第五章 『緋翼』 [中編]
『召喚門』を潜りながら、ショウこと日比野小吉はアリアドから説明を受けていた。
「ハルカには内緒で座標を変えて、目的地から離れたところに下ろしてきたわ」
「時間稼ぎ?」
小吉はアリアドの意図をすぐに理解した。魔女は彼がルカを迎えに行くのを想定していたのだ。でなければ、そもそもナンタンまで来るはずもない。
アリアドはうなずいた。
「あなたは彼女の家の前に下ろす。彼女が義父と接触する前に会えるはずよ」
「わかった。ありがとう」
小吉は心から礼を述べた。
しかし、アリアドの計算は誤差を生じ、小吉がハルカに接触したときには事件は始まっていたのである。
ハルカはショウが降り立つ数時間前、地元・東京から100キロ以上離れた富士山の麓にいた。アリアドは着地点が自宅と言っていたが、まるで違うので呆けていた。
「あの魔女、ショウの言うとおり意地が悪いみたいね」
なぜかショウはアリアドの話題が出ると面白くなさそうな顔をしていた。召喚されたときの印象なのだろう程度に思っていたが、実際にそうであったようだ。ショウの人を見る目の正しさになぜか嬉しくなった。
それは長く続かない。彼を思い出すと胸が苦しくなる。
「……しっかりしなきゃ。わたしはわたしの目的を果たすの。そのためにやってきたんだから。そしてそのあとはショウのいる世界を守る。世界を滅ぼす竜だろうとわたしが斃す。ショウが、みんなが楽しく暮らせるように……!」
元の世界へ送る条件に魔女が突きつけたのは破壊竜の討伐であった。自分と同じ特殊疑似体を持つ召喚十天騎士とともに戦えと言う。
「わたしを日本に帰して」
12月3日深夜、アリアドの前に突然現れたハルカは、あいさつもなく唐突に告げた。
『緋翼』対策会議をしていた場である。魔女の他にも十天騎士が揃っており、皆、一様に黒髪少女の出現に驚いた。アリアド邸には魔術防壁が張られており、主人が認めた者でなければ魔術を行使できない仕組みになっている。それをハルカはアリアドに気付かせることもなく突破してきたのだ。
「……記憶が戻ったの?」
彼女を知る唯一の魔女は、ハルカの左頬に刻まれた刃物傷を見つめながら訊ねた。記憶が戻り、疑似体を本来の自分に戻したようだ。だが、忌まわしい傷まで残しておく必要はないはずである。もし理由があるとすれば過去への執着だ。
「わたしの本当の願いもね。だから日本に帰して」
「義父を殺しに?」
ハルカはうなずいた。アリアドと彼女以外は戸惑うばかりである。
「あなたの過去を知ってるから驚きもしないけど、こっちにも相応の条件があるわ」
条件の『緋翼』討伐をハルカはあっさりと承諾した。その様子を見ていた十天騎士たちが驚くほどの即答だった。
「待ってください。あなた、ルカさんですよね? ショウさんの仲間の」
レナが淡々と進む魔女と魔女の話を遮った。
「そうだけど、なんで知っているの?」
ハルカは初めて居並ぶ十天騎士に目を向けた。同じ体と目的を持つ仲間と言われても、ハルカにはピンとこない。その中にショウの命の恩人のミコもいたが、あのときの違和感の理由がわかっただけで無関心であった。
「わたしはレナ。管理局の局長です。ショウさんの蘇生にも多少、お力添えさせていただきました」
「それはありがとうございます」
ハルカは儀礼的に頭を下げた。レナも感謝を期待していたわけではないので本題に入った。
「ショウさんは知っているんですか?」
「……!」
ハルカは初めて動揺した。
「何も告げずに行くつもりですか? あなたがすることを彼が許すと思っているのですか?」
その言葉はハルカを追い詰める。抑えていた感情が爆発した。
「わかってる! わたしの行いが正しいなんて思ってない! でもわたしはやらなきゃいけない! あいつは生かしておけない! お母さんが安心して生きていけるようにしてあげたいの! わたしが弱いから、弱かったから、お母さんは逃げるしかなかった! わたしが……!」
悔しさの発露に泣きながら壁を叩く。壁は砂のように粉砕された。
