第一章 一節 呪術医の青年と白縹狼
どもです、椎名華楠です。
今回から本編に入ります。
どうぞ、お楽しみくださいませ。
後書きには補足情報を載せていきます。
興味のある方はぜひ。
「くそっ! 何て寒さだ。」
寒さで手がかじかむ中、青年リンネ・シェーレは雪原≪フィリニス≫を進んでいた。
何故こんな極寒の地にいるのかと問われれば、薬草を採りに来たと答えるほか無い。
この地には珍しい薬草があると言う噂を付近の村で聞いた。薬草を取り扱う呪術医として、その情報を無為にするのは言語道断である。
しばし進んだところで、地面に亀裂が入っている様子が見え始めた。
進むにつれて亀裂は多く深くなり、それは渓谷となってシェーレの視界に入ってきた。
ようやく着いたのか、と大きくため息をつき渓谷を見やる。
「あとは、この崖を降るだけだ。」
胸が高鳴るのを抑え、降る順路を冷静に確認していく。
― その谷へ行って戻ってきた者はいない ―
村で言われたその言葉を頭に反芻する。
呪術医として、いつ何時災厄に巻き込まれるか、常に最悪の事態を想定しながら動かなければならない。
自然とその教えが身についているはずだと自負している。
「ここからなら降りられそうだな。」
それほど時間を要さず道筋を見極めることができた。
こんな吹雪いた所にいつまでもいられない、とやや足早に崖を降り始める。
崖を降るにつれて、吹雪く音が小さくなっていく。同時に自分の足音が大きく、なおかつ周囲に響くようになってきた。降るにつれて、その先にある薬草に対する好奇心が溢れんばかりに、拍動が身体中( からだ ぢゅう)に響き渡る。
刹那、ガラガラガラッ!! という音と共に足が宙に浮く。
やってしまった。
わずかばかり気を抜いた事で足下を見誤ってしまった事に気づいた。
終わったな。
・・・
人は死を目の前にするとこうまで語彙力が欠如するのだろうか。
たった一言二言でしか自分の状況を表せず、徐々に意識が薄れていく。
そして走馬燈も無く完全に意識は途絶えた。
□□□
どれほどの時間が経っただろう。
うつろとした瞳でシェーレはぼんやりと闇夜の空を見つめていた。
嗚呼、俺は死んだのか、と半ば諦めたように空を見続ける。
すぐに空を見る事も億劫になり、いっそこのまま寝てしまおうと再び目を閉じる。
それにしても、死後の世界だというのに実に寝心地が良い。こんなに良い枕で寝たのは何年ぶりのことだろう。フカフカしていると表すべきか、モチモチしていると表すべきか。何とも言えない安心感を得られる。
「其方、もう起きているのじゃろう。」
「・・・」
寝返ろうとした瞬間、唐突に声をかけられ、思考が停止した。
「起きているなら早くどいてくりゃんせ。こそばゆくて適わぬぞ。」
ケラケラと笑うその声は自分の真上から聞こえてくるもののようだ。
恐る恐る目を開けて声音の源を確認することにした。
そこには、闇夜を切り裂くのでは無いかと思わせるほど輝かしい白縹の長髪、澄んで冷え切った青の瞳、それらを強調させる雪のような肌。まさに雪氷を想起させる色彩を放っていた。そして覗き込んでくる者の容姿は、口調からは想像しがたい、まだあどけなさの残る少女である。
その容姿に見とれていると再び少女が口を開く。
「もう身体は動くじゃろ。それともまだ膝枕を堪能したいのか?」
その言葉にシェーレは自分の状況を把握した。
フカフカモチモチしていたのは、少女の大腿部であろう。それに気づく事に時間はかからなかった。兎にも角にも、すぐに離れなければならないと悟る。…が、それ以上に気になることがある。
何故この少女は服を着ていないのか。
「・・・のう、そろそろ突き飛ばしても良いか。」
不満そうな口調にシェーレは慌てて少女から離れる。
見まい見まい、と顔を手で覆うものの、指の隙間からはその華奢な身体が映り込んでしまう。
だが、その後ろめたさは少女の人ならぬ容姿により波が引くように消えてしまった。
「け…獣…?!…」
シェーレは手で顔を覆うことなど忘れ、少女の獣耳と尻尾に唖然としてしまった。
下からでは分からなかったが、少女の頭頂部と側頭部の境界線付近から生える、髪と同色の獣耳、そして少女の身体であれば一回り出来そうなほど大きな尻尾の存在に気づく。
