薔薇の花束
目の前の光景が信じられなかった。
これは夢なの?
だけど手の甲を抓っても痛いだけ。どうやら夢の中ではないらしい。
「ディリィ。どうしたんだい? そんな顔をして」
それはこっちの台詞だから。
ジェフこそ何をしているの?
私との結婚は嫌だと言って立ち去ったのは、どこのどなただったかしら?
そして何故今私の前に薔薇の花束を抱えて立っているのかしら?
何も言葉を発せられないでいると、ジェフは薔薇の花束を差し出した。
「ほら、ディリィが見たいと言っていた薔薇だよ」
確かに私はピンクから深紅へと綺麗にグラデーションしている薔薇が見たいと言った。だけどあれは言い伝えの中の薔薇。その薔薇の花束を持って求婚されると一生幸せに暮らせるという話に憧れて口にした事。
今ジェフと私はただの知り合いなのに何故それを私に見せつけているの?
でも薔薇に罪はない。それにとても綺麗だ。こんなに綺麗なグラデーションの薔薇が実在するなんて知らなかった。
「この薔薇はどこに咲いているの?」
どうせ誰か他の人にあげるのだろう。そうでなければ私との結婚を断った理由がない。夢でないとしても、世の中そんなに上手い話があるはずがないのだ。
私はずっとジェフと結婚出来ると思っていた。親同士が仲良くて勝手に決まっていた事だったとしても、私はジェフが好きだった。それなのにあの日、ジェフは何とも思っていないという顔でお互いの家族の前で親の決めた結婚などしたくないと言った。
それが夢ではない事は間違いない。部屋を出ていくジェフに声をかけようとしても声が出なかった。追いかけたくても足が動かなかった。ずっと結婚するものだと思っていたから現実を受け入れられなかった。
あれから一年。私はやっと現実を受け入れられたの。別の人を探さなければいけないと舞踏会などにも顔を出して交流を広めてきたの。それなのに急に何?
「国境の近くの渓谷に咲いているんだよ。でもディリィが行くのは勧めない。道中の足場が危険だからね」
「そう。それなら一本だけ譲ってくれない?」
この花束に何本の薔薇があるのかはわからない。でも一本くらいなら知り合いのよしみで譲ってくれてもいいよね? 国境の近くの渓谷から摘んできたならそろそろ枯れてしまうかもしれないし。
「一本も何も全部あげるよ。これはディリィの為に持ってきたのだから」
ジェフがそう言いながら笑顔で花束を押し付けてきたから、思わず受け取ってしまった。
これは求婚の時に渡すものであって、それ以外で渡す花束ではない。
だけど薔薇は綺麗だし、薔薇に罪はない。
「そう、ありがとう。大切にするわね」
何だか泣きそうだ。でもここで泣いても仕方がない。これはきっと何の意味もない。今までだってそうだった。ジェフの言葉に一喜一憂してきたじゃない。いい加減学べ、私!
ジェフは私の事なんて何とも思っていない。強いて言うなら幼馴染で恋愛対象ではない。未だに名前をコーディリアでなく愛称のディリィで呼ぶのもきっと意味はない。
こう思い込もうとしている時点でまだ吹っ切れていなかったのだと自覚してしまった。一年あったのに、その間ジェフのいない生活にも慣れたのに。また一からやり直し。
「あんまり嬉しそうじゃないね。もっと喜んでくれると思ったんだけどな」
どの口が言う。ジェフと婚約関係にあるのならば間違いなく喜んでいた。嬉し涙できっと顔はくしゃくしゃになっていただろう。だけどこれを今貰って喜べるほど私はまだ整理出来ていない。むしろ整理出来たと思っていたのに思い出してしまった。この一年の苦労をどうしてくれる。
「そう? とても綺麗だと思っているわよ」
上手く話せているかしら? 不自然じゃないかしら? 幼馴染らしく振る舞えているかしら? 何故このような人気のない所で二人きりなのかしら?