「ショウに許してもらおうなんて思ってない! いつまでも仲間でいたい! でもこれだけはやるの! わたしはやり遂げて、今度はショウのいるこの世界を守る! それで死のうがどうでもいい! わたしが大切にしたい人を守るだけ! わたしにはその力があるんだから! そのための力なんだから! わたしが力を望んだのは、このためなんだから!」
ハルカの決意と叫びが、十天騎士たちに自分たちの覚悟のなさを気付かせた。レナに恫喝され、十天騎士としての使命を思い出した彼らだが、ハルカの前には上っ面だったと思い知らされていた。
「わかったわ。あなたの気持ちはよくわかった。やりたいようにやりなさい」
アリアドは呆れたように言った。
「アリアド様……」
魔女の考えがわからないレナは言葉に詰まった。
「でも、今すぐは無理よ。朝にまた来なさい」
「わかった」
ハルカは興奮を治め、来たときと同様に瞬時に消えた。
そのあとをハルカは知らないが、アリアドはため息をつきながらハルカの処遇について十天騎士に意見を求めた。その結果が、ハルカが大切に想う者に委ねるという答えであった。
そして、今に至るのである。
ハルカは手っ取り早く【瞬間移動】で東京へ跳ぼうとした。が、着地点は先ほどの場所から数キロであった。しかも魔力の消耗が激しく、膝をついた。
「なにこれ、こっちの世界ってこんなにキツイの……? 魔力消費だけじゃなくて、体まで重い……」
疑似体では耐えられない、この世界独特の細菌やらウィルスだろうか? ハルカはできるかぎりの保護魔法をかけた。マシにはなったが、好調とは言えない。歩いたりするぶんには問題はないようだが、少し激しい動きをするだけで息が切れた。
これは疑似体を維持する魔力が補充できていないからだった。疑似体にはあらかじめいくつかの身体維持魔術が施されている。それは無意識に行われており、魔力の供給がなければ体に負荷がかかるのだった。マルマ世界にいれば魔力は自然界に溢れているため問題はない。が、この世界には魔力がないため、食事による栄養摂取で体内生成する以外に魔力の補給はできなかった。
ハルカは魔術による移動をあきらめ、高速道路を走るトラックの屋根に乗って移動することにした。
途中、寝てしまって分岐を違えたり、サービスエリアで停まっていたところを他の人間に見つかって追いかけられたりしながらも、彼女はどうにか地元まで戻ることができた。嫌な思い出でしかない、懐かしさも感じない、空虚な町だ。
薄闇の中、彼女は歩いていた。すでに飛ぶ体力もない。体が重く、頭も痛い。それでも彼女はとまらなかった。目的地が近づくほど、衝動を抑えきれない。一刻も早くあの男と対峙し、正面からなぶり殺しにする。その望みが今の彼女を支えていた。
この時間はあまり人も通らない静寂の歩道であった。少なくとも、ハルカはそう記憶している。だが、自宅に近づけば近づくほど明るさが増し、人のざわめきも大きくなっていった。
最後の角を曲がる。築40年を越える二階建てのアパートが見えるはずだった。その一階の三号室が自宅だ。
曲がった瞬間、大勢の人がアパートを取り囲んでいるのが見えた。通行人にしては多すぎる。若者が多く、スマートフォンで撮影したり、SNSのやり取りをしている。
ハルカが呆然としていると、ギャラリーの一人が彼女に気付いた。
「長柄遥だ!」
人々の視線が一斉に彼女に向けられた。スマートフォンを掲げ、撮影を開始する。
「なに、これ……」
ハルカは一歩退いた。状況がまったくわからなかった。
彼女はサービスエリアで警備に追われた際に魔術を行使していた。空を飛び、空中に爆発を起こして場を混乱させ、その隙に逃げていた。その動画はたちまちSNSで拡散され、夕方のニュースにまで流れていた。
怪しげな飛行少女はすぐに特定された。動画で顔を見た中学時代のクラスメイトのつぶやきからはじまり、彼女の過去はすぐに全世界に発信された。
「おい、空飛べよ!」
「うわ、ヒデェ傷」
「なんだその格好? ダセェ」
「父親とヤってんだって? そりゃ母親は逃げるわっ」
「いいからまず飛んで見せろよ!」
好奇の視線と悪意の言葉が少女に襲いかかる。ハルカは青ざめ、恐怖した。
