかかったわけではないのだが、対象物によって、その絵を描くという行為が、これほど心躍るような喜びに変わるのだという感覚が新鮮だった。その感覚をいつまでも味わっていたかったのだ。
普段はままならない彼女が、自分の手の内にいる。絵を描いている間中、彼女の表の表情を、想像し続けた。海は瞳に移っている。その瞳は、うっとりとしているはずだから、そのことが海の表現に出ていなければならなかった。暗い海なら、瞳は暗い。偉大なる海なら、瞳は感嘆をたたえているはずだった。だから、海を真剣に描くことは、見えない彼女の表の表情を描くことに等しかった。
美しいものに、うっとりと見とれている。たとえば、好きな絵にうっとりと吸い込まれるように眺めている。その大槻の表情が一番好きだったから、海はうっとりと美しいものでないといけなかった。
そのうっとりした、紘一の一番好きな表情を、一瞬だけ浮かべて、大槻はまた真顔に戻った。間近で、一言だけだが、紘一と話が出来た。そのことが、とても満足だった。
「じゃ、そういうことで」
それだけ言うと、また胸を張って、奥の準備室に消えてゆく。先に部屋にいた後輩の女子たちの緊張した挨拶が聞こえてきた。大槻のカリスマ性は、下級生に対しては、より絶大なのだ。
それから数日後の同じ教室。展覧会は来月なので、皆それぞれが自分の作品の追い込みにかかっている。濱田も、大槻も、自分の絵の前に陣取っていて、細かい修正を施していた。その間は、誰ともしゃべらないし、先生であっても、近づくことの出来る雰囲気ではない。何が何でも邪魔するな、という強烈なオーラが出ている。
そのような高校生は、特別だったし、少数派だが、そうした二人がいるということで、このクラブは、ちょっと部員に緊張感を強いることになっている。だから、全員が同じように絵に向き合って、二人の先輩たちの真似をしていた。しかし、そのような苛烈さは、正直なところ、二人だけのもので、他の部員たちは、ほどほどの、ゆるい空気感なのだ。だから、時々部室には、小声でささやくような会話が耳に入った。
そんな教室の中、紘一とて例外ではない。彼も絵を描きながら、そのささやき声に耳を傾けている。重大な情報を含む会話ではない。ほんの取るに足りない会話に過ぎない。
「昨日素敵な映画観たのよ。テレビの深夜映画でね」
「あ、それ私も見たかもしれない」
カンバスの陰に隠れて、こそこそ話をしているのは、後輩の女子二人である。彼女たちはちなみに、紘一のファンクラブ員ではない。ファンクラブにはある一定のパターンがあって、距離感がある程度あることが、必要なのである。同じクラブ内では、あまりに距離が近すぎる。公然と、その中でファンクラブ活動をするには、あまりにやりにくいのだ。ファンクラブ活動は、活動そのものが大切なのであって、実は、対象は二の次である。それが分かっているから、よけいに紘一としては、冷めた目線になってしまうのだ。ともかく、その二人が、話を続ける。
「古い映画なんだけどね。主演の人が良かったなあ。とても上品でね、素敵なのよ」
「タイムトラベルものじゃない?」
「そうそう、それそれ。確か、題名は“いつかどこかで”だったかな?」
“ある日どこかで”だよ!紘一は心の中で叫ぶ。紘一もそれは見たことがあった。古い映画だが、名作の誉れが高く、人気がある。
リチャード・マシスンの原作で、彼はスピルバーグ監督を一躍有名にした映画”激突“も書いているんだよ・・・と、頭の中で、セリフは湧いているのだが、それを彼女らに言うことはできなかった。
盗み聞きを、会話のきっかけにするなんて、出来ないよなあ・・・と、言い訳をしつつ、続きに耳を澄ましている。
「あの主演男優さん、ほんっとに素敵だったわ~」
「そうそうガタイがいいのよね」
そりゃあ、彼は、初代スーパーマンだからな・・・紘一は,クリストファ―・リーブ版のスーパーマンはあまり好きではなかったが、彼が大けがを負って以降の前向きな生き方を知っていて、その部分で彼の事が好きだった。
紘一は古いSFが大好きで、先日ある配信サービスで見た海外ドラマ、これは石油採掘施設が舞台なのだが、そこで、小道具として出てきた本、ジョン・ウィンダムの“海竜めざめる”を、星新一の訳で読んでいたし、クリストファー・リーブが主役を演じた”光る眼“の原作である”呪われた村“も読んでいる。その関係で、その俳優には何となくなじみがあった。当の映画は、マシスンの手法が、いわゆる”古いSF“そのものであって、タイムトラベルの方法が、古典的なところが気に入っている。
「当時の古いものを身に着けて、それで催眠状態になって、その当時にタイムトラベルするのよね」
「そうそう、そのあたり、理屈っぽくなくていいのよね。わかりやすいわ。最近のは、なんだか難しいものも多いから」
ひそひそ話から、クスクスと低い笑いに変わって、教室全体にその声は小さく広がっていったが、大槻や、濱田にはおそらく聞こえていないのだろう。注意する者も、眉を顰めるような者も、とくにはいなさそうに感じられる。ラジオを聴きながら、作業する人のように、二人の会話は、耳の邪魔にはならなくて、作業のはかどりには関係なく続いていく。
一方、紘一はというと、あることを必死で思い出そうとしている。クリストファー演じる主人公にタイムトラベルの方法に関してアドバイスをした教授はフィニィという名前なのだが、これがまた古典SF、タイムトラベル物の名作である“振出しに戻る”の作者の名前と同じなのである。
その“振出しに戻る”それを紘一は、確かに読んでいたのだが、どうも内容が思い出せない。主人公は何がきっかけでタイムトラベルしたのか、そこがどうも思い出せなかった。
(あれも自己催眠だったかな・・・)
しかし、まあ、フィニィ教授のお薦めだから、同じようなところなのだろう、と思ってもみる。
「あんな感じでさ、どこか好きなところに行けるとしたら、どこがいいかなあ、って考えない?」
「うーん。そうね。でも私は過去とかはいいわ。どうせ行くなら、現代のままで、好きな場所がいい。外国とか、海外セレブの近くとか、見たいコンサートに紛れ込むとかさ」
「そっか。そうだよね」
「好きな対象の何かを、身に着けてさ。念じるだけで、近くになーんて、ちょっとロマンチックじゃない?」
「そんな話、あったっけ?ありそうだよね」
そういった会話を聞きながら、紘一も考えてみる。
(行けるなら、どこがいいかな?)
そう思いながら、絵に描いた大槻をぼんやりと眺めている。この絵の中の世界なら、大槻と屈託なく会話できるかもしれないな、と想像しながら、これこそが異世界物の源流だと、気が付いた。現実逃避の想像だ。
それは、何かいやらしい個人主義の表れのような気がする。他人の心理や行動が、自分の思惑通りになってほしいというのは、その他人の人権とまではいかないが、その自由存在や多様性を認めていないような気がして、少しいやな気になった。少なくとも、自己中心的なのは確かだ。
おそらくそうしたことが、先日濱田に言いたかったことなのだろう。伝えたかったのは、自己中心的なことに対する嫌悪感なのだ。そう思いながら、ぼんやりしていると、今まで聞こえていた女子の会話が聞こえなくなっていることに気が付いた。
教室は、いつの間にか静まり返っている。そのようなことは、大槻が部長である今は、よくあることだ。去年までは、もっと騒がしい雰囲気だったのが、代替わりして随分と変わった。
その時だ、かすかに何かの音、ごくごく小さくてよくわからないが、聞きなれた音が紘一の耳に届いた。まるで、幻のような、小さな音。
校舎は山の中に立っている。町からは遠く、聞こえてくるのは、鳥のさえずり、それに近くを通っている高速道路の遮音壁を超えてくる、走行する車のタイヤから発せられる音。特にそれは、雨の降った後は、水を押しのける音として、大きかったが、今はそうではない。それでも、耳をすませば、聞こえる程度で、その音よりさらに小さく、空間に潜むようにして、そのかすかな音は有った。
何の音なのだろうと、紘一は記憶をまさぐってみる。目を閉じて、その音に集中する。
心に浮かぶのは、まぶしい夏の日差しと、きらめく水の色。
この町の外れには、海水浴場がある。紘一の家から自転車で十分ほどの距離で、毎年夏になると、紘一は独りでここに通っていた。田舎の事で、気を使うこともなく、海が近いので、海パンのまま自転車に乗り、泳いだ後も、公営の施設で、無料のシャワーだけ浴びて、濡れたままで、自転車に再び乗って、そのまま家まで帰ってくる。小学生の時からずっと、その習慣であった。高校生になった今も、毎年欠かさない。透明の水に浮かんで、差し込む光の中で、自分の体の下を通り抜ける、いろいろな生き物たち、悠々と泳ぐ大きなクロダイや、砂を蹴立てて進むホウボウ、宇宙船のようなイカの子供たち、それが一体の生命に見えることもあるゴンズイの玉、砂の上で、猫の糞に見えないこともないナマコなど、そういったものを眺めて過ごす時間は、その浮遊感も相まって、あらゆるストレスから、紘一を解放してくれるのだった。しかしその海も、高校からはかなり離れてしまっているので、潮騒がここまで届くはずはない。
だが、音から浮かんでくるのは、確かにあの夏の光景だった。沖にある、その先遊泳禁止区域を示すフロートのところまで、泳いで行って、引き返し、時にはそのフロートに捕まって、波に揺られている。そして、浜に上がって休憩をするとき、夏の日差しに肌を焼きながら、聞いているあの音。いわゆる岩に砕ける波の音ではない、砂にやさしく戯れては、吸い込まれていくかすかな水音だ。その音を意識下で聞きながらも、目には、きらめく水の色が映る。その水の色と、自分との間に居る、いや居れば良いと思った彼女の姿が浮かび上がった。その世界は、紘一の目の前にある絵の世界そのものである。この時、彼女は麦藁の帽子をかぶっている。それはいつの日だったか、外で写生をした日に、彼女がかぶっていたものだ。まぶしい光に目を細めながら、帽子のつばで目を守るように影を作り出し、対象物に集中する彼女の美しいこと。その純粋さ。
それは、どこにでも売っているような帽子だった。だが、彼女の体の一部に触れ、彼女の所有物となってしまうと、紘一にとっては特別のものとなる。そのものだって、彼女の一部と化してしまうのだ。
