あたしの最後の春休み。
完全に時期を外していますがお読みいただけると幸いです。
お好みで「E.Satie Gymnopédie No.1」をBGMにお読みいただけると作品の世界に没入できるかもしれません。
※4/28 『カクヨム』でも掲載開始します。
※8/13 カクヨムで投稿したものに加筆し大幅改稿しました。改稿前の三倍ほどの分量になってます。それに伴い『最後の春休み。』から『あたしの最後の春休み。』に改題しました。
「……さすがに誰もいないわね」
卒業式が終わり、春休みに突入した校舎内を歩く。校舎内はいつもなら聞くことのないあたしの足音だけが響く。
階段の窓から光は入っているのに、校舎内は薄暗く色あせて見える。もう何年も前に撮った写真みたい。
放課後いつも登った階段を登る。部活動をしていた美術室は五階建て校舎の最上階に陣取り、そこからの眺めはちょっとした観光地の展望台にも引けを取らないと個人的には思ってる。
うちの高校は丘陵地の南斜面に無理やり造成したような場所に建っている。そのせいで敷地は狭いし、形も変。なにせ斜面に作ったせいで、敷地が横長になってしまった。一応、グランドは野球ができるけれどライト方向は百メートル近くあるのに対し、レフト方向はその半分ぐらいしかない。ただ丘陵地の南斜面、それもかなり頂上に近いせいで最上階からの眺めは他の高校には絶対ないと思う。
教室から南を見ると、昔農村の集落だった頃の古い街並みが見え、所々にある小さな鎮守の杜が淡い桃色に染まっているのが見える。そんな景色を見ていると今は周囲を新興住宅地やマンション群に囲まれていても、昔はのどかな集落があったんだと想像してしまう。そしていつまでも変わらないような景色であっても、時間の移り変わりとともに変わっていく……。
周りの景色の移り変わった時間に比べて、あたしがこの場所で過ごした期間なんてほんのわずかな間でしかない。変われないのもの仕方ないかもしれない。でも、あたしは……あたしは昔のままは嫌。でも、変わった気がしない。同じところでぐるぐる……卒業して改めて思い返してみると、本当にそんな気がする。
あたしはどこか変わったんだろうか? この三年間、ぐるぐると堂々巡りしただけのようにも思う。あの『絵の世界』を……あの『絵の人の世界』を追いかけて追いかけて……結局追いつけずに三年経ってしまった。この三年で何をしたんだろう……? 悩んでいた割には成果がない。こういうのを独り上手っていうんだろうか……?
なんとなく割り切れない思いを抱え、最上階まで登り、廊下に出てみる。
いつもの廊下を走るのは、どこからか吹き込んだ桜の花びらだけだった。花びらは校舎内に吹き込む風に吹かれ、廊下をぐるぐる回りながらかけ巡る。なんとなくあたしの三年間に似ている気がした。
春先の夕暮れの日差しが美術室に差し込む。いつもの部活中の光がそこにある。
誰かが閉め忘れた窓からは、冬の名残りのある風が吹き込む。カーテンがその風をはらみ、生徒の代わりに騒いでいる。その窓に近くには誰かが描きかけのデッサンをイーゼルに置いたままにしている。布をかけていたのだろうけれど、窓から吹き込む風で少しはだけていた。ついさっきまで誰かが描いていたのだろうか、木炭や練り消しなんかがそのまま置いてある。
風をはらみ騒ぐカーテンを静め、窓から外を見る。
まったく、何の用なんだろう? もう卒業したってのに……。
美術部の後輩の『アイツ』に話があるからと呼びだされたんだけど、何の用なんだろう? 何をしたいのだか……。昔からアイツはこっちの都合をあまり考えない。一方的に用件を押し付けたり、何かとあたしのすることに口を挟んでくるなんてしょっちゅう。一年生の頃のアイツのあたしを見る目が懐かしい。ちょっとはにかみながら、それでいてまっすぐあたしを見ていたあの目が気に入っていたのに。あのまま二年間過ごしてくれていたらなぁ……。
はぁ……。
アイツがいつ来るとも分からなかったので、あてどもなく窓の外を見ていた。窓の外の街はところどころ桜色の塊がかすんで見える。この景色もこんなふうに見るのはこれでおしまいか……。
そんなことを思うと、見慣れたはずのありきたりの景色が何か特別なものに思えてくる。今日限定の特別な風景……ってところか。
本当に三年間なんてあっという間に過ぎちゃったって感じがする。一年生のときは実感なんてあるはずもないけれど、卒業した先輩たちがみんな言ってたことってこういうことなんだ。実際同じ立場になるとよくわかる。
ふと校内に目を移すとどこかの運動部だろうか、ジャージ姿の生徒が時折見える。
こんな春休み真っただ中でも部活か。大変だな。でもきっといい思い出になるんだろうな。
思い出かぁ……この三年間の思い出ねぇ……。雲をつかむような日々……かなぁ……。恋い焦がれたものに追いつけそうで、結局手が届かなかった日々。
……それって思い出になるのだろうか?