ナ・ン・ダ・コ・レ・ハ……
今まで誰もが自分を無視していた。手を伸ばしても誰も掴んでくれなかった。世界に捨てられていた。それが今は、まるで自分が世界の中心であるかのように取り囲んでくる。
だがそれは、救いの糸ではなかった。
「おい、なんとか言えよ!」
反応を示さないハルカを名も知らぬ男が突き飛ばす。ハルカはよろけ、座り込んだ。それでも彼らは狂気に似た顔で、ハルカを頭上から圧倒する。
冷たいアスファルト。これだけの人がいて、なお、差し伸べられる手はなかった。
ハルカは悟った。
「ダメなのは、あの男だけじゃないんだ……。おまえらぜんぶ、おかしいんだ!!」
ハルカは叫んだ。今までのすべての憎しみを込めるように。ハルカがただの人間の少女であれば、それは主張であり、絶叫ですんだ。だが、彼女には力があった。それも強い憎しみから生まれた力である。
言葉に、声に込められていたのは、この世界では認知されていない『魔力』という力だった。
音ではない。だが、確実に周囲に力は放出された。見えない、聞こえない爆発だった。
スマートフォンをはじめとする電子機器がショートし、ガラスが崩壊し、人の脳や内臓を揺さぶる。
吹き飛ばされ、壁に激突する者もいた。
電柱の配電盤もやられたのか、停電が広がっていった。
町の一角が、真の闇に染まる。
ハルカを囲んでいた人々の阿鼻叫喚が響く。ガラスなどで怪我をした者が救急車を要請するが、通信網が死んでいて連絡が取れない。痛みと混乱が広がり、その原因がハルカだと気付くと、若者たちは震えあがり逃げていく。
「……なんだぁ、こりゃ」
逃げる人波に逆らうように、一人の男が自宅に向けて歩いていた。酒が入り、ご機嫌な様子であった。
ハルカはその声に反応した。
振り返ると、その男がいた。
「お? 遥じゃないか。どうした、家出は終わりか? そうかそうか、帰って来たのか」
男は笑った。嬉しそうに笑った。
「おまえ……!」
「おいおい、父親に向かっておまえはないだろ? ほら、なにしてる? 家に入ろうな。何をしていたか、ゆっくり聞かせてくれよ?」
不用意に近づいてくる男をハルカは待った。
「ほら――」男の手がハルカの肩に伸びる。瞬間、男の右手は強烈な静電気にあてられたように弾かれた。鋭い痛みに男は声を上げ、右手を見た。指はある。痺れているが動く。
「ハルカ、おまえ――!」
娘はおそらくスタンガンでも持っていたのだろう。男はそう判断し、親を尊敬しない馬鹿娘に怒りをぶつけようとした。その口は、開いたまま閉じなかった。見えない力に喉が絞められ、声どころか呼吸さえも不自由になっていた。
「おまえの、せいで、わたしは、わたしたちはァ!」
ハルカはただ睨んでいた。憎しみを、怒りを、殺意を込めて。
「楽には殺さない。じっくりと削るように痛めつけてやる。死なないようにじっくりと。死にそうになっても【治癒】して意地でも死なせない。いたぶり抜いて、それから、それから……!」
ゆっくりと語りかける娘に、男は背筋が凍った。酔いが冷め、足掻く。だが、押さえつけられた喉の力は緩まなかった。
「オレ、は、おま、父親、だぞっ。はなせ、こ、の、バケ、モノが!」
途切れ途切れにようやく言い切る。
その言葉は、ハルカには心が震えるほど嬉しかった。
「ああ、そうか……。わたし、バケモノになったんだ……。こんなクズを簡単に殺せるくらい強いバケモノになれた……。誰からも必要とされなかったわたしなんか、人間でいることはなかったんだ。はじめからバケモノに生まれていればよかった。そうすれば――」
ハルカの目に涙が浮かぶ。力はさらに増していった。
「ダメだ!」
少年の声が背後からした。ハルカの力はわずかに緩み、男の呼吸を楽にした。
ハルカは振り返らなかった。いるはずがないのだ。その声の主は異世界にいて、仲間たちと楽しく過ごしているはずだった。勝手に消えた自分のことなどさっさと忘れて旅の準備を進めている。そうに決まっている。こんな汚い世界に戻り、こんな傷だらけの醜いバケモノを探しになんて来ない。来れるはずがない!
