ゆけ、今日も元気に駆け込み乗車
男の職場はブラック企業だった。
それもそのはず、彼の勤怠は平均19時間。始発出勤の終電上がりである。通勤時間を除くと自由時間はたったの4時間になり、その中で風呂やら自分の世話をしていると、たちまち睡眠時間は2時間37分となった。
何故そんな微妙な数字かって?
だってギリギリまで寝たいでしょうが。
男は今日も飛び出した。
発車13分前に起床し、顔と歯だけ洗い、もちろん朝食など取らずに自転車を漕ぐ。
視界の右端からは流れてくる電車。
男は駅に着くなり僅か3秒で駐輪、施錠するという鮮やかすぎる神業を見せつけ、すでに開いているドアめがけて飛び込んだ。
《 駆け込み乗車は危険ですのでおやめ下さい 》
忠告を完全に無視して始発列車の一角に腰かける、残念な26歳。
彼が気にしているのは、アナログ式の腕時計、その秒針だけである。
――4時50分
うむ、やはり13分前が臨界点だ。
12分だと確実に乗り遅れる。
そんなことを考えていたら、男はうとうとと眠りについていた。
まさか、安らかな安眠を得られるのは、これで最後になるとは知らずに。
その日の業務は苛烈を極め、今日もボロ雑巾のように酷使された男。家に帰るなり、吸い込まれるように玄関に倒れ込む。
そして、男は目を覚ます。
「……嘘だろ? 発車12分前?! 」
男は漕いだ。
歯も磨かず、顔も洗わず全力で漕いだ。
視界の右側には…… 流れてくる始発列車。
・・・まずいっ、もうドアが開いている!!
自転車のカギも施錠することなく、コンクリートの階段を3段飛ばしで駆け上がる男に、些細な違和感を感じ取る余裕などあっただろうか。
雲もないのに浅黒い空、焦る頭にアナログ時計、そして、不自然に長く開いている扉に全く躊躇する事無く、その男は飛び込んでしまった。
……ま、間に合った…
安堵と共に込み上げる、記録を更新した喜び。
男は相変わらず誰もいない始発列車の一角に腰かけ、ニヤニヤしながらアナログ時計に目をやった。
息が止まる。
――3時50分
・・・なんだこれ。
扉が閉まる。
電車は、ゆるやかに動き出した。
その電車は、どこへ向かって行くのだろうか