インフォメーション デビュー・story92
畑主の息や汗は臭かった。
ヒロは札幌に近いラブホテルのベッドで揺らされながら、畑主の悪臭がハアハアただよっているのを、開けっぱなしの目で観察している。ぎしぎし動くベッドで酔いそうだった。服はまくりあげただけで、ほとんど身につけているのに、寒くて寒くて思わず畑主へ抱きついてしまうと、ハゲた頭の動きが止まった。
畑主が息の臭いを整えているうちに、ヒロは服を直すと、部屋を出た。フロントで呼んでもらったタクシーへ中学生の足取りで乗りこみ、札幌の中心部まで幼稚園のカバンを抱きしめたまま移動する。風邪をひきそうなほど寒かったが、市内のビジネスホテルへチェックインすると、裸になりシャワーを浴びた。幸いたっぷりとお湯が出た。暖かな部屋だった。無臭のシーツでぐっすり眠った。
母の夢を見たかったが、6歳の自分は登場したのに、母は現れない。黄色の自転車が空から何台も降ってくるのを必死に受けとめようとする自分の後ろで、汚い白衣を着た医者がボールペンを股の間にはさんでいる。夢らしい夢だった。
目がさめると、足の付け根へ筋肉痛のような新しい痛みが刺さっていた。
痛みを感じながら、掛布団を頭までかぶった暗がりの中で、眠ることと、死ぬこととを比較した。
もしも夢を見なかった場合、自分にとって睡眠と死はまったく等しい。担任から数冊借りて読んだ本の中の単語を借りれば、睡眠と死とは同じクオリアが発生する。
睡眠と死のちがいを挙げるなら、呼吸や脈拍があるかないか、寝がえりを打つかピクリとも動かないか、そもそも生と死とのちがいくらい、おまえはわからないのか、という決着になるが、第三者目線の冷静な意見はどうでもいい。
自分目線では、自分自身の睡眠と死のちがいを見分けられない、という部分が大切だった。
自分は毎日死んでいる。死と同じクオリアを認識している。
認識と情報。
ヒロの知識はすべて担任から借りた本によって提供されている。担任が「何度読んでも意味がわからない」と言いながら貸してくれた物理学の本に、こんな文章があった。
“アインシュタインは量子論の概念へ反論した。「量子論をまともに受け入れてしまったなら、誰も見ていない時に月は存在せず、誰かが観察した時だけ月は存在する、というバカげた概念を信じなくてはならない。そんなことはあってはならない」”
「観察した時に始めて状態が決定する」という量子論の解釈の1つへアインシュタインが反論したシーンだった。ヒロも結局意味がよくわからなかったが、なぜか布団の暗がりの中で、意味を理解した気分になった。そして反論するアインシュタインへ、反論したい気持ちになった。
誰も見ていない時、月は存在しない。この瞬間、日本海溝の底も、エベレストの山頂も、南極大陸の氷の内側も、見ている人がいなければ存在しない。エベレスト山頂はそこに存在するのではなく、そこに存在するという情報が存在しているだけだ。情報は認識されなければ存在しないことにされてしまうから、エベレスト山頂に認識者がいなければ、世界最高峰は存在しない。逆に言うと、この瞬間にエベレスト山頂が崩れ落ちたとしても、崩壊を認識する者がいなければ、標高は変わらないままだ。
たった今、ヒロが暖かいベッドの中で考えごとをしている姿は誰にも見られていない。誰にも認識されていない。つまりヒロはこの宇宙へ存在していないことになる。
しかしエベレスト山頂とちがい、ヒロがヒロ自身を認識している。認識されているなら、宇宙にヒロはやはり存在していることになる。
ヒロを存在させている、ヒロ自身とはなにか。エベレストとヒロのちがいはなにか。
ヒロは母を思いだした。母はまったくちがう人間へ変わってしまった。ヒロはそれでも母の肉体を母として認識できたが、なんの知識も先入観もなく、さらに視力のない者なら、記憶喪失前の母と、喪失後の母を別人と認識するはずだ。
ヒロだって母を母ではないと何度も認識した。母はちがう人になったと認識した。
大きく変貌した母だが、失ったものは記憶だけだった。つまり人間は記憶であり、記憶を失えば別人になる。元の人格は死んだも同然になる。
記憶は情報として、自分の顕在意識へ、自分だけの顕在意識へ、認識される。この行為が人間、あるいは生命と言える。熟睡している間はこの行為が行われないから、死と同じクオリアが発生するのも当然だ。エベレストはこの行為を行わないから、生命ではない。
