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金と女と雪の道・story91

 ヒロの落下から1時間後、母は搬送された。さらに1時間後、札幌市でも有数の脳神経科へ再搬送された。さらに1時間後、父親が病院へやってきた。

「記憶喪失ですか?」

 一室の椅子にすわった父親の後ろ姿のYシャツが汗ばんでいる。

 正面にすわる担当医の表情はとてもリラックスして見えた。Yシャツより汚れている白衣をだらしなく着こなす年寄りの医者だった。

「今のところですな。5階から落ちてきた娘さんをまともに喰らったんだから、相当な衝撃でしたでしょうな。母子ともに命が助かっただけ、天に感謝するべきでしょうな」

 ヒロは6歳ながら、記憶喪失の意味をなんとなく知っていた。

 自分の家や友だちの名前や、自分が誰なのかすら忘れてしまう病気だ。しかし母がヒロのことを忘れてしまうはずはない。つまりヒロのこと以外をすべて忘れてしまう病気だ。

 父親は担当医へ質問を始めた。

「どのくらいのレベルで忘れていますか? 一口に記憶喪失といっても、程度はいろいろでしょう」

「まだ程度を決めつけるのは早いですな。数時間で回復する場合もありますしな。記憶喪失と決定したのではなく、現在の時点で記憶喪失状態が見受けられる、という段階ですな」

 担当医はカルテから浮かせたボールペンの後端を耳の穴へ入れ、斜めにまわし始めた。

「現在のところは重症ですな。名前、住所、生年月日、家族の名前、どれを聞かれてもポカンとしていますな」

「よくなる可能性はあるのですか?」

「可能性は全方向にありますな」

 父親の汗がYシャツからあふれてきた。大きくなった声がツバと一緒に飛んだ。

「医者なのに、答えが適当すぎる。よくなるのか、悪くなるのかもわからないとはどういうことだ」

「医者だから、わかりませんな」

 担当医はボールペンを反対の耳へ入れ、変わらない速度で動かす。

「素人はわかりたがりますな。なぜなら素人だからですな。医者はプロだから、わからんのですな。未来はわからんのです。それを理解できるとプロの領域ですな」

 父の勢いが少しだけ弱まった。背中の肌にはりついたYシャツへ、首ふり扇風機の風が時々当たる。汗をふくんだ風がフェーン現象を起こしながら医者へ吹きつける。

「精密検査もしなければいけませんから、しばらく入院してもらいますな。もしかしたら数時間で娘さんの名前を思い出すかもしれませんな。しかし一生わからない場合もありますな」

「娘の名前もですか? すべて忘れたままですか?」

「一般例でいえば、スプーンの使い方や下着のつけ方はおぼえているもので、ふだん無意識でおこなっていること、つまり潜在意識でおぼえてしまっていることは今後もできるはずですな。しかし顕在意識で認識しなければいけないものは、わからないでしょうな。スプーンや下着は使えても、スプーンやブラジャーという呼称はわからんでしょうな」 

 父が扇風機よりずっと速く首をふった。

「もしも一生記憶が戻らなかったら、どうしたらいい」

 医者がボールペンを耳から落とした。白衣に子どものイタズラのようなギザギザの線が描かれた。

「0から学習することですな。たとえ最悪の結果になったとしても、奥さんは0歳に戻ったと考えたらいいですな。これから耳目へふれることはすべて記憶できますから、娘さんの名前をまた呼べるようになりますのでな」

「0歳ですか?」

「今は生卵のかき混ぜ方も忘れているでしょうが、学習すればすぐに習得するでしょうな。セックスだってすぐにできますな」

「0歳とセックスですか?」

「冗談ですから、気にしないでくださいな。まだ冗談を言える段階ですな。完全な記憶喪失と決まったわけじゃないですからな。あと数日経たないと、奥さんが何歳なのか、決めることはできませんな」

 母が0歳と診断されたのは1週間後だった。

 セックスの意味はわからなかったヒロだが、0歳の意味はわかった。自分が6歳であることももちろんわかっている。

「お母さんが妹になっちゃった」

 妹が欲しいというのは、それまでのヒロの最大の願望だった。しかし母がいなくなってしまうのは最悪の絶望だった。

 白がかすかに汚れている病室の壁では防犯カメラのような目つきの扇風機が回っていた。長い髪が風に色めきながら泳ぐ大人の体で、赤ちゃんのように首をかしげている母を見ていると、ヒロは涙が出てきてしまう。