『思い出になる』――自分でつぶやいた言葉に何かひっかかりを感じる。
何してきたんだろうな、今まで。
一年のときは、ただがむしゃらに絵に没頭していた気がする。あたしには描きたい世界が……あった。なんとかその世界を描き出したくて描きに描いた。描けば描くほど、その世界にたどり着けると思って。
長い長い道のりだった。客観的な時間すればそれほどでもないかもしれないけれど、あたしにとっては、数百年の修行にも思える長い長い時間だった。きっとこの時間が、費やした時間があたしをあの世界への通行料だと思って頑張った……頑張ったんだ。
全力で。
でもたどり着けなかった。何を描いてもなんとなく満足できなかった。何が足りないのかそれさえも分からず、迷いに迷って気付いたら、一年が経っていた。
二年になって、新入生を勧誘することになった。
新たな人間関係なんて、興味なかったし精神的にはそれどころじゃなかった。自分の欠けているものを追いかけているのに精いっぱいのあたしが後輩を指導するなんて想像できなかった。
特に当てにはしたわけではなかったんだけど顧問の先生にそれとなく話したら、先生は一人で背負いこんで悶々としているよりも、付き合う人の幅を広げたらどうかと言われた。付き合う人が変われば気分も変わると。
個人的にはそんな気分じゃなかったけれど、付き合う人が変われば気分も変わるかなと思い直して勧誘することにした。
うちの高校は入学式後、一斉に新入生歓迎を兼ねて各クラブが一年生を勧誘する。ほとんど一年一度の勧誘のチャンスなので各クラブとも必死になる。格闘技系のクラブどうしが同じ一年生を同時に勧誘することになると一触即発の危険性さえある張りつめた時間でもある。時には風で舞い散る桜吹雪の下、異種格闘技戦が始まったことがあるとかないとか……。
格闘技系ほどではないけれど文化系の各クラブも多かれ少なかれ、そんな緊張感は持っていた。特に部員の少ない弱小クラブに関しては時に格闘技系クラブとタイマンはらんばかりの勢いの時がある。鉄研対漫研の異種対決は見ものだったそうな。
そんなことはさておき、幸か不幸かうちの美術部は半分美大予備校のような雰囲気があったので毎年そこそこの一年生が入部していたらしい。なのでそれほど血走った眼をして勧誘する必要はなかった。当然、あたしがそんなに身を入れて勧誘する必要もなく、何となく一年生の様子を眺めていた。
するとアイツがあたしの目に入ったのよね。
アイツは他のクラブの勧誘には一切目もくれず、ほとんどまっすぐ美術部に向かってきた。
あたしがアイツを勧誘したら、何故だか一人テンションが高かった気がする。なんだか引っ越しして長い間会えなかった友達に会ったような一人奇妙な興奮状態で近寄ってきた。
しかしそのとき妙な質問をしてきた。なんのつもりだったんだろう?
『中学のときに賞を取ったことがあるか?』 なんて。
普通、そんな質問するとは思えないんどけど。ま、アイツが何考えているかなんて、どうでもいいことだけど……。
美術部の先輩としては、自分の実績を包み隠す必要なんてまったくないので、正直に答えてあげた。『中学の時に展覧会で銀賞を取ったことがある』ってね。そしたらアイツやたら目を輝かせてあたしを見つめるの。熱に浮かされたような、熱い視線で見つめられるなんて初めてだったから、見つめられたこっちが恥ずかしくなって、顔を思わずそらしちゃったのはいい思い出……ということにしておこう。
……アイツの視線を思い出したら、なんだか身体が火照ってきちゃった。まったくもう! なんで?
ま、いっか。今思うとアイツのまんじりともせず、ただ一点を見つめるようにあたしを見るあの目は嫌じゃなかった。あたしがデッサンしていたり、油絵で静物を描いているときのアイツの視線がなんだか心地よかった。
も、もしかしてアイツのせいで、変な性癖に目覚めちゃったとか……? だとしたらアイツにセキニンを取らせないと!
あの時はまだ可愛げもあったのになぁ……何であんなふうになったんだろう?
入部してすぐこそ従順な一年生してたのに、だんだん厚かましくなってきたのよねぇ。最初、初心者っていうからデッサンの基本から教えてあげたら、筋がいいのかあたしの教え方がいいのか、やけにアッサリとそれなりの絵を描きだした。なので後はある程度は自分で何とかするだろうと思って、適当に教えておいた。
慣れてきたなぁと思って、あたしの絵を見せてどう思うか聞いてみたら、他の一年生は当たり障りのない感想を言ったのにアイツは『構図が悪い』だとか『デッサンがくるっている』とかあたしの絵にいろいろいちゃもんつけてきたし……。頭きたけど、そこはそれアイツよりオトナなあたしは笑みを浮かべ、『率直な意見ありがとう』って言ってやった。自分でもよく怒鳴りださなかったわ。
それだけじゃなくて、アイツ、あたしの絵をときおりひどくけなすようなことがあった。月に一度のクラブでの批評会のときにアイツときたら、あたしの油絵に『配色がイマイチ』とか『メインになる色が無い』とかボロボロにこき下ろすし、何なのよ! おまけに生活態度ががさつだとか、『もっとおしとやかさを身に着けたほうが僕の好みです』とか、頭にくる! がさつでゴメンね! それにあんたの好みなんて知ったことじゃないわよ! いったいあんたはあたしの何なのよ!
あまりにももめるものだから顧問の先生も顔が引きつって、やんわりと止めに入るし。顧問がフォローに困るようなコメントするんじゃないわよ!
思い出したら、腹立ってきた。こっちは小さいときからから描いていて、それなりにキャリアがあるつもりなの。そりゃ、アイツは他の初心者に比べれば呑み込みが良くて、独特の感覚を持っているみたいだけど、そうは言っても初心者は初心者。初心者にボロボロに言われて頭来ないはずがない。あたしは中学の時に賞を取ったこともあるんだからね!
