[ 付録 ] 鬼に視えた。
玄関チャイムが鳴った。
部屋を出て階下へ向かうと妹の澪が玄関にいて、すがるような顔をしてこちらを振り向き、「兄ちゃん!」と叫んだので、バクンと心臓が跳ねた。大きく息を吸い込んで、平静を装う。
まず、なんと声をかけるべきか……そう。
「澪、どうした」
「この子、誰?」
欠落した記憶が戻ったと早合点、慌ててしまった。
どうも、そうではないらしい。
まったく知らないときにする、びっくり顔だった。
単純に、知らない女の子の訪問に驚いていたのか。
「神薙です」
「カンナ?」
「真澄さんの、彼女です」
澪は、ぺたり、と尻もちをついた。
「ほら。変なこと言うから、澪が腰を抜かしただろ」
「これが一番、話が早いと思ったのです」
「冗談半分で言うことか? 澪、部屋を借りるから」
ゆっくりと、上から下へ、神薙さんを見た。
ふたたび振り向いた澪は、茫然自失という表情だ。
「なんで?」
「神薙さん、部屋の修理を手伝いに来てくれたんだ」
「そう。 ……じゃなくって!」
仏頂面を笑顔にして「お邪魔します」で、ぺこり。
澪が「あ、はい。どうぞ」と答えると、玄関に靴を揃えてから、仏頂面になって「準備は?」と尋ねられたので「パテ盛りまで」と答えると、満足気に頷いた。
とっとっとっ、と軽快な音で階段をのぼってきた。
「初めてにしては、上出来です」
「外壁は、貰ってきた端材を、テープでとめただけ」
「そちらは専門の業者さんが後日施工するのですね」
ちょっとブカブカのセーラー服の上から、ちょっとおしゃれな割烹着をスポンとかぶり、腰の後ろで紐を蝶々にして「よし」と引き結んだ。
「では、はじめましょう」
「その恰好、かわいいね」
「奇妙ですか? 割烹着」
「え? いや、家庭的?」
神薙さんは「なんです、それは」と口を尖らせて、床にビニールシートを敷き、よくわからない電動工具を取り出すと、コンセントを手渡してきた。
「家庭的ではありせんが、こうしたことは得意です」
「なんでもできるんだな……」
「かなり粉が舞います。窓を開け、掃除機の用意を」
ブゥウウウウウウウウン!
サンドペーパーが小刻みに振動して、硬くなったパテを、みるみる削っていく。電動工具で壁に向かっているが、やっていることはアイロンがけに近い。
「後ろ姿は家庭的だよ」
「なんですか、それは」
作業開始から、小一時間。
すっかり平らになった壁面にクロスを張り、鉄の定規をあててカッターを入れ、重なっていた部分をスーッと剥がすと、壁紙のでこぼこや色は微妙に違うものの、遠目にはわからないほど元通り。
「まるで、プロの仕上がり」
「そこまでではありません」
少し照れたような、仏頂面になった。
道具を片付けていたので、最後に使った大振りなカッターを手渡すと、チラリと横目で見て、左手で受け取った。そのなめらかな動きは先日から感じていた疑問と整合性がある。「やっぱり」と合点して呟くと、思わずといった風に二度見して、少女は怯えた表情になった。
出会ったころ、この部屋で、この位置は死角だった。
今……神薙さんの左目は、見えている。
「試したのですね」
「ただの流れだよ」
「そうですか。失礼しました」
少しだけ、沈思黙考。
難しい顔のまま、「まぁ良いでしょう」と囁いた。
「真澄さんには御見通し。そんな気がしていました」
ふっ、と小さな溜息。
自嘲するような笑み。
「子供の目玉を刳り抜いて、その子に化け、人を襲う鬼がいます」
「あ、あのときの続き」
静かにひとつ頷いた。
「あの鬼の眼なら、あるいは違うのかもしれません。でも、これは数日で元通り、ただの義眼に戻ってしまいます」
「たったの、数日間か」
「だから、しっかり見ておきたかったのです」
「その目で、なにを?」
その問いには答えなかった。
割烹着を脱いで、綺麗に畳み、仕舞い込む。
これは、いつもの流れか……
そのまま一礼して帰宅する。