ここは私が泣きたくなると一人で来る場所。ジェフには教えていなかった場所。
つい先程の事なのにもう忘れてしまっていた。舞踏会でいい雰囲気になった男性と手紙のやり取りをしていたのに、振られて落ち込んでいたんだわ。別にあの人の事を好きだったわけではない。好きになれたらいいなと思うくらいだった。それでも振られるのは辛い。一人になりたくてここに来たのに、急に声をかけられて振り返ったら信じられない光景が目に映り、一瞬であの人の事なんて忘れてしまったのよ。
「もしかして困る? その薔薇を貰えない理由がある?」
一体ジェフは何を言っているのかしら。困るに決まっているじゃない。貰えないに決まっているじゃない。
でもこのように綺麗な薔薇の花束は欲しいに決まっているじゃない!
「薔薇に罪はないわ」
だって薔薇はとても綺麗だもの。花瓶に活けて鑑賞して、これだけあるならポプリにしてもいいわ。ドライフラワーにするのは流石に勘違いしていると思われそうだけど、ポプリなら他の薔薇も混ぜてしまえばわからなくなるでしょうし、一部を袋にしまって大切に引き出しの奥に隠してもいい。
もうこんな事を考えている時点で未練だらけじゃない。いい雰囲気になった男性に振られるってものよ。私の心は全然ジェフから離れていないんだもの。
「最近、文通してる人がいるんだってね。母上から聞いたよ」
その人には振られたから。君とは幸せになる未来が描けないって言われたから。
それはそうでしょうとも。私はジェフを忘れられていなかったのだから、そう言われて振られるのは当然だ。ここで泣こうとした事がそもそも間違っていたのだ。
だけど子供達が仲違いしたというのに、両親達は繋がっていて情報も流れているのか。もしかしたらおば様が心を痛めないように、お母様が気を利かせて伝えたのかもしれない。
「どうでもいいでしょう? 私の事なんて」
「どうでもよくないよ。ディリィがここに居るという事はそれが上手くいかなかったんだろう?」
知っていたの? 私が泣きたくなるとここに来る事。
まさか一年前も暫くここで泣いていたのを知っているの? ジェフに何て尋ねていいかもわからず、どうしたらいいのかもわからず、途方に暮れてここで泣いていた事を知っているの?
混乱してきた。信じられない気持ちが溢れてきた。私の淡い恋心を嘲笑われていたと思うとやるせなかった。花束を投げつけてやりたかったのに、薔薇に罪はないからそれは出来なくて。
だってこれは意味がなくても綺麗な薔薇で。私がずっとジェフから貰いたかったもので。信じられないのに何故冷めないの、私の気持ち。
「だったら何よ。慰めなんかいらないわ。一人にして」
ジェフから視線を外して伏せる。
早くここから去って。私はこれから泣きたいの。あの人に振られたからではないわ。ジェフの態度がひどいから泣きたいの。
「嫌だ。好きな子が泣きそうなのに置いていけないよ。そんなに好きだったの? その人の事」
今、何て言った? 都合のいいように聞こえたんだけど。
でもここで勘違いしたらまたいつもと同じ。好きっていうのは幼馴染としてであって恋愛感情じゃないに決まっている。
「そんなの関係ないでしょ。早く一人にして」
「嫌だ。僕は今日ディリィに求婚に来たんだ。その薔薇を探すのに一年かかったけど、その間ずっとディリィなら待ってくれると思ってたんだ。ディリィはもう僕の事を好きじゃない?」
ジェフは何を言っているのだろう? やっぱりこれは夢?
