mirror
検体の採取を終えたのち、車は整備のされていないオフロードの上を走り始めた。ごつごつした岩の転がる剥き出しの砂地の上を、溝の深く、幅の広いタイヤがなぞっていく。サスペンションによる緩和があるとはいえ、シートの揺れはすさまじいもの。内臓を揺さぶられながら、悪路をひた走る。
スラムの街は、近くで見ても遠巻きに見ても、ゴミ溜めとしか感じられない。そこに人は息づいているというよりも、しがみ付いているかのようだ。
情報屋の男は、ここらでは健全な人間。あとの連中は、クスリ漬けになっている者も少なくない。町の外見は、リサイクル用に圧縮梱包された紙くずのブロックが散乱しているかのような成りだが、町中では‘紙’と言えば、覚せい剤のことを指す。薬剤を染み込ませた紙を、舌の上に乗せて服用するものが出回っているからだ。強姦や暴行事件の犯人はたいがいが、薬物常習犯。
そんなスラムだ。強制立ち退きの話も出ているらしい。となれば、野放しにされた腐乱死体の数々が、ゴミ溜めの中から掘り起こされることだろう。そして、そこにしがみつく人間も、何もかも別の場所へ放り出されることになる。
「そうなると、つまらんな」
助手席にいるリチャードは、口を歪める。
「検体が、採れなくなるからですか」
ハンドルを握りながら、横目でそう尋ねる。リチャードは、何も言わずにこくりと頷く。
検体。リチャードはなぜか患者のことをそう呼ぶ。まるで物として扱っているかのような、突き放した冷たい表現だ。患者とは決して呼ばない。
「彼らには治療を施さない。だから、彼らを患者と呼ぶ資格は私にはない」
その理由を尋ねると、決まってそう答えるのだった。
事実、これから向かう‘病棟’という場所には、その名にふさわしいような医療設備はほとんど用意されていない。だから、リチャード自身もスラムから引き取った検体が治るのかどうかには信用を置いていないのだろう。
オフロードを走る車の揺れにふらつき、吐き気を催すようになったところで、今度は地面の舗装された区域に差し掛かる。走行が安定し始め、車内の揺れは収まった。あたりにはドライブインレストランやガソリンスタンドなどの施設がぽつりぽつりと現れはじめ、中央分離帯や、歩道などの道路整備も次第に整いを見せて、街へと姿を変えてゆく。
人々が生命に縋り付く貧困地区から、人々が人生を謳歌する街へと。この景色の様変わりは、貧富の格差を浮き彫りにしていて、なんとも言えない気持ちになる。だが‘病棟’へは、この街を抜けていくより他はないのだ。
しばらく進み、大きな通りを外れると、道幅が狭くなって傾斜がつきはじめる。道の両脇には横に広がらない樹木を植えていたのが、だだっ広い緑が広がって、株立ちする樹が植えられているようになる。郊外の住宅地に出たといった具合だ。
道幅に合わせて、車の速度を落とす。いよいよ病棟が近づいて来た。
道の脇に広がる緑に、まるで島のようにコンクリートで固められた地面が道からせり出している。そこが病棟の駐車スペースだ。といっても外来患者などいないので、一台分のスぺースしかない。
「慎重に運べ」
車が停車するや否や、リチャードが嬉々として車のトランクから折り畳み式のストレッチャーを取り出す。私も車から降りて、後部座席から彼女を下ろす作業に加わった。
後部座席のドアを開ける。深緑色の車高の高いジープによじ登り、未だ深い眠りに落ちる彼女を引きずり出す。
いやに軽い。彼女の身体は、薄汚れてやつれていた。スラムのゴミ溜めの中で会ったときは暗くてよく見えなかったが、こうして温かな日差しの下で見ると、その異様さが際立って見える。骨と皮でできた身体を、血みどろの襤褸切れが覆っている。
こんなもの誰かに見られでもしたら――失礼ながら触れるが、彼女から発せられる異臭も相まって、変死体を運んでいるとでも思われかねないだろう。
饐えた臭いを放つ彼女の身体を抱えて、リチャードが持ってきたストレッチャーに横たわらせる。なぜか膝を抱えるようにして寝ていた彼女の身体は、それこそ死後硬直を起こした死体のように硬かった。
改めて日の下で彼女の身体を見る。細い。そして、少し小柄にも思える。年のころ十五か、それくらい。人によって背丈の大小はかなり差があるころだろうが、それでも小柄に思えた。百五十センチあるかないか、こんな小さな体躯のどこから、あれほどの力が出せたのであろうか。
きっと、命をつなぐために自身の母親の死体を喰らおうとする本能に、必死に抵抗していたのだろう。そう考えると、なおさらいっそう彼女が哀れに思えてくるのだった。
「ジェイク、なにをしている。早く運ぶぞ」
私の名が呼ばれた。
リチャードは、私に感慨に浸る間を与えず、彼女を病棟へと運ぶよう急かす。どこか焦っている。まるで、悪いことでもしているかのように。彼女を見られてはマズいと。――事実、悪いことはしている。情報屋に‘口止め料’として金を渡して、‘検体’などと称して少年少女の身柄を預かる。そう、これは法的に言えば、立派な人身売買だ。