しかし、麦藁と言っても、本物ではない。正確にはペーパーハットと呼ばれている、麦藁調の、紙で作った帽子である。麦藁と違って、ゴワゴワしない。紙と言っても、やわではない。夏の帽子素材としては、しなやかで涼しげ、軽快な素材で、邪魔になれば、畳んでカバンに入れておくことも出来るという、そうした合理性が大槻に合っていた。
彼女にしてみれば、その合理性で選んだのかもしれなかったが、飾り気のない、その素朴さが、紘一としては好きだった。この浜辺に、彼女がいるのならば、必ず、その紘一が好きな帽子をかぶるはずなのである。
それも絵に描いてある。それだって、どこにでもある帽子であり、浜辺にいる女性が、そうした帽子をかぶっていたって、ありきたりすぎるくらいでしかなく、そのことをして、大槻を特定させるということには至らないだろうと、紘一は思っている。
幻の中で、強く、風が吹いた。頬をなぜる風に驚いた。砂粒が頬に当たって、痛みを感じた。その驚きで、目を開いた。目を開く刹那に、麦わら帽子が吹き飛ぶ瞬間が見えたような気がした。
目の前には、変わらない風景があった。カンバスには見慣れた絵があり、絵筆を動かす者、パレットで色を作ってはその調整に首をかしげる者、ただ単に自分の絵をじっと見つめるだけの者がいる。
話し声も再び聞こえてきた。話はもう違う題材に移っていて、化粧品の話になっている。紘一にはわからない。ずっと話し続ける二人の様子から、この調子は変わりなかったのだと、そういう理解になったのだが、先ほどの静寂が、そうなると気味悪く思えてきた。物ごとに集中すれば、その様なこともないことはないが、それほど集中していたわけではない。むしろ、ほかの事を考えて、分散した気分だった。
(いや、その考えに集中していたのだ。どこに行きたいかという自問だ)
そう、思い直して、目の前の絵をじっと見た。
(この場所に行きたいと・・・)
そう再度考えて、目を閉じる。だが、心の中では分かっている。場所だけでは足りない。大槻がそこにいるということが、最大の条件である。
(・・・・)
今度はもう何もひらめかなかった。話し続ける女子二人組の話は、相変わらず聞こえていたし、パレットや、絵筆を扱う音すら聞こえてくる。
(バカバカしい。白昼夢なんて、今時流行らないぞ)
不意に思ってしまってから、可笑しくなった。そういえば、白昼夢という言葉自体、聞きなれない言葉になりつつある。多少レトロな響きのある、その言葉を暫く弄んでいた。どこでこの言葉を耳にしたのか、ということに関しては、普段の会話からではない。あれは小説か何かの題名だったか?ということに考えが及んで、どうしても気になって、濱田に聞いてみようと思い立ち、体の位置を濱田の方へと向けた。
異変に気が付いたのは、紘一が「濱田!」と呼び掛けてしまってからだ。体の位置を変えて濱田の方を向く。足の位置を変えて、足元にざらつくものを感じ、反射的に下を見た。
砂が紘一の足元に、落ちていた。細かい砂は、浜辺の砂のようにも見える。この学校は、上履きに履き替えることになっており、こんなところに砂があるわけがない。また、風によってここへ運ばれることなど、考えられなかったし、今までもそのようなことはなかったのだ。ここは最上階の、四階だった。
しかも、運動場は、この教室とは離れている。というのも、この高校は山の中腹に建っている。自然、高校の敷地内でも、傾斜があって、校舎は高い段に、運動場は低い段に作られていた。運動場へは、階段かスロープで降りないと行けないのだ。当然、位置関係としては、離れたものになる。校舎の周囲は、砂のようなものがむき出しになっているところなどないのである。
呼びかけられた濱田は、ちょうど集中力の切れ目にいたようだ。珍しいことだが、ないわけではなく、紘一の声は耳に入った。何だ?という口パクをして、立ち上がって、紘一の方へ歩いてくる。どうやら、彼は煮詰まっていたらしい。いい機会だとばかりに気分転換をするつもりなのだ。
「これ見てくれよ」と、近くに来た濱田に紘一は声をかけて、床を指さした。
「砂だな」と、濱田が返す。「どうしてこんなところに砂があるんだ?」
「風が吹いて」と紘一、自分の絵を指さした「ここから飛んで来たんだよ」
二人の間にしばしの沈黙が流れる。その間濱田の視線は、紘一の表情から、絵の方へと移動した。どうやら、紘一の表情からは、ある種の本気を読み取ったらしい。そして、もう一度紘一の表情へと視線を戻し、その真意を確認すると、次の瞬間には、くるりと自席へ戻り、レポート用紙を一枚携えて戻ってきた。
「お前は、本気でそう思っている。俺の判断では、それは間違いない。だが、確認して、それが正しいのか、それとも誤解なのか、確かめよう」
そういいながら、床に落ちている砂を、レポート用紙に拾い上げ、それを包むように、何度か折り畳んで、ポケットに入れた。
「ついて来いよ」と、濱田はそう言い放つと、先に立って歩きだした。そのまま教室を出てゆくようだ。
校舎は三棟あって、それぞれが渡り廊下で繋がっている。そのうち四階部分は屋根のないオープンで、気持ちいい微風の吹く中を二人は歩いて行く。
「どこに行くんだよ?」紘一が、先を行く濱田に追いついて、尋ねた。
「こいつのさ、特定を依頼するんだよ」濱田が、制服のポケットを指さして、にやりと笑う。そのポケットには、例の砂が、レポート用紙に包まれて入っている。
「特定?」紘一は理解が出来ない。
「まあ、ついて来いって」濱田は、楽しそうだ。彼には、こういうところがあった。自分だけが分かっていて、人が分からないようなことがあると、そのことで楽しめるのだ。そしてそのことに関しては、秘匿を貫く。容易く教えてはもらえないのである。どうやら、出来るだけ長い時間を、そのことで楽しんでいたいらしい。
「どこに?の答えになっていないだろ。何しに?だったらそれでもいいけどさ」紘一は食い下がるが、濱田は余計に楽しそうに笑っただけだった。お前もわかってきたな、という楽しげな笑いである。
三棟が並んで立っている校舎の真ん中部分は、一般教室で占められていた。濱田はここを通り抜けて、右翼の棟へと向かう。紘一たちのいた左翼の棟は、美術や、音楽、書道などの教室が入り、右翼の棟は、理科室や、調理室などが入っていた。それぞれに理科棟、教室棟、芸術棟と呼ばれている。その理科棟に、理科室は二つあって、紘一には授業以外であまり縁がなかったが、ここは生物学と、その他の科学で棲み分けがされているらしい。
濱田は水槽の並ぶ生物学教室の前を通り越して、その奥にある、その他の科学の教室へと向かっている。
「俺はな、週に二~三回はここへ来るんだよ」と、誰に言うともない素振りで、濱田が言った。こんな時は、彼は照れているのだ。どうしてこのようなところへ来たのだという質問へ、先回りして回答したともいえる。
しかし、それは回答そのものではない。それに気が付いて、また濱田は口を開いた。
「ここはな、何もかもが、すっきりとしていて、気分がいいんだ」
「理路整然と、というやつか?」
「経緯もだが、結果だよ。何を目的とするかだ。その意味で、科学というのは、人に真実とは何かを、最も効果的にもたらす道具なんだ」
この科学云々というセリフは、濱田のお気に入りのセリフである。彼が尊敬してやまないカール・セーガンからインスパイアされた言葉なのだ。つまり、すべてを疑え!ということでもある。これは言い換えると、慎重になれとも、鵜吞みにするなとも、結論を早まるなとも、いえる。「アインシュタインは、ひとまず、時間と空間を疑っただろう?」というのも、濱田のお気に入りのセリフだった。「でないと、人は、単に自分の好みのものに飛びつくんだ」と彼は言う。
「目的は真実か?」紘一が、理解して、問う。
「その通り。これから真実に近づくとしよう。事実は明確だがな。だが、この二つは、往々にして、社会の常識では相容れがたい時がある。それを出来るだけ近づけていって、解消しようとするのが、ここさ」
そういって、濱田は教室のドアを開けた。中には数人の男女がいて、顕微鏡をのぞき込んだり、試験管を振ったりしている。濱田は、気にせずにどんどん中に入っていく。紘一は後ろに続いた。周囲の生徒たちも、濱田の存在を気にする者は居ない。だが、その一方で、(えっ!)という女子の声がして、これは紘一にはおなじみの声だったが、白衣を着た女子が、口元を抑えていた。傍にはもう一人、白衣を着た女子がいて(どうして、こんなところに!)と言っているのが聞こえてきた。これは結構、紘一が頻繁に遭遇するパターンの会話である。その状況に、二人は慣れたもので、構わずにどんどん進んで、一番奥の机まで行った。
その一番奥の机で、顕微鏡に目を落としていた男子が、そちらのざわつく女子の方へ軽く視線をやって、それから濱田の方に顔をやった。集中していて、二人が入ってきたことに今気が付いたようだった。ゆるい天然パーマで眼鏡をかけ、色白で、そばかすがたっぷりあって、外人のように見える。と、ここまでは、まあそこそこの美男子の条件だが、残念なことに彼は出っ歯だった。いつも口元を、すっぱいものでも食べたように尖らせていて、それが彼の一大特徴になっている。だから美男子要素は、そのために台無しだった。しかし、一度見たら、忘れない顔ではある。しかも動きがせわしなかった。印象に残るタイプで、紘一とは、校庭でよくすれ違い、気にはなっていた。いつも何かを急いでいるという雰囲気を、周囲に与えるのだ。しかし、お互いに名前は知らないだろうと思っている。確かに言えることといえば、彼も、三年生なのだ。
「進んでるか?森本」と、濱田が声をかける。どうやらこの目立つ彼は、森本という名前のようだ。
「まあね」と、彼は気安く答えた。濱田とは、馴染みらしい。
「こいつとは同じ中学なんだよ」と、濱田。
「で、こいつは・・・」と浜田は続いて、紘一を手で示す。
「知ってるよ。紘一君だろ」と、森本が言う。
「この学校で、彼を知らない人はいないよ」と、森本は笑う。笑うと、彼の大きなメガネは少しずれるのだった。その眼鏡を直す森本に、濱田が、間髪入れずに畳みかける。
「言い切ったな。この科学オタクが!そこに数値的余地は無いのだな」
「無いさ」と、森本。濱田の勢いある突込みに対して、こちらは冷静に返す。
「ほう」と、濱田が感心する。互いに慣れたもので、このやり取りは日常的なものらしい。だから、言い切ったときに笑ったのは、誘い水だったのだと、紘一は気が付いた。こんな掛け合いの出来る友人を、濱田が持っていたことに今更ながら気が付いて、少し複雑な気持ちになる。しかし、化学実験室なんかには、授業以外で近づくことはないのだ。