でももう一回抓ってみたけど痛いだけ。
「それなら何で一年前はあんな事を言ったの?」
「僕は親に決められて結婚したくなかった。ディリィにも僕が好きだから結婚したいと思って欲しかったんだ」
何を言っているの? 私はずっと好きだから結婚したいと思っていたわよ。あえて言葉にした事はなかったけれど。
「ディリィは親の言う事に逆らえないだろう? それじゃ嫌だったんだ。親が決めた結婚じゃなくて、ディリィの望む結婚をしてほしかった。そしてその相手が自分だったらいいなと思ってた。僕が結婚は嫌だと言ったあの日、ディリィは何も言ってくれなかった。それが悲しくて」
だからそれは突然の出来事で何も言えなかったの。何を言っていいのかもわからなかったの。好きな人が嫌がる事なんてしたくないじゃない。それにもう傷付きたくなかった。あの言葉で十分傷付いたのに、それ以上傷を抉られたくなかった。
「だけど、ここでディリィを見かけた。もしかしてディリィは僕の事を好きかもしれない。それならディリィの望む花束を持って求婚しようと決めたんだ」
何を勝手な事を言っているのよ。ジェフの言葉で傷付いて泣いている私を慰めないで何の決意をしているのよ? 前から思っていたけどジェフは少し考え方がおかしいわよ。私くらいしか付き合えないわよ?
「一年もかかってごめんね。ディリィ、好きだよ。僕と結婚して」
だから何を勝手な事を言っているの。私がその求婚受けると思っているの? 一年も放置しておいて頷くと思っているの?
あぁ、もう駄目。涙が堪えきれない。きっと顔はくしゃくしゃだ。そんな顔を見られたくなくて俯いたのを頷いたと勘違いさせたかしら?
これは違うの、そんなに簡単に思い通りになんていかないわよ。
「遅いのよ、ジェフ。それなら先に言っておいて」
「でも薔薇が実際あるかわからなかったし、先に言って見つからなかったらディリィはがっかりするでしょ?」
確かにがっかりしたでしょうよ。でも傷付かないですんだ。ジェフにしてみたら私の傷なんてどうでもいいの? それとも傷付かないとでも思っているの? 私はこれでも繊細なの!
「それに驚かせたかったんだ。きらきら瞳を輝かせるディリィはとっても可愛いから」
一体何を言っているの。結婚を断られた後に、この花束を見て瞳を輝かせると本気で思っていたの? 無理でしょ。だって振られたと思っていたのだから困惑しかないでしょ。順番も状況もおかしいのよ。何でここに来たの。せめて家ならまた感じ方が違ったでしょうに。本当になんなの。やっぱりジェフに付き合えるのなんて私くらいしかいないわ。
「勝手な事を言わないで。私は一年前とても傷付いたの。振られたと思ってずっと辛かったの」
「うん。ごめんね。これから幸せにするから。ディリィが二度とここに来なくてもいいよう絶対に幸せにするから、僕と結婚して」
「絶対?」
「絶対。だから結婚しよう、ディリィ」
ジェフがどんな表情か見たくて顔を上げた。反省しているかと思ったけど、ジェフは満面の笑みだ。
何なの、その自信。あぁ悔しい。でも仕方がない。その笑顔で、この花束で許せてしまう。だって他の誰かでは駄目だった。ジェフとしか結婚したくないってずっと思っていた。ただその思いに強引に蓋をしていただけ。
「幸せにしなかったら許さないんだからね」
ジェフを睨んだつもりだけど、きっと出来ていないと思う。だってジェフの顔は満面の笑みのままだったもの。国境の渓谷から枯らさないように薔薇の花束を抱えて帰ってくるのはとても恥ずかしかっただろうし、それで傷付けた事は許してあげる。
「あぁ、約束する。だから結婚しよう、ディリィ」
「何回も言わなくても聞こえているわよ。これからも宜しくね、ジェフ」
ジェフが嬉しそうに笑って抱きしめようとするから私は慌てて花束を潰さないように腕を広げた。だってこの花束は綺麗なままドライフラワーにしなくちゃ。
後日、薔薇を数えたら四十本だった。本当は百八本用意したかったけど、持ち帰るのに無理があって断念したらしい。そんな意味まで調べていたなんてジェフは相変わらずよくわからない。十二本でよかったのにと言ったら悲しそうな顔をしたので、少しは仕返し出来たかな?
薔薇の花束は108本でプロポーズ。40本で真実の愛。
12本はダーズンローズで1本ずつに意味があり幸せになれるそうです。