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インフォメーション ワールド・story94

 借金返済を急ぐため、目にふれた物件の中でもっとも安い6畳ワンルームの古アパートへ引っ越したナンバー1ホステスは、周囲のすべての認識から身を隠すような私生活を始めた。

 小さなテーブルを壁へ立てかけ、6畳のまん中に布団を敷きながらヒロは自分の脳を見つめ直す。ヒロの脳は頂点に立ったことを意識するあまり神経質になっていた。評判を気にすることで、小さな情報をなんでもかんでも認識してしまうと、脳が停滞してしまい、自律神経作用やホルモン作用が狂い、すべての歯車がおかしくなる。

 知らないうちに落ちていた苦境からヒロを救ったのは、さらなる苦境だった。店へ迷惑をかけ、コウジをうしない、借金すら背負ったことが、ヒロにとってプラスに働き始める。逆境に立ったことで脳が引き締まり、情報と認識を冷静に分析できるヒロが復活した。

 同僚、客、さらには借金取りまで、それぞれなにを認識したがっているかがわかれば、的確な情報で対応できる。イベントの欠席でシラケかけた客の信頼をとり戻し、金を集められるナンバー1として復活したことで店側からの信頼も奪いかえし、信頼が戻れば金に変わる世界だからコウジの残した借金もハイペースで返済できた。

 24歳の誕生日までに、500万の借用書と、自分の肌が犯されているポラロイド写真を取りかえすと、誕生日イベントでもらったキャンドルの先で燃やした。まっ暗なワンルームの中心で、指にはさんだ写真がキャンドルの先で燃え上がると、6畳部屋の壁は火事になったかのように赤々と揺れた。ヒロは自分の裸が焼かれていくのを見ながら、母が火葬されている姿を想像した。マニキュアへ引火しそうになったところで指を離すと、火のついた写真はキャンドルの上へ落ち、テーブルへ滑り落ちる。

 客からもらったシャンパンを1本すべてテーブルへぶちまけた。まっ暗になった部屋でヒロは泣いた。どうして涙が出るのかは知らなかった。

 馬や犬は涙を流しながら泣くのだ、と酔った声で言う客がいた。たとえ馬や犬が泣いたとしても、昆虫や魚は泣かないはずだから、涙は生命の進化現象にちがいなかった。しかしなぜ涙が生命の進化なのか、ヒロにはわからなかった。わからなかったが、涙を流せるのは進化した生命、つまり人間である証しのはずだった。

 人間は浅はかでありながら、深い涙を流す。

 ヒロの記憶にまた母が現れた。相手を操作するためだけに情報を選ぶナンバー1ホステスとちがい、母は1人娘へ自分の感情を率直に情報化し、認識させてくれた。

 人間は浅はかでありながら、深い感情を持つ。感情は生命最大の進化であり、涙となってあふれ出る。

 シャンパンと写真の溶けた臭いが閉じこもる6畳の中で、ヒロは自分の涙をなめた。味が精液に似ている気がして吐いた。顔をかがめ、テーブルの上へ湖のように広がっているシャンパンを口なおしにすすると、そのまま浅い湖へ顔を沈めた。溶けたロウや写真、ヒロの顔から流れ出た化粧品や涙を吸った湖はコウジの香水のような香りになり、男の硬い弾力を思い出させる。テーブルからあふれた湖の端がスカートへ落ち、性器の上でシミになった。

 ヒロはコウジと別れたきり、男を忘れていた。

 客たちはヒロを誘い続けるが、ヒロは自分を男心へ認識させていく作業を慎重に行う。手や指はすり減るほどさわらせるが、脚をさわらせるタイミングは選ぶ必要がある。男は女の手にふれると小さな欲求を満たすが、脚にふれると大きな欲求をつのらせるので、相手の気を引く必要がある時だけドレスの切れ目を開く。

 何度も通ってくれる客は閉店後のヒロを誘い、暗い道を歩きたがる。まずキスだけでもしようとする男の姿勢をはっきり感じながら、ヒロはハイヒールの先を明るい道へ向ける。決してキスに応じてはいけない。目を閉じたヒロとキスをしたなら、男は次の行為を過度に期待し、発展しなければすぐにヒロから去ってしまう。

