第六章 サモン・ウォーカー [前編]
『緋翼』の脅威が迫り、アリアドによって強制送還された召喚労働者たちは、それぞれの召喚された時間に戻っていた。
その一人、椎名亀子という少女は、マンションのベランダから落下寸前のところを両親に引っぱられて九死に一生を得ていた。
「何をしているの! どうしちゃったの!?」
助かった娘に、母親がヒステリックに喚いた。つい先ほどまで亀子のほうが喚き散らし、泣きじゃくっていたのだが、立場が逆転していた。
その日の昼間、亀子は学校でいつものようにクラスメイトにからかわれた。太っていること、顔のこと、はっきりと言えないこと。他人を見下すことしかできない人間からすれば、嘲る対象とするには格好であった。それに対して亀子はうすら笑いを浮かべてやり過ごすしかできなかった。家に帰っても何もなかったように家族と話し、笑い、食事の手をとめない。
彼女はふと気付いてしまった。クラスメイトの嘲笑と、自分が浮かべる嘘の笑顔、どちらも歪んだものであると。その瞬間、悔しさに溢れ、情けなさに沈み、どうしようもなくなって泣き叫び、誰かに救いを求めたのだ。
発作的に行動は、だがピタッと治まった。そして深く後悔し、同時に胸が熱くなった。
「……ごめんなさい。もうこんなことしない。わたし、わかったから。悔しいってわかったから。だからがんばるよ。お母さんたちも協力して」
亀子は自分の部屋に戻り、ジャージに着替えた。
「ちょっと、亀子?」
困惑する両親に笑顔を見せ、「走ってくる」と彼女は家を飛び出していった。
亀子は近所の森林公園まで走ろうと思った。だが、彼女の大きな体はその負荷に耐えられず、すぐに音を上げてしまう。
荒い息を吐きながら、それでも足は止めない。走れなくても歩くことはできる。彼女はできるだけ早く歩いた。
「太っている自分がイヤだった。それを馬鹿にされるのも、イジメられるのもイヤ。なら、自分を変えるしかない。がんばろう。約束だから。戻ったとき――」
亀子はハッとした。この気持ちはなんだろうと考える。誰との約束だろうか。どんな約束であっただろうか。戻るとは。一瞬だけ、誰かの顔が浮かんだ気がした。
「……思い出せない。でも、わたしは知ってる。知ってると思う。その人に会うまで、わたしは努力しなくちゃいけない。それが、約束だったと思うから」
亀子は歩いた。ゼーゼーと息を切らし、大汗を流し、必死な表情で鈍亀のように進む自分を笑う声が聞こえても、彼女はあきらめなかった。恥ずかしさを糧にして、情けなさをバネにして、少女は走って、歩き続けた。
違う場所では神村光という少女が不機嫌に帰宅したところだった。つまらないことで友人と口ゲンカをして、打ち負かしたものの気分は最悪だった。やり込めた快感はあっという間に醒める。悪いことをしたと思いつつ、光は謝れなかった。
「ただいま」とつぶやいてみても返事はない。どうせ両親は仕事が忙しくて家にはいない。4つ離れた弟とも仲がいいわけでもなく、あいさつすら交わさない。家はただ寝る場所であり、生活に必要な空間というだけだった。
それが今夜にかぎり状況が違った。両親が珍しく家にいたのである。
遅くまで遊んで帰ってきた娘に、両親は烈火のごとく怒った。成績は上位をキープし、問題を起こしたこともない。だが、両親はそれだけでは満足いかないらしい。
ただでさえ落ち込み傾向にあったものが、少し帰宅が遅いだけで怒鳴られる。理不尽すら感じた。
「ウルサイっ。そんなにあたしが嫌なら出てってやるっ。それで満足なんでしょ!」
光は我慢できずに怒鳴り返した。今までのストレスを爆発させ、殺気さえみなぎらせて両親を睨む。こんな世界、こんな親とは決別したい。そう願いさえした。
今までこれほど激しく反抗されたことのない両親は言葉を失い、急にうろたえた。神村家の血筋なのだろうか。攻めているときは強いが、受け手に回ると途端に怖気づく。光もその遺伝を受け継いでおり、常に強者たろうとつい高圧的になっていた。今日の友人とのこともそうだ。言っていいこと悪いことの区別もなく、ただ人を責めた。
「……あ、そうなんだ」
光は気付いた。今の両親と自分の何が違うのだろうと。わかった瞬間、自分が恥ずかしくなった。
「光……」
言葉を探す両親に、彼女はハッとし、一息ついた。
「……ごめん、言いすぎた。でもやることはちゃんとやってるつもり。だから少しくらいは認めて。悪いとこだけじゃなくて、がんばっているのも見てほしい」
自然とそんな言葉が出た。光は誰かに我慢して付き合いたくはなかった。誰かを我慢させて付き合わせたくなかった。注意するのもされるのも嫌ではない。ただ一方的に頭ごなしに言われるのは嫌だ。だから自分も一方的に言ってはいけないのだ。彼女はそれを急に学んだ。
「わかった……」
両親も娘の表情の変化に何かを感じたようだった。
「じゃ、ちょっと友達に話があるから部屋に戻るね。たまに帰ってきたんなら、夕食の支度は任せるから」
いつもは彼女が作っていた。同じテーブルを囲むことのない家族の分もまとめてだ。感想一つない作業を黙々と続けてきた。彼女は独りでいるのに慣らされていた。
「そ、そうね。できたら呼ぶから」
「うん」
母親に応え、少女はサイドテールを揺らして部屋に入った。
ベッドに倒れるとスマートフォンを出す。友人へのコールは勇気が必要だった。けれど彼女は一息だけ吐き、画面に触れた。光はなぜか伝えられる喜びを感じていた。かつて、こうして本音で話すことのできる誰かがいたような、そんな気がした。
12月30日、ギザギ国も日本国も新年を目前にしていた。
「それで、どうするかは決めたの?」
ハルカは時空間通信魔具を通して日本にいる日比野小吉に訊ねた。
「マルマに行くよ。やりたいこともあるし、できることもありそうだから。明確な目標も覚悟もないけど、オレはそこで生きたいと思う」
小吉は子供のままだと自覚しつつも、マルマ世界へ行きたいという衝動は抑えられなかった。
「大歓迎だよ! アリアドさん、呼ぼうか?」
ハルカは今にも飛び出していきそうな勢いだった。彼女はアリアドとともにサイセイ砦に残り、『緋翼』消滅後の経過を見張っていた。
「待てまて。こうなったら年明けまではこっちにいるよ。それに両親に話して納得してもらわないとな」
「そっか。それじゃ待ってるよ。どうせわたしも面倒な仕事があるし」
「仕事?」
「アリアドさんに召喚された人たちが帰っちゃったでしょ? その穴埋めに雑用がいろいろ溜まってるんだよ。特にナンタンなんて大変。今までの作業員が突然いなくなっちゃったんだから」
「ああ、そうか。パーザさんたちも困ってるだろうな」