……銀賞だったけど。
金賞は……金賞は誰だったかな? 書いていた人に興味をそそられたけれど、匿名で出品していたのであたしより年下と言うぐらいしかわからなかった。なのではっきり誰とわかる情報はなかった。中学生のあたしに匿名の個人情報を探れるわけもなく、それっきりになってしまった。
金賞の絵にあたしは吸い込まれた。しばらく目が離せなかった……。賞を取ったうれしさよりも、あの絵から受けた衝撃のほうが大きかった。なんとしても同じところへ行きたいと思った。この絵の世界に匹敵する、いや超える世界を描きたいと本気で思った。
……それが間違いの始まりだったんだけど。
勢い込んで、高校生になって絵を描きに描いた。描けば描くほど近づけると思っていた。でも描いても描いても何か物足りなかった。何が足りないのかもよくわからないけれど。どうしても納得できなかった。何かが欠けていた。とても大事なんだけど、何かわからないものが……。
その時、後悔した。あの絵の作者についてもっと調べておけばよかった。そうすれば、このもどかしさや物足りないものの正体がわかったかもしれないのに……。
ま、その話はいいわ。今はあまり思い出したくない。
二年の夏合宿の時もアイツのせいで遭難しかけたし……。
アイツがあんな辺鄙なところを連れていかなければ、あたしは足をくじかすに済んだのに。
うちのクラブでは毎年、夏休みに山か海近くの民宿か国民宿舎にこもってずっと絵を描くことが恒例行事になっていた。風景画を描くこともあるんだけど、そのときは宿舎をでて近くの山や海へ出かける。安全上の理由から誰かとペアを組んで出かけるのだけれど、どういう風の吹き回しかあたしとアイツがペアになって、写生しに出かけることになった。アイツ、妙に気合が入っていてこっちがちょっと引いてしまったな……なんでアイツそんなに気合が入っていたんだろう?
やたらと野外装備が充実していたのは少し笑えた。川釣りの時に着るようなやたらポケットのあるベストを着こみ、背負ったデイパックにはなぜかロープやよく分からないナタみたいな刃物を装備、腰にも何が入っているのか分からない小物入れを取り付け、さらに下半身は軍用じゃないかと思わせるような作業ズボンモドキにやたら重そうなコンバットブーツ。『お前さんは今から陸自のレンジャー訓練でも受けるのか?』と突っ込みたくなるような物々しい出立ちで、単なる野外の写生に必要なのかと首をひねったことを覚えている。いったい何しに来たんだか……。
そんなこんなで山へ来たのはいいけれど、あたしにはもう一つピンとくる景色がなかった。というより、目の前の景色に今一つ集中できなかった。絵にすればそれなりの絵にはなったんだろうけれど、あたしにはそれでは満足できなかった。それなりじゃなくて、とびっきりの特別な風景を、誰も見たことないようなあたしだけの世界を描きたかった。……残念ながら目の前の景色はその題材としては力不足に思えた。しかたがないので、景色を眺めるふりをして、しばらくボーッと周りを見ていた。ふとみるとアイツはかなり小さいスケッチブックを取り出し、あたしのほうをチラチラ見ながら何やらスケッチしている。何を描いているのだろう? ちょっと興味あったり……。
ちょっと覗いてみた。するとアイツ、慌てふためいてスケッチブックを抱きしめ隠す。真っ赤になって……かわいい。
あらぁ……おねーさんに見せられないようなものを描いていたのかなぁ。にひひ……。
ま、いいわ。場所を変えましょうよ。もっといい場所ないかな。もっと私だけの世界を展開できるような特別な風景は。そう思って、適当に景色を見てぶらぶらしていた。
さすがにそんなあたしの様子を見て、アイツみたいな朴念仁でも分かるのか、『もっと奥のほうへ行きましょう。もっと絵になる景色があるかも』って誘ってきた。珍しくあたしの気持ちを察したみたい。うん、かわいいコーハイの好意は無下にしたらいけないねぇ。そう思って素直にアイツの後を追うことにした。
ずんずんアイツは山の奥へ奥へと分け入る。
どこまで行くんだろう? 鬱蒼とした木々が覆う山道を脇目も降らず、アイツは進む。
ち……ちょっと待ってよ。いったいどこまで行くのよ? もしかして……あ、わかった! このまま人が来ないような奥地で……口に出しては言えないような、あんなことやこんなことをあたしにしようと考えているでしょう! やだ……襲われるぅ! あたしの貞操が危機ー!
一人身もだえているとアイツは残念なモノを見るような憐れみの目であたしを見ている。
……なんて目であたしを見ているのよ。あたしはそんな憐れむような目で見られるような痛い子じゃないわ!
いたたまれないほどの恥ずかしさから思わず怒鳴りつけてしまったら、アイツ何か慌てて否定してきた。
……え、誤解しているって?
じ……じゃあ、なんでこんな人里離れた奥地まで来るのよ。おかしいじゃない。
え……あと少し? もうすぐ着くって? それならそうとちゃんと言いなさいよ。だいたいアンタはいちいち言葉が足りないのよ! ちゃんと話すべきことは話しなさい! ね、ちょっと聞いてる? 聞いているの? もう、全く……。
アイツはあたしの言葉を聞いているのか聞いていないのか、何かに取り憑かれたように先を急ぐ。
突然、アイツの足が止まる。
ど、どうしたの? 突然立ち止まって……?
