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 背の高いビルが肩を寄せてひしめき合う。そんな市街地の喧騒を外れた、静かな町の一角にその病棟は建っていた。

 いや、病棟という言葉には、少しお粗末が過ぎるかもしれない。

 白塗りの壁はくすんでいる。それに色を添える、昔は鮮やかであったであろう木目の映える剥き出しの支柱には、黒や緑のカビが生えている。内装に至っては、腐敗した木材のにおいが土埃とともに立ち込めていて、清潔感などあったものじゃない。そこに無造作に机や椅子が置かれていたり、もはや倒されていたり。


 この、うち捨てられたがごとく廃れた病棟には、たったひとりの患者がいる。

 天板が茶色い粉を噴く机に腰を下ろして、脚をぷらぷらと遊ばせている少女がひとり。


「私はAmy。あたしはMay」


 ふたりの一人称とふたりの女性の名を、ひとりの少女が口ずさむ。

 小麦色の肌は、きらきらと輝く銀色の髪を強調させている。控えめに膨らんだ胸を、しっとりと包むペールホワイトのワンピース。年のころは十七かそれくらいの可憐な少女だ。


「どっちで呼べばいいんだ?」


 彼女の名前はエイミー。でも、彼女が自分をエイミーだとも、メイだとも言っているのだから、確認を取らなければいけない。そう思って、律儀に尋ねてみたのだ。


「あなたは、もうそれを知っているんでしょ。だから、エイミーと呼べばいい」


 エイミーは静かに笑い、バレエのステップを踏むようにくるりとまわる。ワンピースの裾がふわりと広がる。彼女の頬に、褐色の肌の底から朱が湧き出て色を添える。それは、どこにでもいる恋をする淡い少女の表情だ。


 これは、誰もが患う愛しい病の物語。



*****


 トタンで囲ったのみの、家屋という表現すら憚れる住まいたちが、肩を寄せてひしめき合っている。地面は堆積したゴミと瓦礫で埋め尽くされ、照り付ける鋭い日差しによって、むわっと腐敗臭が立ち込める。


「検体は、ここか」


 そう言って鼻をつまみながら、丸眼鏡を初老で皺のより始めた手でかけ直す。私が付き人を務めている男。リチャード・クレペリン。

 もとは精神医学の研究を修める高名な教授だったそうだが、今は出版物の印税と貯金の切り崩しなどで暮らしている。


「足場が不安定ですから、気を付けてください」


 そんな彼が、現役の教授をやめてなお、研究活動の一環として行っていることがある。それがこうして、貧困地域に出向いて検体を集めることだった。検体というのは、身寄りのない子供のことを指す。付近の情報屋から情報を集めて、彼らの居場所を突き止め、コンタクトを図る。

 一度や二度ではうまくはいかない。彼らと打ち解けるには、困難を極めることが殆どだ。


「ここですか、彼女がいるのは」


 情報屋は、スキンヘッドの褐色肌の男。この貧困地域に多い、メキシコ系の移民だ。貧困地域では、飢えによって身寄りをなくした孤児は多くいる。加えて治安の悪さもあって、暴力やレイプによって親が殺されるケースもざらだ。この付近の情報屋にとっても、身寄りのない子供などさして珍しいことではない。

 ところがこの男、ひどく怖気づいたような顔をして、「中にいるのは獣か何かだと思ったほうがいい」と。

 傾いて崩れかかった家屋は、もはや瓦礫の山に開いたあなぐらと形容した方がいいくらいだ。真黒に塗りつぶされた、闇の中から這いずり出てくるのは、人間よりもゴキブリかネズミの方が相応しいくらい。近づくと、たまらない異臭が鼻を刺した。形容するならば、生ごみが腐ったところに排気ガスを吹きかけて、吐瀉物と排泄物を混ぜ込んだという、ありとあらゆる不快な匂いを押し固めたかのよう。


「えっほ、うぇっほ――うぇえ……」


 咳き込むのを通り越して、もはや嘔吐いてしまう。曲がった鼻をつまもうが、臭気は口からも入り込んでくる。こんな凄惨な環境下に、人間という脆弱な生き物が生息することは可能なのかと疑問にさえ思ってしまう。


「中は真っ暗で何も見えない」

「暗闇でも目は効くのか」


「さあ、彼女が光を知らないのは確かだ」


 リチャードが右手に携えていたアタッシュケースの中から、懐中電灯を取り出した。真昼の中の闇夜に浮かびあがる、円錐状の光。それが照らした光景に、思わず生唾をごくりと飲み込んだ。

