受精の理由・story95
イベントのアフター相手に京本を選んだヒロは総支配人からほめられた。
「顔色が良くないようですが、バースディイベントですからがんばってくださいと思います。ただ不用意な言動を目撃されますと、掲示板へまたいろいろ書かれるかと心配ですので、お気をつけいただきたいと思いますが、いかがでございますか」
スイートルームのキーをにぎりしめるヒロを京本が連れていったのは、アカペラのコーラスバンドが30分ごとにステージへ立つ、青暗い間接照明に満ちた広いバーの長いカウンターだった。
自分の顔色のような間接照明の中で、ヒロは強い酒を注文した。
京本はぎりぎりまで薄めてもらったウイスキーの氷をカタカタ揺らした。
「ウォッカブルーなんか飲んでだいじょうぶか? 強い酒だ」
「酔うと、わたしの体温は京本さんにわからなくなるわけでしょう。徹底的に酔うことにします」
「酔わなくても、スイートへ泊まりたくなるはずだ」
「すごい自信」
「自信はあるよ。ただし色恋の自信じゃない。俺の話へヒロは強い興味を持つはずだ」
ヒロはウオッカを舌の先でなめた。
「どんな話ですか?」
「金儲けだよ」
ヒロはキーの先を京本の脳へ突き立てたくなった。
「なにをご覧になった上での自信かわかりませんが、わたしが金の亡者に見えるなら、見当ちがいです」
「ヒロが金の亡者じゃないことは、3日続けて話したところでわかっている。しかし金を貯めるために小さな生活をしているだろう。金にこだわらないことはないはすだ」
「わたしの小さな生活は、京本さんに関係ありません」
「俺と関係できることをよろこんでほしい。マジックPはヒロを優秀な母体となりうる逸材として、人間牧場へスカウトするつもりだ。マジックPから逃れる方法などない。俺の助けがなければ、ヒロの30代は牧場での計画妊娠のくりかえしで終わるだろう」
ヒロは総支配人より意味不明な日本語に頭を悩ませた。
「なにを言っているのか、全然わかりません」
「じゃあ順に説明する。と言いたいところだが、朝まで時間がない。詳しい話はセックスの後でヒロの潜在意識に聞かせておく。その情報を胎児の脳がダウンロードするだろうから、後日胎児にゆっくり聞かせてもらってくれ」
「ごちそうさまでした」
ヒロはキーをカウンターへたたきつけ、立ち去ろうとしたが、キーの上に信じられない写真をのせられ、ハイヒールが崩れそうになった。
「どうしたの? この写真」
「燃やしても破ってもキリがないだろう。基データはマジックPの中にある」
ヒロは写真をにぎりしめ、ぐちゃぐちゃに丸めた。
「どこで手に入れたのですか?」
「片目のつぶれている男がプレゼントしてくれた」
ヒロはすわり直し、かかとをイライラ踏み鳴らした。
「京本さん、相手の脈拍がわかるなんてウソなんですね。写真があるのを知っていただけですね」
「ヒロが初めて抱かれた相手は恋人かい?」
「どうしてそんなことを」
「いいから、イエスかノーで答えろ」
「ノーです」
「両親は元気かい?」
「ノーです」
「たまにウソをつけよ。住んでいるマンションは5LDKかい?」
「ノーです」
「現在の恋人は総支配人かい?」
「そんなわけないでしょう」
京本が溶けかかっている氷をひとつつかみ、ヒロの指にのせた。
「冷たいかい?」
「あたりまえです」
「ウソのつけない女なんだな」
京本は写真をもう1枚出した。
「この写真を撮られた時、何人の男がいたか、おぼえているかい?」
ヒロは白く汚れている自分の太ももの画像を見つめた。
「はい。10人の相手をしました」
「ようやくウソをついた。わざとだな。俺を試す余裕ができたか」
「京本さんに聞きたいことがあります」
「なんだ?」
ヒロはウオッカを飲みこみ、強い息を吐いた。アカペラの唱奏が始まった店内がさらに薄暗くなり、ヒロが白く汚されている写真は見えなくなった。
「掲示板に写真のことを書きこんだのは、あなたですか? わたしに写真を買いとれと言いたいのですか?」
「書きこんだのはマジックPだ。おどしを使う時はいきなり本題に入らず、相手の脳へ先入的恐怖を植えつけておくのが常套手段だ。写真の存在を意識したヒロの脳は弱くなる。そこで本題を持ちこむ。元々写真によるおどしがなくても、マジックPにはしたがわざるをえないが、無理やり妊娠させた場合、いい状態の遺伝子が胎児へ伝わる確率は低くなる。マジックPは人間生産へヒロを合意させるために、写真を使うつもりだ」
「マジックPってなんですか? 人間生産ってなんですか? 京本さんは結局なにを言いたいのですか?」