人外の姿を見せる者と言えば、第一に浮かぶのが『悪魔憑き』である。
「お、お前! 悪魔憑きか!」
少女は相変わらず飄々(ひょうひょう)とした様子でシェーレの方を見ている。
意を決して少女を問い詰めることにする。しかし、少女は少し口角を上げて冷えた視線を向けてくるだけである。
「答えろ! お前は悪魔憑きなのか!」
二度目の問い詰めに少女は牙をチラリと覗かせて答える。
「此方はただの狼じゃ。」
『悪魔憑き』が自ら『悪魔憑き』を公言するわけがない、そんな不信感と恐怖のもと、少女をにらみつける。
武器も何も持っていない。だからこそ警戒心をより一層強め、どこかで逃げる機会を窺うことも考える。
「其方等こそ、悪魔憑きじゃろうに。」
短く、か細く、だが突き刺すように少女は言葉を続ける。その目は先程よりも冷えており、その中へ吸い込まれるような感覚に陥らせる。
にやりと両牙を覗かせてこちらを窺う様子は、今にも喰ってやらんとばかりに恐怖を植え付けてきた。
「其方は何をしに来た?」
少女は相変わらずにやりとしながら言葉を続ける。
返答によって対応が変わるのか。シェーレはひたすら返答を模索する。そして、耐えがたい緊張感の中で出てきた答えを少女に返す。
「俺は薬そ…」
「まあ、どうせ薬草じゃろうに。」
シェーレが答え終わる前に少女は矢継ぎ早に口を出す。
「ここに来る人間は皆そうじゃ。万病に効く薬草が存在している。それを売れば大儲け。あわよくば希少な薬草を独占してしまおう。等とな。」
否定は出来ない。万能薬と噂される薬草を求めてきたというのは的を射ている。
「今のは運良く谷底まで降りてきた人間等から聞いた話じゃ。もっとも、誰も生きて戻った者はいなかったようじゃがな。…全く、己の欲に溺れて自らを滅ぼすとは、相も変わらず人間は愚かじゃのう。」
目を閉じてやや俯いて話す様子は、誰かを貶すものでなく、かと言って哀れむものとも感じ取れない。
少女がサッと尻尾を一振りして身体を尻尾で覆うと、少女の傍らにある亡骸がシェーレの視界に入った。
誰も生きて戻っていない。そして少女の傍らにある亡骸。この二つだけで十分に推測できることがある。
自分もここで死を遂げるのだろう。
そのまま亡骸を見ていられるはずも無く、両手を強く握りしめつつ顔を背ける。
もう覚悟は出来ている。そう自分に言い聞かせ目を強く閉じる。
―――――――――――
「く…くっ…くふっ! くふぁっはははははは!!!」
わずかな沈黙の後、この雰囲気に似つかわしくないような笑い声が聞こえてきた。
何事かと視線を戻すと、少女は手で目元を覆い、尻尾で口元を抑えながら笑っているではないか。
「いや、すまぬすまぬ。久しぶりに生きた人間と話したから、ついからかいたくなってしまってな。…くっ…ふふふふふ!」
少女は笑いをこらえきれない様子で謝ってくる。だんだんと先ほどまで恐れおののいていた自分が恥ずかしくなってきた。
バシバシと尻尾を地面に叩きつけながら笑いを堪えている少女を見ていると、からかわれた事に少しムッとしてしまう。
「誤解の無いように言っておくが、此方は誰一人として殺めていないぞよ。人間等は其方と同じように崖から落ちて運悪く亡くなったり、準備不足だったのか餓死や凍死をしたりしていたのじゃ。」
「だが、生きて戻った者はいないって…」
「ん? ああ行っておったな。別に深い意味はありゃせんぞ。来る人間は口をそろえて、我こそ一番にと薬草を採りに来た、と言っておったし、最後に来た人間も崖を登り切れず凍死していたから、誰一人として戻るはずは無いじゃろう。」
シェーレは安堵のため息をつき、体勢を直してあぐらをかく。
心が落ち着いてきた様子を察したのか、少女は手招きをして側に来るよう促す。
「そんな所にいては寒かろう。こっちに来たらどうじゃ?」
優しく放たれたその言葉にシェーレは自分の身体が震えていることに気づく。このままここで座っていても凍傷になるだろう。そんなことを自分に言い聞かせながら少女の方へ寄っていく。
不思議と先ほどまでの恐怖は消えていた。
崖の側は雪が積もっておらず、地面がむき出しになっている。