 瓦礫やごみの散乱する床は、外と変わらない。だが、べったりと赤黒い染みがあちこちに広がっていて、そのひとつひとつに蛆虫やシデムシが集っている。赤黒い染みの中心には、青紫色に変色した肉塊が散らばっており、信じたくはないが、人肉だ。さらに別の場所を見れば、骨が剥き出しになった、捥がれて腐ってはいるが、もともとは人間の腕であったことが確認できるものもある。それも体毛の薄いことと、その華奢さから女性のものであったようだ。常人ならばもう、この闇世のベールをわざわざ捲ってみようとは思わないだろう。情報屋も、さっきから視線をあなぐらの外へと向けている。


 しかし、リチャードは違った。下手な殺害現場よりも、酷い有様にも拘わらず、瓦礫のあなぐらの中へとずかずかと切り込んでいく。安全のための鉄板を入れ込んだ安全靴で、足元を確認するように、一歩一歩を探りながら踏みしめる。その足取りには、一切の迷いなどない。

 人間の奥深い生存本能にまで恐怖が呼びかけてくる。私や情報屋のような常人には、怖気づいて立ちすくむことしかできない。しかし、リチャードが行くならば、私も行かねばなるまい。生唾をもうひとつごくりと飲み込んで、彼の背中を追いかける。足元で虫たちの悲鳴がした。


「感心だな。こんなところに彼女はいるのか」

「――情報屋の言った言葉も頷けます。人間が住めるような環境ではないですよ」


 もとは、台所らしいのか、サビだらけのカセットコンロと、赤錆の塊の鍋が打ち捨てられていた。スイートコーンやホールトマトの空き缶もあり、ポリバケツには人糞と小便が溜まっていた。もはや嗅覚が反応をし過ぎて馬鹿になってきたのを感じる。しかし、それでも滞りなく饐えた臭いが気道に注がれ続ける。

 台所らしき場所を通り抜けると、壊れたラジカセが脱ぎ捨てられた衣服の山に埋もれていた。衣服には、おびただしい量の血の跡が沁みついている。玄関近くにあったのは右腕。今度は左腕がそこに転がっていた。


 ばりばり。ぐしゃらぐしゃら。


 何かを咀嚼する音が聞こえ始めた。それを捉えるとともに、彼女の息遣いを聴覚が捉えた。情報はまやかしではなかったことが悟られる。

 彼女は生きていた。四肢を捥がれて、抉れた肉から流れる血は赤黒く固まっている。腐敗の著しい女性の死体にまたがり、その死肉に犬歯を突き立てる彼女。彼女は自らの食卓を、蛆虫やシデムシとともにしていた。

 そして、これは憶測するのも憚れることだが、彼女に肉を喰らわれている女性の死体は恐らくは――


「こいつは、面白くなりそうだ」


 この正気の沙汰とは思えない光景を目の当たりにして、リチャードは笑っていた。彼は検体が酷い有様であればあるほど、興奮するような節がある。

 彼女は、平然と私たちの前で人の死肉を喰らい、歩き方も人類のそれを忘れた四足歩行だ。べったりと血の付いた口をぽかんと開けながら、瞳孔の開ききった眼をぎょろりぎょろりと動かして、こちらを視線で舐めまわしてくる。しきりに喉を鳴らす様子は、もはや彼女の中に人間としての意識すら消え失せてしまったのかと思わせるほど。

 ぐるるとまるで狼のような鳴き声を漏らして、彼女はリチャードに跳びかかった。長く伸びた爪を彼の皮膚に食い込ませ、体重をかけて押し倒し、口を引き裂かれんがばかりに開いて、犬歯を食い込ませようとする。彼女の本能が新鮮な肉を求めた結果だろう。私は、彼女の身体を彼から引き剥がそうとした。だが、理性という名の枷を捨て去って、本能の塊となった彼女を、腰の引けた常人が止められるわけもない。いくら力を込めようとも、びくともしない彼女。やがてたとえ年のころ十五かそれくらいの少女でも、リミッターが外れてしまえば手に負えなくなるのだと痛感させられる。リチャードが検体と呼ぶものに手荒な真似はしたくなかったが、止む終えなかった。


 私は、彼女の銀色の髪を生やしたつむじを、その場に転がっていた木片でぶっ叩いた。獣の動きは止まり、リチャードに覆いかぶさるようにして倒れ込んだ。力を失ったのを見ると、成りはひどいものだが、獣は少女の姿をしていた。


 エイミーという名だと情報屋は言っていた。飢えを凌ぐために、自らの母親の肉を喰らっていた。人を忘れた獣だと恐れられていたエイミー。


 これがリチャードと、検体エイミーの出会いだった。



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