人間
一応私は病人としてその日はベッドで過ごした。
「働くのは次の日からね」とイシュチェルさんに言われた。
時計はないが日時計はあるらしい。
つまり働く時間はだいたい決まっている、との事だ。
休みは四週六休、完全週休二日制ではないが、週に一回以上は必ず休みがある。
そして一年間勤務すると有給休暇が発生する。
『月とうさぎ亭』は異世界ではあり得ないくらい労働条件が良いらしい。
『月とうさぎ亭』で働くのは週に3回、そして週に2回~3回はダンジョンに潜る。
労働はシフト制で交代で休みを取る。
ダンジョンに潜った人は、ダンジョンにしかない食材を採って帰ってくる。
それ以外の食材は『月とうさぎ亭』で働く者が店が開店する前に市場へ行って買ってくる。
交代で休みを取る訳だが、シフト制の仕事の弱点として「人が辞めると休みが回らなくなる」という事がある。
だがそこまで人の入れ替わりはない。
というか誰も辞める様子がない。
『月とうさぎ亭』のウェイトレスは亜人が多い。
亜人とは『人間と似ているが人間と少し違う』という存在だ。
例えば狼人、犬人、猫人などに始まり、エルフ、ダークエルフなどだ。
亜人は人間社会で勤め先を見つけるのが難しい。
それに亜人を差別する人間は珍しくない。
なので『月とうさぎ亭』のように亜人を差別なく雇う店は珍しい。
差別がない事で優秀な亜人が『月とうさぎ亭』に集まる。
結果差別なしでの選考が行われるとほとんど亜人だらけになる、という訳だ。
そして『月とうさぎ亭』にはイシュチェルさんに弟子入りしたい冒険者志望の者達が働きたがる。
『月とうさぎ亭』に人間のウェイトレスは私とイシュチェルさんを含め、5人しかいない。
一人はイシュチェルさんに弟子入り志願をするために山を三つ越えてきたという戦闘狂の武道家のサラスさんだ。
礼儀正しい少女なので普段は何の問題もないが、一度イシュチェルさん相手に腕試しをしようと喧嘩を売ってきた輩をボロ雑巾の様にしたのを見て「サラスさんだけは本気で怒らせちゃいけない」と私は内心ビビっている。
もう一人は私やイシュチェルさんと同じ『異世界転移人』であるヨランダさん。
基本的に『異世界転移人』は常連客に多く、ウェイトレスとして雇われているのは私を含め二人しかいない。
ヨランダさんは私と同じ、異世界に来たての頃は戦闘の手段がなく、生計をたてる術がなかったらしい。
路頭に迷っていたところイシュチェルさんに「ウェイトレスにならないか?」と声をかけられたらしい。
イシュチェルさんはその時ヨランダさんと何回か話していて「ヨランダさんは『異世界転移人』じゃないか?」と思っていたらしい。
今はスキルが発現してヨランダさんは一流の魔術師だ。
私が病人として担ぎ込まれた時、頭に氷水に浸した布が掛けられていたが、あの氷を魔術で産み出したのがヨランダさんだ。
ヨランダさんは17歳、同年代なので頼る事も多い。
ヨランダさんだけは私が『異世界転移人』である事は知っている。
しかしイシュチェルさんに「元男である事はまだ、ヨランダさんに言うな」と釘を刺されている。
イシュチェルさんも全てをヨランダさんに話すつもりだったのだが、『同年代の異世界転移人が来た』と話した時、ヨランダさんは涙を流して喜んだらしい。
「正直、孤独に潰されそうだった」とヨランダさんは独白したという。
その話をヨランダさんから聞いたイシュチェルさんは、私が「元男だ」と言えなくなってしまった、との事だ。
「本来なら『元男だ』という話はヨランダに隠す理由はないわ。
ただヨランダがカーリーの事を妹みたいに可愛がってるのを見て『今はまだ話すべき時じゃない』と思っただけ。
時期が来たら本当の事を話しましょう?」イシュチェルさんはそう私に言った。
相当葛藤があったと思う。
「本当の事を話すべきなんじゃないか?」何度も悩んだだろう。
でもヨランダさんが喜々として「異世界の服の着かたを教えてあげる」と自分から肌を晒したり、仕事終わりに私が入浴しているところに「一緒に入るわよ」と乱入したりしているのを見て『カーリーは元男だ』と言いにくくなってしまったのだと思う。
もう一人、モリガンさんという人間もいるが私は話した事もないし詳しくは知らない。