アイツは何かニヤけて、あたしを見る。
何よ、そんな顔して。感じ悪いわね。
え……?
目の前に現れた光景に息を呑んだ。
鬱蒼とした森の向こうに岩肌見えた。その岩肌に煌めく光の流れがある。木漏れ日を受け、風が吹くたび煌めく木漏れ日以上に輝く光の流れがあった。満天の星が空から降りてきて滝になったような煌きがそこにはあった。薄暗いなか、木漏れ日の光のカーテンが風にそよぎ、時折、七色の光も見えた。光と影の織りなす光景は、言葉をいくら重ねても正確なところは伝わらないかもしれない。それほど圧倒的な印象をあたしに与えるものだった。
しばらく息をするのも忘れ、見とれていた。
山奥にこんな場所があったんだ……。知らなかった。
何かに取り憑かれたようにその場所へ引きつけられる。
アイツが何か叫んだ。
……え? 何……?
いきなり目の前の景色が大きく回転した……。
あたしはどこかわらないところを転げ落ちていく。どんどん下へ下へ……。空と地面がかわるがわる目の前を通過し、最後にはどっちが上でどっちが下かわからない。
どこまでも落ちていく気がした。地獄へ、奈落の底へ落ちるってこんな感じなのかな?
どのぐらい転がっただろう、気がついたら全然違うまったく見知らぬ場所にいた。まわりは暗く、はっきりどのぐらい奥行きがわからないようなくぼ地の底のようなところにいた。かなり遠くに微かな光と流れ落ちる水の音が聞こえる。
痛いっ! 立ち上がろうとしたら、足に激痛が走る。全然動けない……誰か助けて……。
誰かに助けを求めようと、周りを見渡す。暗がりの中に、木漏れ日にライトアップされる滝だけが妙に印象的だった。聞こえる音は水の音、風に揺らぐ木々の葉っぱの擦れる音ぐらいで人の気配がしない。
え……? どうしよう……こんなところに一人きりなんて……。
足のひどい痛みで動くことができす、しかも周りには人の気配がない状況に心細さが極限に達しようとしていた。あまりのことに叫び出すこともできず、ただ恐れおののき、冷たい地面の上で生まれたての子鹿のように体を震わせる。
あたし、こんなところで死んじゃうの……? 嫌よ、そんなこと、絶対嫌! 助けて……! 誰でもいいから、助けて! 助けてよぉ……いやぁぁ……。誰かぁ……。
心が絶望の色に染まり、生きる希望を失くしかけたとき、あたしにとって天からの導きとさえ想える声が聞こえてくる。
『センパイ、大丈夫ですかっ!』
アイツの声がいつも以上に心地よく、心強いものに聞こえた。あたしはその声に安心してしまう。
『センパイ……大丈夫ですか? どこか痛いところはありますか? センパイ……?』
あ……ダメ……涙が止まらない……。
あたしはアイツに抱きつき、肩を震わせる。アイツは何も言わず、優しく抱きしめ返してきた。
今思い返すと、これほど恥ずいシチュエーションってないわね……。ああっ、もう! 思い出しただけで、赤面してしまう。
あたしが落ち着いてきたのを見計らって足の状態を確認するアイツ。アイツはこういう事態に慣れているのだろうか、妙に手際がいい。しかし少し恥ずかしい……うら若き乙女の足をいじくりまわすとは……。
……何、これ? 何やってるのよ、説明してよ。
『……とりあえず、骨は折れていないかも。多分、足をひどく挫いたみたいです。なら、しばらく痛むけれど、移動できます』
良かった、動けるんだ。
ちょっと安心して、アイツがあたしを見ている。
……あによ、なんか文句あるの?
こっちは命の危機を感じて、大変だったんだから! あー! そんなに笑うことないじゃないのっ! まったくもう……こっちの気持ちを知らないで。
ぇ……?
アイツがあたしをしっかり抱きしめた。
アイツは震えていた。
なんで……?