取り付く島もない、後ろ姿。
答えを知りたいが、詮索のしすぎだと咎められるのがオチだった。
と。
こちらは動けずにいたが、床に綺麗に正座して「座ってください」と手のひらを上に向けて、自分のすぐ前を指し示した。
言われるがまま、向かい合わせに正座する。
神薙さんの真剣な眼差しが、目の前にある。
「普通は見えないのです」
「あのときも、言ってた」
右目からあふれたのは、感激の雫に見えた。
「これが真澄さんの、同じ世界を視ている眼」
多少は理解できる。
初めて、同じものが視える人に、出逢った。
「やっと巡り合えました――」
鬼が視えるという言い分、誰も信じなかった。
子供にとって人格を否定されるも同然の日々。
試行錯誤の末に、対抗するための武器を自作。
自己の存在を証明するために、左目を奪った鬼を探し歩いていた。
嬉しくて泣きだしそうなのを懸命にこらえる姿を見ていて、『神薙さんの旅は、終わったのかもしれない』 ……漠然と、そう感じた。
カタッ
「え? 澪! いつからそこに?」
「……終わった」
「「 は? 」」
扉の向こう、腑抜けのように立ち尽くす澪がいた。
だらりとまったく生気が感じられない。
死んだ魚のような眼、心ここにあらず。
澪も、電動工具に興味があったのかも?
壁の穴の修繕は、すでに終わっている。
「うんこたれの澪、一生の不覚ふたたび。腰抜かしてるうちに告白イベント終了、カップル誕生、ふたりはラブラブ彼氏と彼女。とうとう、もう。 ……嫁の貰い手がなくなった」
そんな馬鹿な。
澪ほどの器量良しが、中二で将来を悲観。
否、問題はそこではなく今なんて言った?
う ん こ た れ ?
「澪、お前。 ……記憶が?」
「なにか誤解が……結婚とは」
「死んだほうがマシ、いっそ殺してぇうわぁあん!」
助け出した意味を根底から覆す発言。
これには神薙さんも唖然としている。
「立ち入った話、差し支えなければ」
「澪とは、血がつながってないんだ」
神薙さんが「不躾な質問でした」と呟いて立ち上がる。澪の頬を、パシンと一発平手打ちすると、大泣きしていた澪は「ッツヒ!」と言ったきり動きを止めた。
そこから事のあらましを一気呵成に話して聞かせ、「というわけです。なにか、ご質問は?」と尋ねると、澪は小さく2度、首を振った。
神薙さんは、極端なほど詮索を嫌う。
自分の生い立ちを話したので驚いた。
「当の昔に、諦めたのです」
「え?」
「信じて、とは申しません」
「なにを」
「失踪した両親を、警察は躍起になって捜索してくれました。鬼に逢った、目玉を刳り抜かれたと、奇天烈なことばかりいう子。私のせいで虐待を疑われたからだと知ったのは、随分、後になってから」
神薙さんは寂しく笑った。
「でも、似てる」
「誰と、誰が?」
「兄ちゃんが来たときの話と、似てる」
「真澄さんと?」
「両目を怪我して失明寸前だったって」
恐ろしいものを見るように振り返る。
少女の左目と、目が合った。
「両目を大怪我して、偶然、助け出された。もう両親は失踪した後だった。ここは実の父親と親友だった、今の父さんの家。養子になって、澪とは兄妹として育ってきたから、血はつながってないんだ」
避けてきた、忌まわしい記憶。
当の昔に諦めた……俺は、諦めていた。
「誰一人、信じてくれなかった」
この子だけは、信じてくれる?
ぐるりと部屋を見回す。壁紙の凹凸や日焼け、微妙に違っても見分けがつかないほど元通りになった、澪の部屋。ここにもいたが、それは違った。
「 昔、視た、あれは。まるで……
あのとき見たのは、もっと別の――――
「 鬼 に 視 え た 」
神薙さんは、無言で、頷いた。
ただ、それだけだったけれど。
否定は、しなかった。
【 祓 い 屋 神 薙 蒐 集 目 録 】
祓い屋、神薙の当世風怪異譚。
これにて、終幕でございます。
最後までご清覧いただき誠にありがとうございます。