少女のいる場所は、空は見えるものの岩に覆われた身体一つ分ほどの大きさの洞穴となっており、多少は寒さを凌げるような作りになっていた。
「はぁ…」
シェーレは安堵と落胆のため息をする。
「其方はそんなに薬草が欲しいのか?」
「まあ、こんな所まで来るわけだからな。」
少女は落胆していることを気にしているようにこちらをチラリと見てくる。
―――――――――――
再び沈黙が流れる。
いつまでもここに居るわけにはいかない。シェーレはこの後の事を考える前に一服、と持ってきた革の水筒を取り出し薬草茶を一口飲む。極寒の地に長くいるせいか、それはすっかりと冷えてしまっていた。
「むっ、すごい臭いじゃな。」
やや不快な表情を浮かべて少女が一瞥してくる。耳を伏せて、尻尾で鼻を隠す様から、どうやらこの香りが好きではないようだ。
「なんだ、この香りが嫌いなのか。」
少女はこくりと頷き、尻尾をぶんぶん振り、香りを振り払うようにする。
「其方はけったいな物を好むんじゃのう。」
「別に好きなわけじゃない。職業柄こういうものを手に取ることが多いだけだ。」
早くしまえとばかりに尻尾の振りを速くするため、水筒をしまった。
少女は興味ありげにシェーレの方を見つめてくる。しかし、少女を見つめ返すとそっぽを向かれてしまう。だがチラチラと自分の方を見てくるため声をかけてみることにした。
「何か気になることでもあるのか?」
「…其方は…欲に身を委ねて薬草の取りに来たのではないのじゃろうか?」
ポツリと少女は呟いた。
「半分は合っている。こんな所まで薬草を取りに来るなんて欲が深くなければやってられないことだろう。だけど、もう半分は違う。」
こちらを振り向く少女に自分も顔を向ける。
「必要だからだ。」
目を見開いて少女は呆然と聞いている。さっきまでの突き放すような風貌はどこかへと消え失せ、少しずつ穏やかな表情を向けてきた。
「其方の欲に必要…という意味ではないじゃろうな。」
「俺の欲だけじゃない。俺以外にも必要としている人達がたくさんいる。未知の薬草の噂を聞けば採りに行き、需要のあるものは人々へ巡らせる。至極当然の事だろう。」
当たり障りのない答えを返す。
「くふふっ、純粋無垢な答えじゃのう。」
今度は手を口元へ持って行き上品な笑い方をする。そして、先ほどよりやや側まで寄ってきた。
「其方の事が心配になってくるの。よくまあ人間等の世界で生きてこられたものじゃ。」
シェーレはいまいち少女の言葉の意図が汲み取れない。
純粋無垢なだけで淘汰されるほど自分達の世界は非常なものだろうか、と訝しげな面持ちで少女を見る。
「別に理想論を語るなと言っているわけではない。素直すぎると思ったのじゃ。ここまで大っぴらに目を輝かせながら理想論を語る人間になど会ったことが…」
唐突に言葉を途中で区切り、少女は天を仰いで言う。
「いや、たった一人おったのう。其方のような虚け者が。」
「…」
シェーレは何も言うことが出来ない。しばし少女の話を優先しようと同じように天を見つめる。
「其方は言動が少年に似ておる。此方は人間は好まぬし信用せぬが、少年だけは不思議と惹かれるものがあった。」
少女は近くにある亡骸を尻尾で撫でながら続ける。
「少年は何度騙されても懲りずに夢を語りおった。自らの命の灯火が消えるまで、一つ覚えのように此方に夢を語っていたのじゃ。全く…本物の虚ろ者じゃ!…」
震える口調で一語一語を紡ぐ。
少しして気が落ち着いたのか、少女は口調を戻してシェーレに話しかけてきた。
「すまぬ…其方に少年の面影を映して感情が高ぶってしまった。」
少女はいたずらな笑みを向けてくる。
笑顔を取り繕っているのが丸わかりだ、と感じつつもシェーレは気まずく笑みを返すくらいしか出来ない。
「さてと、つまらぬ話はここまでじゃ! せっかくだし其方の職業とやらが気になるから教えてくりゃんせ!」
打って変わって明るくなる口調にシェーレはやれやれと笑みが出てしまった。
「俺は呪術医をやっている。俺の場合は薬草の収穫、調合、提供を一通りやっているんだ。」
「そうじゃったのか。それならば薬草を採りに来る理由も分かるのう。」
なるほどと言った感じで少女は頷く。どうやら興味のある内容のようだ。呪術医は名前だけ聴くと悪人だという先入観によって牽制されがちなので、興味を持ってもらうだけでも嬉しいものだ。