あたしの頭は完全に真っ白になった。
……その後はよく覚えていない。
唯一覚えているのは、ヤケに頼りがいを感じる背中がすぐ目の前にあることだけだった。
……よくよく思い出すと顔から火が出そう。なんでアイツ、あんなに震えて……あのときの状況を考えても、震えるのはあたしのほうじゃない……。
アイツの考えることなんてわかんない。
その後、こってり顧問の先生に絞られるし、やっぱり足は痛いし。
でも、あの日からアイツが変わった気がする。あたしの扱いが妙に丸くなったというか、なんとなく優しくなった気がする。
絵を見せても、以前みたいにボロボロに言うことはなくなった。人並みに気を使えるようになったのは成長したかな。やっぱり教育って大事よね。
……もっとも奥歯にものが挟まったというか、遠回しになった表現が微妙に癇に障るようになったのは誤算だった。
変に気を使って、時々そわそわしたり、こっちの反応を妙に気にしてみたり、愛想笑いの回数が増えたり、一体何を考えているのだか……。アイツの思っていることはホントよくわらからない。
時々何か言いたそうな顔をするので、ジッとアイツの目を見てやったら、あわてふためいて目をそらして黙っちゃうし。何か言いたいことがあるのなら、ストレートに言えばいいのに……。
でも、あたしもちょっと変わったかな? 何となくアイツと二人で出かけることが多くなった。美術館とか、画材屋とか。あ、後文化祭の企画をつめるためにファミリーレストランに二人で結構夜遅くまで一緒に話し合ったな。その時はそんなに意識していなかったけれど、今から考えると時間が経つのが早かった気がする。友達とわいわい出かけるのも悪くないけれど、同好の士と二人過ごすというのも悪くない。
笑えるのはクラスの友達に出くわしたときにアイツったら、妙にあわてふためいておっかしかったなぁ。そんなにあわてふためくことなんてないのに。
別に『オツキアイ』しているわけでもないんだし、気楽にしていればいいと思うだけどな。
気楽にしていれば……そんなに考えることもないし……ね。
ま、そんなことも大学受験が迫るとそうも言ってられなかった。
特に三年になると引退って決まっていたわけじゃないけれど、何となくいつの間にか美術室から足が遠のいたな。うちの部は美大希望者が多いので、実技の練習もかねて受験のぎりぎりまで美術室でデッサンしている三年生もいたので、どの時点で引退何てはっきりしたものはなかった。
でもあたしは美大を受ける気はなかったので、受験勉強にかまけて美術室へ顔を出すことが減ってしまった。
美大には興味はあったんだけど、自信がなかった。受験が大変というのもあるけれど、万が一合格してその後高校の繰り返しになることが怖かった。本当にそれが怖かった。追いかけても追いかけても、届かない……どれだけ手を伸ばしても決して届くことないものを追いかけてしまいそうで怖かった。そんな恐怖から逃げ出したかった。
だから絵とは無縁の世界で生きようと大学は自然科学系の学部のある大学を受けた。夏合宿以来、森林生態系に興味を持ったのでその道ならいいかなと……正直なところ自然科学的な興味というよりもフィールドワークでまたあの時のような景色に出会えることを期待してなんだけど。
それはさておき、あたしはとにかく受験に専念することにした。なんとなくあたしの考えをアイツには伝えておかなきゃと思って話してみたら、ものすごく寂しそうな笑みを浮かべて、『頑張って下さい。応援してます』なんて殊勝な言葉をもらった。あまりに寂しそうなので、メールアドレスと携帯の番号を教えてやった。なぜかしら花が咲いたように明るい笑顔喜んでいたな、アイツ……。
そう言えば個人的に連絡する手段をメールアドレスとか教えるまでなかったな。二人で出かけるようなときも部室で連絡しあえるから教えていなかった。そんなに個人的に連絡をつけたい理由でもあるのだろうか? 受験勉強に気を取られて、特には感じなかったけれど今考えるとアイツ、結構あたしのことを気にしていたのかな……?
ことあるごとにメールくれるし、時々電話をかけてきてこっちの様子を気にしてくれたし……。
無事合格したら、自分のことのように喜んでくれた。あれはおネーサンとしてはちと恥ずいけど、嬉しくもあった。あたしのことなのに大はしゃぎして……。
あれ……?
どうして……?
え……どうして……あたしの高校生活にはほとんどアイツが絡んてくるの? ていうか、なんでアイツがらみのことしか思い出せないの?
あたしってそんなにアイツのことを……?
ないない! 絶対にないっ! そ、そんなわけないじゃない……ないよね……?
「あれ? センパイ、もう卒業されたでしょう?」
一人ありえない想像に悶えているとあたしは声をかけられた。その声に振り返る。そこには見慣れた、いたずらっぽい笑みを浮かべるアイツがいた。
……若干、目の下にクマを作っている。何やっているの、あんた?
その時、一瞬目があった。やや疲れは見えるものの、何か純粋な光を宿すアイツの目に引き込まれそうになる。そのことに気づき、目をそらす。アイツから見たら、あたしの顔は茹でダコより朱くなったように見えているかも。
……なんかやだ、アイツにこんな姿さらすなんて。
「な、何言ってるのよ、あんた。あんたがちょっとヤボ用があるからっていうから来たんじゃない。卒業してから制服って結構恥ずかしいのよ。んで、ヤボ用って?」
とにかく照れ隠しで、アイツに強気で当たってみた。
「はは、あいさつ代わりの軽い冗談ですよ。ま、そう焦らずに。このあと時間あるんですよね? センパイの大学受験やらいろいろあって、ここんところゆっくり話をする時間、ほんとんどなかったですし。いいですよね?」
「……まぁ、いいけど」
笑えない冗談ほどはらたつことはないわ。ほんとうにこいつ、人の都合を考えないわね。昔からそう。
「……えーと、改まって話すとなると緊張するな」
アイツの急に態度が改まる。はた目にもものすごい緊張しているのがわかる。あまりにも緊張しているので、その緊張がこっちにも伝わってくる。
な、なによ。急に……そんなに改まって話しされたら、こっちも緊張しちゃうじゃない!
「この二年、長いようでホント、あっという間のような気がします。え――」
アイツはあたしと出会ってからの経緯を延々と話し始める。どうも、事前に原稿を用意して暗記したようなしゃべり口だった。準備万端なのはいいけれど、準備万端なのはそこ?
もっと時間をかけるべきところがあるでしょう? あまりにも長いのでこっちが焦れてきた。
ああっ、もう!
「長い……。結論から言って!」
アイツの話を聞いていたら、理由はわからないけれど恥ずかしくなった。心臓の鼓動が限界に達しそうなぐらい。アイツにそんなこと気づかれたくないので照れ隠しに結論を迫ってしまった。
「へ……? け、け、結論ですか……」
あたしから結論を急かされ、テンパってる。何をそんなにテンパることがあるのだろう?
