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魔女の森と、  作者: 久世ひろみ
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「エリー」と「リスポスタ」

四 「エリー」と「リスポスタ」


 夜が眠り、空が白む頃、洋館の部屋の中は重い空気に満ちていた。

 その部屋の中で、少女は猫を抱き、ふかふかの絨毯の上に横になって眠っていた。

 安らかな寝息を聞きながら、そばにしゃがみ込んで彼女の痛んだ髪を撫でる魔女は、金の瞳を穏やかに揺らした。


 問われた言葉は、魔女の心の奥から何かを目覚めさせた。

 それが何かを、魔女はもうずっと前から知っていた気がして、ふっと笑う。

 いままで浮かべたこともないほど穏やかな笑顔は、誰にも見られることはなかった。

(この子は、あのときの私なのね)

 さらさらと指からこぼれる髪を眺めながら、魔女は理解した。

 「答え」はまだ、紡いでいなかった。

 少女は猫を抱いて眠り、魔女は静かに少女を撫でる。その手はなによりも優しくて、口元に浮かぶ微笑は、まるで母のようだった。

 金に染まった瞳は、黒く戻ることはない。魔女の中で、さまざまな感情や思い出が、浮かんでは消えて行くのを、魔女はただ見つめていた。


 エリー。

 それが、かつての名前だった。

 エリー。

 可哀想な、エリー。

 愛の只中から、闇の中へ落とされたエリー。

 それが、魔女の「思い出」の始まりだった。

 エリーは、今は亡い王国に生まれた、貴族の姫だった。

 王族に連なる血を持ち、生まれながらに国王の息子と結ばれることが決まっていた、幸せな娘だった。

 両親の愛を、国中の愛を受けてエリーは育つ。幸せを絵に描けといわれたのなら、エリーを描けばいいほど、彼女は幸せだった。


 けれどそれは、突然終わりを告げる。

 始まりは、一家を襲った盗賊だった。

 兵士達が気付いたときにはもう、遅かった。両親は殺され、優しかった使用人も皆のこらず殺され、邸には火が放たれた。三つになったばかりの美しいエリーは、貴金属や財宝と共に連れ去られ、遠く離れた地で人買いに売られた。

 売り物として闇市に出たエリーを待っていたのは、奴隷としての生活だった。

 買った男は、その首に懸賞金がかかる盗賊の頭だった。エリーは、その日から奴隷として、男の言われるまま働いた。

 柔らかなぬいぐるみと愛しか知らない白い手で、水を汲んだ。火を起こし、ごみの処理をした。

 慣れないうちは、失敗するたび殴られた。

 手が擦り切れ、マメができて痛みに涙がでても殴られた。

 紅く焼けた鉄で、肩に焼印を付けられ、朝から晩まで休むことも許されずに働かされて、もらえる食事はパン一個だった。

 けれど、そんな日々は始まりと同様、急に終わる。

 きっかけは些細なことだった。

 盗賊たちがある夜慌てて帰って来ると、引っ越すと突然いいだした。仕事に失敗し、逃げなくてはいけなくなったと叫び声がしていた。

 けれどそれはもう遅かった。

 あっという間にやってきた、たくさんの人によって、盗賊たちは捕らえられた。目の前で、今まで一緒に暮らしてきた人たちが捕まったり殺されたりする中で、恐怖に襲われたエリーはとっさに逃げた。

 自分を殺そうとしているのだと思ったのだ。それでなかったら、いつかのように人買いに売られると。そう思って、逃げたのだった。その後ろでは、エリーメディアと同じ奴隷や人質が助けられていたけれど、恐怖でエリーメディアは気付くことができなかった。

 救うために伸ばされた手を恐れ、半狂乱になりながらその場を逃げた。ただただ、夜が朝になり、また夜が来ても、エリーは歩き続けた。

 力が尽きて、おなかがすいて、のどが渇いても歩き続けた。もう、どこに向かっているのかも分からなかった。素肌の足はもう血が出て、足は棒のように動かなかった。それでも歩き続け、気付いたときには森の中にいた。