「まあ、これぐらいのやり取りが出来ないと、部長としては、部費予算をもぎ取ってくることが出来ないんだよ。やってみないとわかりませんじゃ、やってみるまで待ってくれないのが、世の中なんだと、各部間の予算会議に出席して、気が付いたことなんだな」
「大人になったなあ。さすがに科学部長だな」と、濱田は茶化すでもなく、妙な感心の仕方をする。
「で、今日は何なんだよ?」と、森本。彼は、少し照れているようだと、紘一は思う。照れ隠しで、話題を変えたのだ。
「これを、鑑定してくれよ」と、濱田はポケットから、先ほどの砂を取り出した。
「珍しいこともあるなあ」受け取りながら、森本は、それでも嬉しそうだった。早速、顕微鏡にサンプルをセットしてレンズを眺め、すぐに顔を上げた。
「これは、扇浜の砂だな」
「間違いないのか?」と、濱田。
「ああ、間違いない。これは簡単な鑑定だよ。あそこでは固有の貝や、様々な有機物が砂に混ざるんだ。実に特徴的なんだよ」
「砂場の砂は、海のものだって聞いたことがあるが、その可能性は?」
濱田はさらに食い下がる。
「うちの運動場の砂場は、川砂さ。市内の公園の砂なら、海砂のものもあるが、組成は違うね。基本市販の海砂は、海底から採取されるからな。因みにこれはどこで採取したんだ?」
「美術教室だよ」
「なんとまあ。変わった場所だな。誰かが持ち込んだのか?」
「いや違う。そうじゃないんだ。教室にこうした類の砂が紛れ込むとしたら、可能性として考えられることはあるか?」間髪入れず、再度、濱田は付け足した。「もちろん、意図的に運ばれた以外の条件でだ」
「人に付着するには量が多すぎるし、泥状になって粘性を増して靴裏に張り付くようなものでもない。それ以前に靴は上履きだろ。ただ、砂浜に座り込んで、ポケットに入ってしまえば、これくらいの量は運べる。それを教室で捨てたということは考えられるけどね。わざわざ教室内で捨てるかな?」
「俺は風で舞い込んだとみているんだが。この近くで、こういった組成の砂はないのか?」
濱田のこの質問で、森本はにやりと笑うと、目の前の窓を指さした。その窓を通して見えるのは、校舎を建てる時に切り崩した山の一部だ。そこは切り立った崖になっていて、地層が湾曲しながらも、はっきりと露出していた。様々な彩で、層をなしているが、ところどころに黒い層が見えている。黒い層は不規則だが、周期的に表れていた。
「あそこにあるのが、そうだよ。組成は極めて似ているが、若干違うと言えば違うかもしれない」森本は独りごとのように呟いた。それは自問自答のように聞こえ、濱田や紘一に語り掛けるといった様子からは違っていた。
「どういうことなんだ?」
「浜の砂は、あそこにもあるってことさ。ただそれは一部に過ぎない。ほかのものと混じっていて、それだけが純粋に分離することは考えにくいということだ」
「こんな山の上に浜の砂があるって?あったかい時代に、ここは海の近くだったってことか?」
濱田の言っているのは、温暖化時代における海面上昇の事だった。紘一はそれを聞きながら、いくらなんでもそれはないだろうと、思う。ここはかなり高地なのだ。逆に地殻変動で海浜の近くにあった陸地が移動しなのではないだろうか?とそう思った。
「崖の地層に、ところどころ黒い線が入っているだろ?」
森本は、再び崖を指さした。
「ああ」と、濱田。
「あれがな、津波の跡なんだよ」また、にやりと笑う。
「何本かあるよね」と、これは紘一である。
「何回も繰り返してきているんだよ」と、森本より先に濱田が言う。
「あの地層の時代には、海が、今よりも近かったってこと?」紘一が聞く。
「そうだね」と、森本。「温暖化に、地殻変動。それもあるが・・・この下に川があるだろ?」
学校のある山の裾には、少し離れたところに川が流れていた。
「あの川は元々蛇行していて、もう少しこの近くにあったと考えられてる。そこを津波が遡上したんだ。だから、ここは山の上なんだが、不思議なことに当時の津波の跡が残っているという、実に貴重な場所なんだな」
「川がすぐ近くにあったって?」と、紘一が妙な声を上げた。
「そこに引っかかるのか!」と、濱田が叫ぶ。
「川というものは、元々じっとしていないものなんだよ。少なからず蛇行していて、右岸と左岸では水の圧が微妙に異なるだろ。土砂の削れ方なんかも、それに応じて、違ってくる。だから、だんだんと川岸は形を変える。それに合わせて、川も移動するのさ。あの川が、今まっすぐに流れているのは、治水事業のためだよ。蛇行していると、水の流れは悪い。水害の予防のためさ」と、森本が紘一に解説してくれた。
「さすがに詳しいね」と、紘一。森本は、そう言われることに慣れていない。ここに居れば、当然の知識だし、濱田は、滅多なことでは褒めないし、クラスでは、森本の知識を生かせるネタが話題になることはないからだ。
「僕はね、この学校に始めて来たときに、あの崖を見て、不思議だと思ったんだ。あの黒い筋は何なのだろうってね。どうして周期的なのか。よく見ると、あれは水害の時に流れ着いた泥や、様々な漂流物のかけらなんだな。その中には、木や、貝などの痕跡も残っている。それを調べたくて、このクラブに入ったんだ。津波の事を知るためには、その当時の地形を知らなくてはならないだろ?だから、あちこちの土砂サンプルを集めてきて、場所を地図上に落とし込んでは、分析したりしているんだよ」褒められて、気分の良くなった森本はいつになく饒舌で、それを濱田がにやにやしながら眺めている。それには気づかずに紘一はさらに話を広げようとする。
「民俗資料館に行けば、古文書なんかもあるよね。それは役に立つんじゃないかな?」
このセリフで、森本は大笑いし、濱田は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「紘一、あれはな、文献以前の太古の昔のものなんだよ」と、濱田。
「いや、紘一君は、伝承の中にある太古の記録を探れと言っているんだよ」これは森本である。
「そ、そういうことだよ」紘一は言いながら、一緒になって笑っている。
「そう、本当はな、森本は、ここに来るような学力ではなかった。どこでも好きなところに行けたんだ。だけど、あの崖が、こいつをここに誘ったのさ」当時を回想するように、濱田は言いながら、ポケットから残りの砂を取り出した。
「森本、実はこの砂なんだが・・・」声を潜めて、森本だけに聞こえるように、紘一がした説明をもう一度した。絵の中から風が吹いて、気が付くと、砂が絵の前に落ちていたというものだ。
濱田という人間は、嘘をつけないタイプである。何か自分に都合の悪いことがあっても、それはそれで隠したりもしない。逆に、正直に言い切ってしまって、開き直るような、そんなタイプだった。開き直るというのは、居直るということではない。
それは、彼が日ごろ、信念にもとるような振る舞いをしない、というところからも来ていた。彼にとっての不都合は、不可抗力であり、意図しないところからの発現であった。それ故に、彼はそのことに対して、後ろめたさを感じることはない。したがって、それを隠すことをしないのだ。審判は、誰かが下せばいいというスタンスだった。
つまり、人を担いだり、作為的にからかったりするような事とはもっとも縁の遠い人間であった。そのことを知っているから、森本は真剣に聞いている。これが他の人間なら、笑い飛ばすようなことなのだ。この関係性は、濱田と紘一の関係性とよく似ている。彼らは、互いに信頼で結ばれていた。
「風が吹いて、絵から砂が零れ落ちた・・・か」と、森本はつぶやく。彼の表情は真剣だった。笑い飛ばしてもいい内容だが、そのようなことはしない。紘一は、意外だった。
「正直おかしな話だろ?僕の勘違いなのかもしれないし」紘一はだんだんと、自分を疑うようになっていた。そのようなことがあるわけないと、思い始めている。
「じゃあ、この砂は何なんだ?」と、濱田が言う。言葉は食って掛かるような言い方だが、そうではない。冷静なのである。辻褄の合わないことが、彼の内なる何かを刺激しているのだ。
「動かないでくれよ」紘一の表情をじっと見ていた森本がそういうなり、紘一の顔に手を伸ばしてきた。そのまま紘一の頬に指をあて、その指を自分の顔に近づけて、じっと見ると、紘一と浜田の方へその手を差し出した。
「これも砂だよな・・・」そう森本がつぶやくのと、紘一が濱田と、顔を見合わせるのが同時だった。
「この世の中に、あり得ない事とされていることが起こった場合・・・」
森本が続いて言う。
「場合?」これは、紘一。
「あり得ないとされている事が、あり得ないとは限らない」
こちらは濱田である。
「いやあ、こんな楽しいことはないよな!」
森本は、顔じゅうでその想いを表して、くしゃくしゃにしながら言う。笑顔いっぱいとはこのことだと、紘一は思う。
「でもさ、この世の中にわからないことなんてないんじゃない?たいていの事は、解明されているでしょ?」
紘一は、無邪気に、思ったままを口にする。
この発言に対して、濱田は顔をしかめて、紘一を珍しいものでも見るように、覗き込んだ。その意図は明らかである。
「え?違うの?」紘一の無邪気な問いに、濱田は苦笑いだ。
「目に見えるものはね」と言ったのは森本である。彼は、数歩歩いて物品棚から原子模型を持ち出してきた。
「こいつは目に見えないでしょ?こいつの事はあまりよく分かっていないんだよ」
「えらく乱暴な言い方だな」と濱田。
「まあまあ」と、森本。「確かに厳密性は欠くけれども、大体そう思ってもらっても、大丈夫だよ」
森本の持っているのは、どこにでもある原子模型だ。黒いビリヤードの玉くらいの原子核に、白いピンポン玉くらいの電子が引っ付いて、原子核と電子の間には棒があり、それで互いがつながるようになっている。
「でもそれは、そんな形で、そうなっているんじゃないの?それが分かってるだけでもすごいよね。誰がいつどうやって見つけたんだか・・」
それを聞いて、森本は嬉しそうに笑った。
「それがね、全然違うんだな」
実は、このやり取りは、彼がずっと望んでいたことだった。誰かに説明したくて、仕方がなかったのだが、実生活では原子の話はなかなか出ないものだ。それは、決して、その知識をひけらかして、いい気分になるというものではない。この世の神秘を誰かと分かち合いたいという気分からくるものだった。しかし、理系を目指すものにとっては、この認識は当たり前のものだ。だから、それに縁遠い人間が、この件に関して話題を振ってくれるのを待ち続けていたのだった。
