2つの誕生日・story96
ヒロが京本をうたがい始めたのはホテルを出てから24時間後だった。
バースディイベント最終日をこなし、豪華なネックレスのお礼に手をふれ合わせただけのアフターを終え、6畳の部屋へ帰ってきても、胎児の声など響いてこない。妊娠しているかどうか直感でわかる女性もいるらしいが、母性本能が薄いのか、なんの感覚も湧いてこない。
{京本さん、というか名前はニセモノだから、あの人と呼ぶことにして、いずれにしろ誰であろうとウソなら許せない}
女としてこれ以上腹立たしいウソはなかった。体を1回奪うためだけに、妊娠や胎児をダシにされたなら屈辱だった。
48時間後、ラナはアカペラのバーへすわった。ヒールのかかとで床を連打しながら店内をながめまわしたが、薄青い空間にあの人の背格好はない。
代わりに、1人の長髪男子が近づいてくると、隣へすわった。あの人の香りがヒロの鼻腔をなでてくる。
「コウジ」
コウジはあいかわらず長い前髪で顔半分を隠し、見えている側の目を閉じていた。髪は金髪ではなくなったようだが、薄暗いせいでよくわからず、そもそもどうでもよかった。床を踏むヒールの速度がガンガンと速まってしまう。
「隣へすわらないでくれる」
「さすがはナンバー1だな。言うことがワガママだ。ここはおめえだけの街じゃないだろうに」
声が香るのは変わっていないが、くちびるは少し腫れているように見える。ビールを注文してから言葉が続く。
「昨日ここで男と話していただろう。そいつの正体を知っているか?」
「あんたよりケンカが強い、って聞いた」
「バカじゃねえのか。あれは不意打ちだ。ひきょう者だ」
コウジはビールを飲み、細長いグラスをドスンと置いた。
「あいつと寝たか?」
「あんたには関係ない。それよりどうしてあんたがわたしの写真を持っているわけ?」
「俺が撮らせたからに決まってんだろ。マジックPで高く買いとってくれた。おまえには世話になりっぱなしだな。借金も肩代わりしてくれたしな」
ヒロは過去の話なんかどうでもよかった。
「マジックPは実在するの? 胎児が言葉を話すのは本当なの?」
「あいつと寝たんなら、おまえが1番よく知っているだろ。腹の中から化け物の声が聞こえてこねえか?」
ヒロの脳から媚薬の認識が消え、初めての感情がふくらんだ。
「化け物とはなにさ。あんたみたいな脳の軽いヤツに悪口言われる筋合いはない」
「母性本能か。キツイ悪口だな。ナンバー1のセリフじゃねえぞ」
コウジがヒロのグラスの横へ写真を置いた。ヒロの勢いが止まった。
「こんなところでやめてよ」
「じゃあ外へ出るか。まずはおごってくれよ。それから昨日の余韻へブチこんでやるよ。化け物へ届くほど、俺のはデカイ。おぼえているだろ」
コウジが香りと一緒にヒロへすり寄ってくると、脚をなでまわしながら、声を続ける。
「話はその後でゆっくりだ。昨日のヤローの行方を聞いてから、マジックPの牧場へ連れていってやる」
ヒロはコウジのまぶたをにらみつけた。
「昨日の人の行方なんか知らないし、人間生産なんかに手を貸すつもりはない」
「手はいらねえよ。他のところ使うんだからよ。写真はいくらでもコピーできる。女が抵抗できる状況じゃない」
ヒロから手を離したコウジがカウンターの上へトランプ占いのように整然と写真をならべ始めた。コウジの手の中にはトランプの束ほど写真がある。
「やめてよ」
ヒロはならべられた写真をかき寄せた。
コウジが器用な速度で、指の中の写真束をシャッフルする。
「ここは薄暗くてよかったな。ススキノナンバー1の写真なら、見たくねえヤツはいないはずだからな」
ヒロは薄暗さ越しにコウジをにらみつけた。
片目を開けたコウジがヒロをにらみ返してきたように見えたが、器用な手つきが急にふるえ出し、写真束をカウンターへ落とした。写真がカウンターの上へ散らばっていく。
「なにしてんのよ」
あわてたヒロがコウジより素早い指で散らかった写真を拾い集め、さらに強くにらみつけると、コウジのシルエットは全体的にふるえ始めていた。