 深くて暗い、まるで侵入者を拒むような森。

 けれどどうしてか、エリーはそこが怖いところだとは思わなかった。夜が自分を守ってくれるような気さえして、エリーは奥へと進む。

 見つけたのは、今にも朽ちそうな洋館だった。

 擦り切れた足で、洋館の絨毯を踏むとほこりが舞った。大きなドアは、押すと羽のような軽さで開いた。導かれるように、二階を目指す。黒く淀んだ目は、まっすぐ前しか見ていなかった。

 薄く開かれたドアを開けると、甘い香りが鼻をくすぐる。やせ細った体を滑り込ませれば、そこはまるでエリーがかつて生まれた部屋のような、豪華な部屋だった。

「いらっしゃい、小さなお客さん」

 響いた声に、エリーは体を萎縮させる。

 勝手に部屋に入れば、むちで叩かれた上、ばつとして一日食事抜きだったから、とっさに体を縮こまらせて、むちの衝撃に備えた。

 けれど、むちの代わりにエリーの背中に添えられたのは、柔らかな指先だった。

 恐る恐る顔を上げれば、女の人が優しく笑っていた。黒い服に全身を覆い、柔らかな空気をまとうその人は、エリーを優しくソファーへ導き、座らせると紅茶を差し出す。ためらっていると、優しく笑ってお飲みなさいと言った。

「……あの」

 口をつけた紅茶は甘くてやさしくて、心のどこかが柔らかくほぐしてくれる。

 エリーは、ほぅ、と一息つくと、おずおずと声を上げた。それに、黒い服の女性は「ん?」と優しく答える。

「あの、……ここは? あなたは、だれ、ですか……?」

「ここは、迷いの森の奥深く、迷い人の館。私は、リスポスタ――魔女なの」

 一語一語、優しく紡がれる言葉を、エリーは注意深く聞いていた。

「魔女……リスポスタ? 魔女、私、聞いたことある……深い森の奥に住んで、会えた人は願いを一つかなえてもらえるって……」

 それは、盗賊たちが酔った時に笑って話していた、おとぎばなしだった。もしそんなことがあるのなら、おなか一杯ご飯が食べたいな、とぼんやり思ったことを思い出して、エリーは小さく首を振った。

「確かに私は魔女。けれどね、私じゃ望みをかなえてあげられないの」

 囁くような優しい声に、エリーは魔女を見た。望みをかなえてくれる魔女だと思っていたのは違う。

 なら、魔女は何をするためにここにいるの?

「私は『答えを与える者』。迷える魂に、『答え』という『道』を教え、導くのが私」

 問おうと思って、口を開く前に答えられてしまった。エリーはそれを理解するのに時間がかかって、魔女は薄く微笑むと紅茶を飲んだ。

「……ここに来る子供たちは、みんな迷いを持っているの。あなたも、迷いをまとっている……心に聞いてごらんなさい、すべてはあなたの心が知っているから」

 教えさとすような声だった。甘い紅茶の香りと、柔らかな月光が、エリーの心を落ち着かせた。

 痛みや苦しみから解放されて、体がふわふわ浮いてるようだった。

 深い呼吸を繰り返し、心と向き合うと不思議に懐かしい気持ちがして、エリーは目をつむった。

 森を歩いている間、そういえば嫌に心が落ち着いていたと思い出す。

 奴隷として働いていたときに思ったことがある。殴られて蹴られて、食事ももらえなくて、切ない涙をこらえて干草のなかにもぐっていたとき、何度も思った。

 どうして忘れていたんだろう、と今更不思議に思って首をかしげる。


 そう。

 ずっと誰かに問いたかった。誰も答えてくれなくて、問うことすら許されなくなって

 そうだ、だから心の底にしまいこんでしまったのだと、そう思って目を開けた。

 その時を待っていたように、魔女は笑った。笑って、エリーの言葉を待った。

「――教えて、ほしいの――」


 どうして、わたしは、生きているの?