脳が熱くなってきたヒロは掛布団から顔を出し、考えを整理する。
記憶という情報は固有であり、他のあらゆる情報は共有であり、これらの情報が存在するためには認識という行為が必要になる。情報だけ、もしくは認識だけという存在方法は成り立たない。観測という認識行為の有無に関わらず、エベレスト山頂はその存在情報を出し続けているはずだとアインシュタインは主張した。多くの人も同調するはずだ。
しかしヒロはちがうと決めつけた。情報だけが存在したりはしない。宇宙は情報と認識の対だけが存在している。認識は生命にしかできないから「生命誕生の瞬間が宇宙誕生の瞬間」であり、固有情報=記憶の容量増加が生命の進化だ。
宇宙はとてもシンプルで、原子や分子すら存在しない。無限の原子や分子が存在するという情報は認識の数だけあふれているが、原子や分子の実態はない。突きつめれば宇宙すら実態はない。この世に存在するのは情報と認識の対のみだ。
ヒロはベッドから出た。厳密なツッコミがたくさんできるはずの中学生思想だったが、宇宙をとてもシンプルに記述できる点をヒロは気に入った。
ひとつだけ心に残ったツッコミが、果たして自分は死のクオリアを知っているのだろうか、という点だった。クオリアの性質上、自分が死のクオリアを完璧に推理し、周囲がそれに賛同してくれたとしても、正しさを証明する方法は絶対にない。死のクオリアは死者にしかわからず、死者はクオリアを認識しない。死のクオリアなど存在しないことになる。
ヒロはカーテンを開け、凍りかけている窓を動かした。駅に近い通りには大都市の年末が雪道に注意しながら流れていた。排気ガスがたくさん立ち昇っているのに、空気はとても冷たく、脳がすぐに冷やされた。稚拙な考えごとをするために札幌へ来たわけではないと、冷静な考えが浮かぶ。
ヒロは母のお葬式をたった1人でするつもりだった。金の話と母が死んだ話しかしない父にはもう一生会いたくないから、正式な弔いへ参加するつもりはない。自分だけでどんな形式でもいいから、線香を灯したかった。
窓を閉め、空を見上げた。冷たそうな雲が1つだけ浮かんでいる。自分が5階にいることを思い出し、かかとを踏み鳴らした。また窓を開け、地上を見た。
ここから飛び降りたら、死のクオリアを知ったばかりの母へ会える。自分も死のクオリアを知ることができる。認識できないはずとか、めんどうな話はどうでもよくなる。
通りがかった男が1人、立ち止まるとヒロを見上げてきた。
「これを落としたのかい?」
冷たい空気の中を、温かい声が昇ってきた。
ヒロは首を横にふったが、男はなにかを拾いあげ、手をふった。
「届けるよ。待っていて」
男の姿がホテルの中へ消えた。
ヒロは窓を閉め、ふりかえり、ドアをにらんだ。わけのわからない関わり合いはイヤだった。落としたものなどないのに、いったい男はなにを持ってくるのかと思った脳へ、ノックが聞こえた。
ドアへ近づいたヒロはチェーン鍵をかけ、ドア越しにさけんだ。
「なにも落としていません。わざわざ来てくれたのに、ごめんなさい」
「だけど、君の名前が書いてあるよ」
通りがかりのくせに名前なんか知っているはずないのだから内容はとてもいい加減な言葉だったが、声の調子は澄んでいた。
ヒロはノブ鍵を開け、ドアを開けた。ドアはチェーンの長さだけ開き、チェーンの長さだけ男の顔が見えた。5階からでもまぶしく見えたほどの金髪が長く、垂れ下がった前髪が顔を半分隠しており、上下に揺れる肩が横髪をなでている。
「君はきれいな人だね。化粧をしたらどれだけ輝くか、想像するだけで興奮する」
ヒロは腹が立った。男の左目は前髪に隠れているし、右目は閉じている。
「からかっているだけなら、警察を呼びます」
「警察? じゃあ部屋には君1人かい?」
男は階段を駆け上がったらしく、肩の上下と同じペースで呼吸が荒かった。とてもいい香りのする呼吸が女の鼻へ入ってくる。
{これが男の香りかな?}
ヒロは初めて接する香りへ言いかえした。
「悪いけど、セックスをしたばかりで疲れているの。イタズラの相手をするヒマはない。帰ってください」
「確かに目が女になっている」
男はあいかわらず目を閉じたままだった。
「バカにしないでください」
ヒロがドアを思いきり閉めた瞬間、男の悲鳴が聞こえた。