 しかしいつまでも焦らしていると、男は子どものようにヘソを曲げてしまい、やはりヒロへの投資をやめてしまう恐れがある。

 ヒロは脳内の触覚を鋭く働かせ、目に見えない男の精神状態を認識しようとする。最初のうちはまったくキスのチャンスをあたえず、回が重なるたびに少しずつチャンスをちらつかせていくと、男の興奮は増していき、パシオンのレジで何度でも財布を開く。7回目から10回目でヒロは男の限界を読みとり、強引に奪われるキスを許す。応じたキスではなく、無理やりされたキスをよそおうことで、ヒロは男をいつでも遠ざけられる。男はまったく近づけていないと自覚しながらも満足するから、さらに十数回は通ってくれる。

 時には、つまらない会話をしかけてくる男もいる。

「男がいないという言葉を信用すると、そんな細い指じゃさびしくないか、心配になるよ」

 ヒロは金のために笑い、情報をあたえる。

「この指の太さでちょうどいいくらいなの。よかったら信じてください」

 情報を信じようと信じまいと男の脳はヒロを強く認識するから、必ずまたやってきて指名をくれる。

 25歳、26歳、誕生日が来るたびにイベントの規模は大きくなり、3夜連続で開催しても客が入りきれないほどだった。

 ススキノへ来て10年になったヒロはあいかわらず6畳ワンルームで暮らしている。早く貯金を増やし母の墓がある自宅を持つため、豪華な誕生日と裏腹に、私生活は倹約のかぎりを尽くしていた。

 系列すべての総支配人へ出世した元マネージャーがインターネットの掲示板からプリントアウトした紙をヒロへ認識させたのは、5夜連続で行われた27歳の誕生日イベントの直後だった。

「ヒロさん、ご存知でございますか。ホステスたちの噂を書きこみます掲示板で、ずいぶんひどく中傷されてございます。削除されますよう、サイトの管理者へ連絡してございますが、削除してもすぐに書きこまれます状態でこざいまして、手に負えません。どうか気になさらないでほしいと思いますが、いかがでございますか」

 ヒロもインターネット上でホステスたちを誹謗するサイトがあるのは知っていたが、多くのホステスたちと同様、無視を決めこんでいた。しかし手わたされた紙には総支配人の口調よりもひどい日本語がならんでいる。

 この書きこみを信じた者は、ヒロが金の亡者であり、男を金としか思っておらず、あらゆる手段を使って1万円でも多く搾取する女だと思うはずだ。5LDKの超高級マンションに住み、暴力団関係者と裏でつながり、売春や覚せい剤までやっていることになっている。裸の写真を撮らせて500万円で売ったという書きこみもある。

 ヒロの顕在意識はクラクラふるえながら、書かれている日本字を認識した。裸の写真に500万円という書きこみが偶然とも思えなかった。情報は好き勝手に脚色され、誇張され、暴走している。

 目を閉じ、情報化社会という5字熟語を想像した。多くの人がテレビや新聞の情報を絶対的に信じる一方で、インターネット上の情報へは猜疑心があると、なにかで読んだことがある。情報を自由に操作しやすく暴走させやすいネット上で、人は情報をうたがいながら生きざるをえない。新聞の購読量や地上波の視聴率が減少傾向にある中、インターネットの利用率は増えているらしいから、これからの人々は膨大な情報をどう認識すればよいか迷い、脳へ負担をかけることになる。ついには外部からの情報を一切認識せず、自分の中で勝手な情報を製造し、無責任に発信するしか方法がなくなるかもしれない。少なくとも手の中の紙には前兆が見える。

「だいじょうぶでございますか? 顔が青くなっておりますが、いかがでございますか」 

 ヒロは総支配人へ紙をかえした。

「だいじょうぶ。掲示板の削除なんかしなくていいよ。めんどうでしょう」

「そんなわけにはいきませんと思いますが、いかがでございますか」

「情報のとおりの女よ。マンションが広すぎて困っているの。覚せい剤の仕入れ値が最近高値になってきたから、もっと稼がなきゃ」

 青くなった総支配人から離れ、大きな鏡の前にすわったヒロは左右対称の自分を見つめた。宇宙には情報と認識の対しかない。人は情報を認識する以外に生きる方法がない。情報の在り方が大きく変わるたびに、文明の在り方も大きく変わり、人間も進化した。時代の変わり目を若い眼で見られるのは幸運といえる。