何気ない会話をしている間に時は過ぎていく。
□□□
「それで、今は薬草を持っているのじゃろうか!?」
「片方はほとんど薬草茶に使ったから、ルトールが二枚とロゼハが三枚だけあるな。」
「名前は聞いたことがあるのじゃが…どんな薬草かは皆目見当がつかんのう…」
この狼はやたらと薬草に興味があるな、とシェーレも驚くほど薬草の話に食いつく。
もう小一時間は話しているだろう。得た知識を伝える事は嫌いじゃないので構わないが。
「ルトールは粉薬にして使うんだ。腹が痛いときによく飲む。ロゼハは薬草茶にいれたやつだ。身体が温まるから重宝している。」
「そやつは嫌いじゃ。くっっさいからのう。外道じゃ外道!!」
そこまで言わなくても、と苦笑いをしてしまう。
話していくと少女は意外にも口数は多いと分かってきた。
耳をピコピコと動かしながら薬草を見ている姿はどことなく愛嬌があるように見える。
「む…そういえば其方は帰らなくても良いのか?」
唐突に少女がシェーレに話しかける。
少女が空を見上げるのでシェーレも同じように空を見上げると、空がやや明るくなってきていた。
吹雪も収まってきたようで、空もより鮮明に見える。
「もう夜明けじゃ。天候も良くなってきたし、そろそろ帰る方が賢明であろう。」
日が出てきた事もあり、寒さも幾分か和らいできた。少女の言うとおり帰る方が良いだろう。
「…そうだな。村に戻ったら、自分が生きて帰ってきたことを自慢してやらないとな。」
少しいたずらっぽく言ってやると少女も、よく言うわ、とばかりに尻尾でシェーレの背中をポンポンと叩いてくる。
それに促されるようにシェーレは腰を上げて崖の前まで歩いた。
「さて、崖の前に立ったは良いが、どのようにして登ろうか。」
昨夜も崖を見たが暗くて高さを把握出来なかった。
いざ明けてみて崖を見ると想像以上に高い。
昨日のように道筋を見極めようとするも、そもそも安定した足場が見つからず立ち往生してしまう。
シェーレはロッククライミングはもちろんのこと、登山経験もほとんど無い。
自分一人では危険だと考え、ダメ元ながらも少女に相談することにした。
あいつは狼と言っていたはずだ。自分には想像出来ない方法を知っているかもしれない。
淡い期待を寄せて少女の元へ行く。
「ん? どうしたのじゃ?」
少女は何故かにやにやと笑みを浮かべて反応を待っている。
「崖を登ろうと思うんだが、俺だけでは登れそうにない。何か良い方法があれば教えて欲しいんだが。」
くふふっと笑う少女。自分は恥を忍んで頼んでいるのに何がおかしい、とやや憤りを感じてしまった。
だが、少女はお構いなしと言わんばかりである。
「良い情報ばかりを与えるわけにはいかないのう。」
「俺はさっき薬草の知識を散々与えただろう。」
「それは其方の命を助けた代償じゃ。安いものじゃろう。」
はあ、とシェーレは疑問に思う。今まで過ごしてきた中で少女に命を助けられた覚えは無い。それどころか少女と会うのは今回が初めてである。
「其方は此方の尻尾の上に落ちてきたのじゃ。それが良いクッションになったじゃろう。現に其方は傷一つなく生きておるのが証拠じゃ。」
確かにこの場にクッションとなるものは尻尾以外に考えられない。あながち少女の言っていることも嘘とは言えないだろう。しかし、いくら少女の尻尾が立派なものといえども、クッションになるには不十分な大きさである。
「此方は狼と言ったじゃろう。今の姿は化けたものだから信じられぬかもしれんのう。」
少女は続ける。
「まあそれは信じなくても構わぬ。それより、崖が登れないのじゃろ。」
少々投げやりな対応を取られてしまったが、谷底から脱出することが第一だと割り切ることにした。
「登る方法はあることにはある。ただ一つお願い事があるのじゃが、どうじゃろうか?」
「何だ?」
「其方についていっても良いか?」
交換条件だと言うような口調で尋ねるが、その目は真剣そのものであり、シェーレを射貫くような眼差しであった。
抜け出すには少女の力が必要である。気乗りはしないが承諾するしか手は無いだろう。
「分かった。」