もう1度ドアを開けると、チェーンの長さに男の姿は見えず、うめき声だけが流れこんでくる。
ヒロはわけがわからなかった。
「どうしたのですか?」
「助けてくれ。ドアにはさめた指が半分ちぎれた」
指をはさんだ感触など認識しなかったが、女になったばかりの15歳は動転した。チェーン鍵を外し、廊下へ出ると、ドアの陰にすわりこんでいる男が目を閉じたままヒロを見上げた。
「君は悲しんでいるだろう。少なくとも素晴らしいセックスの後で、あんな風に地面を見る女はいない」
ヒロはにぎりしめられている男の指を見ようとした。
「指をはさめたの?」
「だいじょうぶ。空想傷だ。それに指や目を失ったくらいで人間は死なない。だけど氷雪に覆われたアスファルトへ身を投げ出すと死ぬ」
「わたしは別に飛び降りるつもりなんかなかったです」
「だけど、まったく飛び降りないつもりもなかっただろう。俺が言いたいのは、君が悲しんでいるということだ。じゃなきゃ、あんな風に下を見たりしない」
ヒロは閉じたままの男の目を見たくなった。
「どうして目を閉じたままなの?」
「閉じている方がよく見えるからだ」
「どうして?」
「人間は視力に頼りすぎる性質がある。遺伝子的な性質だから責められないけどね。目で見すぎると、なにも見えなくなるものだ。誰かが悲しんでいるのに見えないなんて、悲しいだろう」
「ややこしい」
男が笑いながら立ち上がった。いい香りのする笑顔だった。
「俺は5階に来てから1度も目を開けていない。離れた地上から君のきれいさと悲しみを見抜けるわけでもない。いつ君を見抜いたか、わかるかい?」
ヒロにはわからなかった。
男の右目が少しだけ開いた。
「実は君を初めて見たのはチェックインの時だ。1人でタクシーから降り、ホテルへ入り、チェックインの手続きをしていた。やがてこの部屋の窓が明るくなった。俺は氷点下の中でずっと窓を見上げていた。どうしても君と話がしたかった」
ヒロには全然わからなかった。
「どうして?」
「君はススキノで大スターになれるよ。目で見てスカウトするやつは原石の輝きが見えないから、表面だけの美人に声をかける。俺は左目の視力がゼロだ。右目はそこそこ見えるが、片目に頼りきっていると疲れるので、閉じている時間の方が長い。そうしているうちに心が見えるようになった。原石が放つ本物の輝きも見える。君は素晴らしい。きっとススキノの金がすべて君に集まる」
ヒロの脳に線香のような小さな光が灯った。
「お金持ちになれるの?」
「そう。ただし金のことは忘れなきゃいけない。金を意識すると輝きが落ちる。人間と女をみがく努力だけしていれば、金の方から集まってくるよ。君は素晴らしい原石だ。みがけばみがくほど、輝くはずだ」
「女の子のスカウトをしているんですか?」
「パシオンという店のスカウトだ。名前はコウジ。君のキャストネームは“甘奈”にしよう。これが君の落とし物だ」
男は甘奈の文字が入った名刺をヒロへにぎらせようとした。
ヒロは手を引っこめると、言いかえした。
「ヒロという名前で名刺を作ってきてください。わたしはシャワーで自分をみがいておきます」
「みがくというのは、そういう意味じゃないよ」
「わかってます。原石、原石、って子ども扱いしないでください」
男が小さくツバを飲んだ音を、ヒロは聞き逃さなかった。
「早く来てくださいね。わたしは女だから」
「大至急、名刺を作らせる。待っていてくれ」
コウジが走り去ると、ヒロは部屋の中央へ戻り、幼稚園のカバンを空にするとゴミ箱へ捨て、中身の大金をブラウスで包んでから、シャワールームの前へ移動して下着を脱いだ。
シャワーの音の中で目を閉じた。
ヒロという情報をススキノ中へ認識させてやろう。宇宙はシンプル、ススキノもシンプル、ルールはとても簡単なはず。お金を溜めて、大きな家を建てよう。家の中に大きなお墓を建てよう。お母さんと2人で情報を感じ、認識をくりかえそう。
お湯で筋肉痛をほぐしながら、母のように名前の変わらない別人となり、母を弔うことと決めた。
1時間後、コウジの呼吸が荒く駆けこんできた。
「年末で忙しい。今夜からでもデビューしてほしい」
ヒロは仕事の話を続けそうなコウジのくちびるをふさぎ、荒々しい香りを吸いこんだ。男の香りの中で、あらためて女としてデビューすると、数時間後にはススキノでのデビューを果たした。ヒロの発する情報は初夜から輝きをふりまいた。