愛執人魚
今夜の空は暗く。
今夜の海は暗く。
深い深い海底のような暗い夜空だった。
その暗い空の果て。
その暗い海の果て。
空と海との境界は闇にとけて真っ暗に行き交じり曖昧だった。
空と海の境目がなく。
輝く月は真珠色で。
神話をもつ星星は朧のように囁き。
浮かぶ雲は白く泡立つように風に吹かれて波立っていた。
空がまるでもうひとつの海のようだったから、だから、オパールは海から身をのりだし空へと手を伸ばした。
バシャン! 海面を魚の尾で打ちつけ空へと飛び込む。
人の右手と左手が空をかき空気を水のように下方に押した。
風の流れをつかまえ、流るる水のごとく体を動かす。
オパールの上半身は人間で、下半身は魚。魚の尾の先についているひれが妖精の羽のようにひらひら閃いて、オパールは見えぬ波紋を描きながら空を踊るように泳いだ。
泳ぎながらオパールは、やさしい微笑の美の極みにいるような姉たちの言葉を思い出す。
きらきらと水晶でつくられた地底湖に居を構える姉人魚は言った。その身を、水晶よりも煌めく鱗で覆われた水竜に巻きつかれながら。
「ーーに、見つかってはならない」
天の水溜まり、巨大な雲を住処とする姉人魚も言った。その身を、神のごとく麗しい天族の白く大きな羽につつまれながら。
「ーーに、見つかってはならない」
高い山の頂、火口湖にすむ姉人魚も。
幾多の大陸の上空を移動する天空の島の湖にすむ姉人魚も。
極寒の氷地の、永久に水面が凍ったままの湖にすむ姉人魚も。
二度と海へと帰れぬことを嘆きつつ、その身を夫に囚われ絡みつかれたまま、
「ーーに、見つかってはならない。捕まってしまえば海には戻れない」
と姉人魚たちはオパールに言葉を繰り返し綴った。
だから闇が深い今夜を選んだ。
姿が闇夜にとけるようにーー自身の成人の儀を成功させるために。
最後の果てがないほど広大なこの世界には、数多の知的種族と無尽の動植物が存在する。
なかでも人魚は特別で、その血肉を食べれば長寿となり、伴侶とすれば富と幸福をもたらすといわれていた。
しかし、海と海の生物を支配下とする人魚の捕獲はほぼ不可能で、唯一の絶好の機会は人魚の成人の儀であった。
空に生息する貴重な空魚の、頭部の突起の先にある光り玉を持ち帰ることによって、人魚は成人と認められる儀式があるのだ。
「いないわ。もっと上空に上がらないと空魚はいないのかしら?」
うーんと唸り闇夜の底でオパールはため息をつく。
「今夜は周囲の様子だけ見ようかな。空魚の挑戦は何回でも大丈夫なんだし」
用心しつつ、少しずつ上へと泳ぐ。
姉人魚の忠告を忘れずキョロキョロあたりを確認するが、風が遊戯に誘うようにオパールの髪を流して気持ちがいい。
オパールの、その名の由来となった虹色の色彩が瞳の中で遊んでいるかのように複雑に変化した。
月影に星影に、オパールは人魚の尾の残像を天女の羽衣のように残しては消し、闇から闇へと移動する。泳ぐ手が月の光の波を儚く乱し、泳ぐ尾が星の光の泡を静かに弾く。
オパールは警戒していたが、それでも、
「人魚がいたぞ!!」
この好機を見逃すはずもない狡猾なものたちがオパールを見つけてしまう。
「追え! 捕まえろ! 死体でも高値で売れる!!」
ぐるん! オパールは体を回転させると一気に上空へと、花嵐のような強い風となって上昇する。
後を追いかけてくるが、オパールの方がはるかに速い。
海の中でのような無敵の強さを遺憾無く発揮できないが、空であろうと実力的には上位に君臨する人魚である。下朗では問題にもならない。
そこに存在しながら夜には見えぬ太陽に向かって、風切り音をびょうびょう響かせながらオパールは天の海を泳ぐ。
高く、高く。
速く、高く。
月の光の波を飛び散らせ。
星の光の泡をパチパチ弾かせ。
そしてオパールは、仕掛けられた罠に自らかかってしまった。逃げた先には待ち構えていた者がいたのだ。
いきなりガシリと自慢の美しいしっぽを掴まれ、驚く間もなくオパールは激痛に襲われた。
尾の下部に、魔力を遮断する魔道具の杭が打ちこまれていた。
「痛いっ!!」
オパールが苦痛に身をよじると、長い髪が空中に流るる羽のように広かった。見知らぬ男がオパールをかたく掴み、ピンで縫いとめられた儚い蝶のごとく男の腕の中に自由を奪われる。
「見つけた! 見つけた! ようやっと見つけた!!」
非の打ちようがないほど暴力的なまでの美貌を恍惚と蕩けさせ、男はオパールを強く固く抱きしめる。
「僕の番! 僕の番だっ!!」
うっとりとオパールを拘束する男を横目に、オパールは周囲に視線を走らせた。
竜の姿があった。
鳥の姿があった。
獣の姿があった。
人の姿があった。
全てがまざったもののような雄もいた。
そう、雄。
人魚の番である雄たちの姿が天空に浮いて、じっと暗い暗い海の、海の底まで貫くような熱情を帯びた狂気に揺れる目で海面を眺めていた。
ひっそりと気配すら感じさせずに。
それほどに、圧倒的な力の差があった。
「番に見つかってはならない。海に帰れなくなる」
姉人魚の言葉がオパールの耳元でよみがえった。
神の試練か悪戯か。
人魚の番は、前世で結ばれなかった恋人たちである。
けれども人魚たちは前世の記憶を持たずに生まれてくる。
姉人魚たちも、オパールも、妹たちも。
対して男たちは前世の尽きぬ愛執そのままに、いや、結ばれぬ死を経験したからこそ、もはや愛や恋の段階から逸脱して一途に番だけを求めて生まれてくるのだ。
その死をも超える執着は凄まじい。
彼らは何年この上空にいるのだろうか、とオパールは思った。何十年、何百年だろうか?
