第三
心地よいハインドの振動を感じながら、僕は軽くバンクをとって演習空域をぐるぐるとゆっくり回り続ける。
『……ノヴォゴニエフスク原発で使われてるロシア型加圧水型原子炉って、西側のと比べてどうなのかしら』
「≪アクタウ21≫時代のものより確実に良いって話だよ。インドだって使ってるやつらしいし」
『海水の淡水化計画が進めば、水道料金が安くなるかしらね』
「プロジェクトの元手が取れるまでは今のままだと思うってグレゴリは言ってたな。電気料金は……どうかな、分からない」
『私たちの生活が……いえこの国が、この原発で良くなればいいわね』
「なるさ、ジナイダ。水力にも風力にも頼れないガドロアが安定して発電、淡水化できるのは、原子力だけなんだから」
『……そうね。イランとも関係が悪化してる今、石油に頼るわけにもいかないものね』
同じくカスピ海沿岸に国境を持つイランは、歴史的にカスピ海を≪湖≫として認識してきた。
それを≪海≫として扱うことになり埋蔵資源などが眠る地域を手放すことになり、国内では相当な不満があるといわれている。
≪ガドロア・オルダ≫への数々の支援行為も、そうした背景は無関係ではないというのがガドロア政府の考えだ。
イラン国内も一枚岩とは言い難い。
政治的にはシーア派イスラム教が強大な力を持ち、その下に準軍事組織の≪イスラム革命防衛隊≫が置かれている。
正規の軍事組織に該当するのは≪イラン・イスラム共和国軍≫であり、この宗教政治的に複雑な組織構造がイランという国への理解を難しくしている。
ガドリア政府としてはイランが秘密裏に≪ガドロア・オルダ≫と接触している、という考えが根強い。
だが一方でガドロア軍としてはイランの軍部の内情を鑑みて、≪イスラム革命防衛隊≫がそれを行っていると考えている。
国民や軍部に紛れ込んでいるであろう≪ガドロア・オルダ≫のシンパに対する方針も、軍と政府では考えの不一致が続いているのが現状だ。
「空中標的役のあとは、当局が押収した密漁船を的に射撃訓練だ」
『了解、分かってるわ』
「……≪新共和国≫がやっと動き出した」
ぐるりと僕が首を回して眼下の軍港を見下ろせば、軍艦旗を掲揚した≪新共和国≫が動き始めていた。
太く短い煙突からガスタービンとディーゼルの排気を立ち昇らせ、するするとカスピ海の海面を切り裂きながら、≪新共和国≫は速力を上げていく。
その後ろからは二隻の≪ステンカ級巡視艇≫が続き、水兵たちがAK-230、三〇ミリ連装機関砲の保守防水カバーを外しているのが見えた。
僕は緩やかに機体を旋回させながら、ジナイダに関する記憶を思い出していた。
ジダイダに関するとは言っても、そのことをジナイダは知らないし、僕だって思い出したくて思い出したわけではなかった。
それは上官に呼ばれて一人で出頭した時に、見慣れない制服姿の男に問いかけられた質問から始まっている。
―――ジナイダ・ルキーヴァ少尉がオルダのシンパではないかと我々は疑っている。
そんな馬鹿な、とは言い切れなかった。
ガドロア人は潜在的なテロ要素だと言う人がいるように、その存在は国内不穏分子の臭いを孕んでいる。
そんな彼女と女性同士の関係を持つに至ったのは、まったくの感情的な経緯ゆえにだ。
だからその感情を抜きにしてジナイダのことを考えると、そんな馬鹿な、とは言えないのだ。
僕はジナイダを、ジナイダ・ルキーヴァを愛している。だから信じる、などとは決して言えない。
この国は、かつて赤かった。
赤いイデオロギーによって緻密に作り上げられた疑心暗鬼の精神は、時を経ても国民の中に息づいている。
ジナイダ・ルキーヴァは僕の愛する女性であると同時に、ガドロア人である。そのことに変わりはない。
愛であっても、その人の民族を変えることなどできない。
「こちらハチクマ、≪新共和国≫、演習射撃の用意は良いか?」
『こちらは≪新共和国≫。演習射撃用意よろしい。演習の敵対機動を開始されたし』
「了解、敵対機動を開始する」
右手で握る操縦桿を巡らし、左手で推力を操作しながらラダーペダルを押し込む。
両手両足、僕の身体のすべてを使って、僕はこの空飛ぶ重戦車を自分の身体のように操っている。
けれども、僕の身も心もすべて費やしても、ジナイダ・ルキーヴァを操ることなどできはしないのだ。