「そう、あんたの様子を見ていて、いたたまれなくなってきたから、早く楽にしてあげようと思ったのよ。さ、さっさと吐いて楽になっちゃえ」
途端に顔を赤くして、うつむくアイツ。可愛くないぞ、やろーがそんな反応しても。
「昨日、ほとんど寝ないで考えていたんですが……」
「そんなこと、知らないわよ。あんたが勝手にやったことなんだし。さ、能書きはもういいわ! サッサと言っちゃいなさい」
だんだん気恥ずかしくなってきたし、いたたまれなくなってきたからちゃっちゃ終わらせてよ。どうせ大した話じゃないんでしょうし。
……たぶん。きっと。そうに違いない。違うかな……? 違う?
「……センパイ……す、好きです。だっ……だいっ……」
え……? え……? え……? えー! 何……? 何をい、言われた?
ド直球の告白だぁぁぁ!
ド直球の告白にどう反応していいのか……。はじめての経験に戸惑うばかりでどうしたらいいのか全く分からない。
戸惑うあたしを置いてきぼりにして、アイツは話を続ける。
「もしよければ……つ……つ、付き合って……くださいっ!」
チョットまて! こっちにも心の準備ってものが必要で……。
「……お、おちつけ。チョット落ち着け。何を言っているのかわからない」
「ダイジョウブデス、ナントカナリマス」
かなり興奮しているアイツは完全に舞い上がって、おかしなことになっている。
落ち着け、まあ落ち着け。
「……いきなり告白されても、返事のしようがないのだけど。こっちはそんなつもりでアンタ を見たことはないから……」
少しアイツを落ち着かせ、話を聞くことにした。なんでいきなり……それに……なんであたし?
「……好きになってくれるのはうれしんだけど……前置きもなくド直球で告白されても……」
何をどう言っていいのかわからないけれど、あたしは言葉を選んでできるだけ優しく人生の先輩として優しくアイツを諭した……つもりだった。
アイツはあたしの言葉をどう聞いたのか、みるみる落ち込んでいく。このままだと美術室の床をぶち抜いて地球の裏側まで落ちていきそうだった。
「あっ……! あ、あの、差し支えなかったら、どういうきっかけでそんな気持ちになったの? よかったら教えてくれるとおねいさんうれしいなぁ……なんて……ねぇ」
あたしも少しテンションがおかしくなっているみたい。自分で何を言ってるのか、わからなくなってきた。
アイツは少し寂しそうな笑みを浮かべ、あたしを見つめた。
ドキッ……アイツから放たれた何かに胸を撃ち抜かれたような変な感覚……。
あたし、何かおかしくなったのかな? アイツの笑みがとてもさわやかなイケメンに見える。
ちょっとかっこいいじゃない……え?
アイツの笑みに見入っているとおもむろにアイツは話し出した。
「……実はセンパイのことは入学前から知っていたんです。センパイが中学の時、銀賞を取ったこと覚えていますよね? あの時からセンパイのこと、追っかけてました」
聞きようによっては、かなり危ないセリフをしれっと吐くアイツ。懐かし気にさらに続ける。
「僕もあの展覧会にも出品していたんですけれども、センパイの絵に……惚れました。一発で」
え……? え……?! えーーーーー!
あの絵はいろんな人に褒められたけど、こんなふうに言われたことはなかった。どうリアクションしていいのか分らない! だれか何とかして!
「あの絵を見て、あんな構図、絶妙なバランスの配色、何もかもが衝撃的で、あの絵のことを考えていたら頭から離れなくなって、描いた人に会いたくて会いたくてたまらなくなって……」
「……それでうちの高校へ来たと?」
うなづくアイツ。なんだ、全くの素人じゃなかったんだ。どおりでいちいちうるさかったわけだ。
「美術部に入ったのはいいのですが……センパイ、結構テキトウだったもので……つい……」
ゴメンなさい……。バレてたのね。素人相手だと思ってちょっと適当なことを言ってましたが、まさかバレバレだったとは……。
「……ちょっと残念でした。あの絵を描いた人がこの人だと思うと。だから……」
「絡んできた……と?」
すっかり素に戻ったアイツはただただうなづくだけだった。
「何があったんですか? 何となく絵に集中できないように見えたんですが?」
結構鋭いわね。実際のところ悩んでいたのは間違いないわ。何枚描いてもあの金賞の絵には、あの絵の世界には近づけなくて……。
「……ちょっとしたスランプよ。目指していたところまで描き切れなくて……それが悔しくて、荒れていたのは事実だけど」
「荒れるのはわからなくはないですが、あの時は困りました。合宿の時の……」
「あ……! あ、あれはあんたが奥のほうが絵になるからって言うからついて行ってあげたんじゃない。あたしは悪くないわよ。……そりゃ、足くじいておぶってもらったのは迷惑かけたと思うけど」
「大したことなかったからよかったですが、一歩間違えれば遭難してたんですよ。荒れるのも大概にしてください。決してセンパイ一人で生きているわけじゃないんですから」
「うっさいわね。そこまで言われたくないわよ。これでもいろいろ自重して周りには気をつかってきたんだから」
あーもー、腹の立つ! 思い出したくもないことを思い出したじゃないの! あの後、顧問の先生にしこたま絞られたし。とにかく長かった。足くじいたのに正座させようとするし。何考えてるんだろう、あの先生は。アイツのお蔭で正座は免除なったからいいようなものの……。でも、あの時のアイツの背中、少し頼もしかった。少し、少しだけだけどね!