「うん。十天騎士が雪かきとか煙突掃除やってんだよ? ミコさんなんてアカリとアキトシのいたパン屋で働いてるの。交代勤務だからわたしもこれからナンタン行きよ」
小間使いにされるのが目に見えて、ハルカは頭を抱えた。
「そんなのもう慣れてるだろ」
小吉が笑うのでハルカは膨れ、それからいっしょになって笑った。
「そうそう、明日、イベントに行ってくる」
「なんの?」
「同人誌即売会。日本最大のイベントだし、もしかしたらみんなに会えるかもって期待してる」
小吉は机に並べた乳白色の指輪を掴んだ。同じ物が7つあり、一つは自分の物だ。夏山で行方不明となったショウが、シーナたちと再会したときに斃した巨大猪の牙から造った記念品である。所有者はショウ、ルカ、シーナ、アカリ、マル、アキトシ、リーバ、それにアイリの分である。ハルカは自分の指にはめており、残り7つを小吉が預かっていた。強制送還で消えたメンバーの荷物からハルカが回収して渡したのだ。
「アカリとシーナはゲームが好きだったもんね」
「アキトシもマルも二人ほどじゃないけど話せたな。リーバさんはあんまりだったけど」
「でも、いたとしてもわからないでしょ? マルマ世界にいたときと同じ容姿とは限らないし。それに、見つけたとしても記憶もないから怪しまるだけだと思うよ」
ハルカの言い分はもっともだった。小吉にもわかっている。
「それでももしかしたらって考えてる」
「……そうだね。奇跡が起きたりするかもしれないよね」
ハルカの慰めに、小吉は笑みを浮かべた。
「会えなければそれはそれでいい。それぞれの生活があるんだから。オレも普通にイベントを楽しんでくるよ」
「うん」
J2Mの環が狭まってきた。あまり時空間をつないでおくとよくないと、アリアドが使用時間に制限をつけたのである。
二人はあいさつを交わして別れた。
年末に関わらず、東京の湾岸地区の一角は大量の人で溢れていた。
小吉は人の波に揉まれながら主目的である『ファイア・オニキス』というゲームの同人誌を数冊仕入れ、あとはブラブラと歩いた。胸ポケットにしまった指輪の持ち主を探すためだ。
それも徒労に終わり、14時になって休憩を取ろうと外会場に出た。冷たい風が吹くなか、コスプレイヤーたちが自慢の衣装で練り歩き、写真撮影者に笑顔を向けていた。素材も面積も薄いコスプレイヤーもおり、寒くないのかなと小吉は冷え切ったお茶を飲んだ。
色とりどり、形さまざまな衣装が目に飛び込んでくる。そのすべてのキャラクターを小吉は知らない。それだけに、知っているキャラクターを見つけると嬉しくなる。
彼の視線の先には『インフィニティ・ハーツ』というゲームのキャラクターがいた。彼は未プレイだが、アカリやシーナ、アイリも好きだったタイトルだ。しかもピンポイントで『アイリ』というピンク髪の神官のコスプレイヤーだった。背中しか見えないが、特徴ある髪とシルエットは覚えている。
「そういや、夢で見たアイリもあんなカンジだったな」
土砂崩れに巻き込まれ、瀕死の中で見た夢に彼女が出てきた。ほんの数日マルマでいっしょに過ごした少女。川見幸という名で、ゲームの『アイリ』に憧れていた。夢の中で彼女は、東京のイベントにコスプレをして参加していた。そして、小吉に帰る途を教えてくれたのだった。瀕死の中でみた、願望の夢である。
小吉はポケットからビニールの小袋を出した。ラベルには『アイリ』と書かれている。中身は例の指輪で、マルが日本に帰った彼女の分も作っていた。「数日しかいなかったけどよ、仲間は仲間だからな」と笑って。
「あいつもなかなかいいところあるよな」
つぶやいて、笑む。その仲間ももういない。
「あ……」
小さな驚きが小吉の耳に入った。顔を上げると、彼もまた「あ」と漏らしていた。さっきまで写真を撮られていた『アイリ』だった。
「アイリ……?」
「ショウさん……?」
二人は呆然とした。小吉からすれば、あのときのアイリは夢であり、アイリからすれば小吉はマルマに帰ったはずだった。
「「なんで?」」
同時に同じ質問を投げかける。二人とも答えに迷い、可笑しくなった。
「アイリ、本当にアイリ?」
「はいっ。川見幸です。ショウさんは、今回は体があるみたいですね」
「ああ、元の体だよ。なんかいろいろわかんないけど、あれは夢じゃなかったんだな」
「夏に会ったときですか? はい、あれも本当ですよ」
「そっか。それならまたお礼を言わないと。おかげでみんなのところに帰れたよ。ありがとう」
「よかったです。お役に立てて嬉しいです」
アイリはうっすらと涙を浮かべて微笑んだ。
「奇跡だな。本当に会えるなんて……!」
小吉は感激に拳を握った。と、右手に違和感を覚えて手を開く。先ほどまで見ていたアイリの指輪があった。
「そうだ、これ」
「なんです?」と幸は受け取った指輪をマジマジと眺めた。
「アカリやマルといっしょに退治した巨大イノシシの牙。記念にマルが指輪を作ったんだ。それはアイリの分」
「わたしはいなかったのに……?」
「いいんだよ。アキトシもリーバさんもその場にいなかったけど、仲間だから持ってる。アイリだって仲間だよ」
「……!」アイリは感激に声が出なかった。涙がこぼれた。
「嬉しいです……。こんなに嬉しい日はないです……。今日はもう絶対忘れられない日になりました……」
「過去形で言うのは早いだろ。まだ終わってない」
「これ以上があるわけないじゃないですか」
アイリは目元を拭って微笑んだ。
「……あ、忘れてました。今日はどうしてここにいるんですか?」
「いろいろあったんだけど、まず言っておかないとね。マルマにいたみんなは、この世界に戻ってるんだ」
「ええ!?」
「『緋翼』っていう、ゲームのラスボスみたいなドラゴンが襲ってきてね、被害を最小限にするためにアリアドが全員を強制送還したんだよ。あ、『緋翼』は斃したから向こうも安全にはなったよ」
「そうなんですか……。それじゃ、みなさんも無事なんですね?」
「身体的にはね。でも、強制送還だからか、みんな召喚時の時間に戻されたらしくて、マルマでのことは一切覚えてないらしい」
「そうですか……。それは、残念です……」
幸も寂しくなり、下を向いた。が、一つ気付く。
「……えと、それならなんで、ショウさんは覚えているんですか?」
「これもまたややこしいんだけど――」
ショウはいきさつを話した。ルカという新しい仲間のこと、彼女を追ってきたこと、そのあとで『緋翼』が現れたことなどを。
「あの空飛ぶ魔女が、そのルカさん……じゃなくてハルカさん?なんですね。動画で観ました。おそらくマルマの人だろうとは思ってましたが」
