dissociation
バスルームの床を敷き詰める光沢のあるタイルに、彼女の身体から落ちた泥汚れがついている。足の形をくっきりと残したそれらの先には、無残にも砕け散った鏡の破片が散らばっていた。
彼女は、両手で木製の椅子を寄りかかるような形で掴み、さかりのついた猫のように背骨を曲げている。ひん剥いた目と口からのぞかせる犬歯。ぐるるる、ぐるるるとしきりに喉を鳴らしながら、椅子を持ち上げては、鏡の破片に向けて振り下ろす。
どたんと一回。がりがりぐしゃんと鏡が割れる。
さらにもう一回。今度はくだくだになりすぎて、タイルの床に当たってしまう。それでも彼女は、執拗に椅子を持ち上げては振り下ろす。
人語の通じない獣と同じように、彼女の意志を汲み取ることは難しい。ただ、その彼女の様子からは、尋常ではない憎悪が感じ取れる。
「な……なに……」
背後から、怯えたイザベラの声が。私の慌て様を心配して、追いかけてきたところ、このバスルームの惨状。私を楯にするようにして、エイミーの様子を見やるイザベラ。背中を通して、彼女の体温と震えが伝わって来る。
だが、こちらに気づいたエイミーも、私たちに対して恐怖の念を怯えているようだった。血だらけの四肢で後ずさりをし、バスタブに背後を阻まれて身動きができなくなっている。
私に怯えているのか。
無理もない。彼女を取り押さえるためとはいえ、後頭部を打撲する怪我を負わせたのだから。
「……すまなかった」
正直、彼女に言葉が通じるかどうかは分からない。
だが、私を警戒する彼女には誠意を示さなければならない。できるだけ伝わりやすい形で。
私は、彼女の前に跪き、頭を下げた。
「君をここに連れてくるためとはいえ、乱暴な真似をしてしまった。――君にはここは慣れない場所で、私のことも怖いだろうが、もう君に危害を加えたりはしない。約束する」
しばらく沈黙が続く。彼女の顔を見ることができず、顔を俯けたままでいるが、視線は感じる。――こちらを探るような視線だ。
「警戒されているようだな」
そこにリチャードがやって来た。
電話の応対から、落ち着きを取り戻したようだ。歳に似合わない好奇心に溢れた瞳を見ると、妙な安心感がある。
彼女の視線が、私から移ったのを感じた。ようやく顔をあげると、リチャードは、エイミーと目の高さを合わせて、真っ直ぐに見つめ合っていた。頭を下げた私とは、ある意味で真逆の行動だ。
「相手の瞳を見るんだ、ジェイク」
確かに私の行動は、彼女から目を反らす行動に他ならなかった。おまけにその後、彼女の顔を見ることがしばらくできなかった。
彼女が私を恐れていたというよりも、どこかで私が彼女を恐れていたのかもしれない。
「エイミー、君は何が怖い?」
落ち着いた優しい声で話しかけるリチャード。再び沈黙が続く。その間も、彼は一点の曇りもない瞳で、彼女を見つめていた。
「――メイ。メイ……」
ついにエイミーは、口を開いた。正直、彼女が言葉を発したということに驚きを隠せなかった。ぼそぼそと呟くような声で、はっきりと聞き取ることは難しい。しかし、彼女は、「メイ」という女性の名前を謳っていた。
ただ、その名を口にしたとき、彼女の視線は床に散らばる鏡の中に注がれていた。
「イザベラ。箒と塵取りを持ってくれるか」
「――は、はい」
「メイは鏡の中にいる。ジェイク、彼女に鏡は見せないでやってくれ」
彼女が恐れを抱くメイ。メイは鏡の中にいる。喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。おそらく、それが彼女が最も恐れる現実だ。
「持ってきたわ」
イザベラが箒を三本持ってきた。床に散乱した鏡の破片を掃き取る。
その一部始終を、エイミーはバスタブの縁に爪を立てて寄りかかり、乱れ髪の隙間から怯えた目で覗いていた。