あの時のことを思い出したら、ものすごく恥ずかしくなってきた。もうやめて、羞恥プレイなんてしたくないの!
「……まぁ、あ、あの時は世話になったわよ。感謝しているわ」
「どういたしまして。でも、悩んでいることがあったら、一人で抱え込んで暴走しないでくださいね。心配ですから」
「……わかったわよ。もう子供じゃないんだから、そんなに繰り返さなくても重々承知しています!」
「なら、いいんですけど……。センパイは悩みごとを抱え込む傾向があるのはよくわかりました。普段は強気で何でも通そうとするのに、悩みごとを抱えると途端に脆くなるから、心配です。悩まないでとは言いませんがせめて周りの近い人にはキチンと話をしてくださいね」
「……わかった、わかったわよ。繰り返さなくてもわかるって言ったでしょ。それなりに自覚しているんだから」
アイツは突然遠い目をして、つぶやく。
「本当にあの時は怖かった……」
怖い……? なんであんたが怖がるのよ? 怖かったのはあたしのほうよ。
「……どうしてあんたが怖がるのよ? あんたが怖がるところなの、そこは?」
今一つ言っていることが分からず、首を傾げるあたしを見て言葉を続ける。
「本当に怖ったんですよ。ずっとセンパイを見ていて何か悩みを抱えているのは分りました。どうにかしてあげたかったけれど何もできなくて……。そんなセンパイが転げ落ちて、泣いている姿がか弱くて、消えてしまいそうで……だから思わず抱きしめました」
あー、あー恥ずい! そんなことを面と向かって言わないで! ああ、心臓が壊れそうなほど動いている。体温が急上昇してきた。
「でもよかった。抱きしめたときにセンパイのぬくもりを感じて……ここに間違いなくいるってことを感じたら、泣けてきちゃって……」
やーめーてー! 恥ずいにもほどがある! 顔を真っ赤にするくらいなら言わないで!
この話はさっさと切り上げよう。ここままでは恥ずかしさで死んでしまう。
「……でも、よくわかったわね……あたしが悩んでいたってこと。そんなこと誰にも話したこともないし、言われたこともないのに。あんただけよそんなことに気づいたのは」
「目指したところってどんなところまで描こうと思っていたんですか? もしかして目標としている絵があるとか?」
え……?! な、なんでそんなことまでバレるのよ。ほとんど何も言っていないのに。
「あ……あるんですね、そんな絵が。そっかぁ、そんな絵なら見てみたかったなぁ。センパイが惹かれた絵なんだから、相当すごい絵なんでしょうね」
さっきまでの悲壮感が嘘のように明るい笑みを浮かべあたしを見る。そんな笑みでこっちを見ないでよ……なんか照れくさいじゃない。
ん……でも、あの展覧会に出品したなら見てるはずなんだけどなぁ……?
「あれ……? 覚えてないの? あたしが銀賞を取った時の金賞の絵あったでしょう? あれなの」
「え……? あの絵なんですか?」
「そうよ。展覧会に出すまでいろんな絵を見てきたけどあの絵ほど衝撃を受けたことはなかったの。黒のバックにあそこまで大胆な極彩色。しびれたわ。それ以来、頭から離れなくて。もしその作者に会えたなら、前提無しで『オツキアイ』しちゃうかも」
アイツよりオトナなところを見せたくて冗談めかしてみた。何故かアイツが何か恥ずかしそうに頭を掻いている。何しているのよ?
「……えーと」
何か言いたいの? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい!
「……えーと。言いにくいんですが、それ僕の絵です。」
えーーーーーーー! 何で? どういうこと? え? ちょっと待て?
「最初はあまり人の目に晒されるようなところには出すつもりはなかったんですが……中学の美術の先生が是非にって言うもんだから、仕方なく……」
あ、あのどういうことでしょう? こんな近くに恋焦がれた絵の作者がいたのに自爆していたってこと? あー! 恥ずい! 恥ずかしすぎる。
自己嫌悪……。ホントに嫌になる。あたし、何をしていたんだろう? あたしの高校生活は何だったの? こんな近くに欲しいものがありながら気づいていなかったなんて……。
「……もっと早く言ってあげればよかったですね。それならセンパイもこんなに苦しまずに済んだのに」
アイツのその一言に一瞬めまいを感じる。それと同時にいわれなき怒りがふつふつと湧いてくる。
「何、どういう意味よ! あんたにいったい何ができったって言うのよ。簡単に言わないでよ、あたしの気も知らないで! あたしがどれだけ苦しんで、苦しんで……」
思わずアイツの胸を激しく太鼓を打つように両手で叩いた。しばらくそうしていたら、アイツは何も言わず、あたしを抱きしめた。あたしは何が起きたのか分からず、頭が真っ白になった。何が起きたの……?
アイツはあたしを抱きしめたまま、優しく頭を撫でる。
あたしは……あたしは……何を……?
