少女と魔女と、
三 少女と魔女と、
その少女が現れたのは、本当に突然だった。
魔女の膝で眠っていた黒猫が目をさますのと同時に、古いドアが音を立てて開かれる。それに瞠目し、魔女は言葉を失った。
魔女のいる洋館には、特別な仕掛けがしてあった。
それは、魔女が外に出ないように、そして、来訪者を告げるための結界。それを通りぬけられるのは、「迷い」を持った魂だけ。それ故、「答えを与える」魔女は通ることができないのだった。
けれど今、「鈴」は鳴らなかった。来訪者を告げる鈴は、確かに鳴らなかった。
だから、魔女は驚きに声を失った。
「――ねぇ、お姉さんはだぁれ?」
細い声だった。高くて、でもかすれた美しい声。
その声に我を取り戻した魔女は、動揺を悟られまいと息を吸った。
少女は、見た目六歳くらいだろうか。
ほっそりとした体つきは、華奢というより不健康で、骨と皮ばかりの体に、粗末な薄布を一枚引っ掛けただけの姿だった。
手入れなんてされたことがないだろう髪は肩から先ざんばらな長さで、もとはきっと美しい白金色だったのだろうと、かろうじて分かる程度だ。
歩く度にぺたぺた音がして、薄く血のにじんだ素足が痛々しかった。
「ねぇ、だぁれ?」
沈黙を守ったままの魔女に、少女は再度問う。その目は濁り、けれどまっすぐに魔女を見据えていた。
答えようと、魔女が口元に力を入れた時、膝にいた黒猫がぴょん、と飛んだ。柔らかな絨毯に着地すると、まっすぐに少女のもとへ向かう。
少女と魔女は、黒猫の動きを目で追う。猫は、少女の足元で立ち止まるの「にゃあ」と一声鳴いた。抱きしめて、と甘えるような瞳に、少女は魔女を見て、ためらうようにしゃがみ込んだ。
手をそっと伸ばせば、猫はその手にすりより、抱き上げられると大人しく目をつむる。
「――私は、リスポスタ。魔女よ。そしてその子はここに棲む猫。あなたが気に入ったみたい」
ソファーの上で居住まいをなおし、魔女はいつものような柔らかな声音で名乗る。
いつも猫の背をなでる手は膝に置いて、少女を見据えれば、彼女はにこっと笑った。
「あたしは、はちじゅうななばん」
「――え?」
にっこり笑ったまま落とされた言葉に、魔女は思わず首をかしげた。
はちじゅう、なな、ばん。
「それが、あなたの名前?」
「うん、そう。はちじゅうななばん、ってあたしの名前なの」
困惑した声の魔女に、少女は笑って答えると左の肩を示した。
そこには、黒くこげたような火傷のあとが残っていた。
火傷、ではなかった。薄い月光とろうそくの明かりで浮かび上がるのは、黒々とした「八十七」の焼印のあと、だった。
「ずっと昔は、違う名前で呼ばれてたの。でも、パパがある日、あたしや村の女の子を、知らない場所へつれてったの。そこで、あたし達ははちじゅうななばんって名前をもらったの」
ずっとずっと前だから、もう前の名前は忘れてしまったの、と、なんでもないことのように語る少女に、魔女は頭の奥で痛みを覚えた。
(はちじゅう、なな、ばん)
(――おまえは今から――――さんじゅ――ば――――)
頭の奥が、しびれるように痛かったのは一瞬だった。
息をつけば痛みはもう、どこにもなくて、魔女は少女を見た。
「ねぇ、魔女のおねえさんはどうしてここにいるの?」
響く少女の声に、魔女は薄く笑う。
どうして。
それは――魔女自身が求める「答え」そのものだったから。
「私は、答えを与えるもの。この森に迷い込んでしまった子供たちに、答えをあげるために私はここにいるの」
自嘲を帯びた口元で、魔女は言いなれた言葉を舌に乗せた。
ふうん、と答えた少女は、未だ腕の中にいた猫をゆっくり下ろすと、ふぃ、と外を見やった。
ほこりに汚れた窓から見えるのは、満月だった。雲ひとつない夜空が、満月の光で壊れてしまいそうなほど美しい。それを、少女は何の感情もない瞳で見上げていた。
刹那の沈黙の中、魔女は少女から目を離せなかった。時が止まったように、それは幻想的な光景だった。
窓から差し込む月光に、ひどく小さな少女が照らされる。
たった、それだけなのにどうしてか、魔女は胸打つ何かを感じていた。
「――ねぇ、お姉さんは答えをくれるの?」
「そうよ。あなたが求める答えを与えるの。あなたは何を迷っているの?」
月光の中で振り返った少女に、魔女は口角だけで笑うと言った。優しいその声に、少女はけれど目を伏せて、月明かりから逃げるように一歩、後ろへ下がる。
その姿に、魔女は小さく眉をひそめた。
少女のまとう空気が、暗くかげっている気がした。魔女が声を上げるよりはやく、黒猫が魔女の膝に飛び乗り、じっと少女を見守る。
「――あたし、は」
吐息のように小さな声だった。落とされた声は、静寂の中を泳いで魔女の耳に届く。
少女の「問い」が始まるのだと、魔女は小さく息を吐いた。
「問い」に「答え」を与えれば、この不思議な雰囲気の少女と別れて、また黒猫とふたりっきりの時間に戻る。
魔女はその穏やかな時間が好きだったから、はやく、問うて欲しかった。だから耳を澄ました。
「――あたし、ずっと聞きたかったの。ずっと――ねえ、お姉さんが答えてくれるの?」
まっすぐ見据える瞳には、戸惑いと期待、恐れと願いが混在していた。
その瞳は、もう慣れていた。答えを欲する目。本当の問いをするとき、人の目は、その色に染まる。
だから、魔女はゆっくりとうなづいた。
うなづくことで、問うことへの恐怖を取りのぞけると知っていたから。
数秒ほどの沈黙が流れた。少女は決意するように服の裾を握り、固く閉じられた唇から、ふっと力が抜ける。その瞬間を、魔女は何も言わずに見守った。
さあこれで。
これで、少女の「迷い」が現れる。それを解けば、魔女と少女の物語が終わり。
そう、そのはずだった、けれど。
「――ねえ、あたしはどうして、生きているの?」
時が止まった。
魔女の目が大きく見開かれ、金に染まった瞳は何も見ていなかった。
ドウシテ生キテイルノ?
どうして。
どうして。
ああ、それは。
その、言葉は。
(エリー、ほら、見てごらん)
(お前はおれが買ったんだ)
(世界でもっとも祝福された、私達の愛しい娘)
(働け。仕事をこなせば飯をやろう)
(ああ、ごらんよ。ほら、エリーが歩いてる)
(上玉だ。貴族の一家を襲って、さらってきたんだ)
(エリー、私たちの愛しい子。どうか、生きて)
静寂に包まれ、夜に守られた森の奥深く。
朽ちた洋館には魔女がいる。
魔女はいつか、知るだろう。
なぜ自分が、「魔女」となったのか、を。