後ろめたさがないと言えば嘘になる。誰かから追いかけられでもしているかのような、ストレッチャーを押す足の速さがそれを証明している。
だが、彼女を運んで、病棟のドアを叩くとそんな後ろめたさがどこかへと吹き飛んでいくようだった。
「おかえりなさい」
私とリチャードを玄関先で出迎えてくれたのは、エイミーと同じく貧困地区から拾って来た子供。イザベラと、彼女に手を引かれているアンディ。これまで身柄を預かってきた子供たちは、エイミーを入れて五人になる。――おそらく、そろそろ限界だ。今も、半分くらいは、お姉さん役のイザベラの協力もあって成り立っているのだから、いよいよ私たちのこの行為も偽善の意を強めてくる。
それでも、彼らの笑顔を見ると、私たちのエゴに塗れた偽善事業が、慈善事業のようにさえ思えてくるのだった。
「ナンシーとピーターは?」
「中で遊んでいるわ」
「おとも……だち……?」
アンディが首をかしげながら、玄関に担ぎ込まれたストレッチャーに横たわる彼女を見上げる。どこか警戒心を抱いているからなのか、目配せをするだけで決して近づこうとはしない。
「エイミーっていうんだ。今は眠ってるけど、起きたら仲良くしてくれ」
そうは言うが、おそらく当分の間彼女は隔離されるだろう。彼らもここに来た当初は、酷い容態だった。イザベラは、重度の男性恐怖症を患っていた。母親を強姦で失ったという十分すぎる理由でだ。アンディは、ここに来たときは発語は愚か表情の一切もなかった。八歳になる今でも、単語をぽつりぽつりと呟くような話し方しかできない。劣悪な環境が与える精神負荷は、恐怖症や知能退行となって彼らを蝕んでいた。
そして、おそらく彼女の状態は、今まで預かってきた子供たちと比べても、段違いに悪い。
「――また、奴らか」
リチャードの持つ携帯電話に着信が入った。モノクロの画面にドットで表示される番号を見るや否や、憤怒の表情を見せる。うっとおしすぎて覚えてしまったそうだ。
「ジェイク、私は奴らを怒鳴りつけるから、検体を移動させてくれ。それから、エイミーを風呂に入らせろ」
平静を装うのがやっとなほど苛ついているらしく、声が震えている。電話の相手を前に尋ねたことがある。大学病院に勤めていたときの腐れ縁だと。その相手をするときは、とりわけ彼の気性が荒くなる。
イザベラとアンディを奥の部屋に連れていき、エイミーを乗せたストレッチャーをバスルームへと移動させると、ドアの向こう側から怒鳴るリチャードの声が漏れ聞こえる。
「私は大学には戻らないと言っただろうがっ! しつこいなっ!」
「――あいつを治せなかった私に、今さら何ができるっ! もう、沢山なんだよ! 二度と、不甲斐ない私を先生などと呼ぶな。――そんな、たいそうなもんじゃないんだよ……、私は……」
何度盗み聞きしたか分らない内容だ。その詳細は教えてくれないし、こちらも触れないことにしている。あそこまで機嫌が悪くなる内容だ。本人も触れて欲しくないというのは自明だ。
それより問題は、彼女をどうするかだった。
ストレッチャーをバスルームに押し込んだはいいものの、これから年頃の少女の身体を洗うのだ。頼まれたとはいえ、気後れせずにはいられない。だがここで名案が思いつく。イザベラの手を借りようと。情報屋の話では、エイミーの母親もイザベラの母親と同じく強姦で死に至った。男性恐怖症を患っていてもおかしくはない。
廊下に出る。電話を終えたリチャードは、自らの書斎のドアを閉め切っていた。おそらく鍵がかかっている。彼の書斎には私でさえ、入ったことがない。電話の詳細を彼が話したがらないように、そこには心のバリケードが張られているように感じられる。
奥の部屋に入ると、ピーターとアンディが木組みのおもちゃの機関車を走らせていた。身を屈めながら、床を車輪でなぞってご丁寧に効果音をつける。しゅっしゅっとピーターが歌う。するとアンディもしゅっしゅっと繰り返すのだった。
それを横目にイザベラは、ナンシーとマジックテープでくっつけられたおもちゃの野菜を切っている。
「手でちぎらないの。包丁で切るのよ」
ナンシーが野菜を引きちぎるのを、イザベラが優しく諭す。そして、私が入ってきたことに気づくと、ナンシーにちょっと待ってと伝えてこちらへと歩いてきた。イザベラは年齢もエイミーとほど近い。正直、私とリチャード以外の人間に彼女を触れさせるのも少し心配はあったが、おそらく同じ女性のイザベラには、エイミーの警戒心も少しは落ち着くかに思われた。
だが、それは私の浅はかな思い違いだった。背後、ちょうどバスルームの方から彼女の雄たけびが聞こえてきたのだ。それとともに、硝子が割れるような音がした。慌ててバスルームに戻る。
エイミーが起きていた。椅子で洗面台の鏡が叩き割られていた。破片を踏みしめる彼女の足は血をだらだらと流している。そして、床に散らばる鏡の破片を尚も砕かんと執拗に椅子で殴りつけていた。
目の玉をひん剥いて、荒い息を立てている彼女の視線の先には、くだくだになっていく破片に映る自身の姿があった。
まるで、彼女の殺意が鏡の向こう側にいる自分自身へと注がれているようだった。