「ルカ、もういいだろ? 許せないかもしれないけど、もういいだろ? 帰ろう」
近づいてくる気配を感じる。ハルカはとっさに「来ないで!」と叫んでいた。少年の足音がとまった。
「よくなんかないっ。終わってなんかいないっ。こいつを殺すために、わたしは生きてきたんだから!」
「おまえの気持ちがわかるなんて言わない。オレには絶対にわからない。でも、おまえがそいつを殺したら、おまえはオレたちのところには帰ってこないだろ? オレはそれがイヤだ!」
小吉の自己中心的な言葉は、ハルカを一瞬だけ呆けさせた。唯一の味方だと信じていた彼も、結局は自分のことしか考えてはいないのだ。
「……なにそれ。自分のわがままのためにやめろって言うの? わたしのためじゃなくて、自分のためなの?」
「言っただろ、おまえの気持ちはオレにはわからない。同情ならいくらでもできる。でも、そんなのがおまえを救うのか? 今さら可哀想だったと言って、おまえは満たされるのかよ? そんな軽くないだろ。だからオレができるのは、これからなんだ。これからいっしょに旅をして、冒険をして、いい思い出を作るしかできないんだよ。でもそのための最低条件が、おまえが、オレたちと、いっしょに、いることだ。だから帰ろう。ルカでもハルカでもいい。おまえがおまえらしくいられる場所に、いっしょに帰ろう」
ハルカは歯を食いしばって慟哭をこらえた。あふれる涙はとめられないが、抑制はできた。ハルカはもう、復讐をやめてもよかった。けれど、それは一時の気の迷いでしかない。そんな温い怒りで、こんなことはしていない。
「わたしはこいつを殺さないと先に進めないの! 楽しいことが待っていても、こいつが生きているかぎり過去の幻影は消えない! 怒りはふとしたときにまたよみがえる!」
ハルカは男への制裁を再開した。視界に映るだけで憎しみが湧く。
小吉が「やめろ」と駆け寄ろうとするのを、ハルカは見もせずに弾き飛ばした。それは考えての行動ではなかったが、同時に覚悟が決まった。自分から彼を拒絶した。その事実が、彼女の最後のストッパーを外した。
「ごめんね、ショウ。わたしはこいつを殺したら、あなたの世界を救う。そのあとはもうどうでもいい」
「どうでもいいなんて――!」
「どうでもいいなんて言わないで!」
ハルカの背後、さらに小吉の背後で声がした。女性の声だった。
「……!?」
ハルカは力の出し方を忘れたように呆然とし、振り返っていた。
小吉はハルカの視線を追う。彼の後ろに中年の女性がいた。一目でわかった。ハルカの母親だった。彼女はニュースで娘の動画を見て、居ても立ってもいられず、かつての家に戻って来たのだった。
「ごめんね。ごめんなさい、遥……!」
「……お母さん」
「わたしが逃げたから……。わたしの間違いからはじまったのに、逃げてしまってごめんなさい。わたしがちゃんと守らなきゃいけなかったのに。怖くて、辛くて、ごめんなさい……」
母親はその場に倒れるように膝をつき、頭を下げた。
「お母さん……!」
ハルカは湧きあがる熱い感情に抗えなかった。涙が勝手にあふれ、駆け出していた。
母親にすがりつき、彼女もまた「ごめんなさい」を繰り返した。守れなくてごめんなさい。頼りきりでごめんなさい。脅えてばかりでごめんなさい。力がなくてごめんなさい。勇気がなくてごめんなさい。彼女の謝罪は、自分の無力への嘆きだった。
小吉は二人の姿を見ながら安堵した。ともかくこれでハルカも落ち着くだろう。もう義父を殺そうなんて気概もなくなっているはずと信じた。
だが、相手は違った。自分の罪を省みることもなく、助かったことに感謝するつもりもない。男は自由を取り戻すと、咳き込みながら叫んだ。
「この、バケモノがァ! 警察だ、警察を呼べ! こんなバケモノがいていいもんか! さっさと捕まえるか、殺してしまえばいいんだ!」
「おまえはまだ――!」
ハルカが立ち上がって男を睨む。その視界はすぐに遮られた。
「黙れ!」
小吉が男に駆け寄り、勢いのまま左頬を殴りつけた。拳が痛んだが、男のほうは奥歯が一本吹き飛ぶほどの痛みを負ってアスファルトを滑った。
「オレの仲間を、バケモノとかいうな!」
男は痛みよりも、正体不明の少年に殴られたことに呆然とした。
ハルカも「ショウ」とつぶやいたきり、状況を見守るしかできなかった。彼の言葉が深く沁みていく。彼女が長年望んでいた光景がここにあった。いつかヒーローが現れて、この悪人を成敗してくれる。そんな子供のような夢。