少女はいたずらに笑みを浮かべシェーレの元へ歩み寄る。
「ルトールとやらの治療薬を持っておったの。そのままで良いから一枚だけ貰えぬか?」
シェーレは革のカバンからルトールを一枚出し、少女の手に差し出す。
少女は受け取りお礼を言うと、両手をシェーレの肩に伸ばす。
そして、少女は徐々に顔を寄せてくる。
シェーレは少女との距離が縮まることに焦りを隠せず、やや頬を紅潮させる。
動揺のあまり目を開けていられなくなり、ぎゅっと目をつむってしまう。
その様子を楽しむように少女は牙を覗かせ、そっと語りかける。
「ちょいと失礼するぞ。」
その言葉から間もなく首元を咬みつかれた。
期待していた事とはほど遠く、予想だにしない行動につい目を開いてしまう。
裏切られたのか。徐々に気を許すように自分に近寄ってきたのは、殺めるために誘い込む罠だったのか。
そんな失意に駆られる中、少女がいるであろう方向に視線を向ける。
徐々に視界がぼやけながらも少女の姿を捉えることが出来た。
そこに映った少女は…自分の首元を咬みつきながら、凍るような眼差しだけを自分に向けていた。
その少女はどこか遠くへ行くように視界から消えていく。
その様子を見るもののシェーレは抗うことも出来ず、たちまち抗う思考すらままならなくなった。
無力さの果てに、ついには糸が切れたように意識を失うのであった。
□□□
正夢だったのだろうか。
次に意識が繋がれた際の一言目はこれが当てはまるだろう。
仰向けで見る上空は薄暗く星一つ無い。枕も多少ゴワゴワしているが寝心地としては悪くない。
そして、ここで声をかけられるのだろう。
その先を予想しながら再び目を閉じる。
しかし、一向に声をかけられることは無い。
読みが外れたな、と少々落胆しつつ身体を起こす。まだ本調子に戻っていないが両手をつけば何とか座位を保てそうだ。
周りを見渡せる体勢となり、辺りを確認するものの夢らしき中で見た少女はどこにもいない。あるのは一筋の光が入る出口のみであった。
空と思ったのはイグルーの天井であり、枕にしていたのは自分の革のカバンであった。
「正夢じゃなかったのか。…まあ、最後に裏切られる夢なんてごめんだから、良かったのかもな。」
シェーレは自分に言い聞かせるように呟く。
少しずつだが身体も動くようになってきたので、出口に向かう。
外に出ると目もくらむような眩しさが襲ってきたが、視界が晴れると共に雪原が見えた。
「!?」
シェーレは視線の先に映るものに目を引かれる。
この雪原に引けを取らない存在感を醸し出しながら、長髪をなびかせ走り回っているそれは、狼が野を駆け巡る姿を彷彿とさせ、その純白な色彩には神々(こうごう)しさを感じさせるものがあった。
その様子を目にすると共に、少女の存在が夢でなかったことも理解せざるを得ない。
「あれは、夢じゃなかったんだな。」
ポツリと呟き、少女の方を呆然と見つめる。
その様子に少女も気づいたようで、笑みを浮かべながらシェーレの元へ駆け寄ってくる。今度は普通の少女のような雰囲気であった。
少女はシェーレの目の前に立つと満面のえみを浮かべて一言だけ発する。
「其方についていきたい!」
断れようはずがない。谷底で約束をしてしまったし、雪原まで戻ってこられたのは少女に助けて貰った以外に考えられないのだから。
「ちょっとだけだぞ。」
シェーレの返答に少女は満足げにする。そして、踊り出すようにイグルーの方へ走っていった。
「服は着ろよ。鞄に入っている服なら何でも良い。」
少女は尻尾をふわっと一振りして反応する。
想定外の拾いものをしてしまったな、とシェーレは微笑を浮かべる。
日は昇っていき、いつの間にか肌寒さも和らいできた。
それと共に遠方の霧も晴れてくる。
その光景は、まるで二人の旅の始まりを告げているようであった。
【補足情報】
本編に出てきた薬草の効能をまとめておきます。
本編で説明された範囲で取り上げるので、追加の効能は都度最新話などでご確認ください。
〇ルトール
効能:腹痛緩和
使用時の形状:粉薬
使用方法:水に溶かして飲む
〇ロゼハ
効能:体温上昇
使用時の形状:葉(粉末にしても良い)
使用方法:ハーブティーにして飲む
*実在の薬草・医薬品との関係はありません。