「そんなわけでオレは先にこっちにいたから強制送還されなかったんだ。今日はアカリたちに会えるかなって思って来たんだけど、さすがに無理だったな。会えてもむこうは覚えてもいないだろうし……」
「そんなことありません!」
幸は拳を握って声を上げた。
「大切な思い出なら絶対に覚えています! 魔法なんかに負けません! だって魔法は人の望みを叶えるもので、壊すものじゃないからです!」
力説され、小吉は呆気にとられた。目の前に、どんな困難にも立ち向かった神官『アイリ』がいた。弱くてお荷物だった彼女は、自分を知り、変わろうと努力をしたキャラクターだった。最後には魔王を斃すまでに成長するのだと、川見幸が残した手紙に書かれていた。憧れだったと、彼女のようになりたいと、幸は願ってマルマに来たのである。そして小さな冒険を経て、幸は変わった。
「……そうだな。まだイベントは終わってない。最後までがんばってみるよ」
「はい!」
幸は力強く返事をした。
電話番号など連絡先を交換し、小吉は再度、魔境となっている会場へと足を踏み入れた。幸はコスプレ会場を中心にそれらしい人を探す。二人の指には牙の指輪があり、目にすれば気付いてもらえるかもしれないと淡い希望を抱いていた。
高い高い空の上を、それはさまよっていた。行き場を失くし、力も失くし、漂うしかできなかった。世界の声は聞こえない。黒く濁った空気が充満するセカイは、それを不愉快にした。
敵はどこにでもいる。手が伸ばせないもどかしさが口惜しい。力があれば摂理に従い動けたであろう。自分の世界と結びつく何かが必要だった。
それを感じたのは運命であったのか必然であったのか、問う能力はない。ただ、それがあったというのが大切であった。それが求める、いま望みうる最高の素材であった。
それはそれに近づいた。
ナンタンの宿屋で眠っていたハルカは、サイセイからの呼び出しで起こされた。深夜2時であり、もっとも深く眠りに落ちていたところであったため、ハルカの機嫌はすこぶる悪かった。
しかしそれも緊急事態を聴くまでだ。彼女は服を掴むとすぐにサイセイへと【瞬間移動】した。
「『緋翼』の残滓ってなに!?」
サイセイ砦の会議室へ着地と同時に質問する。すでにアリアドと残りの十天騎士は揃っていた。半数はハルカ同様、寝間着のままである。
「そう表現してよいのかもわかりません」
レナは窓の外を指さした。月明かりに照らされ、赤い霧が漂っている。
「たしかに『緋翼』の魔力粒子みたい。散りぢりになったのが、また集まって来てるの?」
「そのようだな。だが、核がないせいか、ああやって漂っているだけだ」
カインは憮然とした表情をしていた。組んだ腕と胸の間には、慌てて持ってきてしまったのであろう枕が挟まれている。
「今のところ被害はないけど、用心に越したことはないわ。消滅させてきて」
アリアドの指示に、11人の十天騎士は装備を整えて出撃する。
魔力粒子は抵抗もせず、消されるままであった。30分もするとすべて片付いた。
「これは何かの暗示でしょうか?」
戻ったレナが問題提起した。
「かもしれないわね。……ハルカ」
アリアドに呼ばれ、ハルカは了解した。核を送り込んだ日本の様子を探れというのだろう。彼女も心配になり、ショウのところにJ2Mをつなげた。
「ショウ、聞こえる?」
小吉の横顔が映った。周囲は騒がしく、多くの人が行きかっている。そういえばイベントに参加するという話を思い出した。慌ててJ2Mの大きさを調整し、音声だけ届くように耳元に近づけた。
「……聞こえる」
小吉は緊張感に満ちた表情をしたまま、小さな声で応えた。
「こっちで変なことが起きたの。『緋翼』の残りカスが集まって――」
「わかってる。原因もわかってる」
「え?」
「オレの視線の先が見えるか?」
ハルカはJ2Mを操作し、小吉の見ているモノを見た。
「……!」
その映像に、ハルカのみならずアリアドたちも驚いた。
イベント会場の窓の向こうに、赤い影が浮かんでいた。竜の姿に見えなくもない。
「『緋翼』は生きていたんだ」
「でも、なんで!?」
「知るかよ! もとがデカかった分、消滅するには時間がかかってるんじゃないのか?」
吐き捨てる小吉の前で魔力粒子の塊が急速に動き出した。その方向にショウは戦慄する。
「屋上だ! あそこにはアイリがいる!」
「え、アイリって、ショウやアカリが話してくれた――」
ハルカが質問を終える前に、小吉は走っていた。ハルカもJ2Mで追う。
「アイリとは、知り合いか?」
焦るハルカにカインが冷静に訊ねた。
「直接は知らない。ショウの昔の仲間で、日本に帰った人。強制送還じゃないからこっちの記憶も持ってるはず」
「ええ」ハルカの語をアリアドが引き継いだ。
「ここへ来て三日目に帰ったわ。やり残しがあると日本へ戻ったのはハルカと同じね。あの子のほうは未来を視てだけど」
「どうせわたしは歪んでますよ」
ハルカは僻んでみせた。そうやって甘えられるようになったのを、アリアドは良いと思う。アリアドはクスっと笑ったのち、顔を引き締めた。
「『緋翼』がどう動くにせよ、むこうの世界の人間では対処できないでしょう。不利だけど、むこうへ行かないとならないわね」
「この疑似体でも難しいのだったな」
カインの確認にアリアドはうなずいた。
「魔力の補給方法が食事による栄養摂取しかないからね。でも、戦闘目的ならその疑似体で行くしかないわ」
「放置しておけばあいつは勝手に自滅するんじゃなかったのか? それがむこうに送るコンセプトだったろ」
アキラが納得できずに訊いた。
「ショウが言ってたでしょ。大きすぎて消滅に時間がかかってるんじゃないかって。その前に何かしようとしてるのかも」
ハルカが操作するJ2Mは小吉の背中を追いかけて外へ出た。
叫び声が聞こえ、逃げまどう人々の波が押し寄せてくる。
小吉は壁際に避けつつ、幸を探した。
「アイリ!」
小吉の呼びかけは彼女に届かなった。赤い霧が幸を襲い、包んでいた。
「憑りついた!?」
ハルカの言葉どおり、幸は『緋翼』に乗っ取られ、体が動かせなくなっていた。声も出せず、ただ見ているしかできない。
小吉は走った。何ができるわけでもないが、彼女を助けたいと思った。J2M越しにハルカが呼びかけてくるが、かまっていられなかった。
幸が腕を振るう。それだけで近くにいる人間を吹き飛ばした。小吉も例外ではなく、コンクリートの床を転がった。
『緋翼』は幸の体を確かめるように指や足を動かしてみる。力は弱いが利用価値があると判断した。特にエネルギー補給には役立つだろう。