「おまえが今までやってきたこと、忘れてないよな? どれだけの酷いことをしてきたか、これからおまえは裁かれるんだ。おまえはクズだ! クズだと自覚して、刑務所で反省しろっ」
口をパクパクさせるだけの男に鼻を鳴らし、小吉はハルカに振り返った。
「ルカ、もうがんばらなくていい。終わったんだよ」
「ショウ……っ」
ハルカは小吉に抱きついて泣いた。
遠くからパトカーと消防車のサイレンが聞こえた。近づいてくるのがわかる。
「いったんここから離れよう。こんな状況、説明できないし」
ハルカは了解し、母親を含めた三人は彼女の【瞬間移動】で手近なビルの屋上に跳んだ。
「うう、お腹空いた……」
緊張が解け、ハルカはその場にへたり込んだ。
「食べてないのか?」
「ううん。この疑似体、日本だとすごく燃費が悪いの。体を維持するにも魔法を使ってるし、魔力の自然回復もないから」
「世界が違うってことか……」
小吉はポケットをまさぐるが、ビスケットの欠片一つ出てこなかった。『召喚門』を抜けたら目の前でハルカの公開処刑がはじまっており、食料を仕入れる時間などなかった。
「アリアドめ、ぜんぜん時間に余裕がなかったじゃないかっ」
責任転嫁で魔女に文句を並べる。
「ショウはどうやってここに来たの?」
「アリアドがオレのとこに来たんだよ。おまえを止めたくて――て、今はオレのことはいい。おばさん、呆然としたまま動かないぞ?」
「あー! お母さん!?」
母親はハルカに揺さぶられて正気に戻った。かと思いきや、矢継ぎ早にこの状況を質問しだす。ハルカも小吉も気持ちはわかる。
ハルカが母親に説明している間、小吉はこれからどうしたものか悩んだ。今夜にでもアリアドとコンタクトを取って、すぐにマルマに帰るべきだろうか。それとも。
「……家に帰ってみるか。せっかく戻れたんだ、両親に事情を説明して、許可をとってからマルマに行こう」
そう決めたものの、小吉はお金すら持っていなかった。情けなくも格好悪いが、ハルカの母親に頼んでお金を借りることにした。
長柄親子と別れ、小吉が自宅へ着いたのは日本時間12月4日22時を回ったところであった。およそ5ヶ月ぶりの帰郷である。服装は召喚されたときと同じスエットの上下で、靴はなぜかマルマで履いていた物だった。裸足では不憫と思ったアリアドの配慮であろうか。ならば季節に合わせてコートも欲しかった。
玄関には鍵がかかっており、当然、鍵は持っていない。戸惑いながら呼び鈴を鳴らし、インターホン越しに「ただいま」を告げた。
扉が激しく開かれ、両親が顔を見せた。表情に困った息子を目にして、二人は呆然としたのち、小吉を抱きしめた。
それからは説教と抱擁と尋問と感涙が混じりあって、小吉もよく覚えていない。風呂に入れられ、食事をして、改めて話がはじまった。
両親は息子の話に半信半疑――どころではなく、完全に疑っていた。おとぎ話が過ぎるというものだ。違法ドラッグをやっているのかと責められたほどである。
話は平行線をたどり、仕方なく小吉はハルカと連絡を取った。せっかくの母娘の再会を邪魔するのは心が傷むが、他に証明できる者がいない。
だがそれはハルカの側も同じようで、異世界だとか魔法だとかは信じてもらえないようだった。
「魔法を使って見せたりもしたんだけど、もうどう言ったらいいのか……」
子供二人は途方に暮れた。
「家族で集合して説明するか? こっちも実演してもわかってもらえるか不安だけど」
「そうだね。このままってわけにもいかないしね」
ハルカも消極的に賛成した。翌日に日比野家への訪問を約束し、電話を切った。
これに対して小吉・母の意見は――
「今度はあなたの家出仲間もいっしょになってウソを並べるの? その子の親御さんも巻き込んで? ……ん? 小吉、あなた今、相手は女の子って言った? ガールフレンドを家に呼んだの!? あらあら、どうしましょう! お父さん、小吉のガールフレンドだって!」
翌12月5日17時、長柄母娘が日比野宅を訪れた。その間、小吉自身は母親に連れまわされて病院で精密検査を受けたり、ハルカたちを迎える準備の手伝いをさせられていた。
「ようこそいらっしゃいました。長柄遥さんと、お母さんですね。遠くまで大変でしたでしょう。さ、どうぞ上がってください。たいしたお持て成しもできませんが、どうぞどうぞ」
気持ち悪いほど朗らかで猫被った母の姿に、小吉は恥ずかしくなる。「ちょっと抑えろよ」と服を引くが、今の母は無敵状態であった。小吉の手を切り払い、息子のガールフレンドをニコニコと見ている。
