頂点でのふらつき・story93
パシオンの店内は段差が多くハイヒールでは歩きにくいはずだったが、ヒロは上手に、そして順調に歩き続けた。
店内の控え室で美容師に髪をまとめてもらい、ヒロの情報を気に入ってくれたたくさんのお客さんと毎晩食事へ行き、年齢を4つ上に設定した体で酒を飲んだ。出勤すると他のテーブルへ幾度も呼ばれるが、同伴者の機嫌が壊れないような笑い方をおぼえ、急成長する年下の少女をねたもうとする同僚たちから好かれる方法をおぼえ、長時間のハイヒールでも疲れない歩き方をおぼえた。
仕事が終わるとコウジのアパートへ帰り、本格的なセックスをおぼえた。
8つ年上のコウジは香る呼吸が落ち着いてから、器用な話術でホステスの心得を教えてくれた。
「お客さんに金を使わせるのがホステスの仕事だよ。金を使ってもらうためには、金のことを忘れるほど楽しんでもらわなきゃいけない。金のことを考えると人間は渋くなるからね。お客さんに金を忘れてもらうためには、ヒロが金を忘れることだ」
ヒロはコウジの話を真剣に聞き、参考になる情報だけを記憶した。ヒロにはヒロのルールがある。お客さんは自分の望む情報を認識するために店へやってくる。お客さんがなにを認識したいか知り、望みどおりの情報をあたえてやれば、ヒロのところへまた金を届けてくれる。
相手の心を知ろうとする時、ヒロは情報と認識だけの宇宙を想像した。世間の常識や人間の直観などへ頼るより、シンプルな宇宙像だけを思い浮かべる方が考察はうまくいく。男の心が透けて見える。
5年かけて、ヒロはパシオンの頂点に立った。
コウジはアパートの小さな風呂場でシャンパンの栓を何本も抜き、ナンバー1になったお祝いをヒロの裸へ浴びせた。
「ヒロがナンバー1になるのはわかっていた。素晴らしい原石だったからね。俺はこの5年、ヒロを超える逸材を探し続けたよ。俺がヒロを超える女を見つけてきたら、俺の勝ちのつもりだった。だけどそんな女はいなかった。勝負はヒロの勝ちだ。いくらでも味わえ」
泡の吹き出るシャンパンボトルの先を挿入しようとしてくるコウジのまぶたに向かって、ヒロはシャンパンを浴びせた。
「コウジの勝ちよ。わたしを見つけたのはあなたでしょう」
2人の生活はこの夜がピークだった。
いやでも“頂点”という重みを意識するようになったヒロは小さな情報へも敏感になり、しだいにストレスをためるようになっていく。小さな情報を過大に認識するようになると、顕在意識の認識処理容量を超えてしまい、脳が停滞する。脳が停滞すると、いつも発揮していた気配りやあいさつが緩慢になり、他人の目からはヒロが思い上がってきたように見える。
コウジの帰宅が遅くなり、まったく帰ってこない夜も多くなった。
「スカウトは忙しい。ヒロに続く人材を次々入れていかないと、お客さんに飽きられてしまうからね」
今さらいそがしくなるのもおかしいと思ったが、ヒロは毎晩1人で布団へ入り、裸で眠りながら、帰ってこないコウジを待った。
22歳の誕生日を迎えた夜、ヒロは札幌へ戻ってから初めての発熱を感じた。店では盛大な誕生日イベントが用意されていたが、高温で手足が痛むため立ち上がることもできないヒロは欠勤した。
欠勤の事態が伝わっているはずのコウジだが、アパートへ帰ってこなかった。携帯にかけてもつながらず、メールの返事も戻ってこない。
体温計を探すために戸棚の奥をのぞいたヒロは赤紫のビンに入った不思議な香水を見つけた。媚薬らしい香水はコウジの香りそのものだった。香りにふれていると、女の脳が男のバネを思い出し、体温が増した。目を閉じているコウジが心で女を見抜いているのではなく、女のよろこぶ情報を認識させ、女の脳をあやつっていただけだと知った。コウジの手法がとても浅はかでミジメに見えた。人間の脳がミジメに思えた。自分の手法がコウジとなんら変わらないことにも気づき、内臓まで凍るような寒気に襲われた。
布団に潜り、母を思い出した。母がくれた数えきれない笑顔は、娘へ情報を送ろう、などという姑息な輝きではなかった。母は素晴らしい脳を持っていた。本物の原石だった。
自分はいつも認識を前提にした、姑息な情報を客へ送り続けている。輝ける原石などではない。人間の脳を汚す最低の女だ。コウジも最低の男だ。