「……メイ、お母さん。食べた。だからエイミー、メイ、嫌い」
震えた声で呟く彼女。声の間に、歯と歯がぶつかる音が入っている。肩は小刻みに震えている。俯けた顔にかかる傷んだ銀髪のせいで、表情は読み取れないが、声から判断するに泣いているのだろう。
彼女が私に怯えているときは、男性恐怖症だったかつてのイザベラと似ている気がしたが、それはどうも思い違いだったようだ。――分かってしまった。彼女がなぜ、あそこまで執拗に鏡に対して憎悪を見せていたのか。
バスルームに散乱していた鏡の破片は取り除かれ、鏡のない奇妙なバスルームが産まれた。
リチャードがシャワーの蛇口をひねって、ぬるま湯を出す。優しい水圧とひと肌に近い温度を確認したのち、再びエイミーの瞳を見つめる格好になった。
「エイミー、濡れるが少々我慢してくれ」
優しく諭すように声をかける。
「失礼するよ」
リチャードは、血まみれになった彼女の手を優しく握り、しっかりと体温を伝えてから手の先から肩に向かって撫で上げるようにお湯をかけて洗い流す。
骨ばった腕に、襤褸切れのように纏わりつくのみの衣服。みずみずしい肌に可愛らしいワンピースを着用したイザベラと見比べると、彼女のみすぼらしさがより際立ってしまう。イザベラと肌の色が近いところも、尚も二人の対比を強調させてしまっている。
服の上からお湯をかけられるエイミー。肌の汚れも、服の汚れも洗い流されていくものの、もはや服はもとの色が分からなくなるまでに変色してしまっている。彼女の肌や、服についた汚れを溶かして、汚水のように変色した水が、流れる途中でタイルをも汚していく。
ひとしきり、彼女の身体を洗い終えた。あくまで服の上からだが。
「よし、これくらいでいいだろう。イザベラ、続きを頼む」
「えっ……」
続きは、イザベラに任されることになった。
イザベラは戸惑いを見せる。同じ年頃とはいえ、あまり人間らしい素振りを見せない彼女に当惑するのは仕方ない。――それでも、初めて彼女と会ったときのことを考えると、大人しくなったものだが。
リチャードは不安がるイザベラに、対応の仕方を教授する。
相手の目を見て、しっかりと手を握ることが重要だ。自分がそうしたように、彼女を安心させながらやることを心がければ大丈夫だと。
「分かった。やってみる」
イザベラは、はっきりとした声で返事をした。
エイミーの前に屈み込んで、教えられた通り目線の高さをしっかりと合わせる。小柄のエイミーと、健康的なイザベラの体格差から、ふたりが同じ年の頃であるようにはどうも見えない。
「エイミー、私はイザベラよ。よろしくね」
イザベラがひとりで彼女に応対することには不安があるが、彼女が素直に頷いてくれたので、後の世話をイザベラに任せることにした。
バスルームにふたりを残し、廊下に出る。それまで優しい表情を見せていたリチャードが途端に表情を変えた。顎を手で押さえて顔をしかめる。悩んでいるというよりは、策を捻りだすかのような表情だ。
「少し、彼女を見誤っていたようだ」
「――私もそのようです」
彼女には失礼な話かもしれない。彼女が現段階で発語を見せることは心外だった。そして、リチャードの手ほどきがあったからとはいえ、あそこまで大人しくなったということも。
「検体は、過度の精神的ショックによる、重篤な知能退行を発症していると思っていたが、もっと厄介なものを持っているやも知れん」
もっと厄介なもの。リチャードが言うそれには、私にも察しがついている。彼女は鏡の中にいるメイという女性に対して、尋常ではないほどの憎悪と殺意を抱いていた。――だが、それは鏡に映った、エイミー自身に他ならない。
彼女は、現実を受け入れたくがないために、それを自身から切り離し、憎しみの対象としたのだ。
Amyは、自分が実の母親の肉を喰らっていたという現実を追わせるために、Mayという別人格を作り上げていたのだ。