「失礼します」とハルカが靴を脱いで揃える。それだけで小吉・母は感動すら覚えている。
「まぁ、礼儀ただしいのね。……ほら、小吉、リビングに案内してっ」
首の向きが180度変わると態度まで180度変化する。小吉は「ウザぁ」とこぼしながらもハルカを案内した。「こっち」と歩きながらも、小吉の目はハルカから離れなかった。
「なに?」
少年が自分の顔をジッと観ているのに気付き、彼女は照れ臭くなった。
「顔の傷……」
「あ、消しといた。さすがにあれはインパクトありすぎでしょ?」
「便利だな」
小吉の感想はそれだけだった。せっかく気合を入れて服を新調し、母親に習って薄く化粧までしてきたのに、反応が面白くない。
母親同士がリビングに顔を出した。ハルカの母は恐縮しっぱなしで何度も頭を下げている。それは後天的なものであった。抑圧された生活により形成された自己防衛の所作である。
母子・二組が席に着くと、小吉・母の主導でなぜか「乾杯」する。「なんの乾杯だ」と息子がツッコむと「そりゃ、バカ息子たちの帰宅祝いに決まってるでしょ」と真顔で答えられ、彼は何も言えなくなった。
「まずは食べて。遥ちゃん、遠慮しないでね」
小吉・母の勧めに、ハルカは「はいっ」と応えた。小吉は本当に遠慮ないだろうなとこの時点で思い、事実、その勢いは他者を唖然とさせた。
「遥、きのうもそうだけど、そんなに食べて平気なの……?」
ハルカ・母が心配そうに訊ねる。彼女の身を案じているのもあるが、よそ様の家で大食いを披露するのもどうかと顔に書いてある。
ハルカの箸と表情が勢いを失っていく。
「ルカ、遠慮しなくていいからな」
小吉が助け船を出す。が、その船に横から衝突する者がいる。
「その呼び方はなに? ちゃんと遥さんと呼びなさい」
「といっても、むこうの世界では男だったからなぁ」
「「は?」」
母親二人が目を丸くして小吉を凝視する。
その反応は小吉の予期するところであり、実は期待もしていた。
「ルカ、今なら食料はいくらでもあるから回復もできるだろ? あっちの世界での姿を見せてやれよ」
「ヤダ」
即答だった。
「おいっ」
「この服で変わったら破けるよ?」
「あ、そうか。……いやいや、身長とかはいいからっ。オレたちが言っていることを証明しなきゃいけないだろ?」
「……わかった」
ハルカは箸を起き、目を閉じた。するとモーフィング映像のように体が多少骨ばって肩幅が増え、変わって胸が平たくなり、髪は銀色、顔つきもわずかに変化する。
「やっぱあんまり変わってないじゃないかっ」
小吉は彼女の顔の変化にツッコむ。
見慣れている少年はともかく、母親たちは驚きのあまりに口を開けたまま、箸を落とした。
「これが向こうの世界でのボク。ルカって名乗ってた」
母親に自己紹介して、ニッコリと微笑む。
母親は慄きつつ、彼の体を触った。特殊メイクなどの類ではなく、本当に変化していた。別人が隣に座っているのではないかと疑うほどだ。
ルカは力を抜き、またハルカに戻った。
「……これは、なんなの?」
小吉の母親は息子と女の子を交互に見た。
「魔法。オレはできないけど、彼女は使えるんだ。疑うのはわかるよ。でも仕掛けはない。能力なんだ」
小吉はスマートフォンを取り、用意しておいた動画を見せた。きのう、ハルカが起こした事件の映像だ。サービスエリアで空を飛んでいる。また、ハルカの自宅前で彼女が怒りに爆発する直前までの映像も動画サイトで見つけてある。
小吉たちは両親の疑問に対して、包み隠さずに答えた。誠実に、真実を伝えるしかなかった。わかってもらうための努力は惜しまない。それでも理解が得られないのなら、あきらめるしかない。
その後、長い沈黙が流れた。二人の親は、到底、呑み込めずにいる。しかし、理屈ではなく、感情の上では認めていた。嘘ではないのだろうと。こんな嘘をつくような子供ではないと知っているから。
「……わかった。鵜呑みにはできないけど、そういう世界があるのは信じてあげる。それで、戻って来たということは、その世界とはお別れしたのよね?」
小吉の母親の問いに、息子とハルカは顔を見合わせた。
それで親にはわかってしまう。
「まさかまた行くとか言わないわよね?」
「ごめん。オレは戻りたい」
「どうして!?」
真正面から問いかけられ、小吉は言葉に詰まる。マルマ世界に明確な目的があるわけではない。彼からすれば、ただ楽しいからとしか言いようがない。
視線を逸らす正直な息子に、母親は呆れた。