 問うて、魔女を見る。

 まっすぐ見据えたエリーの目にうつったのは、悲しげに金の瞳を揺らす、魔女。

 どうしたのか、と首をかしげたエリーに、魔女はそっと手を伸ばし、やせこけた頬を両手で包んだ。

「――それは、私が与えられる『答え』じゃないわ――」

 悲しむような声音で、魔女は囁くと視線を落とした。

「その答えは、『迷い』の中からしか生まれないもの――私には、『答え』てあげられない。けれど、答えが分からなければ、あなたはどこへもいけない――」

 金の瞳が、静かに輝きを増す。

 愛するように頬を撫でる手が離れると、魔女の姿がふわりと浮き上がった。月明かりに浮かぶ魔女の姿は幻想的で、ゆっくりと開く窓を背に、魔女は優しく笑う。それがひどく美しくて、エリーはただただ、心奪われていた。


「あなたは、『迷い』の中をいきなさい――それがきっと、『答え』への道しるべ。あなただけの『答え』を見つけたとき、私はまたここに戻ってくるわ――それまで、さようなら――『リスポスタ』」


 かちゃり、と音がした。

 少女と黒猫はまだ、夢の中。

 顔を上げた魔女は、まるで母を見ているように優しい顔で笑った。けれどその表情はもう、「魔女」ではなかった。瞳が金に光ることはもう、ない。黒い瞳は、かつての、エリーのものだった。

「――久しぶり、『リスポスタ』」

 そう言ったのは、「エリー」だった。記憶とすこしも変わらずにそこに佇むのは、かつて「リスポスタ」と名乗った魔女。

 優しく笑み、眠る少女と猫を優しく撫でて立ち上がり、かつてそうしてくれたように、紅茶を入れてソファーを勧めた。

 エリーと魔女は、昔のようにすわり、紅茶を飲む。穏やかな時間はけれど一瞬で、エリーは小さく微笑むと魔女を見た。

「『答え』を、見つけたのね?」

「――ずいぶん時間がかかってしまったけれど……見つけたの。私だけの『答え』を」

 二人の表情は、暖かかった。そしてどこか泣きそうで、嬉しそうだった。

 エリーは、ちらりと眠る少女を見る。抱かれて眠る猫を、本当に愛しげに見て、小さく息を吐くと魔女に視線を戻した。

「もう、あなたは大丈夫ね? まとっていた『迷い』は消えてしまった――よく、頑張ったわね」

 その言葉があんまりにも温かくて、優しくて、エリーは微笑むのが精一杯だった。こぼれそうな涙を我慢して、けれど我慢する必要はない事を思い出して、涙をこぼした。


 もうずっと、ずっと前に流すことをやめてしまった涙が、なんだか熱かった。


 つらかった。

 長い時を、迷いながら進んできた。

 たくさんの「迷い」と向き合い、たくさんの魂を導いてきた。

 けれど、今。

 エリーは、見つけたのだ。迷いの迷路の、出口に続くたった一つの道を。

 もう、迷わない。

 答えは、心の中に確かにあるのだから。




 眠る少女の髪を撫でると、少女の目が薄っすら開いた。

 部屋は月光を受けてキラキラ光り、黒いエリーの瞳は柔らかく揺らいでいた。

「――答えをあげるわ」

 囁きは甘く少女の耳に届く。まだ夢うつつなのか、少女は薄く微笑んで、エリーの腕に抱かれていた。


「人はね、迷うために生きるの。迷い、悩んで、それでも前を見て進むのが『生きる』ってことなんだわ」


 ねぇだから。

 だから、生きるのを恐れないで。


 「答え」は全て、あなたの心の中にあるものだから。

 生きることは苦しいけれど、つらいけれど。

 ねぇ、どうか。

 あなたは、生きていくことを恐れないで――


 静かな森の中。その奥に今にも朽ちて崩れてしまいそうな洋館がある。

 そこに居るのは一人の魔女。

 答えを求め、さまよう魂を救う者。

 迷い子を導き、契約に縛られる一人の魔女。


 彼女の元を、今日も迷える魂が訪れる――


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