「仮に原子核がこの大きさだったとするよね」森本は、紘一に目の前に再度、黒いピンポン玉を掲げて見せた。
「すると、電子はあの向かいの校舎よりもずっと向こうにあるといった感じになるんだよ」言いながら、三つ並んだ校舎の中心部を指さした。校舎の間にはテニスコートがある。そのぐるりは植え込みと、砂利を引いた緩衝体があって、テニスコートの横幅は十一メートルほどだから、軽く二十メートル以上はあることになる。それに校舎の幅をプラスすると、五十メートル近いのではないか。
「ん?どういうことだよ。間には何があるのさ?」
紘一の質問に対して、また森本は愉快そうに笑った。これこそ彼の引き出したかった問なのだ。
「間には何もない」ここで、少し間を取って、紘一の常識がひっくり返るのを待って、「しかも電子は、この原子核の数千分の一の質量しかないうえに、大きさと呼べるもの自体がないことになっているんだ」と、とどめを刺した。
「それじゃ、何もかもスカスカってわけ?空気があるだけ?広大な空間に、ごく小さな点があって、その周囲には有るか無いかわからないようなものがあって・・・じゃあ物って何なのさ?」ここで紘一は言葉を切って、何かを考えだした。森本と濱田はにやにや笑いながら、それを眺めている。先の発言に関して、紘一の間違いを正そうか否かと、思案中なのだ。
「あれ?空気は分子だよね?原子核と電子の間には、空気もないのか・・・本当に何もないんだ・・・何もないものが寄り集まって・・・じゃあ重さとか、硬さって何なんだよ?」紘一は、自分の間違いに気が付いたようだった。
「科学部へようこそ」森本が言う。
「色即是空、空即是色だ」これは濱田である。
「えー、教えてくれないの!」紘一が大声を出す。
濱田と森本は、体をゆすりながら大笑いしだした。暫く笑い続けている。それが済むと、濱田は指で涙をはじきながら、
「触っているという感覚は、単に、分子の周囲に、所謂あるとされている電子同士の電気的反発でしかないのさ」といい、言い終わると、また噴き出した。
「存在の本質の大部分は、だから、乱暴に言えば、エネルギーなんだ、とも言えるんだよ。いいかえると、実態は、雲、のような存在なんだ」
先に落ち着いた森本が、言葉を区切りながら、言う。
「つまり、この世の中では、何が起きても不思議ではない、ということかな?」
紘一のこの言葉に、森本は少し笑いながら、首を傾げる。
「うーん。そこまでは言い切れないかな。理屈ではそんな気がしないでもないけれど、経験が違うと言っているからね」
「そこだ!」と、濱田が両手のひとさし指で森本を指しながら、言う。二丁拳銃のガンマンのようだ。
「この経験は、何だ?」指を砂の方に向けながら、いたずらっぽい眼をした。
「そうだねぇ・・・」と、森本が言ったとき、下校のチャイムが鳴りだした。周囲の生徒たちが、席を立ちあがり、荷物をまとめ始めている。
「今日はここまでだな。まあ、またいつでもここに来てよ。紘一君」
二人は森本にそう言われて、科学教室を出た。
「結局、どういうことなんだよ?」私語でざわめく廊下を歩きながら、紘一が濱田に言う。
部活を終えた文科系の部員たちが、帰宅準備を終えて集団で騒ぎながら、帰る者、まだ廊下で話し込んでいる者、それぞれにまだたくさん居て、校舎内は騒がしい。部室のない体育系の部員たちが教室に戻ってくる頃には、もっと騒がしくなっているだろう。下校のチャイムは即下校にあらず、帰りの準備を促すチャイムなのだ。本来はそうではなかったそうだが、紘一たちが入学した当時から、その状態で、大方、このチャイムが鳴り、帰る準備をして、一時間以内で帰るようになっている。教員たちも何も言わなかった。
「わからんね・・・だが、しかし・・・」濱田は言い切った。そして何かを言い続けようとしている。雑踏の中で、半ば消え入るような声だった。かろうじて紘一には聞こえたが、それは誰に聞かすでもなく、自分自身に言い聞かせた言葉のように聞こえた。紘一はのどが渇くのを覚えたが、それよりも濱田の言葉が気になっている。
濱田にしてみれば、誰かの不注意で、運動場の砂が紛れ込んでいたということならば、それで済ませられるものなら、それで良かった。また、紘一自身が仕掛けたもので、つまりは砂浜でわざわざ砂を持ってきて、そこに仕込んだということならば、それでも良かったのだ。しかし、事態はもっとややこしいと見える。
つまり、前者は、森本が違うと証明してしまったし、後者においては、一度は紘一の懺悔を待ってみたものの、その人間的観察から、やはりそうではないと結論付けた。ならば、残る現実的可能性は、
「あの崖にある、この手の砂の様子を見に行こうぜ」と、言うことなのだ。
「仮にだよ、あそこから風で飛んできたとして、この数日は砂なんてなかったわけだし、そうなると今日ということになるけど、今日はそんなに強い風なんてないよ。実にさわやかな日だ」紘一は反論してみた。崖に行くのが、嫌だとか、面倒だというのではない。むしろ先ほど聞いた話で、かつてなかったほどの興味が湧いているのだが、崖が示すその色が、暗褐色であり、紘一の足元に落ちていた砂のきれいな色と整合性が取れないのだ。
「言いたいことは分かるが、俺は一つ一つ可能性をすぼめていきたいんだ。確実にね」
二人は、一階に下りてきた。崖はテニスコートの横にある。崖と、学校の敷地はフェンスで遮られており、フェンスの一部に簡易な入口が付いている。ここはワンダーフォーゲル部員たちが、裏山に直接出て、活動するために使っているのだ。今日も、山中で重量物を運ぶ訓練をしたと見え、入り口の近くには、荷物を下ろした部員たちが、思い思いに休憩していた。
ワンダーフォーゲルというのは、登山をしたり、キャンプをしたりするのだが、最近は女子も増えている。少し昔なら考えられなかったことだが、アニメや宣伝の影響なのだろうと、紘一は思う。その中の二人が、紘一を認めて、小さく手を振ってきた。周囲の男子や、紘一は知らぬふりをする。
因みにファンクラブ員たちは、紘一のこの仕打ちに不満はないらしい。逆に、ある程度の距離感が有った方が、良いのである。実際に懇意になることは考えていない。もしそうなれば、ファンクラブは消滅するだろう。本当にモテる男子は、女子とも男子とも、分け隔てなく、誰とも仲がいいし、そうした男子にファンクラブはないのだ。
濱田もまた、いつものことながら、知らぬふりをして、その中の一人に声をかけた。
「少し外に出たいんだけど、良いかな?」
個々の入り口のカギは、ワンダーフォーゲル部長が代々持って、管理しているのだ。呼びかけられた集団の、中の一人が気安く返事をする。
「ああ、まだまだ片付けがあるからな。あと、三十分くらいは大丈夫だ」
「あの崖に」と言って濱田は指を指す。それはここから見える範囲だった。
「あそこにいるから、早く帰るようだったら、声をかけてくれ」
言いながら、濱田は入口のフェンスを開いて、先に歩き出した。紘一は後に続く。ここはまるっきり山の中で、外に出てしまうと、竹やぶと森林が続いている。道はただ踏み固められた獣道があるだけで、それでも長年のワンダーフォーゲル部の活動で、しっかりと踏み固められていて、歩くのに支障はない。森林は、木材産業用の針葉樹林ではない自然林だった。この辺りは、ずっとそうした山々が連なっており、したがって水がいい。戦国時代に活躍した茶道の師である人物の茶室や、有名な酒造所がこの山脈沿いに連なっているのだ。
「ここだな」と、濱田が立ち止まって、上を見上げて言う。紘一もその視線の先を見上げた。二人はそのままじっと見ている。崖の地層やその成り立ちを、二人なりに推理しているのだった。
ここはおそらく切り通しの崖であったに違いない。この道を境にして、地割をしたのだろう。で、切り通しの半分は学校を作るときに崩されて、この半分が残っているという状態である。その残った半分を二人は見上げている。全体的には泥状の土であるが、ところどころに筋が入っている。筋は、粘土や、砂がそこだけ薄く、色を違えて、はっきりと確認できた。茶色の中に、灰色や黒、白が混ざっている。
「灰色の粘土は海底から、白い砂は浜から、茶色い泥は山の落ち葉が腐ったものということらしいな」と、濱田が誰にともなく言う。この崖を、そのような目で見たことはかつてなかったが、今こうして目の前に見て、泥の途中に急に表れる層の変化を作り上げた出来事に、思いを馳せているのだ。
「砂の層は、何本もあるじゃない?定期的に何度も津波が来たってことなのか?」と、紘一が上から下まで見下ろして、もう一度言う。どうやら、そこに気がいくらしい。
「そうだよ」と、背後で声がした。二人が振り向くと、森本が立っている。
「驚かすなよ」と、濱田。
「いや、僕も気になってね。まさかお前らまでここに来るとは・・」
そういいながら森本は砂の層を眺めて、
「一つ一つの可能性を、確実にすぼめていきたいんだよね」と言う。
紘一が濱田の顔を反射的にみる。濱田は目を大きく見開いて、同意を示した。そう、この言葉は森本の口癖なのだ。
「でもやはり、ここからではなさそうだね」と、続いて森本が、砂の層から砂をかき出しながら言った。彼はかきだした砂を掌に載せて、二人に見せる。
「かなり、汚れているね」と、紘一。
「これは、とても綺麗だ」と、濱田がポケットから砂を取り出して、二つを比べてみる。一目で、別物だと分かるくらい、崖の砂は色が変わっていた。
「しかし・・・」紘一は崖を下から上までもう一度見上げた。ここまで津波が来たことが、一つの驚きだったが、それが長い年月をかけて、周期的に起こっているということが、もう一つの驚きだった。それはそのたびごとに、ありとあらゆるものを押し流したに違いない。その押し流されたものは、ここにたどり着いて、静かに沈殿していき、この層を形作ったのだ。砂や、泥だけではない、有機物の残骸が、生き物の思いが、そこにはあるはずだった。しかも何代にもわたって、上へ上へと重なっていったのだ。
おそらく、近い将来にも、必ず津波はあるだろう。ここまで来るのかどうかはわからないが、またすべてのものを流しつくして、そういうことへの示唆をすべて含んで、この崖は立っていた。