「あなたはただ現実逃避してるだけじゃないの? そのマルマとかいう世界であなたが必要とされている、もしくは大きな目標があるのなら、まだ許す気にもなるかもしれない。けれどそうじゃないのね? あなたはただ、そこで遊んでいたいだけなのよ。だから何も言い返せない」
「……」
小吉の視線は下に向かっていく。
「遥は? あなたはここに残るのよね?」
ハルカの母親が娘に訊ねる。
「わたしはどちらにしても一度は戻らないとダメなの。この体は本物じゃなくて、むこうの世界の物なの。だからこっちで暮らすならアリアドさんに頼まないと」
召喚の魔女アリアドについては母親たちにすでに話していた。そもそものはじまりである。
「そうすれば、帰って来るのね?」
「……」
ハルカもまた答えに困った。彼女自身はこの世界に未練がない。母親は心配であるが、あの義父から解放されれば問題はなかった。それに今さらこの世界で何をしろというのか。満足に高校受験も受けられず、彼女は進路もないまま中学を卒業した。順当に進学していれば高校一年生であったが、今さら高校へ行きたいとも思わない。それに、元の体にも戻りたくはない。吹っ切れたとはいえ、体の傷を見るたびに嫌な記憶を思い出すであろう。
「やっぱり子供ね」沈黙する子供たちに、小吉の母親は特大のため息を吐いた。
「明確な答えが出るまで、むこうには行かせないからね」
「で、でも、わたしはこっちだとあまり動けなくて……」
「ダメ。無計画に行かせたりはしません。今はお母さんの手助けをしなさい。小吉は動けるんでしょ? なら学校へ行きなさい。5ヶ月も遊んでいたからどうせ留年確実だけれど。それが嫌ならバイトでもして自分の食費くらいは稼いでくる。それで年内にはどうするか決めなさい。言っておくけど、どっちつかずだけは許さないからね」
小吉・母は余所の娘にも容赦なく言い放った。
「「はい……」」
小吉とハルカは縮こまって返事をした。
小吉の父親が帰宅し、状況が伝えられる。彼は「そうか」の一言で終わらせた。今さら意見を言ってかきまわしても、混乱するだけだとわかっていた。
22時。小吉の案で、保護者たちにアリアドを紹介することとなった。都合よく会話ができるとは思えないが、もし可能であればマルマ世界の存在証明になるし、また、アリアドからの説得でマルマに帰れるかもしれないという打算もあった。
小吉とハルカが頭の中でアリアドに呼びかける。魔女は約束どおり門を開いていた。
両親たちの前で子供たちが消える。当然のように驚くが、一つの証明を見て納得もしていた。
「憑き物が落ちたような顔ね」
アリアドはハルカを一目見るなりそう言った。
「うん。ショウのおかげで。アリアドさんもありがとう。わたしは今、すごく幸せな気分」
「それはよかった。でも、これからが大変よ」
「わかってる。世界を滅ぼす怪物……ヒヨク、だっけ? 全力で戦うから」
「え、なにそれ!?」
知らない会話に、小吉は声を上げた。
「そういえば話してなかったっけ。あとで教えてあげる。でも今は親のほう」
「あ、そうだった」
小吉は事情を説明した。話が進むにつれ、アリアドの顔は濁っていく。
「……なんでわたしが保護者に説明しなきゃなんないのよ? 子供じゃないんだから、自分で解決なさい」
「日本では17歳は立派な未成年だ」
「甘ったれた世界ねぇ……」
文句を並べ立てながらも、アリアドは『召喚門』を拡大して保護者らを招き入れた。
「はじめまして、ギザギ国異世界召喚庁長官アリアド・ネア・ドネです」
突然の異空間に驚愕する三人を前に、アリアドは微笑した。性格はともかく、外見はギザギでも十指に入る美女と噂されるほどである。小吉の父親だけではなく、母親たちも見惚れてしまう。
「この度は私どもの身勝手な願いにより、大切なお子様を承諾もなしに連れ出してしまい、まことに申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけしました」
「あ、はぁ、いえ。こちらこそ愚息がお世話になりまして……」
こうして和やかにはじまった会見だが、2分もすると雲行きが怪しくなる。マルマ世界での子供たちの様子を訊ねられたアリアドは、まこと正直であった。
「ハルカさんはよくできた方です。今、こちらでは大変な事件が起きておりまして、お嬢様の力が是非とも必要とされております。お許しがいただければ、すぐにでもご援助いただきたく存じます」
ここまではよかった。ハルカの母親も、こうまで頼まれては嫌とは言えない。だが、小吉のほうは言うと――