 涙の音がするヒロの顔へ母の首がゆっくりふり向いてきた。

 本物の母ならヒロの涙を見逃さないはずだ。涙の理由を聞き、涙をふきとり、ヒロが笑い始めるまで手を離さないはずだ。

 しかし母の目はヒロの水分をぼんやり眺めるだけだった。

 ヒロの涙は速度を増した。

「お母さんはもう死んじゃった。この人は0歳だから、ちがう人」 

 かかとを回転させ、病室を飛び出したヒロはびしょ濡れの目へ風が当たるのもかまわず、走り続けた。病院を出ると黄色い自転車に乗り、ますます強くなった風へ立ち向かうように、強く泣いた。

 あの人はお母さんじゃない。0歳の赤ちゃんだ。どこかの赤ちゃんだ。

 記憶がなくなると、人間は死ぬのだとヒロは知った。心臓と同じように、記憶は人間の急所であり、うしなえば死んでしまう。母がこれからヒロの名前をおぼえてくれたとしても、呼ぶ声は以前とちがうはずだった。母の声ではもう呼んでくれないはずだった。母はもう死んだのだから、当然の話だった。

 コンクリートの建物へ帰ると、祖母が来ていた。

「ヒロ。今日からばあちゃんのところで暮らすから、服や靴をカバンに入れんか。急がんか」

 父方の祖母はヒロを北海道の端へ連れていった。海が近いのに、畑作が盛んという村だった。

「お父さんは忙しいから、ヒロはガマンせんか。お母さんの入院費には一万円札がたくさん必要だから、ガマンせんか」

 居間のまん中を虫たちが平気で這いまわる小さな村で、ヒロは学生期を送ることになった。いざ母から遠く離れると、母に会いたくてたまらなくなった。死んだはずの母が、会えなくなったことで神格化してしまった。木と空気と水にかこまれた生活は人間の体を活性させるはずだが、ヒロはコンクリートの建物が恋しくてしかたなかった。毎日目に入る山や、歩いて30分で見えてくる水平線も、ヒロの心には絵と同じだった。村の人たちは誰もが親切で大らかだったが、母ではなかった。

 母の病院へ行きたいと祖母に申し出ると、「金がないのに、列車へどうやって乗るつもりか?」受けつけてもらえなかった。母がヒロの名前をおぼえる機会すら消えた。

 父親は時々ヒロに会いに来てくれたが、祖母から一万円札の束をもらうとすぐに帰っていった。ヒロが同行を切望しても、まったく受けつけてもらえなかった。

 ヒロは小学5年生の夏休み、1度だけバス亭へ向かう父親の後ろをこっそりついていったことがある。

 夏道を歩く父親の背中でYシャツがびっしょり濡れたころ、ヒロの尾行は気づかれてしまった。近づいてきた父親はヒロの髪をそっとつかみ、「母さんはもうとっくに死んでいる。ヒロも自分の目で見ただろう。わざわざ墓参りのために高い交通費を使う余裕はない」

 父親はバス亭を通りすぎ、長い夏の夕暮れをどこまでも歩いていった。

 ヒロは毎年の夏休み、近所の農家の畑でアルバイトをした。ヒロの働きぶりを気に入ってくれた畑主の男はハゲ頭から流れてくる汗をはらった手で、千円札を毎日3枚くれた。ヒロは押入れの奥に入れてあった幼稚園のころのカバンへ金を貯めておいた。

 しかし中学1年生の二学期の始業式の日、千円札はすべて祖母に没収された。

「あんたの父ちゃんは、あんたの生活費もわたしてくれんし、新しい女との生活費はここから持っていくし、嫁を施設へ押しこんでおく金もここから持っていく。少しは返してくれんか」

 農作業をしてもなかなか日焼けしない手をヒロはにぎりしめた。

 祖母はにぎっていたキュウリで調理台の虫をたたいてから、キュウリをまな板へのせた。

「ヒロ。学校の先生から頭の中身の本を借りて勉強しとるそうだが、あんたがいくら勉強したって母さんの頭を治せるはずがない。二学期も畑でアルバイトを続けて、少しは生活の足しにならんか」