紘一から離れて、濱田と森本は何かを話しているようだ。二人の会話は聞こえているが、その意味は紘一には理解できない。難しい話をしているわけではない。単に、言葉は音として意識できるが、脳内で、意味をなさないのだった。木々のざわめきが風に従い、鳥のさえずりがそれを追いかけ、木漏れ日が感じられたが、やがて、それらはシンと、いわゆる反転をし、やがて静けさに変わっていった。
水の音。小さな、水の音がだんだんと大きくなっていく。
(津波の音だ)それは確信であった。
水の音に溶け込んだ、ありとあらゆる感情。圧倒される膨大さ。あまりにも巨大な何か。容量がいっぱいになった。
肩を叩かれた。
「行くぞ!」と、濱田の声が聞こえた。水の音はもうしない。鳥のさえずりが、木々のざわめきが、百舌鳥の叫びにかき消された。
「たこ焼き、たこ焼き行こうぜ」濱田と、森本は今紘一に起きたことに全く気が付いていない。二人は、競い合うように、坂を勢いつけて下ってゆく。笑い声が、木の間にこだました。紘一はもう崖を見ないでおこうと、思った。
「地震はさ、ぜんまい仕掛けなんだよ」と、森本が言う。言いながら、彼はたこ焼きを爪楊枝で小さくちぎって、ソースに絡めている。さっきからずっとその調子で、まだ一口も食べていない。たこ焼き屋の狭い店内にある一つだけのテーブルに、三人は座っていた。ほかに客はいない。向かいに座っている紘一は、もうすでにいくつか放り込んでいる。やけどするほど熱いが、それが美味いのだ。きっと、森本は猫舌なのに違いない。この美味さが経験できないのは可哀そうだと、紘一は思う。
「ある種の、だろ」と、濱田が、それを言うだけに、口の中のたこ焼きを急いで飲み込んで、言った。よく味合わないと、勿体ないとは思っているが、言わずにはおれないのである。
「まあ、最終的には、周期的に来る津波の話に持っていきたいからさ」と、言った後で、初めて小さな塊を口に放り込んで、森本が言う。そのあと、幸せそうな表情。
「地球はぜんまいなんだよ」と、濱田が代わり、言葉を少し変えて、繰り返して言った。森本がたこ焼きを味わっている間に、濱田が説明してくれるらしい。本当にいいコンビだと、紘一は思う。
「ばねに当たる部分は、地殻だな。マントルという比較的柔らかい部分は地殻という比較的固い部分を乗せて動いている。これが駆動部。やっただろ、大陸移動説。専門外の、門外漢が奇抜な発想で、打ち立てた説だよ。俺は、このウゲェナーの話は好きだね。ジョン・スノウだっておんなじさ。疫学の父、知ってるだろ?・・・知らないのか? まあ、ともかく、あれだ。動力源は熱だよ。つまり対流しているんだ。ウゲェナーの本分である大気の流れと一緒。つまり、中心で温まって、上昇し、冷えて沈んでゆく。その繰り返しさ。そのマントルが、動きを作り出して、地殻というばねをたわませ続ける。その場所はマントルの沈み込む場所。海の底なんだ」
濱田は、そう言いながら、テーブルの上に出ているプラスチックのお品書きを指でたわませ始めた。指はマントルの沈み込みのように徐々に下がってゆく。
「ばねは、反対側の地殻との摩擦で、たわみ続けるように固定されるが、この摩擦よりも、ばねの力が大きくなると、弾けるんだ。で、津波が起きる。定期的にね」
そう言って、濱田は指を目いっぱい下げる。板は、限界までたわんで勢いよく弾けた。そのあと口にたこ焼きを放り込む。
「これが地震が、ぜんまいだという意味なんだよ。少しずつだけど、年間で数センチは確実にねじが巻かれている。そういう大きなぜんまい仕掛けなんだよ」代わりに森本が話し出した。
「地殻がずっと動いているから、弾けては戻り、弾けては戻りを繰り返しているんだ。だから地震は定期的だと。で、止まることもない」
「地殻運動に関しては、何時かは止まると言われてるんだけどね。そのころには地上に生物がいるかどうかはわからないよ。地殻運動のない惑星は、太陽系にもあるけれど、どれもこれも死の星だ」
「いつかは無くなるって?」
「ああ、でも数千年や、数万年、数千万年の話じゃない。恐竜時代が六千五百万年前に終わって、なんて話以上のスパンなんだよ。最低でも、億だね。翻って、人類なんて、ほんの数十万年だから。あまり。気にしなくても大丈夫だな」
「つまり、今地球に生き物がいる環境では、必ず津波はやってくるということか」
「そうだね。南海トラフで言えば、その周期は最短でも九十年。最長で百五十年と言われているね。前回の地震が、終戦の年で、七十年程前だから、あと二十年くらいは大丈夫だけれどね」
「言い切ったな!」
たこ焼きを飲み込んだ濱田が、大声を出した。青のりが、テーブルに飛び散ったが、本人も含めて、二人とも気にしない。森本は、紘一を見て、意味深に笑いかけた。(思った通りの反応だろ?)という意味である。
たこ焼き屋を出て、二人と別れ、一人になっても、紘一はあの崖での一件が忘れられなかった。結局、そのことは二人には言ってない。自分で納得がいってないうちに、そのことを口にすることが、今度は憚られたのだった。どうしてなのかはわからない。あの、押し寄る感情の巨大さが、関係していることは確かだが、簡単に口に出せるようなことではない気がした。
急にこの世の中のすべてが、現実ではないような気がしてきた。この世界において、時を遡るというのとは少し違う気がする。この世界ではない、別世界の、いわゆるパラレルワールドへの接点に自分は立ったんだという確信があった。これがどうして、確信なのかがわからない。経験したことのない事柄に対して、生まれてくる確信などというものがあるのか?という疑問はあったが、迷いはしなかった。これが確信であることは、間違いがなかった。
このような時、人間はこうなるのかもしれなかった。つまりは、迷ったり、疑問を持った状態では、精神的に負担が大きい。それよりは、こうだ!と決めつけてしまえば、楽になれるのだ。それは自己防衛である。
或いは、精神異常なのかもしれない。しかしそれは、あの砂という物質的証拠が、打ち消していた。とは言え、ある意味で、異常なのだ。この現象が、精神の力で、呼び起こされている事にも確信があった。それはやはり、常の状態ではないということなのだ。
紘一としては、このような状況になって、それを憂慮するタイプの人間ではない。むしろ、この状況に馴染んでいた。次は、どうなるのだろうと、言うことが、気がかりにはならないで、楽しみとまではいかないまでも、なるようにしかならないといったところで、悠然と構えていられるのだった。
失うものが少ないといったことも、少なからずある。まだ若い。得たものも少ないのである。
自転車をこぎだすと、スピードを出した。速度が乗ってくると、そのことに夢中になった。今日は力があふれているような気がした。自転車が軽く感じる。出ているスピードからして、トップギヤに入っているのは間違いない。それでも、ふと気になって、スプロケットをのぞいてみる。その瞬間だった。体に衝撃があり、宙に投げ出される格好になった。目の前が真っ暗になり、そのまま闇に落ちていった。
頭の中に響く声は、他所からくるものではない。紘一自身のものである。それは認識できている。しかし、それは第三者として、呼びかけてきていた。
(別世界の扉に立っていただろう?それがこんなことになるなんてね)
(あなたは誰?)紘一が尋ねる。
(僕は誰でもない。全体だよ)自問自答的に、全体と名乗るものが答える。
(僕はどこにいるの?どうなってるの?あなたがここに呼んだの?)
(君は全体に帰ってきているんだよ。すべてのものは全体と一部を行き来しているんだ。それは自然であって、僕が呼んだわけではない)
(死んだのか・・・)
(失うものは、常に、何も、ないんだよ)
不思議と感情はブレなかった。欲望がないのだ。だから、気持ちは安定している。(失うものは何もない)という言葉がしみわたって、理解が出来た。
欲するから、それがないことで、喪失感が初めて生まれるのだ。これは精神的なことで、おそらく物理的にも、体を構成する物質が、その組成を変えることはあっても、どこかへ行くだけで、だからこの世からは、無くなるということはないのだろう。
実際問題として、失ったものがないわけではない。もう体がないとなると、人間関係や、体で得られる体験などはすべて失われている。それらはしかし、何か形のある、物として、そこにあったわけではない。そのような概念は、落ち着いた頭では、すっと理解にたどり着くのだ。これが、生身のままだったら、気が動転して、そういうわけにはいかないだろう。
物理的理解はどうか?
(僕らは星のかけらでできているってことか)
(その通りだ)
身体を構成する分子は、星の中心で生み出される。高圧と、高熱が必要なのだと、濱田から聞いた気がする。宇宙空間では、最小限の、一番小さな原子は、それこそ無数に存在するけれども、大きな、重たい原子はそうやって作られたのだと聞いた。その星が死んでしまうとき、爆発をして、大きな、重たい原子はまた宇宙にまき散らされる。それが集まって、また星になる。そうした原子が、まわりまわって星以外の様々な物質を、例えば身体を、構成するのにつかわれるのだということだった。
そして身体もまた、星の一生と同じだった。死んで分解され、世界を回りまわって、また何かの身体に、或いは物体に取り込まれるのだ。燃やしたところで、この世から、その構成原子が完全になくなってしまうということはない。それでも、一方で、身体を構成する原子は、同じものではない。物質は食べ物として、体内に入り、その構成を入れ替えながら、同じ体であっても、絶えず入れ替わっている。骨を構成するカルシウムの一部は、筋肉を構成するタンパク質の一部は、髪の毛の一部は、そして、その物質を構成する原子の一つ一つは、昨日のそれと同じではないのだ。
「福岡先生は、それが生物と無生物を分ける条件だと、言っている。動的平衡と言い表していたよ」
濱田がそう解説してくれたのだった。
つまり、一部は全部と常につながっているということだった。その流れの中では、確かに、失われるという概念は、成り立たない。
(でも、残された人々にとっては、喪失だよね)
(その通りだ)
それは単に事実の確認に過ぎない。その言葉を発した紘一自身からして、そうなのである。そこに感情的な意味は込められていない。
(僕はどうなるの?)
(・・・)
それに対する返事はない。
(僕が思った通りになるんだろ?)