気づいたら、あふれ出る涙を抑えられなかった。あふれ出た涙を拭くことすらせず、いつの間にか、アイツの胸に埋もれていた。アイツの胸に埋もれて……
泣いた。泣いた。泣いた。
あたしは涙が枯れるかと思うほど泣いた。
「……バカ。本当にあたしってバカ。あんた、こんな女のどこがいいの?」
「綺麗……綺麗だっただから。センパイがキャンバスに向かっている姿、見とれてました。センパイの真剣に絵を書いている姿はそれ自身がアートだったんです。夕日の中で輝いて見えたのはキャンバスの照り返しだけじゃないと思ってます」
……あ、こんな時どんな顔をしたらいいんだろう? 本気で何も考えられなくなった。たぶんあたしの顔は今締まりのない顔なんだろうけど、そんなことはどうでも良くなった。初めての気持ち……。
「いつも、いつまでも側で見ていたかったんです、センパイの姿を。そう願うようになったら……もう……離したくなかった。それにあの夏合宿の時、この女性を失いたくない……離したくないって気持ちが抑えられなくなって……」
アイツは何のためらいもなくあたしを見ていた。あたしもためらう理由が思いつかない。あたしたち二人はそっと近づき、指をからめる。
あたしとアイツは何も言わず、しばらく見つめ合う。ただそれだけで満ち足りたものを感じた。しばらくしてアイツが何かを思い出す。
「そうだ、センパイ、忘れていた。よかったらこのデッサンを完成してもらえませんか?」
と言ってアイツは美術室の中に置きっぱなしになっているイーゼルに置いてあるデッサンを指す。
「このデッサンって……? あ……」
アイツはイーゼルにかけてあった布を取る。現れたのはあたしの横顔だった。向かって右半分にあたしが……。
「空いているほうに僕を描き加えてもらえませんか?」
へ……? なんで……?
「センパイ、受験勉強であまり美術室に来てくれなかったので言いそびれたんですが、それを卒業作品として残してくれませんか? 本当なら卒業式前にお願いしたかったのですがなかなか言い出せなくて……」
あんたとあたしが……? 一つの絵に……?
「……ち、ちょっと待って。なんであんたと一緒の画面に収まらないといけないのよ……?」
まったくもう……恥ずかしいじゃない。そのあたりは察してよ!
「……ええ、まあ。そうなんですがどうしてもセンパイと僕とが一緒にいた記念というかなんと言うか……形にしたかったんです」
……もう、恥ずいことをどうして次から次へ口から出てくるのだろう、こいつは……。
「それなら、別に一つの画面に収めなくてもいいじゃない……同じテーマで別々に描いたって」
「いやいや、センパイ。二人で一つの絵を描き上げることでセンパイの悩みが消えるんです。今、思いついたんですけど……」
え? どういうこと? 言っている意味がわからない。
「どういうことよ?」
「つまりはこの絵を完成させることでセンパイは僕に追いついたことになるんです。そして、もっと大事なことは僕とセンパイの共同作業で完成させるということです」
「もう! もったいぶらずに教えてよ!」
「わかりにくかったかなぁ……。一つの絵を二人で完成させるということは絵の世界を共有することですよ?」
絵の世界を共有……同じ世界を共有……あ!
あたしはそこまで考えて、はたと気づく。かなり詭弁にも感じたが、今のあたしにはそれで十分だった。確かにあたしはアイツに追いついく! 同じ世界を描いている!
「……やっとセンパイを苦しみから開放できるみたいですね」
アイツはあたしの両肩をつかみ力説する。
その言葉にいろんな感情があふれ出て止まらなかった。気づくとアイツはそっとあたしの肩を抱いた。抱き引き寄せられたあたしはアイツの胸の中へ抱え込まれる。
「この絵が完成すればセンパイの高校生活が本当に終わるんですよ……」
あ……だめ……そんなこと言わないで……また涙が……。
不本意ながら、あたしはアイツの胸でさめざめと泣いた。苦しみから開放される喜びと本当に高校生活が終わるんだという寂しさと……あたしを良いところも悪いところもひっくるめて受け入れてくれる男が今目の前にいる嬉しさ――そんな感情がないまぜになって湧き上がってきたせいで、感情を抑えることができなかった。
「さ、描きましょう、センパイ」
「……ん」
アイツがあたしの涙をぬぐって優しく促す。
アイツから木炭を受け取り、アイツの横顔を空白に描きこんだ。
あたしはただひたすらに画用紙の上に木炭を走らせる。ついにたどり着いたゴールへラストスパートするように。アイツの……アイツが待っている世界へ。
「できたわ」
小一時間、木炭を走らせデッサンはできあがった。モデルをしていたアイツがあたしのところへくる。
「あれ? なんでこっち向きに?」
デッサンには同じほうを見つめるあたしとアイツの横顔がある。
「な……何言っているのよ。向かい合った顔なんて恥ずかしいじゃない。あたしはあんたをずっと追っかけてきたんだからこれからは二人並んで……」
あー! あたし、なんてことを!
ふとアイツを見ると耳まで真っ赤にしてあたしを見ているアイツがいる。
「……ま……その……そういうことだから、これから、よ……よろしく」
「はっ……はいぃ、よ、よろしくお願いします、センパイ」
外は日が傾き、あたしたちの顔の色のような空が広がっている。
「……もう遅くなったから、帰ろうよ……」
「……はい」
「それから……もう『センパイ』と呼ぼないで。そうじゃなくて……ね、わかるでしょう……?」
「え……? あ……はい」
アイツはそっと顔をよせ、耳元であたしの名前をささやく。その響きはあたしの耳を、意識をとろけさせるのに十分だった。
こうしてあたしの高校生活は完全に幕を閉じた。
そしてあたしの最後の春休みが始まった。
あたしの人生に二度とこない最高の最後の春休みが……。
いかがでしたでしょうか?
思いつきで書いたものですが個人的にはいい雰囲気に仕上がったのではと思っています。コメントなどお待ちしてます。