迷える黒い猫
二 迷える黒い猫
ちりん、と涼やかな鈴の音が、ほこりっぽい館に響いて消えた。
黒い猫は、金に輝く瞳を階段の上に向けて、それからゆっくりと足を動かす。
動くたびに鳴る鈴は、小さな猫の体には不釣合いなほど大きくて、けれど、もうずいぶん歩いた猫は軽やかな足取りで、先へ先へと進んでいった。その瞳に迷いはなく、どこか夢見心地のような表情で、猫は少しだけ開いている黒いドアに、なんのためらいもなく体を滑り込ませる。
最初に猫の目に入ったのは、今までとはまるで違う、綺麗な絨毯だった。
ほこりなんて一つもない、掃除が行き届いた毛足の長い、紅い絨毯。ろうそくの優しい明かり。ふわりと猫の鼻をくすぐったニオイは、部屋の中央にある花のかおり。そして、奥にはソファーが一つ。そこに――魔女がいた。
「こちらにいらっしゃい、小さな黒猫さん。暖かいミルクをあげるわ」
そういって、魔女は優しく笑った。
猫が瞬きすると、次の瞬間魔女の手の中には暖かいミルクがあって、猫は大きな目をさらに大きく見開いた。驚いてしっぽを膨らませれば、魔女は薄く紅をひいた唇を小さく笑みの形に歪ませる。
「いらっしゃい、怖いことなんてないのよ? あなたには、少し休むことが必要だわ」
言う魔女の口調は酷く柔らかで、猫はなぜだか胸が温かくなった。どうして、そう感じたのかは分からないけれど。
動かない猫に、魔法使いは優しい笑みを浮かべたまま立ち上がった。ミルクの入った器を持ったまま猫の前にしゃがみこみ、猫の前にそっと置く。
ふわっとミルクの甘いニオイがして、猫は思わず魔女を見上げた。
何かを思ったわけではなかったけれど、魔女は猫と目が合うと小さくうなづいた。飲んでもいいのよ、そう、言っている気がして、猫は恐る恐る口をつけた。
それはとっても甘くて、不思議に甘くて優しい匂いがして、今まで味わったことがないくらいおいしくて、猫は夢中でミルクを飲んだ。
「おなかが一杯になったなら、少し眠るといいわね」
もう洗う必要がなくなるくらい、綺麗にお皿をなめ終わったところで、魔女の声がして猫は我に帰った。
確かな満腹感と疲労感に、猫は思い出したかのように眠気を感じて魔女を見上げた。
優しい顔をした魔女は、「おいで」と腕を広げる。
猫は何も考えたくなくて、そのままゆっくり魔女の手に体をゆだねた。
抱き上げられる優しいぬくもりを感じながら、猫は暖かい眠りに落ちていく。
宵の口になって、猫は目を覚ました。
ふかふかのクッションに埋もれて、薄く汚れていた毛が綺麗になってると気付く。
まだぼんやりしたまま、何の気なしに顔をあげると魔女が猫を優しく見つめていた。
きっと、猫が起きたときになった鈴の音で気付いたのだろう、魔女は優しく微笑むと、猫の背中を愛しそうに撫でた。
「おはよう、小さな黒猫さん」
優しい声音と見つめる瞳で、魔女は猫を撫でる手を止めた。
クッションに埋もれた猫は、ゆっくりと体を起こすとそのまま、魔女の顔を見上げるように座る。
猫を撫でる手は暖かくて、柔らかいクッションからも、瞳からも、言葉からも魔女の優しさと愛を感じたけれど、猫はどうして魔女が優しくしてくれるのかが分からなかった。
否。違う。
「あなたが知りたいのは、どうして自分が何も知らないのかということね?」
思考を読み取ったような魔女の言葉に、猫は瞠目した。
猫は何も知らなかった。何も覚えていなかった。
名前も、鈴をくれたのが誰なのかも、どうして魔女の館にいるのかさえも。何もかも、思い出せない。だから、猫は魔女を見上げて首をかしげた。どうして知っているの、と問いかけるように。
「私は魔女。答えを与える者」
声のない問いかけに答えて、魔女は優しく告げた。目が一瞬金に染まる。自分と同じだな、と、なんとなく猫は思った。
「小さな黒猫さん、あなたの知りたいことは、あなたの問いは、答えてあげられるわ。どうしてここにいるのか、どうして、何も覚えていないのか。――でも」
撫でるような優しい声が、一瞬途切れた。それと同時に、部屋の空気が一瞬冷たくなったような気がして、猫は尻尾を揺らす。
「答えを聞いて、それからどうするかはあなた次第。私は問いに応えるだけ――それでも聞きたいかしら?」
その言葉が妙に重く胸に響いて、猫は息を飲んだ。
どうして、どうして。そればかりがあふれる胸に、魔女の言葉が問う。答えを聞いてどうするのか、と。どうしたいのか、と。
答えは欲しかった。
どうしてここにいるのか、魔女はどうして優しくしてくれるのか、知りたかった。
鈴をくれたのは誰なのか、どうして一人でここにいるのか、どうして何も覚えていないのか、知りたいことなんてたくさんある。
けれど、それと同時に知らないことを知って、どうするのかも分からなかった。
知った後、自分はどうしたらいいのかと問われれば、そんなこと分からなかった。
分からないけれど、どうしてか猫は小さく首を振った。
頭が揺れた分だけ鈴がちりんちりんと音を立てた。何も考えていなかったけれど、心の深いところで「必要ないよ」と誰かが言った気がしたから。
それを見た魔女は、小さく微笑むと猫の頭を優しく撫でる。猫の返答を知っていたように、そうして拒否されることを望んでいたようだった。
優しい瞳にそれでいいよ、と言われたような気がして、猫はそっと目を瞑る。優しい手に身をゆだねて、ゴロゴロとのどを震わせた。撫でてくれる手が、とっても暖かいから猫は考えるのをやめた。
何もしらなくていいや、と思う。
知らなくても、魔女の暖かい手や優しい味のミルクを知っているから、もう、これ以上はいらないや、と。
そう思ったら、なんだか急に眠くなって、猫は小さくあくびをした。魔女に抱き上げられて、腕の中でうとうととし始めた猫は、目をつむる直前に、窓の外に人間を見た。見たけれど、もう眠くて仕方なくて、そのまま引きずられるように眠った。
心の中は、魔女が作ってくれたミルクみたいに温かかった。
静かな森の、魔女の棲む洋館。
暖かさと優しさに抱かれて眠る猫は、それが幸せだとは知らない。
幸せなのだと、言葉は知らなくても、それを知っているからもう、問うことも、答えを求めることも、もう、いらない。
魔女は、そんな猫を本当に愛しそうに、撫でていた。