どうせこの会話だって、一人芝居なんだろ?という言葉は飲み込んだ。ただ、言わなくても、相手には伝わっているだろう。
(そうだ)と、返事が返ってきた。これは予想通りの返事だった。なぜなら紘一がそう思ったからだ。
(やはりね。じゃあ、僕はもう一度、僕が生きていたところに帰りたい)
濱田の顔が浮かんだ。
(唯識だ!)と、濱田が叫んでいる。声は聞こえずに、その口が、形になっていた。この光景は、過ぎし日のものである。一時期、濱田はこれに凝っていて、散々聞かされたものだ。難しすぎて、ほとんどものに出来なかったが、紘一の気持ちに残ったのは、人は意識がすべてを支配するということ、だった。間違っているかも知れないし、たぶん間違っているだろうが、そう受け止めた。とにかく、話が観念的過ぎるような気がして、言葉が頭の中で像を結んでこずに、何物も引っ掛かってこないという、そのことだけは、覚えている。
(思考は現実化する)というのは、何かビジネス書の類だったような気がする。ビジネス書は、学生である今の境遇に関係がないので、読んだことはない。背表紙を本屋で見かけただけだったが、その文字のインパクトで、何となく心に刻み込まれていた。その言葉が心を占める。後日、これはどうも違う意味だったと、知らされるのだが、それは後の話である。
(もう一度、戻れたら・・・大槻と何か話をしよう。何だって良い)
そう念じながら、頭はフル回転していた。ふたたび世の中の活動に戻った時に、するべきことを次々と考えだしている。寝ていて、夢だと分かっているのに、次の日にやるべきことを考えている。次の朝起きれば、忘れているような事柄を、身体が動いていない状態で、考えている。その状態に似ていた。しばし、音のない世界の中で、ふわふわと揺蕩っているような状況だった。
しかし、救急車のサイレンが耳に入ってきて、それをきっかけに、周囲のざわめきもまた、聞こえだした。自分が、うーんとうなる声も同様である。
「気が付いたようだ」と、誰かが言った。
「怪我はないようだけれど、意識が戻ってよかった」という声も聞こえてきた。
サイレンが大きくなり、近くまで来て、止まった。車のドアを開ける音、救急隊員らしき人が、話をする声が聞こえて、身体が持ち上がり、また意識を失った。
幸いなことに、何事もなかった。検査をして、一晩は寝ていたが、次の日は元気になり、様子を見に来ていた家族、両親に姉、母親は一番に飛んできた、次に大学生の姉、最後に父親である、皆、ほっとしたように、その姿を確認すると、朝方早くに帰っていった。その日はまた安静にしていて、何もなければ、次の日の午前中には退院できるという。今日、学校を休めば、クラスではその事故の事で、話題が持ちきりになるだろう。
病院の朝ご飯はうわさに聞いていた、所謂まずい飯といった風なこととは、程遠かった。考えてみると、あのたこ焼きを最後にして、それから何も食べていない。お腹が空いているせいでもあったが、それを差し引いても、十分な味だった。近年では、そうしたことも改善されているのかもしれない。病院の飯がまずいという話は、父親から聞いたからだ。彼が、子供のころに入院したことがあったらしい。もう何十年も昔のことである。
姉がどういうわけか、漫画本を差し入れてくれた。最新刊で、出たばかりのものである。このシリーズはもう百冊近く出ている人気の漫画で、姉弟二人が小さなころから共に読んできたものだった。映画化はしょっちゅうで、二人で映画館まで見に行ったこともある。家の本棚のほとんどがこれで埋まっていて、この最新刊もまたその一部になるのだろう。二人の生活に連れ添った感のある、そういう個人的歴史に深くかかわった作品だった。初期のころの巻は、読み返せば、二人がまだ小さかった頃の思い出が蘇ってくる。この巻も少し経てば、初めての入院先で、姉が差し入れてくれて、そこで読んだという、そうした思い出の本になるはずだ。
姉は無口な方だが、気持ちが伝わってうれしかった。
それを半ばまで読んだ時だった。入り口のドアから、誰かが入ってくる気配がした。ドアに関して、昼間は空きっぱなしで、ドアが開く音がするというわけではない。また、ベッドの周りにはカーテンがあるので、見えはしないが、リノリウムの床にスリッパ履きの響く足音で、そのことはよくわかるのだ。ここは大部屋で、四台ベッドがある。そのうち二つは空なので、もう一人の人に用事があって、その誰かが入ってきたのかもしれない。その一人は、部屋の入り口近くにいる。紘一は一番奥である。足音は、その手前を行き過ぎて、紘一のベッドに向かってきた。看護師さんかもしれないと思ったとき、手が侵入してきて、カーテンがゆらりと開いた。
手は、一目で女性の手だと感じた。やはり看護師さんだと、思った次の瞬間に、紘一は反射的に微笑んでいた。これは、紘一の本能的な仕草なのだ。
女性には、笑顔。これは自然に、しかも完全に身についてしまっている。
だが、その女性は、看護師ではなかった。高校の制服。はねた髪。そらした胸。心配そうな顔。それは、大槻だった。
「大丈夫?そうね?」安堵の顔に変わる。「よかった・・・」
「授業は?」最初のセリフが、これか!と思いながら、紘一は、しかし反射的にそう聞いた。それにしてもいきなりカーテンを開けるとは!さすが大槻女史だ。と、変に感心する。
「授業は・・・」と言って、彼女は視線をそらした。
「抜けてきたのよ。ほら部長だから、部員さんの事故にはね」
後半は聞き取れないほどに、小さな声になった。
大槻は自分でも、自分が分からなくなっている。紘一に理由を聞かれて、はっと我に帰ったともいえる。ここに来るまでは、自分が自分でないような気がしていた。紘一の事故に関する話をクラスメイトから聞かされて、その瞬間に、鼓動が、身体の全てを鼓動が支配するように全身に広がって、何かがはじけたのだった。その感覚は、今、この目の前のカーテンを、何の断りもなしに開けてしまってから、急激にしぼんでいった。何となく苦い後悔がじわじわと広がってきて、今、こうして落ち着いてみると、あれはアドレナリンというものの仕業だったのだろうと、そう思っている。
頭の中に、戦場でけがを負いながらも、それをものともせずに果敢に戦う戦士たちや、火事の時にタンスを運び出す老人の姿などが浮かんで、その姿と自分を重ね合わせて、不意に可笑しくなった。
赤い顔をして、下を向いていた大槻が、肩を震わせている。紘一は驚いた。泣いていると、思ったからだ。しかし、その大槻は、実は笑っているのだった。
「どうした?」と、紘一は声をかける。
「火事場の馬鹿力よ」と言いながら、顔を上げた大槻は笑顔だった。
大槻という女性は、普段その感情を表さない。いつも、むっとした表情をしているか、周囲がどれほど浮かれていて、騒がしくとも、それに合わせるということはない。廊下の隅で、教室のそこかしこで、女子というものは数人で輪を作り、大騒ぎしながら、笑いを爆発させるか、或いは眉をしかめあって、ひそひそ話をしているものだ。そういう輪にも入ることはなく。独りでいて、ぼおっと外を眺めていることの方が多かった。
「俺が思うに、絵描きはみんなそうさ」と、濱田は言う。
「俺に関して言えば、見るものすべてをいったん絵画にするとして、そのやり方をシミュレートしてみるんだよ。だから、どんな風景も、その中に入り込んでゆくことは少なくなる。人の輪とかな、表情の陰影や、それが移り変わる瞬間のさまを、傍に居て、観察しているんだよ」
「瞬間?」と、紘一が聞く。
「そうだ、素人は、俺が思うに、得てして、笑顔そのものを描くだろ?」
「そうじゃないのか?」
「違うんだなこれが」人差し指を立てる。これはある結論に達するときの濱田の癖だ。よく聞けよ、くらいの意味らしい。
「俺が描きたいのは、笑顔じゃない。笑顔になる瞬間の躍動なんだよ」
「モナリザってそういう絵だっけ?」
「それはな、シチュエーションが違うだろ。独りでいて、思い出し笑いしているならともかく、あれは安定の笑みだ。精神が穏やかなんだよ。だから瞬間の描写はいらないのさ」
「へー。と、思うわけだ。濱田としては」
「違うね。これは厳然たる事実だよ。絵はそこにあるだろう」
「ともかく」と、濱田は続ける。
「俺が描きたいのは、漫画で言うところの、効果線。映画で言うところの、バックグラウンドミュージック。こういったものを、秘めた形で、絵の中に織り込みたいんだよ」
「スラムダンクの最後で、セリフを無くして、絵だけで勝負した、あれみたいな感じか?」
「違うな」紘一が我ながら良い例えだと思って口にした意見は、即、却下される。
「あれは、削ってあるだろう。俺は付け加えたいのさ」
「それって、イノタケの画力が付け加わってこその、削りじゃない?」
「イノタケじゃない。イノタケさんだろ」
濱田は、この漫画家を尊敬している。さん付けでないと、いつもこのように注意をされるのだ。紘一は分かってやっているのだが、濱田は毎回、根気よく注意を繰り返すのだ。
「ともかく」と、濱田は続けた。
「人物で言えば、静止でありながら、躍動を。風景なら、空気や光、風の動きなんかを、色彩で間接的に表現したいのさ。対象そのものを描くのではなく、そこに至るまでの、視野と、対象の間にあるものを表現したいんだよ」
「つまり、そのシミュレーションをしているから、大槻は、いつも外を眺めていると、こう言いたいんだな」話が脇に逸れ過ぎたので、紘一が元に戻す。
「そうさ」と、濱田が締めくくった。
その、大槻が笑って、目の前にいる。
これはいけないパターンだと、紘一は思う。いわゆる、俺だけに素顔を見せる女の子、という最強の類型なのだ。これをやられては、惚れてしまうしかない。
いや、実際のところ、そんなことはどうでもよかった。大槻の笑顔は、今まで見た誰よりも可愛く映った。胸が締め付けられるように、鼓動が高まるのを感じた。普段の振る舞いからは、可愛いという言葉がこれほど似合わない女性も珍しいのだが、吸い込まれるような魅力だった。そこに落ちてはいけないと、紘一は自分に言い聞かせながらも、大槻の笑顔から目が離せない。
落ちてしまって、その挙句に手に入らないということになると、落胆が大きすぎるだろう。その大きさは今感じている思いに比例するはずだから。
感情は行ったり来たりしていた。大槻から見ると、挙動不審に見えるかもしれない。そう思うと、余計にあたふたしてしまいそうになる。
「火事場の馬鹿力ってなんだよ?」
こういう時は、相手の言ったことを繰り返して、相手に話させるに限る。その間に、自分のペースを取り戻すのだ。
「何でもないのよ」と、大槻はさりげなく言った。いつもと変わらないその調子が、彼女をとても大人に見せる。反対に自分は、世間知らずの子供のように感じていた。
「・・・」その切り返しから、さらに会話を発展させられるような言葉はなかなか出てこなかった。
「何か欲しいものある?買ってこようか?」
「大丈夫。ありがとう・・・」と、反射的に言いながら、馬鹿だなあと、思う。なんでもいいから頼めばいいのだ。こんな時、俺が出すよ、と言いながら二人分のコーヒーでもなんでも、一緒に頼んで、ここで飲んでいくように言えばいい。そうすれば、もっとこの人のいろいろな面を知ることが出来るかも知れない。
そうしたかった。しかし、そんなことは出来なかった。迷惑じゃないかと、そればかりが、頭をよぎる。好意を示してくれた人に、素直に甘えてしまった方が、よりその人に喜んでもらえるということに気が付くのは、もう少し紘一が大人になってからの事である。
その意味では、大槻は多少がっかりしたようだった。
「そうか。じゃ、帰るね・・・」一気にそう言った後、思い直して、絞り出すように「ホントに大したことなくて良かった。自転車も、気を付けて乗らなきゃだめよ」と言い、部屋を出て行った。
紘一は考えている。これが逆の立場なら、俺は見舞いに、それも一人で、授業を抜け出して、来られただろうか?
大槻は、何事でもないように、平静のままで、まるで美術部の部室に入ってくるようにやってきた。あのスリッパの足音に躊躇は感じられなかった。だから、看護師がやってきたと感じたくらいなのだ。そして始終、堂々としていた。きっと、自分はたとえ見舞いに来られたとしても、あんなふうにはなれないだろう。その前に、見舞い自体が、無理に違いない。
凄いなあ。素直にそう思った。
大槻は廊下に出て、大きくため息をついた。足がまだふるえていた。
どうして一人で来ちゃったんだろ?