見下ろす場所から食物の匂いがする。『緋翼』は必要としたことのない物だが、この体を利用するには必須の物だった。一足飛びでコンビニエンス・ストアの前に着地し、ガラスを砕いて侵入する。
店員も客も、赤い眼を光らせる少女に恐れを感じて逃げ出した。
『緋翼』は手あたりしだいに食物をあさり、幸に吸収させて魔力へと変換した。食べれば食べるだけ、赤い霧は濃くなっていく。
「ショウ、大丈夫!?」
「……なんとか。アイリは?」
「下のコンビニに飛びこんだきり出てこないよ」
「もしかして食べて魔力回復する気か?」
小吉は立ち上がり、階段を駆け下りた。
「そうだと思う。でも、なんでよりによってアイリに……」
「わかんないけど、一度はマルマに行ったことがあるからとか? 他の人間よりも自分の世界に近いと感じたんじゃないか」
「それはありそう」
「今はそんなのどうでもいい。アイリを助けないと」
小吉がコンビニに駆け込むと、赤い靄が触手を伸ばして食料を集めていた。すでに幸の姿は魔力粒子に包まれて見えない。それが食料を取り込むたびに、体が少しずつ大きくなっていった。
「『緋翼』!」
小吉が呼びかけると、それは反応を示し、赤い眼を少年に向けた。
「それは私のことか、イセカイジン」
『緋翼』は言葉を発した。川見幸の声よりも低いが、声質は同じだった。
「日本語!?」
「この生体の記憶より言葉を学んだ。この世界についての知識も得た」
「目的はなんだ? 元の世界へ帰ることか?」
「『意志』に従い人間を滅ぼす」
「この世界じゃないだろっ」
「肯定。しかし、脅威はむしろこの世界だ。私を二度も無力化した。ゆえに私は学び、進化した。こうしてイセカイジンと話すのも学習するためだ。しばらく付き合ってもらう」
「そういうことか……!」
小吉は奥歯をかんだ。
『緋翼』は圧倒的な存在であった。世界の意志に従い、対象物だけを滅してきた。だがその『緋翼』を超える力を持つ者が現れた。『緋翼』はさらに力をつける必要があった。それまでは力のままに行動すればよかったが、今回はそれだけでは足りなくなったのだ。それが知識であった。知識を得るもっとも効率の良い方法が、知識を持つ者と接触することだった。
「オレたちはもうあの世界に手は出さない。それならいいだろ!?」
「否定。力あるゆえに滅ぼす」
「それじゃどうすれば納得する?」
「私に決定意志はない。役目を果たすのみ」
「じゃ、誰がそれを決めているんだ!?」
「世界。イセカイジンの言葉でいうのならば『惑星』」
「惑星……?」
「大地に、海に、空に、炎に、光に、闇に住まうすべてが恐れを抱いたとき、私は生まれる。惑星のバランスが崩れるとき、正すように命令されるのだ」
「それが人間だった?」
「肯定。人間による世界の侵食率は加速度的に増加し、他種を圧倒しはじめていた。ゆえに私が生まれた」
「おまえが生まれるプロセスをとめることはできないのか?」
『緋翼』はシステムであって、善悪の判別をしているわけではない。小吉はそれに気付き、コンピューターと会話するようなイメージで問いかけた。
『緋翼』は素直に答えた。「不明」と。
小吉は平和的解決をあきらめた。だが、『緋翼』に取り込まれた幸がいる以上、手が出せない。
「そこまで戻ったならその子はいらないだろ。解放しろ」
「否定。この個体は極めて有益だ」
「その子はただの日本人だぞ!? マルマ世界とは関係がない!」
「効率を最優先とする」
「な……!」
もともと感情論が通じる相手ではない。道理を説いても無駄だとわかっていたはずだった。それでも訴えてしまうのは、小吉が人間であり、甘いからである。
小吉は何としてもアイリを取り戻すため、『緋翼』との対峙を決めた。勝てる見込みも策もないが、それができるのは自分しかいなかった。
「攻撃意志感知。最優先排除対象として認識」
『緋翼』の周囲に、どこからともなく漂ってきた赤い魔力粒子が集まり、形を成す。意外なことに、『緋翼』は竜の形にはならなかった。
「イノシシ……?」
それはかつてショウたちが斃した真紅背毛大猪だった。体長は3メートルほどだ。今後、核が力を取り戻せばさらに大きくなるだろうことは予測できた。
ハッとしたときはすでに遅かった。小吉は猪の放つ圧力に跳ね飛ばされた。ガラスを割り、店の外へ放り出される。
『緋翼』もゆっくりと空の下に姿をさらす。
周囲の人間がクモの子を散らすように喚きながら逃げていく。安全圏を確保した気になった者が、スマートフォンを向けて撮影をはじめた。
「ショウ、大丈夫!?」
倒れた少年の目の前にJ2Mが浮かぶ。ハルカの心配げな顔があった。
「くそ、どうすればいい……。オレが安易にあいつをこの世界に引き入れたから、アイリは……!」
会場にサイレンが鳴り響いた。連絡を受け、非常警報を発令したようだ。
「アリア、どーするこれ?」
バルサミコスが魔女に策を求める。
「あの大きさなら封じ込めることも可能よ。でも、問題が二つ」
「あの体がアイリという子の物だってことと、向こうの世界では魔法がどれだけ使えるかわからないってことか」
カインが答えるとアリアドはうなずいた。
「でもまずは閉じ込めて、それから考えるべきね。このままでは分離したはずの魔力まで結集してどんどん大きくなってしまうわ。その方法を『緋翼』はすでに学んでいる」
「それならわたしが行く」
「ハルカ!?」
「一度はこの体でも行ってるし、J2Mがあれば多少は魔力供給を受けられる。それに、ショウは……アイリだってわたしの仲間だから!」
ハルカの叫びに反対する者はなかった。
「どのみち全員は行けない。こちらで魔力供給を補助する者がいなければならん。おまえに任せる」
カインに肩を叩かれ、ハルカは「はい!」と返事をした。彼女は即、『召喚門』を開きはじめた。時空間通信を可能にした彼女には簡単な術式である。
「ハルカが着くまで持ちこたえてくれればいいがな」
カインが改めてJ2Mを覗き込む。少年は後悔に打ちひしがれていた。
「コラ、ショウちゃん! 落ち込んでたって彼女は助からないんだぞ! その場にいるキミが何とかしなきゃいけないんだからね!」
バルサミコスがカインを押しのけて怒鳴った。
小吉はそれで自分の成すべきことを思い出した。
「そうだ。オレがなんとかするんだ」
小吉は周囲を探り、ばら撒かれていたビニール傘を握った。ないよりはマシな武器だった。
「その子から離れろ!」
少年にできるのは、ただ武器を掲げ前進するだけだった。
そんな無謀な人間に対し、『緋翼』は邪魔者を排除する作業を行う。
背中の赤い毛の部分が触手のように伸び、小吉に向かう。
一本をビニール傘で弾いたものの、傘は簡単にひしゃげて使い物にならなくなった。
次が迫る!