「ショウキチさんのほうは、多少、もめ事が多いようです。兵士にケンカを売ったり、山で遭難したり、結果的にうまく治まってはおりますが、この先も不安はあるかと」
「おいっ」
小吉は小声でツッコむ。
「なによっ。投獄されたり死にかけたのは言わなかったでしょうがっ」
アリアドも小声で返す。
それでも両親の顔は渋くなっていった。
「ただ、これだけはお伝えてしておきます。私どもは無理強いをしてマルマ世界に来ていただいてはおりません。彼は彼なりに、悩みを持ち私の呼びかけに応えてマルマへ来たのです。その後も帰る機会はありました。それでも残ったのは彼の意志です。親御さんの立場では不安しかないでしょう。ですが、当人の意志を尊重してあげてください。……ショウキチさん、あなたも自分で決めなさい。あなたがどちらの世界で、何を成したいのか、何を成すべきか、考える時間を与えます。その答えがマルマに来ることであれば、私は歓迎いたします。そのときはまた呼びなさい」
「……わかった」
小吉は力強くうなずいた。両親も一応の納得はしたらしく、会見は終わりを迎えた。
「アリアドさん、わたしは数日だけこっちに残る。お母さんと少しいっしょにいたい」
「わかったわ。いつでも呼んで」
ハルカに応え、アリアドは『召喚門』を閉じた。五人は日比野家のリビングに戻っていた。
「……未知の世界というものはあるんだな」
小吉の父親が嘆息した。
「そうね。これはもう信じるしかないわね。……小吉、あの人も言っていたけど、自分で決めなさい。子供の理想ではなく、大人として責任を持って。わたしたちはそれに従うわ」
母親の言葉に、小吉は先ほどと同様にうなずいた。
「遥は行くの?」
「うん、約束だから。こうしてお母さんとまた会えたのも、あの人のおかげ。だから恩は返さないと」
「そう……」
ハルカの母親は娘を抱きしめた。
日比野家全員が目くばせし、部屋を出ていった。
ハルカは三日後、マルマへ戻った。
ショウが日本へ帰った直後、バルサミコスは管理局局長室前の廊下で待機していたパーザ・ルーチンとシーナに状況を説明した。
「ルカは本当は女の子で、日本に復讐に戻ったからショウがそれを追いかけていった……?」
シーナはまるで納得できない顔をした。そもそも『復讐』ってなに、とツッコむ。
「そのへんは個人の事情だから話せない。でも、彼女は本気だったよ。すごく恨んでいる人がいたみたい。でもそれは彼女にとっていいことじゃないよね? だからショウちゃんは止めに行ったんだよ。きっと二人とも帰ってくるから、少しだけ待っててあげて」
「はい……」
シーナは納得せざるを得ず、管理局を出ていった。口外禁止だが、ごくごく親しい仲間内にだけは話してもいいという許可を得たので、アカリに伝えようと思った。他にはマルとアキトシ、リーバにだけ教えるつもりだった。
「……いったい、あなたがたは何をしているんですか?」
シーナがいなくなると、パーザはバルサミコスに問いただした。
「なにって、ショウちゃんとルカって子を助けてるんだよ」
『放浪の魔剣士』と呼ばれる勇者は、子供のようにニコやかに答えた。
「それはわかります。ですが、局長のみならず長官も噛んでいるなんて、尋常ではありません。それ以外にも目的があるのでしょう?」
パーザは鋭い視線を向けた。
バルサミコスはあきらめ、一つ吐息した。
「ここだけの話ね。この国にちょっとヤバイ敵が迫ってるんだよ。撃退にはわたしと同じ勇者の力を持つルカが必要なの。だから彼女には狂った復讐者でいてもらっちゃ困るわけ」
「そこになぜショウさんが関わるのです?」
「仲間だからに決まってるじゃん。パーちゃんだって、わたしが困ってたら助けてくれるでしょ?」
「はぁ、まぁ……」
パーザはあいまいに答えた。そんな場面が想像できないからであって、けしてバルサミコスに無関心なわけではない。
「そこはウソでも『もちろん!』って断言して欲しかったなぁ」
バルサミコスは苦笑し、反動のように寂しげな顔になった。
「……大切な人がいるから戦える。そうでなきゃ、やってらんないよ」
「ミコさん……」
「やっと呼んでくれた。わたしもがんばるよ。パーちゃんとまたお茶したいしね」
「じゃあね」バルサミコスは笑い、局長室に戻っていった。
「ずるいですね、まったく……。結局また、わたしは蚊帳の外ですか」
パーザ・ルーチンは嘆息し、階下に降りていった。彼女は勇者の助けにはならないが、多くの異世界人の力にはなれた。できることをやっていこう。それはバルサミコスと初めて出会ったときから掲げている、彼女なりのやり方であった。