紘一は誰かにこのことを言うだろうか。言ったら、うわさはあっという間に広がってしまうだろう。みんなこの手のうわさ話は大好きなのだ。
構わないと思った。開き直るに限る。ファンクラブの女の子たちからは、冷たい眼で見られるのかもしれない。その外にも大勢、非難の目で見る女子は居るだろう。子供っぽい男子は、冷やかすかもしれない。
ファンクラブの彼女たちの間には、ある種の相互協定的なものがあるのだ。みんなが、みんなを見張っていて、抜け駆けしないよう、圧力をかけている。そのような事と自分は無縁だと、そう思ってきたのだが、その渦中に入ってしまうとは、なんと迂闊なことだったのだろう。そう思った。
しかし、その後、この心配は杞憂に終わるのだ。どうやら、大槻はある種の女子としては、ある枠内ではないらしく、特別な存在であった。部長が部員を見舞うのは、仮にそれが授業を抜け出してのことであっても、許容範囲内だろうということは、その特別感をもってして、皆を納得せしめていた。また、それよりも、紘一と、大槻という、いわば二大巨頭は、ある意味お似合いだということで、当の本人たちにとっても意外なことだったが、周囲すらも驚くような特殊な支持者が出始めたのも事実である。
つまり、紘一のファンクラブの中に、この二人をまとめて崇拝するという一派が、出来始めることになる。
それはしかし、あとのことである。今の大槻は、ぼんやりとした不安に苛まれていたが、いろいろなパターンを考えてみるに、あのまま学校に残っていれば、その心配の大きさは今の比ではないであろうと思った。無事な姿を確認して、安心して、その満足感の方が大きかった。廊下を歩きながら、元気が出てきて、エレベーターを使わずに、階段で降りることにした。エレベーターのような狭い個室に居て、にやついている自分を気取られないようにするのは難しいだろう。病院の階段というものは、利用者は少ないものだ。だって、施設内の人間はほとんどが病人なのだから。そう考えると、これまた、自分の考えに我ながら、おかしくなって、余計に笑顔になった。
紘一の病室があったのは三階だった。その三階部分を勢いよく降りてきて、踊り場についたときに、ふと、一番大切なことに気が付いた。
紘一君は、私のことどう思ったのだろう?
そんな肝心なことに、今やっと気が付いたのだった。
今までもそれほど気安い仲というわけではない。それでも、必要な事柄だけは、躊躇なく話が出来ていたのだ。それは、大槻にとって、この上ない至福の時間でもあったのだが、それが今後、ある種の気まずさ、或いは別の感情をもって、行われるかも知れないということになると、失ったものの大きさに、ちょっと悲しみが生まれた。自分が必死で抑えて、隠し続けてきたことが、表に出てしまったのだ。その秘めた思いを、事の成り行きによっては、自分で始末しなければならないかもしれない。それは、耐えがたいことだろう。
何かを得たが、代償もまたあったのだと、感じた。得たものが大きかったから、代償もまた大きかったのだ。
その大きさに愕然として、顔に張り付いていた笑みは、一瞬で消え去っていた。階段を降りる足に力が入らずに、ここでしゃがみ込んでしまいたくなった。まるで、病人のようだと、思った。
紘一の様子を反芻して、思い返したが、欲しい答えは見つからなかった。そこに探しているものは、ある種の希望であったが、それはどう楽観的に考えようとも、生まれてこないのだった。
葛藤している。外に出てからも、もやもやしていた。
が、しかし、自分がしたいようにしたのだ。いつもそうだった。いつも、自分がやりたいことをやりたいようにやって、その繰り返しでここまで来たのだ。やりたいことをやったのならば、後悔はないではないか。所詮何事も、なるようにしかならないのだ。だったら、自分の欲求に素直であればいい。もちろん人の迷惑となるようなことではないのだし、そう思うことにした。
なるようになれ、だ。
空が、抜けるように青かった。自転車置き場で、自分の自転車を見つけ、それに乗って、漕ぎ出した。風が頬に当たって、気持ちよかった。そのせいで、頬が今までほてっていたことに気が付いた。ほてった頬は、赤かったのだろうか?それは、どう見られたのかな?と、またそこに思いは戻って、このような堂々巡りの思案は初めての状態だと、そう思いつつも自転車ペダルを思い切り踏みしめた。
「何もなくて良かったな」
大槻と入れ替わりで、濱田がやってきた。やはり、授業は抜けてきたらしい。このタイムラグは、紘一が入院したという話を聞いた時間の差によるものらしい。危ないところだったと、紘一がほっと胸をなでおろした時だった。
「大槻、下で見たぞ」と、探るような眼とともに、紘一に言う。
しまったと思ったが、ここは平静に、しかもくだらないウソを言って後でばれてしまっては、かえって面倒なことになる。
「ああ、さっきまでいたよ。部長として、部員の見舞いに来たんだとさ」
「ふーん」と、意味深に返事をする。こうした男女の機微に関しては、濱田は全くと言っていいほど、その持てる能力を使えないのだ。目が泳いで、枕もとのコミックス最新刊に行きついた。それを勢い良く取り上げて、黙って読みだした。紘一は黙っている。濱田としては、多少の混乱が見て取れるのだが、ここはいじらない方がいい。漫画本に集中してくれるのは、お互いに都合がよかった。
「ところでさ・・・」と、しばらく経って、紘一が切り出す。言うか言わないか、迷っていたのだが、濱田になら、言えるのだ。
「なんだ?」漫画本から、すぐに顔を上げる。読んでいる途中だが、夢中にはなり切れていなかったようだ。
「僕さ、一回死んだんだと、思うんだよ」さらりと切り出した。
「なんだそりゃ?」言った方がさらりと切り出したので、問い返す方も、気軽である。何かの冗談か、比喩だと、思っているのだ。
「その時に声が聞こえてさ、何かを会話したんだけど、もうほとんど覚えてないんだ」
「ほう」体を前に乗り出してくる。こういう話は、大好物なのである。しかも、実体験で、それが身近な人に起こっているのだ。
「それで?」臨死体験にまつわる話はいくらか頭の中に入っている濱田ではあったが、ここでそれに関して語るのは、ぐっと我慢をする。話を、何の予備知識もない状態で、聞きだすのが先決だと、そう判断した。それでも、これは、どのケースに当たるのだろうと、頭の中で、知識がぐるぐると回りだしている。
「覚えているのは、生き返りたいと念じれば、生き返ることが出来るだろうという、そういうことだ・・・」何かもっと他に思い出すだろうか?紘一は記憶を探る。話しているうちに思い出すかもしれない。今話さなければ、今覚えていることも記憶からなくなるだろうと、思った。
「ふん、それで」そう濱田に聞かれて、紘一は頭をひねってみたものの、記憶がすごい勢いで、まるで潮が引くように薄れていく気がした。だが、ひらめいたこともある。
「お前!お前が出てきたよ!」濱田を指さして、多少興奮気味に言う。
「俺が?」自分を指さして、「出てきたって?」
「いや、出てきたというのじゃないな。お前の事を思い出したんだよ」
「・・・?」
「唯識論さ」
「ああ、そういうことか」濱田は納得いったようだった。「夢だったんだよ」とは、言わない。
「俺が以前凝っていたやつな」前のめりになっていた身体を、椅子の腰掛に戻して、深く座りなおした。
「確かに、玄奘三蔵に凝った時期があったな。唯識論はインド発祥だが、彼の翻訳で、日本に来て、法相宗の起源になったというやつな」
「以前凝った?今はもう関心はないってこと?」
「唯識が入ってきたのが、真言密教や天台よりも先だろう?先に入ってきて、メインストリームになり切れなかったのは、それなりの理由があると、俺は思うね」
「つまり?」
「魅力に乏しいんだろうと、俺は思う。宗教だって、人の嗜好次第だからな。純粋な学問だった時代から、国家鎮護のための道具になり、果ては人集めによる旨味を、それこそ清濁併せた意味での旨味を、知って、時代は変わり、各派閥は囲い込みのマーケティング合戦に入るが、そりゃもう、なかなかそれぞれによく考えられてるものだと、俺としては感心せざるを得ないね」
「え、でも救済が目的でしょ?」
「もちろんそうさ。しかしこの場合、救済は商品なんだ、つまり売りだからな。そういう意味では、毛生え薬や、やせ薬と一緒さ。あれだって、救済だろう?商品だから、魅力を語る。効き目の早さを語る。扱いが簡単ですと宣伝する。今まで救えなかった人もこれで大丈夫だという。」
「なんだか・・・えらく日常的だな」
「その通り。多くの人にとって、宗教は生活、日常そのものなのさ」
「と、濱田は思うんだ」
「いや、これは事実さ。しかも動かしがたい事実だ」
「よくそれで、あれだけ玄奘に夢中になったな」
ここで、また濱田は身を乗り出した。
「まあ、知的好奇心というやつさ」身を乗り出した割には、答えが一般的過ぎた。そこに彼も気が付いたようだ。笑いながら。
「物事を突き詰めてゆくと、そんなことになるのか!」ここで目を剥いて「という、驚きさ。もちろんその教理だけではなくてね。そもそも、玄奘は、単純に人間としても、その能力としても、執念としても、その凄みを俺は感じるね。でないと、何が起きるのかわからない未開の地に、命の危険を冒して、そこを徒歩で、何年かかるかわからずに、しかも禁止されている出国という行為を冒してまで、やろうとはしないだろ?しかも、報酬は知識だけだぜ。彼が携わったのが、たまたま仏教だっただけで、たとえ、それが何であってもよかったと思う。惹かれたのは人間的な魅力なのさ」
「空海にもはまってたよね」
「ああ」と言いながら、濱田はまたイスに深く腰掛けた。
「あいつはさ、もっと全然違ってさ、能力もさりながら、運がいいんだよ。そのどちらが欠けても、駄目なくらいにね・・・こんなこともあるのかってことなんだよ。天祐と呼ぶ人が多いのもうなずけるさ。その運のよさってやつに、俺は驚嘆させられたんだが、それは単に、興味をそそられるって程度だな」
と、言いながら、また再び漫画本に目を通しだした。紘一の唯識論に関する話題は、全然興味がないようだ。
「そうそう、運の良さで言えば、東郷平八郎に匹敵するな」言い足す。
「え、でも、東京裁判で、死刑になったんじゃなかったっけ?」
それを聞いて変な顔をして、次の瞬間には真顔になった。
「それは、東条英機だろ。別人だよ」
「俺は、世界史選択だしな」言い訳をする。その言い訳を、濱田は聞く気はないらしい。独りごとじみた感じになった。濱田はまた漫画に目を落とす。
一方で、紘一は、またあの時に関することに、思いをはせていた。あの時、そういえば大槻の事も考えたのだっけ?それで、大槻がやってきたのか?