その小吉の目前で光が溢れた。
「とったぁ!」
『緋翼』の真下に魔術陣が広がる。
「ルカ!?」
「つっかまえたー!」
魔術陣が円柱を描き、赤猪を閉じ込めた。
「ふぅ、魔力がもってよかった……」
ハルカは魔術陣の前でフニャフニャと座り込んだ。ただでさえ『門』を開いて魔力の消耗が激しい。
「こっちに来たのか」
「誰かがこいつを捕まえなきゃいけなかったからね」
「助かった」
小吉は深く安堵した。
周囲のギャラリーが、一連の攻防を見て唖然としていた。
「魔法だ……」
「本物の魔法だぞ!」
「それじゃあの赤い猪って本当のバケモノ!?」
ようやく気付いたギャラリーが一斉に距離をとった。
「そうだよ! 早く逃げて! あいつは簡単に人を殺すよ!」
彼らの声に気付いてハルカは呼びかけた。彼女を見て、高速道路に現れた魔女だと騒ぐ者もいたがかまってはいられない。目の前にはコンビニから投げ出されたであろうコッペパンやお菓子が転がっている。ハルカは「ごめんなさい」とあやまって貪るように食べはじめた。魔力回復は常に必要だった。
「とりあえず『緋翼』は捕まえた。回復したらアイリと分離する方法を調べるね」
「頼む」
ショウが笑顔を浮かべたので、ハルカも嬉しくなった。
しかし、それもつかの間である。
『緋翼』はあっさりと呪縛陣を破壊した。
「ウソ!? あれ本気なやつなんだけど……」
「この世界での魔力消耗は著しく、いかな魔術も劣化が激しい」
『緋翼』はハルカに応えたのではなく、学んだ事柄を復唱しているようだった。
小吉はこの状況を打破するため、猪に訴えた。
「『緋翼』、このままじゃおまえだって消耗するだけだろ? マルマに戻れ。それから決着をつけてやる」
小吉には算段があった。この世界では『緋翼』の力はかなり制限されるだろうが、小吉たちも手が出ない。しかし、この状態でマルマに戻れば万全の十天騎士とアリアドがいる。『緋翼』が回復する前に何とかできるのではないか、そう考えていた。
その思考を読むかのように、もしくは初志を貫徹するために、『緋翼』は拒否する。
「私の目的はイセカイジンの排除だ。それを成すまでこの地に留まる」
「ここでどうにかしないとダメか……」
拳を握る小吉の背後で、ハルカがささやいた。
「今、マルマにいるみんなに魔力を送ってもらってる。回復したらわたしが片を付けるから、時間を稼いで」
ハルカは時空間通信魔具を通して、魔力回復薬やら【魔力回復】魔法を受けていた。消耗と合わせて回復は遅いが、いずれは最大まで戻るはずだった。
しかしそれを上回る速度で『緋翼』は肥大化していった。その大きさはすでに体高だけで5メートルを超えていた。
「……時間稼ぎは難しそうだ」
「だね……」
ハルカも顔が引きつる。加速度的に大きくなる『緋翼』に待ったはかけられない。
「魔力を回復しながら攻撃できるか? 多少のダメージなら中のアイリには届かないはず。ますは消耗させるのを優先しよう」
「……やってみる」
ハルカが自信のない返事をしたのは、彼女自身の魔力量によるものだ。すでに体格で負けている以上、魔力勝負では勝てない。
それでも彼女は【魔力弾】を撃った。体毛のように揺らめく『緋翼』の赤い魔力粒子が盾がわりとなって弾けるが、焼け石に水のようなものだ。もっと強く、多くの攻撃で魔力障壁を破壊しなければ消耗にはつながらない。
「イセカイジンは排除する」
明確な意思を持って『緋翼』は触手を伸ばした。ハルカは飛翔して避け、小吉は物陰に隠れた。
「勝負になりゃしない! なんか弱点とかないか!?」
「わかんないよ! でもイノシシだからか飛べないのが幸いだよ! 空までは追ってこれない!」
ハルカの言葉に小吉は違和感を覚えた。たしかにそうだ。なぜ『緋翼』は竜ではないのだろう。変化したときに浮かんだ疑問が今さらによみがえる。
「……もしかして、勘違いしてたのか?」
小吉はハッとした。なぜそれに気付かなかったのだろう。そもそもがおかしかったのだ。
「ショウ、何かわかったの!?」
触手攻撃を巧みに避けながらハルカが叫んだ。彼女が囮になることで、小吉への攻撃はほとんどなかった。
「『緋翼』がなぜあの姿なのか、わかった気がする! あいつが本当に憑りついたのはアイリじゃない! アイリが持っていた真紅背毛大猪の指輪なんだ! アイリはそれに巻き込まれた!」
「なんで、どうして!?」
「ヤツが言ってたマルマ世界にもっとも近い存在ってのは、ボアの牙で作った指輪だったんだ。アイリはそれを身につけていたから巻き込まれた。けど、核だけでは失った魔力は戻らない。回復するためにはおまえみたいに何かを食べて栄養を魔力に変換させるしかない。その器官としてアイリは都合がよかったんだ。それにイセカイジンのことを識るにも有益だったんだろう」
「だとしたら、アイリちゃん危なくない!?」
「ああ。アイリは魔力製造器官として完全に取り込まれちまう。そうなる前に助けないと!」
「でも、どうやって!」
触手がさらに2本増え、ハルカを襲った。魔力回復薬をガブ飲みしながら回避と切断に励む。
業を煮やしたのか、『緋翼』は攻撃を強め、小吉の隠れた建物を激しく襲った。『緋翼』自身も不明瞭であったが、小吉に対する殺意が明確に芽生えていた。
小吉は崩れてくる天井を避けるため、陰から出ざるを得なかった。そこへ新たな触手が襲う!