{少し、本を読みすぎたかな。もっとふつうのリアクションができる女でもいいかな}

 中学の担任を思い出し、母を思い出した後、メイクボックスを開き、顔から発信する情報を偽造しながら笑った。

{女は昔からネット世代だね}

 客の中には掲示板を見たらしい言葉を発する者もいる。書かれてなかったはずの情報が尾につくこともある。

「10階にある豪華マンションは快適かい?」

「ヒロちゃん、売春や覚せい剤のためにわざわざ暴力団とつき合うことないよ。素人だってやっている商売だ」

「ヒロの裸体写真が500万なら安いな。俺は600万出すぞ。撮らせてくれないか」

 28歳の誕生日の直前に書きこまれた情報はヒロに衝撃をあたえた。「全裸写真データ、100万で売ります」という言葉が朝から夕方まで、ヒロのことを書きこむ掲示板へ5分おきに登場した。

 イベントの話題は写真が中心になった。

「100万なら本気で買うよ。連絡先が載っていないから、ガマンしているだけだ」

「データ、っていろんなことが添付されているのかな。感度とかいろいろ」

 主役の顔色は少し悪かった。全額返済の時に返してもらった写真はポラロイドだったから安心していたが、何枚撮影されたかを知らないし、たとえすべて返却されていたとしても、事前にポラロイドの画像をデジカメで撮影されていれば、情報を無限にコピーできる。

{もう何年も経っている。わたしの価値がいつ下がるかわからないのだから、写真を売る気なら、とっくにやっているだろう。今ごろ出てくる話なんてウソのはず}

 ヒロは受けとったプレゼントや花束の数以上に、自分へ同じ言葉を言い聞かせた。

 総支配人が、衣裳を変えるため控え室へ戻ってきたヒロの様子を心配してくれた。

「ヒロさん、気にしない方がいいと思います。みんな遊び半分で毎日掲示板を見ているようでございますが、書かれていることを信じる人はいないはずです。いつもどおり笑顔でやり過ごせばいいと思いますが、いかがでございますか」

 じゃあどうしてみんな掲示板を見る。どうして信じない情報を認識しようとする。

 ヒロは店じゅうに置かれているキャンドルを転倒させ、店も客も焼いてしまいたい衝動を認識した。自分すら焼いてしまいたかった。

 総支配人がヒロへ水を持ってきた。

「だいじょうぶでございましょうか。今日は休憩する時間もございませんが、いかがでございますか」

 ヒロは水を飲みこんだ。

「だいじょうぶ。ごめんなさい。すぐに着替えていくから」

「わかりました。京本様がお待ちですので、お急ぎいただきたいと思いますが、いかがでございますか」

 着替えを済ませたヒロはホールへ戻り、京本という男の待つテーブルへすわった。京本は3日前に初めて来店してから連日大金をヒロの名義で使ってくれる客で、「酒は唯一のたのしみだ。地球最良の水分だ」など、地球という言葉を何度も大げさに使う男だった。

 京本からのプレゼントはホテルのスイートルームのキーだった。この手のプレゼントの受け流しを熟知しているヒロはまずうれしそうに笑い、キーの先端を舌でちょっとなめた。

「女に対する最高のプレゼントだよね。イヤでも妄想しちゃうのがわかる?」

 京本はいつもより真剣な雰囲気だった。少しめんどうな感じかな、とヒロが思った時、大げさな京本の声がヒロの耳へだけ入るほど小さくなった。

「俺へウソをついてもダメだ。キーを少しもよろこんでいないことがわかる。妄想すると人間の体温はもう少し上がる。酔っている人間は判断しにくいものだが、ヒロはまだそれほど飲んでいないから、体内環境がわかりやすい」

 すごくめんどうな感じかな、とヒロがかえす言葉に悩んだ時、京本の声が一段と小さくなり、ヒロの脳へこの日最大の認識をあたえてきた。

「全裸写真という言葉へ脈が反応しすぎだ。写真は実在するんだろう。おびえているのがよくわかる」

 ヒロは脈拍が大げさに変化していくのを止める方法など知らなかった。

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