「バカじゃねえのか。やめてほしいのはこっちだよ。そんなもの、どこで手に入れた? あいつからもらったのか?」
ヒロはヒールのかかとを浮かせたまま固まってしまった。
「なにを言っているの?」
「ふざけんな。俺はおまえを殺すつもりはない」
「どうしたの?」
「金さえ払えば許してくれるのか?」
「金?」
「2億なんて無茶言うな。俺はあいつに全財産持っていかれたばかりだ」
「2億?」
「わかった。金はなんとしても作る。だから許してくれ」
コウジがものすごい速度で走り去っていった。ヒロはすぐに後を追おうとしたが、出口で店員に手首をつかまれたため、かかとで急停止した。
「お支払いはどうされますか? あの方はお連れですか?」
「はい。ごめんなさい」
ヒロは料金を払い、車道へ出たところで、人だかりを見た。近づいていくと、ワンボックスカーが1台停止しており、人だかりからは悲鳴が連発されていた。とり囲んでいる女性たちはみな、とり囲んでいるくせに、バッグで顔を覆ったまま現場を直視しようとしない。
ヒロは媚薬の香りを認識した。血の臭いも感じた。車の下にいるのがコウジだと認識できた。
{見えないのにわかる。死んでいるのがわかる}
人だかりへ入って視覚情報で認識しようとはしなかった。する必要がなかった。コウジの死体から新鮮な湯気が上がっている様子を脳の中で見ながら、6畳間へ向かった。
星も月も、すれちがう人も脳の中へ浮かぶ。コウジの死体がいつまでも脳の中で倒れている。
ヒールのかかとが折れたのはアパートまで数十歩のところだった。右へ倒れようとした体が宙に浮いた瞬間、全自動で元へ戻った。
ヒロは大きく呼吸すると、ヒールを脱ぎ、裸足で部屋へ飛びこみ、テーブルをずらしただけで強引に布団を敷き、衣裳を着たまま掛布団へ潜った。
「いるのね。赤ちゃん、いるのね」
返事はない。しかしヒロには確信があった。まちがいないに決まっていた。大きな声で呼んだ。
「助けてくれたでしょう。お願い、返事をして」
「あの」
小さな声が脳に響いた。ヒロは手をにぎりしめた。
「やった。赤ちゃん」
「あの。すみません」
「どうしたの? なにを謝るの?」
「あの。大きな声に意味はないです。うるさいだけです」
ヒロのテンションが少し落ちた。
「ごめん。声を出さなくても聞こえるんだっけ?」
「あの。はい」
ヒロは掛布団から出ると、大きな息を吸った。
{惜しかったな。わたしの誕生日は昨日だった。昨日のうちに、話しができたら、あなたの誕生日も昨日になったのに。一緒の誕生日ならよかったね}
胎児の返事はこない。
ヒロはネックレスをひねりながら、声を出した。
「どうしたの? 思っただけじゃやっぱり聞こえない?」
「あの。聞こえます」
「そう。聞こえているんだ」
ヒロはせまい部屋の角にある冷蔵庫へ手を伸ばした。
{昨日、豪華なシャンパンをもらったの。お祝いしよう。あなたの誕生祝いと、わたしのマザーデビューのお祝い。妊娠がこんなにテンション上がるものだなんて、想像できなかった。まさしくシャンパンの気分だよ}
「あの。お酒嫌いです。もう飲まないでください」
ヒロは冷蔵庫の扉をたたき閉めた。
{コウジが突然意味不明になったけど、あなたの仕業? 京本、というかあの人は赤ちゃんにそんな高度な性能があるなんて言わなかったけど、ものすごいパワーだね}
返事はこない。
ヒロはネックレスを引きちぎるように外した。
「聞いている? 助けてくれてありがとう、と言いたいのだけど」
「あの。声を出さなくても、必ず聞こえます」
「じゃあ、必ず返事しなさいよ」
「あの。ごめんなさい」
「あやまる必要はないけど」
ヒロはバッグに押しこんでいた写真の束を出し、手作業で1枚ずつ、シュレッダーのレベルへちぎり始めた。
{どうして今まで、呼びかけに応じなかったの? わたしの声が聞こえていたわけでしょう?}
「あの。無口なんです」