いや、そうじゃないだろう。と、そこだけは、そう思いたかった。
人の感情を自分が捻じ曲げるなんて、都合がよさすぎる。自分は何もしないでいて、人を動かすなんて、それは違う気がした。人を動かすっていうのは、それが必要な人、例えば職場の管理職やら、営業の人なんかがやることであって、自分のような人間が、男女の仲において使うべきことではないのだと、そう思った。
大槻と話をしたければ、自分から誘えばいいのだ。運でもない、能力でもない、ましてや技術ではなかった。自分は受け身過ぎたのだ。
「今、良い展覧会やってないか?」スマホは禁止なので、いつもだったら検索する情報を濱田に聞いてみる。
「ん?」珍しいこともあるもんだという顔付を濱田はして、「市立美術館でやってるぜ。海の絵の展覧会。紘一の絵を仕上げるのに、ちょうどいいじゃないか。参考になるぜ」と、言う。そこにはみじんも疑いはない。
「大槻を誘おうと思ってさ」
言わなくてもよかったかもしれない。しかし、逆に無垢な濱田の、疑心のなさに誘われた形になった。しかし、どうせバレるのだ。このようなことが隠し通せたためしはない。
「お!そ、そうか、良いんじゃないか」濱田は余計に驚いたようだった。しかし、そのあとで、納得した顔になる。
「お前が、展覧会なんて、おかしいと思ったぜ。そんな仲だったのか?お前ら?」と、ここは、彼なりの勘違いである。ずっと一緒にいるのだから、もしそうならば、気が付かないはずはないだろう。しかし、そうしたことに関心のないこの男は、きっと、言われなければ、最後まで気が付かないかもしれない。
「そういう事じゃないんだよ」一度死んだんだよ。僕は。とは言わない。一度死んだのなら、何だってできるじゃないか。やりたいことをやれずに、死んでしまうのは、嫌だって、そう思ったんだ。
「ちょっと勇気をもって誘ってみることにしたんだ。まあ、断られるかもしれないけれど、その時はまた報告するよ」
「なんだ、つまりはデートの誘いってわけか?・・・ん?これがいわゆるデートの誘いなのか?」濱田は、かつてない衝撃を受けたようだった。自分も含めて、周囲の知人の中でさえ、経験のない出来事なのである。
「そんな、簡単なことか・・・そういうことか・・・」
ぶつぶつ言っている。
「そういうことか・・・」
また、繰り返した。よほど新鮮な経験だったようだ。
そして、また漫画本に目を落とした。
紘一は、何事もなく、無事に退院した。
家に帰ると、焼き肉になっていて、退院祝いだという。母親が嬉しそうで、この母はいつだってそうなのだが、紘一を溺愛しているのだ。姉と、父親はもうすっかりこの状況には慣れているので、何も言わない。何か言うと、必ず母親の反撃を食らうからであった。
ちょっと昔の世間的には、高校生男子が母親べったりだと、おかしな仲だったそうだが、紘一はそうは思わない。母親が出かける時には一緒に出掛けるし、そういう友人たちも何人かいる。時代は変わるのだ。
焼肉は美味しかったが、紘一は実はそれどころではなかった。濱田にああは言ったものの、どうやって大槻を誘おうかと、そればかり考えている。食事中も上の空で、家族を少なからず心配させたが、何もないよと、笑って見せて、早々に自分の部屋へと引っ込んでいった。
どうせ誘うなら、早い方がいい。と、それだけは決めた。明日、学校で誘うのだ。それも決めた。そして、善は急げとばかりに、ネットでチケットも購入してしまった。と言っても、まだネットでの決済手段のない紘一は、コンビニでリアルに支払いをして、初めて購入と言えるのだが、まあそれはいいだろう。申し込んだということが重要だ。自分を追い込むことで、弾みをつけるのだ。だが、なんと言って誘うべきなのかが、わからない。
ここは、軽く言うべきだなと、そう思った。あまり重圧をかけたくはない。断るにしても、断りやすく、断られるにしても、傷を浅くしたいのだ。チケットが偶々あるんだけれど、行かない?というのは常道なように見えるが、美術館のチケットが、偶々手に入ることなんて聞いたことがない。わざわざ手に入れたのが見え見えじゃないか。それも避けたかった。断られた時の、余ったチケットの処理も、考えると悲しくなる。
予定変更で、誰かと、例えば濱田と行くのも、展示を見てる間中、いきさつを把握している濱田の存在を通して、大槻に断られたことを思い出すだろう。また、濱田にその気がなくても、彼の視線には特別なものを感じてしまって、耐えられないかもしれない。かといって、一人で行くのも、それなりに悲しいのだ。やはり、そうなった場合、チケットは捨てることになるだろうが、それはもっと悲しかった。
それよりも大切なのは、禍根を残さないことだ。断られた後でも、今までと変わりなく、と言っても滅多に話などはしたことがないのだが、同じクラブの部員として、特別な意識をすることなく、付き合ってゆきたいものだ。
しかし、一般的には、そういうことはとても難しい。多くの人が、そうなった場合、依然と同じようには戻れないものなのだが、経験の乏しい紘一には楽観できるのだった。さりげなく誘って、さりげなく断って、そのあともさりげない付き合いが出来るのだと、そう考えている。
焼肉で、お腹がいっぱいになっていて、眠たくなってきた。このまま寝てしまおうと考えて、ベッドに横になった。そうしながら、自分はもうすでに死んでいて、この事故の後の出来事は、すべて自分の脳内での妄想に過ぎないのではないのかと、そんなことを考えたりした。短編小説や短編ドラマなどでは、よくあるタイプの筋立てである。不幸の後、何もかもが好転して、喜んでいると、実は妄想に過ぎなかったと、いうやつだ。
紘一の頭の中では、好転の出来事というのは、漫画本でもなく、濱田の見舞いでもなく、焼き肉でもなく、それはすべてを大槻の事が占めていた。それらのことを考えながら、眠りに落ちた時、大槻の夢を見るだろうか?と、うっすら思った。
夢は見なかった。久しぶりの自分のベッドで、安心して寝たせいか、それとも前日の病院でのベッドでは、熟睡できていなかったのか、その分なのか、完全に、深い眠りに落ちた状態で、朝を迎えた。深い眠りから、急激に朝の光の中に浮かび上がってきたが、その落差は、むしろ爽快感を伴っていた。
朝ごはんの時に、母親が心配して、自転車は気を付けるようにと、何度も繰り返していた。
「わかってるよ」と、そのたびに返事をして、いつもより早い時間に、家を出た。
大槻は、紘一より早い時間に登校している。何分早いとか、そういったことは分からない。しかし、早いのは確かだった。登校時に、教室に向かう廊下では、何度かすれ違ったことがある。紘一はカバンを持っているが、向こうは持っていない。もうすでに、自分の教室に入って、カバンを置き、どこか違う教室に向かう途中なのだ。
そのことだけに見当を付けて、適当に早い時間に家を出るのである。途中で会えるかどうかはわからない。登校ルートだって、どこから来るのかすらわからない。だが、同じ中学だし、町内は違えど、どこかで、ルートが合わさるはずだった。
しかし、会ったところで、何と言うことはないだろう。そんなことは分かってはいるが、どうでもよかった。朝から、登校時刻が同じで、すれ違うだけでもいい。挨拶もしないだろうし、出来ないだろう。今まで、そんなことしたことなかったし、多くの男女はお互いに横眼で見ながら、黙って通り過ぎるだけなのだ。
町を抜けて、国道の信号で、いったん止まった。信号が変わり、田んぼの中を抜けて、駅への道を走る。ここまでくれば、同じ中学出身なら、会う可能性があった。この駅よりも国道側が、紘一たちの中学校の範囲であり、国道のどの信号から、高校へ向けて、走るにしても、いったんは皆、ここの駅前を通らなければ、高校へは行けないのだ。
電車で通学する生徒たちは、もうすでに駅前にあふれている。紘一たち自転車組は、ここを通過するのに、もう少し後の時間でも構わないが、彼らはこの時間から電車を降りて、学校に向かわないと間に合わない。何しろ、駅からは徒歩だからだ。
その徒歩の連中を横目に見ながら、通り過ぎてゆく。後輩のファンクラブ員たちが、ざわつくのが聞こえた。この時間に紘一がここを通るのは初めてだからだ。彼女たちは、朝から思いがけない幸運に見舞われて、テンションが上がったようだった。その意味では、今から紘一がしようとしていることは、立場が逆ではあれ、自分のテンションを上げようということで、同様な行為であった。
団子になっている、電車通学組を通り過ぎると、もうほかの生徒はいない。自転車組は、もう少し後でないと、見かけることはない。ここまでの道だって、自転車組には一人も会わなかった。
川沿いの道を少し汗ばみながら、自転車をこいでゆく。いい天気で、日差しは確かに初夏のもので、しかしながら、少なくとも朝早くであるために、まだその光は柔らかい。
国道と並行して走る旧街道に入って、しばらくそこを走りながら、やはりこの時間だと、少し早かったかなと思い始めて、山に入ってゆく坂道に入るために、曲がったとたんに、前方に人影を見た。
自転車をこぐ女子高生がいる。坂道をゆっくりと登ってゆく。
かなり遠いが、間違いない。大槻だった。
大槻は、歩く時も、背筋を伸ばしているが、自転車でも同じなのだ。坂道に入ると、足に力を入れるために、少し前傾姿勢になるものだが、彼女はそれをしない。その分走りはゆっくりになるが、それは気にならないらしい。マイペースで、上ってゆく。
紘一は、違った。坂をゆっくり上るなんてことはしない。平地を走る速度を出来るだけキープするように、変速機を操作し、軽いギヤに変えて、平地を走る時よりは、細かくペダルを踏んで、所謂ケイデンスというものを上げてゆく。そのままのスピードで突っ込んだ。
汗ばむといった程度ではない。もう、シャツが張り付くほどになっていた。心臓が早鐘を打つが、それは運動によるものなのか、ほかの要素によるものなのか、あるいは両方なのか、わからないほどになっている。
だんだんと二人の距離が近づいて行く。それが何となく、ある目標を達成するのに、必要な条件であるような気がして、そのことも速度を維持するのを、後押しした。息が上がってきて、呼吸が荒くなったが、大槻の真後ろで、少し速度を落として、一拍置き、呼吸を整えた。
「おはよう!」
と、声をかけ、そのまま抜き去ってゆく。後ろから、大槻の戸惑ったような声で、同じく「おはよう」という声を聞き、自分で自分に驚いた。こんなはずじゃなかった。ただ黙って通り過ぎるだけのつもりだったのだが、声をかけてしまったのだ。しかしその驚きは、すぐに満足感にとってかわった。
後ろを見ずに、左手をハンドルから話して、左斜め上にあげ、手を振った。自分が違う人になってしまったようだった。
このような行為を、照れずに、中には半照れで、行うことのできる友人も何人かは知ってはいたが、いつもその振る舞いは羨望を持って眺めていたのだ。大人になるということは、漠然としてはいた。しかし、こうした行為を気持ちよく日常的にできるということが、社会の一員として、同じ社会の構成員に対しての、潤滑油的な行為が、積極的にできるという事、そのことが含まれているのだろうと、そう考えていた。
大人だったら・・・
そう思って、紘一は速度を緩めた。その場で、止まって、大槻が来るのを待つことにした。振り返って、大槻を眺めた。髪ははねていなかった。しっとりとして、まとまっていた。朝日に髪が輝いていた。こんな姿は初めてだった。
一方、大胆な行為は、大槻をたじろがせたが、待ってくれているのに、ゆっくりと進んでゆくわけにはいかず、速度を上げることにした。坂を上る力を振り絞ったら、結果として、今までやったことのない前傾姿勢になった。真っ赤になっている顔は、この姿勢で見えないはずだと、そう思った。仮に見えたとしても、自転車の運動のせいに出来るだろう。そして、心臓が破裂しそうなのは、自転車のせいだけではないと、わかっていた。
やがて、紘一の自転車のタイヤが見えて、その姿が見える範囲が、上へ上へと、変わってゆき、笑顔が見えた。
「昨日は、ありがとう」と、紘一が言った。
了