間一髪、回避したものの、小吉は派手に転倒した。すぐさま起き上がり、となりの建物までダッシュする。そのとき、胸ポケットからそれが落ちたのに彼は気付かなかった。
『緋翼』の攻撃がとまった。それをジッと見ている。
真紅背毛大猪の牙で作られた指輪だった。小吉は転倒の際に持ってきた残りすべてをばら撒いていた。
ビニールに入ったままのそれには、それぞれの持ち主の名前があった。マル、シーナ、アカリ、リーバ、アキトシ。彼にとって大切な仲間の名前だった。
『緋翼』は触手でそれを拾い、体内に吸収した。マルマ世界の産物である。『緋翼』にとって『核』を強化するにふさわしい存在だった。
しかし、それ以上に指輪を大切に想う者がいた。『緋翼』の内にも、外にも。
「こうなってはわたしたちも行くしかない。ハルカだけで対処できるレベルを超えている」
カインは痺れを切らして立ち上がった。
「でも、あなたたちが行っても彼女と同様、まともに動けないわよ?」
アリアドは冷静に応えた。
「しかし――!」
「もうね、奇跡にすがるしかないのよ。わたしたちに『緋翼』は斃せない。わたしはそれを知ったわ。だからあなたたちにはもう、無理はさせない」
「おまえがあきらめるのは勝手だ! だがそれではわたしたちの世界が壊されてしまう!」
カインの必死の訴えに、アリアドは微笑む。
「わたしはあきらめたわけじゃないわ。奇跡という必然をまだ信じているの。積み重ねてきたものが最後は一つに帰結する。わたしはその必然のために用意をしてきた。あとは、彼らしだいよ」
「なにを言っている!? わたしは一人でも行くぞ!」
カインはアリアドに背を向けた。
「オレも行くぜ。他力本願てのはキライなんだよ。まして奇跡なんぞクソ喰らえだ」
ロックが立ち上がった。「オレも」「わたしも」と残りの騎士たちが続く。
「おまえたち……」
「十天騎士は10人そろってこそだよ? 11人になっちゃったけど」
バルサミコスがウィンクする。
「いいえ、あなたたちの出番はないわ」
アリアドは10人の誇り高き騎士に好意のまなざしを向けた。
「ちょっと出てくるわね。呼ばれちゃったから」
「なっ!? どこへだ!」
「召喚庁。レナ、ミコ、ありがとう。例のアレ、使わせてもらうわ。じゃ、悪いけど留守番よろしくー」
アリアドはそう言って姿を消した。
「……どうする、カイン?」
置いてけぼりをくらい、アキラは覇気を失ってリーダーに訊ねた。
それはカインも同じであった。アリアドの言葉を信じるのなら、自分たちは必要ないということだろう。
「……いいだろう。見せてもらおうじゃないか、必然の帰結とやらを」
カインは乱暴に椅子に座り、J2Mを覗き込んだ。その顔は不機嫌というよりも拗ねているように見える。
「大丈夫だよ。きっとぜんぶうまくいく」
バルサミコスが楽天的に言った。
「なにを根拠にっ?」
カインに睨まれてバルサミコスはたじろいだが、「見てのお楽しみ」と放浪の勇者はレナと二人で微笑んだ。
「まったく、どいつもこいつも不明瞭な話をしてばかりだ! わたしも仲間にいれろ!」
カインの本音の叫びに、一同は呆気にとられた後、ドッと笑った。
『緋翼』との攻防は、すでにネットで広まっていた。現場となる同人誌即売会会場では、安全対策が速やかに行われていた。巨大猪が暴れる野外ではスタッフによる避難誘導が、会場内は混乱を防ぐために一時封鎖がなされている。参加者たちはスタッフの指示に従いながら、スマホで映像を観て脅え、楽しみ、不安と興奮に包まれていた。
黒髪の魔法少女と少年が戦っている。正確には逃げまどっているだけだが、二人が得体の知れないバケモノ猪と本気で対峙しているのは誰の目にも明らかだった。
それをそれぞれの場所で一人の少女は応援し、もう一人の少女はイラついて観ていた。さらにもう一人は、アトラクションだと思って時間つぶしにライブ動画を眺めていた。
その三人が同時に「あ」と声を漏らしたのは、少年が落とした白い指輪を見たときだった。
「……約束、思い出した。ずっと、ずっといっしょにいるって、思い出した……」
「あたしバカじゃない? なんで今まで忘れてたのよ。脳ミソ腐ってんじゃないの」
「おいおい、あれは夢だったんじゃないのか?」
三人はそれぞれに人影のない場所に隠れ、そして彼女を呼んだ。
「アリアド!」
小吉は圧倒的不利を感じた。対策はあった。『緋翼』を消耗させ、核となる指輪を破壊すること。それで片が付くはずなのだが、攻撃手段がなかった。もちろんここに剣や盾があったところで役にも立たないだろう。結局はハルカに頼るしかない自分が情けなかった。
そのハルカも攻撃に戸惑いがある。どの程度までやればアイリを傷つけずに済むかがわからないため、迂闊に大きな攻撃はできない。それに隙もなかった。まさか小吉に盾になってくれとは頼めない。
「けど、このままじゃジリ貧だ。……ミコさん、聞こえますか!?」
「なに、ショウちゃん!」
バルサミコスがカインを押しのけてJ2Mの前に立った。
「すみません、剣と盾を貸してください! ルカに少しでも余裕を作ってやらないと!」
「ショウちゃん生身だよ!?」
「だからミコさんのを借りたいんですよ。頑丈でしょ?」
「わかった。でもこれじゃ穴が小さくて通せないんだけど」
「魔法で変形とか縮小とかできないんですか?」
「あ、それいいアイデア……て、わたしできないよ!」
バルサミコスのツッコミに、レナが「わたしがやります」と彼女の剣と盾を受け取って【物質変形】をさせた。
「効果時間は5分ですが、そちらでは早く切れるはずです」
「ありがとうございます!」
小吉は光環を通して送られてきた二つの石ころを受け取る。10秒もせず剣と盾に戻った。
右手に剣を、左手に盾を付けて建物の影から出る。「ルカ!」と呼びかけてアイコンタクトをとる。
『緋翼』は姿を見せたイセカイジンに殺意を向けた。『緋翼』の意思というよりも、『核』の切望であった。あのイセカイジンに殺されたのを、『核』は記憶していた。『緋翼』はその感情を受け、また一つ学んだ。殺意は強い力となり、力は感情に左右されると。
その強い力をもって、『緋翼』の触手が少年を打った。
ふんばり、盾で受けた小吉は、想像以上の力で吹き飛ばされた。
二度地面をバウンドし、転がる。意識まで持っていかれそうになったが、どうにか堪えた。
「……シャレになんねぇ」
小吉は一撃で半死半生であった。立ち上がろうとするが、体が動かない。
次が来たらヤバイと思ったときには、触手が迫っていた。
必死に逃げようとして、体の痛みに邪魔をされた。
ハルカは触手めがけて魔法を放った。が、間に合いそうになかった。
覚悟を決めた瞬間、眼前の触手が光に貫かれて消失した。
「なんでいつも無茶するかなぁ」