大きな拍手が店内に生まれた。
京本はヒロの白い写真を内ポケットへしまい、代わりにハンカチをとり出してから、口を開いた。
「俺の子どもを妊娠してほしい。胎児と一緒にマジックPを壊滅させてほしい。報酬は5千万。これだけじゃ足りないくらいに厳しい仕事だが、ヒロならやれる。マジックPが人間牧場の肌馬としてマークするほどだから、ヒロはきっと優秀な頭脳と感性を持っているはずだ」
「だからマジックPとか、人間牧場とか、意味がわかりません」
「説明したいが、時間がない。スイートへ入ろう」
ヒロは激しい香りを感じた。脳が男のバネを欲しがってしまう、香りだった。
「コウジとどこで会ったの?」
「初めて見かけたのはリックスシィという店の前だった。俺の古い恋人をスカウトリストへ載せていたから、邪魔をした。妙な媚薬を使って子宮にいる俺の子を傷つけられたりしたら困るからな」
「ついでに媚薬も買いとって、ハンカチへ塗りつけたわけ?」
「それは4日前だ。片目のコウジはスカウト業と並行して、マジックPの下っ端をしている。リックスシィで会った俺が手配中の改造脳だと後から気づき、ススキノ中を探していたらしい。背後からこっそり近づいてきたあいつは俺を失神させてマジックPへ突き出そうとしたらしいが、俺の脳には背後の様子がはっきり見える。あいつをしばりあげてヒロの写真と媚薬とキャッシュカードを奪ったうえで、写真の主、つまりヒロに対するマジックPの脅迫計画をあいつから聞き出した。マジックPは脅迫のために、この写真を秘蔵していたそうだ」
ヒロはウオッカの香りを鼻へ近づけたが、脳は媚薬の香りしか嗅ぎわけない。
「胎児と一緒にマジックPを壊滅という意味がまったくわからない。人間牧」
「時間がない」
京本はヒロの言葉をさえぎった。
「もうすぐ排卵のピークを過ぎる。この時間がヒロの妊娠確率の最も高い時間だ」
京本が女の脚にふれてくる。媚薬の記憶が体の中心で濡れる。ヒロの脳に大きな欲求がつのった。
「どうして、わたしの排卵なんか」
「体内の様子がわかると言ったはずだ。俺はウソをついていないだろう」
また大きな拍手が鳴った。次の曲の発声イントロを聴きながら、2人はバーを出た。
タクシーで2分ほど揺られてから、スイートのベッドで信じられないほど揺れた。
久しぶりの時間にぐったりとなったヒロの脳へ京本が話を始めた。
ヒロは眠りかけた脳に力を入れると、自分の顕在意識で話を聞いた。気づいたらしい京本はゆっくりと改造脳やマジックPに関する情報をヒロの脳へインストールさせた。
ヒロの脳がウズウズした。
{話が本当なら、あと数時間で胎児が声を聞かせてくれる。排卵日を当てたのだから、京本さんはウソをついていないはず。単に抱きたいだけだったなら、抱き終えた後で、こんなくだらない作り話を長々としないはず}
京本は話を終えるとベッドから出た。ヒロは閉じた目で男の帰り支度の音を聞きながら、言った。
「死ぬ気なの?」
「死ぬ気もないが、生きている気もない」
「こんな楽しい話なら、最初から言ってくれたらよかったのに。媚薬なんか使わなくても、わたしは京本さんの子どもを欲しがったはず」
「最初から言っても、信じないだろう」
「信じたと思う。突拍子のない情報でも、つじつまが合えば信用できる。その辺の人間はみんな、つじつまもなにも気にせず、無責任に垂れ流されている情報を信じている」
スーツの上着をハンガーから外す音が聞こえる。
「ヒロはこれからの10カ月間、相手のウソを見抜くことができる。もう情報の真偽にふり回されることはない。ウソをつかれるのもこれが最後だ」
ヒロは裸の顔を起こし、京本を見上げた。
「俺の話は大筋で本当だが、ウソが2つあった。まず1つ、京本という名は仮名だ」
「なんだ、そんなこと」
京本が香りの薄れたハンカチをヒロの顔へかけた。
「片目のコウジはキャッシュカードの正しい暗証番号を8回目でようやく言った。俺がウソを見抜けると信じなかったらしい。7回殴ったから顔が腫れていたな」
ヒロにとって媚薬の香りはコウジのものでなく、すでに京本のものだったから、もうどうでもよかった。
「あんな男好きなだけ殴ったらいい」
「問題は暴力じゃない。俺がパシオンで使った金はコウジの全財産であり、俺の全財産でもあった。残念だがコウジは5千万も持っているはずない」
ヒロはハンカチをよけて京本の後ろ姿を見た。
背後が見える男は手をふった。
「現金を見るまで相手を信用しないことだ。タダ働きになるが、後は頼んだぞ。俺はやはり死ぬだろうから」