脳が熱のせいでグラグラ揺れた。まっ赤な自転車が血を垂らしながら空を横切り、5階の窓へ突っこんだ。割れたガラスがシャンパンの泡の勢いで飛び出ると、ヒロの体へ刺さった。ヒロの股間にまっ赤な筋肉痛が浮かんだ。
コウジの声が遠くに聞こえた。
「なにしてんだよ」
声が近くなった。
「起きろよ」
ヒロが目をさますと、股間の痛みが本物になった。ヒロの体の中心を、コウジが布団の上から靴で踏みつけていた。
「コウジ。お帰り」
「もう帰んねえよ。1番稼げる夜に寝ているなんてバカじゃねえのか。なんのためにホステスになったんだよ」
「熱が出たの。体がだるい」
「イベントの主役は血を吐きながらでも出勤するのがあたりまえだろ。おまえのせいで、店はメチャクチャだぞ。社長もキレてたよ。どれだけ損害出たと思ってんだ」
ヒロは金のことを考えると、吐き気がした。
「コウジ。体温計はどこ?」
「ねえよ。体温なんか測っても下がらねえ。役に立たねえよ。本当はおまえが系列の最低店へ飛ばされるところだけど、おまえは稼げるから処分ナシだ。代わりに俺がクビだ。俺、関係ねえのに、他への見せしめでクビだ。おまえ責任とって、俺の後始末しろよな」
コウジは媚薬のビンと、ヒロが衣裳ダンスへ隠していた五十万円入りの封筒をにぎったまま出ていった。
熱でうるんでいるヒロの目に衣裳ダンスや鏡台の中身が引っくりかえされている様子が見えた。歯を食いしばりながら、いろんなことへ耐えているうちに、また眠ってしまった。
次に目がさめると、知らない男たちが見えた。汚い歯がニヤニヤとヒロを見下ろしている。あわてて動かそうとした手足はすでに固定されていた。さけぼうとした口へなにかを押しこまれ、味あわされた。発熱も金もコウジも母も情報も認識も、なにもかも忘れるほど苦しい時間が流れた。性器が痛くて痛くてしかたなかった。
時間が終わると、裸の胸に紙切れがのせられた。
「コウジの借用書のコピーだぞ。500万ちゃんと引き継げよ。きちんと払わねえと、おまえの写真がススキノ中に貼られるぞ。もっと有名になれるぞ」
男たちの笑いが立ち去った部屋で、手足に残っている縛られていた痛みを指でなぞった。性器に残っている激痛へそっとふれた。歯を食いしばって立ち上がると、午後7時が見えた。ツバを吐きながらシャワーを浴び、かかとで流れるお湯を蹴った。ふるえる脳で、わざと苦痛のシーンを思い出した。
「記憶がある。わたしは生きている」
散らかった衣裳からドレスを拾いあげ、ふらつく体をかかとでしっかり支えながらパシオンへ向かった。空を見なかったので、星も月も存在しなかった。
店へ着くとすでに営業は始まっていた。
控え室へ入るとマネージャーがいつもの気味悪い日本語を耳元に寄せてくる。
「さすがナンバー1はちがいますところを、見せつけてくれます。きのうは休んで迷惑をかけてくれましたところで、今日は平然と遅刻でございますか。一緒に働いている者の身にもなっていただけますかと、聞きますが、いかが返事しますか」
ヒロは短い言葉を選んだ。
「昨日はごめんなさい。損害はわたしが埋めます」
美容師の乱暴なドライヤーを途中でさえぎり、急いで支度を整えたヒロはホールへ出た。一緒に働いている者がなにを思おうが、客たちは一斉にヒロを見た。殺到する指名へ順にこたえるため、ヒロはまず近いテーブルへすわった。
客はヒロをかわいがってくれる年配の会社重役だった。
「昨日は心配したよ。熱は下がったのかい?」
「測っても下がるわけじゃないので、体温計は使っていませんから、わかりません。いろいろ心配かけて、ごめんなさい。おわびにわたしからごちそうさせてください」
ヒロは高級なシャンパンを注文した。マネージャーがおどろいた顔でシャンパンの入った氷壷を運んでくるのを見ながら、塗ったばかりのくちびるで笑った。
{わたしは人間。人間の脳は浅はかだから、浅はかな情報しか認識できない。でも恥じることはない。ネズミが空を飛べないことを恥じないように、人間も認識が浅いことを恥じる必要はない。戦う相手もしょせん浅はかな人間。人間同士なら負ける気はしない。あんたたちに負けてたまるか}
客も従業員も借金取りもすべて負けられない相手だった。
シャンパンの栓が抜かれ、泡が跳ねた時、ヒロの記憶が男の先端を認識させてきた。
胃の奥から酸の強い液体が泡のようにこみあげてきたが、ヒロはまだ乾いていないくちびるを結び、飲みこんだ。