0 strike 1 ball
ガラリと戸に手をかけて、そのまま引き戸を開け放つ。そうすれば引き戸は割と重々しい音を立ててすぐに開いた。
「……ただいま」
埃のにおいのする畳六畳。
誰もいない。寂れた長屋に僕の声が響いた。
僕は返事が返ってこないのを確認してから、無人の家に転がり込んだ。
布団は干し忘れたから、居間の真ん中に転がったまま。包丁は研ぐのを忘れたから、汚れがついたまま。掃除はし忘れたから、部屋は汚いまま。
何ヶ月忘れてるだろうか。そろそろしないといけないとは分かってはいるが、やっぱりいざとなると億劫になる。
……せっかくだから、あともう少しだけ忘れたままでいよう。
「あら……、帰ってたのね。今日はどうだったの?」
サッパリと短髪で、色黒の女の子が僕を見据えていた。
僕は相手がその見慣れた女の子だということを知っていたから、金剛君2号のバットを磨きながら答えた。
「……なんとか打てたよ、マグレだったけどね」
「今日も打ったんだ……。相変わらず野球だけは得意ねぇ……」
女の子は呆れ返っている。
「得意じゃないよ。宝くじのような可能性が当たっているだけなんだから……」
「現在進行形の宝くじは実力って言うの。偶然もあるかもしれないけど、ほとんどはあんたの力でしょ」
「こんなに細い体と腕で打てるわけない」
「それでもあんたは打ってる。しゃんとしなさい」
バンと僕の背中を叩いて、そのままキッチンにまで歩いていく。
「そっちにはなにもないよ」
「良介」
「どうしたの?」
僕の名前で呼ばれるのは珍しいなと振り返る。
「今日くらいあんたのゴハン作ってあげるわ。きっとロクな物食べてないでしょうしね」
ぐぐっと腕まくりして、彼女は料理なら何でも作ってしまいそうな雰囲気を醸し出してきた。
「由美が僕のゴハン作るなんてめずらしいね」
なので、僕は素直に言った。昔は由美のゴハンをご馳走してもらったことはあったが、ここ数年はそれもほとんどなかった。僕は就職しているし、由美は大学生。会うこと自体そんなに多くはない。
「たまたまよ。今日も打てたみたいだし、まぁ今日くらいは特別に作ってあげようと思っただけよ」
「じゃあ……炒飯」
「バカ、卵無いのにどうやって作るのよ。適当に作ってあげるから、しばらく待ってなさい」
「分かった」
僕はスポーツ番組にチャンネルを合わせた。
* 1 ball 1 strike
夏の暑い日。外に置いてあった温度計は地熱で振り切れ、水銀も熱中症状態だった。
その中で僕は、脱水症状気味な身体を起こしていた。
行く場所があったのだ。
着替えて目的の場所へやってくる。ここは見違えるように涼しい。
大きな県立病院に僕は立っていた。
僕が怪我をしたわけじゃない。ただ少しここに用があるから、いつも寄っている場所だ。
僕は大きく深呼吸してから、ドアを開いた。
「……こんにちは」
中に看護婦さんがいたので、僕はあいさつをする。
看護婦さんは僕の姿を認めると、笑顔を作る。
「おはようございます。今日も早いですね」
看護婦さんは花瓶に入れてある萎れた花を交換していた。
たしか……僕は何日か前にも同じ光景を目撃していたと思う。
「村松さんはいつも早いですね。僕は起きる時間が遅いので……」
「いえいえ、こんなに朝早く患者さんのお見舞いに来る人は数えるほどなんですよ。けっこう大きな病院なんですけど、以外に空いてますから……」
シャア…とカーテンのヴェールを引き払って、太陽の光は病室をみたしてくる。その光に遅れるように、ぽかぽかの陽気がすぐに病室に差し込んでくる。
「季節は……夏……なんですねぇ。私みたいに、病室勤務だと、こういう季節感がなくなって困ります……」
「この暑さだけには参りますけど……」
ここは涼しくても、外は地獄のような炎天下が待っているのだ。
地球温暖化の影響なのかは分からないけど、じとっと纏わりつくような熱気が今年にはある。
「プールとか海はいいかもしれませんね。年を取った私なんかは紫外線対策をしなければいけないですけど、宏平さんは水着一つでどこにだって行けますよ」
「僕がそんなところに行っても溺れてしまうだけです。泳ぐのは苦手です、ずっと浮き輪で浮く羽目になってしまいます」
「……はは。やっぱり良介さんは野球ですね」
しみじみ看護婦さんが言った。僕は曖昧に受け答えして、パイプ椅子に腰掛けた。
「今年も甲子園が始まりましたね」
「……甲子園ですか」
僕はポツリとつぶやいた。けれどその響きは、僕の心で恐ろしいほど冷めたひびき。
「大阪東方高校の田中くんが通算ホームランの記録を伸ばしたとか。野球はあまり詳しくは知らないんですが、高校野球は好きです」
村松さんはしばらく黙りこくって、考えてから話した。
「高校野球は好きですか?」
「………嫌い…だと思う」
ワケはあった。ただ僕は目を逸らしたいだけなのだ。
* 1 ball 2 strike
『さあ、ここで四番の神谷良介くんを迎えるわけですが、どうすれば抑えられますか?』
ラジオが状況を刻々と伝える。
実況を担当している男性は興奮気味に言葉を並べ立て、解説者に意見を求めている。
『ううむ。ここはやはり外中心で攻めて、四球は仕方ないと割り切るしかないでしょう』
解説者も手に汗握っているような口調だった。ラジオからはワーワーと大勢の観客による雑音がすごい音量できこえてくる。
『現在試合は最大の山場を迎えております。現在は七回の裏、並木高校の攻撃中、ランナーはツーアウト三塁、4―4の両者全くのドロースコア! しかし、先発の柳選手がこの回突然の乱調。二
つの四球を与えながらも周りの攻守に助けられ、現在の状況となっております。しかしここで立ちふさがるは並木高校最強の四番。神谷良介くんを迎えております! 試合はこの勝負で決まるかも
しれません!』
『おおっ! 捕手は内角を構えていますよ!』
解説者は非常に驚いた様子で切迫した状況を伝える。
夏の日。そこには白球があって、黒のグラウンドがあった。
バットとグラブがあり、グラウンドを駆け抜ける十八の選手。
『あー! 打球は大きく舞いあがったぁ! これは文句なし! 文句なしのホームランです!