ただひたすらに人魚が海面にあらわれるのを待って。
じっと待って。
断ち切れない狂気の愛を心臓に打ちこんだまま。
「ああ愛しい! ああ可愛い! 髪の一筋から爪先に至るまで僕の、世界で一番美しい僕の人魚!」
喜びと幸福に笑う男の手は震えていた。
「君に記憶がないのはわかっている。けれど! けれども! もう一度僕を愛して……お願いだ、もう一度……!」
すがるようにオパールの瞼に鼻に頬に耳に髪に、ちゅっちゅっと啄むキスを幾度もおとす。
魔力を遮断され、魔法を使うことも空を泳ぐこともできなくなったオパールには、逃げれる選択肢はもはやない。姉人魚たちと同じように不可避ルートの番との巣籠もり一択だ。
オパールは体内に残った最後の魔力を使って鱗を一枚切り離した。まっすぐに星屑のように海へと落ちていく。
鱗には、空で待ち構えている雄たちの姿の情報をいれた。妹たちのために。妹たちは警戒して、決して成人の儀式以外では海面に出てくることはないだろう。
ふふ、と微笑むオパールに男は綺麗な顔を紅潮させる。
ぽたり、
口から落ちた涎がオパールの顔に落ちた。全開の瞳孔。捕食者の目がひたりとオパールを見据える。
「はぁっ……かぁわいい。食べたいぃ……食べていい?」
近付く唇にオパールは手をかざして抵抗した。
男は暗く濁った凶暴な肉食獣の顔をして、オパールの手をスンスン嗅ぐと熱い舌でベロリとなめる。
「だめ! 巣に帰ってから!」
オパールは男をビシリとしつける、最初が肝心とばかりに。
「巣に? 巣に帰ってからならいいの!?」
歓喜に震える男にオパールはニッコリ笑う。
「私を大事にしてね。やさしくして。そうしたら、子をたくさん産むわ」
人魚は女だけの一族だ。
逃げられぬならば、姉人魚のように子を産むことをオパールは決めた。
オパールの産む女の子は新たな妹となり、そうやって過去も現在も人魚の一族は続いてきたのだ。
人魚にとって番は必要ないが、雄は必要な存在であった。
番から狂うほどに求められてもオパールにとっては、それが幸か不幸かは関係ないのだ。けれども女の子を産めるならば番を愛してもいいと思うオパールだった。
では、いただきます。
言ったのはオパールか、姉人魚たちか、番の男たちか。
ある意味両思いの人魚と番の、残酷な幸福であった。
星星の神話の夜が明け、新たな神の誕生のように東の空から、海と陸の全てをあたためるべく金色に輝く太陽がまぶしく昇る。
星がめぐり、
太陽がめぐり、
幾度もめぐりめぐり、
やがてオパールは女の子を産み、二度と海へは帰らなかった。
あらすじの解の、待ち構えていたものは激強激重激病みの集団でした。
この世界の海は際限なく広いため、番の人魚を海で見つけることは砂漠で一粒の砂金を拾うよりも至難の業です。
なので人魚が海面から出ると、その気配に光より速く移動して、とったどーっ!!となります。
ただし人魚の姿を見るまでは自分の番かはわからないため、雄たちがわらわら集まってきます。
「100年の初恋」と同じ世界ですが、あちらは番のいない人魚のお話です。もし、ややこしかったらお許し下さい。
読んでくださってありがとうございました。