声が聴こえた。振り返ると、知らない少女がいた。肉付きが少しだけよい癖っ毛の女の子だった。呆れた表情をしていたが、可愛いと思った。
「まったくよ。脳ミソ腐りすぎ。無茶するときは呼べっての」
そう文句をいう背の高い少女は銀の弓を構え、『緋翼』に一撃を見舞う。銀の矢は目標地点で小さな爆発を起こした。『緋翼』の赤い魔力障壁が弾けた。
「その言いぐさ、弓の射ち方……アカリ?」
「そうよ。グダグダやってるから仕方なく助けにきてあげたわ」
サイドテールを跳ね上げて、少女は呆れた顔をする。「言っとくけど、思い出せなかったわけじゃないからっ」と照れたように付け加えて。
「それじゃこっちはシーナ?」
「だよ。時間なかったから素のままでごめんね。ガッカリした……よね?」
シーナは自分の姿を見られて赤面した。
「ぜんぜん。話と違うじゃないか。いや、がんばったのか? すごいな、シーナは」
シーナの顔がパァっと晴れやかになった。
「ショウとの約束があったからがんばれたんだよ!」
「アカリは……もしかしてオレより背が高くないか?」
「言うなっ。気にしてんだから!」
「ゴメン」
「大きいアカリもカワイイけどなー……て、今はそんな場合じゃないっ。【治癒】」
小吉が緑の光に包まれる。痛みと傷が急激に消えていった。
「なんで魔法を?」
さきの触手を打ち落としたのも魔法だった。使ったのはハルカかと思ったが、あれはシーナが冒険に備えて覚えた【光弾】だった。
「これ、疑似体だからね」
「疑似体? なんで?」
「アリアドに頼んだらこれをくれたのよ。こっちでも普通に動ける最新式の疑似体らしいわ」
「ついでに弓ももらってきた」とアカリが付け足すと、「わたしには何もくんなかったよ!?」とシーナが不満を訴えた。
「いろいろ納得いかないけど、あとは任せて。ルカも少し休んでいいよ!」
シーナが手を振ると、ハルカは「助かる~」といったん離脱しコンビニに飛び込んだ。
「ショウ、剣と盾、借りるね」
小吉が渡すと、シーナは盾をかまえて前へ進み出る。
「二人で大丈夫なのか?」
「あんたがいても役に立たないでしょうが。あんたは対策を考えなさい。それまでは時間を稼いであげるから」
アカリも連射の準備をしながらサイドに回っていった。
「っても、どうやって斃せば――」
「とどめはまたオレがやってやるよ」
背後から男の声がした。もしかしてマルかと思って喜び勇んで振り返ると、予想外の人物がいた。ロングコートを着た、長身の中年男性だった。オールバックにサングラス、短めに刈り込んだカストロひげ。どうみてもカタギには見えない風貌だった。
「よぉ、いつもながら最高のタイミングで登場だ」
「……誰です?」
「あ? オレしかいねぇだろ。ま、この姿じゃわからねぇか。マルだよ。本名は陣馬恒丸だ」
「……ウソだろ?」
「マルなんて名前をおまえに名乗るやつが他にいるか?」
「たしかに……ってか、おまえ中学生じゃなかったか!?」
「オレは一言も言ってねぇ。アカリが勝手に勘違いしただけだ。もっとも、あの頃のオレは今の自分を忘れてたがな。ガキのころに戻りてーって魔女に言ってな」
「おまえも記憶喪失だったのかよ!」
「ガキのころまで遡っただけだ。ほれ、無駄話は終わりだ。さっさと片付けようぜ」
「お、おう……」
そうは言われてもこの違和感はなかなか拭えない。まだ性別が逆と言われたほうがマシだった。
『緋翼』の攻撃を避けつつ、アカリが四連射する。アリアドから借りた魔法の弓は驚くほど彼女になじみ、狙ったとおりに矢が飛んでいった。
『緋翼』はその一撃を学習したのか素早く回避する。矢の着弾点で小爆発が起こるが、掠る程度ではダメージは大きくない。
その隙にシーナが距離を詰める。触手がまとめて襲ってくるが、盾で受け、剣で弾き、切り伏せていく。
『緋翼』は冷静に判断し、口を開けた。
「ヤバっ、魔法!?」
シーナは盾を強く構えた。
「かがみな、シーナ」
背後から渋い声が聞こえ、反射的にかがんだ。
その頭上を炎の槍が走る。
槍は『緋翼』の口内を貫いた。蓄えた魔力弾と衝突し、爆発を起こす。
「行きな、嬢ちゃん」
「誰が嬢ちゃんよ!」
『緋翼』の懐に跳びこみ、下から刀を振り上げる。『緋翼』は首への直撃は避けたが、鼻先を掠めて赤い粒子を散らせた。
シーナは踏み込み、手首を返す。斬撃が伸び、今度は上から襲う。猪の左半面を切り裂き、さらに多くの飛沫を撒いた。
「【光弾】」
すかさず左手を構え、魔力弾を至近で撃ち込む。猪の顔が完全につぶれた。
「シーナ、下がってぇ!」
上空からルカが降下する。口いっぱいにコッペパンをほおばりながら。
「は?」
何を言っているのかわからないが、勘でシーナはバックステップを踏む。そのタイミングでハルカが【爆炎球】を爆発させる。
『緋翼』の体が霧散する。
「ルカ、無茶すんな! 中にアイリがいるんだぞ!」
「大丈夫、手加減してる。周囲の魔力粒子を吹き飛ばしただけだよ」
「ちょっと、アイリがいるってどういうことよ!?」
アカリが小吉に突っかかる。
「そのままだよ! 『緋翼』に憑りつかれてるんだ!」
「先に言いなさいよ、バカ!」
「知ってると思ったんだよ!」
「知るわけないでしょ!」
アカリは弓を下ろした。
「やれやれ、参ったな」
マルが髪を撫でつける。
「ところでそのおっさん、誰よ!?」
「マルだよ! 年齢詐称してやがった!」
「「えーっ!!!」」
『緋翼』の中にアイリがいる以上に、ハルカたち三人はマルの正体に驚く。
「……いくらなんでもはしゃぎ過ぎじゃない……?」
シーナが深い嫌悪感をおもてに出す。
「その顔はやめろっ。娘と同じ目でオレを見るな!」
「娘までいんの? セクハラ親父じゃん……」
「いや、だから、むこうではな――」
「そんな話はあとだ。ルカを責めたが、あれくらいじゃアイリを返してくれないようだ」
小吉は修復していく『緋翼』を睨んだ。
「ちょっとリーダー、策は浮かんだの!?」
アカリは矢をつがえるが、撃つのは躊躇していた。
「まだ出ない! 削っていってあいつの魔力を消耗させていくしかないと思う」
「思うって、肝心なときに役立たずね!」
「オレだって必死に考えてるよ!」
「二人とも、いま戦闘中!」
シーナが怒鳴り、『緋翼』の正面で敵の動きを見る。
しかし、『緋翼』はそれ以上の動きを見せなかった。
「……動かない?」
シーナは気を緩めようとして、また得物を強く握った。油断大敵である。
「【火炎弾】」
マルが人差し指を『緋翼』に向け、魔法を放った。動かないのなら重畳、やれるうちにやる。
弾丸というより槍のように炎が走り、『緋翼』に着弾する。『緋翼』は避ける仕草すら見せなかった。赤い魔力粒子がマルの魔力とぶつかり、相殺され、消滅する。
「おいおい、どうしたってんだ?」