高校野球界に突如現れた新星、神谷。ここでもホームランを打ちました!』
実況はもう倒れんばかり叫びようだった。
それはどこかの回想録のように、録音されていた一部。
僕、神谷良介の放ったホームラン。
それは試合の趨勢を決めたホームランだった。しかし。
────まさかこれが僕の人生を狂わす、最高のホームランになるなんて。
結論から言うと、僕は女性を傷つけた。
僕は野球をしていた。一時期は地元の星なんてもてはやらされたこともあった。
僕はホームランを打った。会心の当たりだった。打球は大きな放物線を描き、客席に飛び込んだ。
大歓声が轟き、僕は仰々しくも天に向かってガッツポーズをし、点数の刻まれたスコアボードに向かって吼えた。大逆転の幕開けに相応しい、そうそうたる一打になればいいと思った。
僕は野球が大好きだった。
試合が終わった後、コトの顛末を聞かされるまでは。
『ホームランボールが女性に当たったぞ!』
『頭か!? 早く救急車を呼べ!』
『急げ急げ!』
試合の裏では大変な出来事になってしまったらしい。
僕は病室で最悪の事実を聞かされた。
「彼女の頭にボールが直撃したことで、手足に麻痺が確認されます。時間と共に回復していくでしょうが、もしかしたら後遺症が残るかもしれません」
医師の診察は残酷だった。
ホームランは僕から野球を奪い去った。ただ、御幣があるかも知れないから訂正しておくが、僕は自らバットを置いた。もう野球はできなかった。打席に入る度に手が震えた。歯がカチカチ鳴っ
た。心臓が痛かった。野球とは娯楽のスポーツであり、『狂気』。そんな考えが僕の頭の中を支配して、スイングを拒んだ。
それはスポーツ選手特有の病気の一種だった。呪った。しかし安堵した。
僕には野球はできないのか。いや、したくなかったのだろうと。
もう嫌な思いはしたくないと思ったのだろう。
僕の記憶には、こんなにも野球とは過去の物だとインプットされているのだから。
「起きてたんだ。言ってくれればさっさと帰ったのに……」
僕は本心からそう言った。
「いいですよ。帰らなくても」
眠っていた女の子はいつの間にか目を覚ましていた。その瞳は僕を恨みがましい目で捉えていた。
冷ややかな目と、僕に対する侮蔑の目。少なくとも僕にはそう映った。
彼女は三年前に僕のホームランで頭部を強打し、以来全く左手が右足が動かない。
しかし、最近はリハビリの効果もあってか、右足に関してはかなり状態がよくなってきた。短距離であれば、歩くことも出来るようになってきた。
「最近の調子はどうですか?」
「どうって……。そのままですよ」
女の子はぶっきらぼうに僕の質問に返答する。
「……そう言われると、僕が何も言えないじゃないか」
「何も言わなくてもいいんですよ」
僕がいるため、彼女はたいそう機嫌が悪かった。
「……もう、寝ます」
起きたばかりだろうに。そんな突っ込みをしてしまいそうになったが、暗に帰れと告げられている気がして、僕はその空気を読むことにする。
「じゃあ、また来るよ」
「今日はちょっと機嫌が悪いみたいですね」
病室を出て、看護婦の村松さんと入れ違いになった。村松さんは複雑そうな微笑みを浮かべながらも、僕を気遣ってくれているようだった。
「そんな感じはしました。帰っていいとも言われましたし、今日はこれでお暇しようと思います」
「はい、朝早くから毎日のように、本当にありがとうございます。なんだかんだ言っても、悠樹さんは良介さんの話をよくしますから……」
「はは。愚痴なら聞いてあげたいんですけど、本人に聞かせたら意味ないですから」
「いえいえ、お気にならないでくださいね」
そう嫌でもないのだろうか、村松さんは笑顔を作ってくれた。僕自身の愚痴を聞く。これだけは僕に出来ない役割だろう。
「彼女はもうとっくに良介さんのことは許されてるんですよ。あとは良介さん次第だと思います」
「……はは。そうですね」
僕は、暑苦しい大気に向かった。