撃った本人が驚いていた。
「……『緋翼』の中で、何かが起こっているのかもしれない」
「中って、アイリちゃんが何かしてるってこと?」
小吉のつぶやきにシーナが問いかける。少年はうなずく。
「それ以外に考えられない。『緋翼』には感情も思考もなかった。それを急激に学んだのは、アイリが中にいたからだ。それがさらに進んだとしたら、『緋翼』がアイリを取り込むんじゃなくて、アイリが『緋翼』を理解し、取り込んでいく可能性もあるんじゃないか?」
「そんな都合のいい……て、毎度のことか。これだからおまえに付き合ってると飽きねーんだ」
マルが肩をすくめた。
「それじゃ、あたしたちはどうすればいいの? 黙って見てる?」
「黙らないで見ていよう。応援してやればきっと応えてくれる。とくにアカリは大好きだから、きっと喜ぶぞ」
「なっ!」アカリは真っ赤になった。
「……わかったわよ。しょうがないわねぇ」
アカリは進み出て『緋翼』に触れた。赤い魔力粒子は彼女の接触を拒まなかった。
「アイリ、さっさと出てきなさい。ここでならあんたの好きなコスプレ、いくらでもできるんだから。そうだ、今度、いっしょにやろうか。だから、がんばりなさい」
『緋翼』は何も反応を示さなかった。
川見幸は『緋翼』を通して外界を観ていた。小吉が必死になっている姿も、空飛ぶ魔法少女が戦う姿も、突然現れた少女剣士も、凛々しく弓を持つ女性も、よくわからないダンディーなおじさまも、みんな観ていた。
自分を助けようとしてくれている。なのに自分は何をしているのだろう。動けず、操られるまま暴れ、多くの人を傷つけている。
幸はこのままはイヤだと強く思った。思ったが、力にはならなかった。これが自分の冒険の終わりなのだと唐突に感じ、悲しく辛くなった。いじめられていたときよりも悔しかった。
冒険が、終わる……
幸はいずれまた、マルマ世界に行くつもりでいた。アリアドに訊ねた質問が本当であったとき、約束が果たされたとき、世界は自由となり、冒険がまたはじまる。それはすごく楽しみなことだった。少女の夢の一つとなっていた。彼女はマルマのごくごく一部しか知らない。カクカという大陸の、ギザギという国の、サウスという領内の、ナンタンという町の、中区という地域の、さらにごく一部しか知らない。それでもそこには希望があった。喜びがあって、楽しさにあふれて、勇気をもらった。仲間ができて、友達ができて、今でも大切に思っている。
その世界の人たちが、自分を助けようと頑張ってくれている。幸は涙も流せないまま泣いた。こんなに嬉しいことはなかった。あきらめたくなかった。
『緋翼』は異常を感知した。魔力を生成するだけの器官が激しく波打つのである。それが感情というものの影響であるのは学習していた。だが、知識として存在するだけでは理解とはいえない。
指輪の持つ憎悪の残留思念はまだ同調できた。これは破壊の衝動であり、イセカイジンを消滅させるプロセスにマッチしている。ゆえに受け入れる。が、この魔力生成器官が発する複雑な干渉波は、数千年の歴史を持つ『緋翼』の能力をもってしてもまるで理解ができなかった。
喜びとは? 楽しさとは? 勇気とは? 悲しみとは? 寂しさとは? 『夢』とは……? 次々と流れ出る感情の濁流は『緋翼』を混乱させた。イセカイジンを排除するために学習すると決定した『緋翼』は、最優先事項でこれらを習得しなければならなかった。
効率よく学習するために、元となる『器官』に問いを投げかける。感情とは何か? 幸は問われ、少し悩んだ。自分でもわからない。そのときに湧き上がる気持ち、としか言えない。
『緋翼』は理解できずにさらに問う。気持ちとは何か? それこそ幸にはわからない。おバカなコントのように、「感情?」としか言えないのだ。永久ループである。
『緋翼』の頭が沸騰するようなイメージを垣間見た幸は、慌てて付け加えた。
『こうやってあなたが混乱するのも、感情があるからですよ?』
「私に感情はない。学ぶ必要があるだけだ」
『その意識がすでに感情なんです。だってほら、それが学びたいという気持ちなんですから』
「……」
『緋翼』からの返事はなかった。
『学びたいのはいいことだと思います。わたしももっと知りたい。マルマ世界のことも、この世界のことも。あなたはマルマをどれだけ知っているんですか? 知っているから、世界を壊したいんですか?』
「……」
『緋翼』は答えない。
『もし知らないでそんな悲しいことをしているのなら、ちょっと立ち止まって、みんなと考えてみませんか? 滅ぼすなんてあなたなら一瞬でできてしまうんでしょう? なら、その一瞬を少しだけ待ってくれませんか? もしかしたら滅ぼす以上の解決策が見つかるかもしれません。それが学ぶことで得られる、あなただけの本当の答えじゃないでしょうか』
「理解……不能……」
『緋翼』はシステムである。命令されたとおりに実行するコンピューターと変わらない。ゆえに川見幸の思考は無意味であり、無駄である。にもかかわらず、『緋翼』は思考の渦に囚われ動けなくなった。
『緋翼』は二つのミスを犯した。
一つは学習を覚えたことだ。二度の敗北に進化を伴ったのは正解であろう。だが、相手を効率よく、かつ確実に滅ぼすために敵を知ろうと学習をはじめたのが間違いであった。単純であったからこそ強力な『兵器』たりえた『緋翼』は、学ぶことで余計な思考ルーチンを構築してしまったのだ。兵器は最後まで、ただ兵器であるべきだったのだ。
第二に、川見幸に興味を持ってしまったことだ。『緋翼』は幸を魔力生成器官としてだけ利用すべきだった。それが学習を知り、不可解な幸の感情を学ぼうとしてしまった。その結果、『緋翼』は最善解を求めて出ない答えを探しはじめてしまったのだった。その答えが感情の上に成り立つものであるのを、『緋翼』は最後まで理解できなかった。
空回りする思考といえど、働けばエネルギーを消費する。そのエネルギー量はスーパー・コンピューター並みであり、『緋翼』は他のタスクを忘れて、答え探しに魔力を消費し続けた。
赤い魔力粒子が徐々に薄れていく。幸の姿が見えてきた。
「アイリ!」
ふらついて倒れかけた少女を小吉は抱きとめた。
魔力粒子がすべて消費され、足元に5つの指輪が落ちる。
「『緋翼』さんは可哀想な存在でした。何も知らず、どうしていいか迷って、自分の殻に閉じこもってしまいました。わたしみたいに……」
「それは以前のアイリだよ。今のアイリは違う」
「……はい!」
「がんばったな、アイリ。大冒険だ」
「はいっ。こんな大冒険、二度とないですよ。やっぱり今日は、一生忘れられない日になりました」
笑顔を浮かべる幸に、仲間も同じ表情となった。
日本時間12月31日15時35分、『緋翼』は遠い異世界で完全消滅した。