 父親が祖母と大ゲンカをしたのは、ヒロが中学3年生の年末だった。

 ヒロは穴だらけの2階の床へ耳を当て、居間の言い争いを聞いた。

「嫁の葬式代まで、出せん。届けだけ出せば役所はなにも言わん。後は放っておけばいいか」

「葬式くらいしてやらないと、そうでなくても向こうの親からいろいろ言われている」

「保険金を掛けたと言っていただろう。担保にして、誰かから借りんか」

「掛けてすぐの自殺じゃ金は出ない」

「なんの足しにもならん嫁だったか」

 父親は夜中じゅう交渉していたが、結局は金をもらえず、ヒロがいつも起きる時間の前に出ていった。

 床の穴に耳をあて続けていたヒロは眠たい目をこすりながら終業式へ参列すると、先生へ本を返した。

 女性の担任はほんの少しだけ母を思い出させる目をしている。

「ヒロ、なんだか眠たそうだね。本を読むのはいいけど、勉強より睡眠が大切だよ。これは冬休み用の本」

 ヒロは5冊の専門書を押し戻した。

「おばあちゃんに年越しの借り物はするなと言われたので、来年になったら借りに行きます」

 先生は母のようにヒロの髪をなでた。

「お正月に遊びにおいで。それまで風邪をひかないように。よいお年を」

 校門を出たヒロは滑る雪道をかかとでしっかり踏みながら、冬の水平線を見た。

「先生。お母さん。来年は必ずよい年にします。これからのわたしを見守ってください」

 帰宅すると、すぐに2階の自室へ上がり、少し眠っておこうと布団へ入ったが、新年への一大計画に興奮する脳は眠ろうとしなかった。母の死を聞いたヒロの脳は半ば全自動で、新しい自分を目指し始めていた。脳が勝手に企画する新しいプランは潜在意識、顕在意識を問わず、脳のあらゆる場所で沸騰している。

 祖母が乱暴にふすまを開け、「なんだ。なまけているんだったら、大掃除を手伝わんか」

「お腹が痛くて。ごめんなさい」

「晩飯は食えんか。舌でもかじっておれ」

 幸い、脳は食欲を示さなかった。

 深夜になると、すき間だらけの家屋内は氷点下近くまで気温が下がる。祖母は寝室で布団を頭までかぶっているはずだった。

 ヒロはトイレへ行く足音で階段を降りると、手さぐりで仏間の畳を持ち上げ、祖母が金を隠している壷の中へ手を入れた。紙の感触をつかみどり、幼稚園のカバンへ入るだけ紙幣を詰めた。一万円札か千円札かをたしかめる余裕も明るさもなかった。

 カバンがいっぱいになったところでファスナを閉め、仏間から台所の土間へ下りて靴をはき、勝手口へ向かおうとしたところで、暗闇から手が伸びてきた。

「待たんか。泥棒娘が、恩を仇で戻しやがって、一生を台無しにさせてやろうか」

 ヒロは襟首をつかんでくる祖母の手をふりほどこうとしたが、数十年の野良作業で武骨になっている祖母のこぶしは硬い。

「その細い腕で、勝てると思うんか? 母さんと一緒で役立たずの白い腕だろうが。ただ飯を食うだけの腕だろうが」

 ヒロは闇へ慣れてきている目で必死に周囲を見た。暗闇の中にぼんやり浮かぶ白い棒を見つけると、手を伸ばしてつかみ、祖母の頭へたたきつけた。水分が凍結している大根は祖母の腕より硬く、はげしい悲鳴を上げさせた。

 ヒロは凍りついている勝手口のドアをけり飛ばし、雪の中へ走り出た。

 夏休みにアルバイトで雇ってくれる農家へ行き、寝室と思われる窓へ雪の玉をぶつけた。夫婦の顔が窓の向こうへ現れ、畑主だけが玄関から出てきた。

「こんな夜中になんだ。なにかあったのか?」

「わたしのお母さんが死にました。急いで札幌まで車で送ってください」

「ふざけるな。朝になってから、始発に乗れ」

「なるべく急ぎたいの」

 ヒロは冷えたツバを飲んでから、言葉を続けた。

「わたし昨日の夜、寝ていないから、すごく眠たいです。早く車に乗せてください。ゆっくり眠らせてください。始発を待たずにすむなら、1時間くらい寄り道してもかまわない」

 ヒロが作った溶けそうな目を見た畑主がツバを飲んだ。

「わかった。緊急ならしょうがない。車をすぐに温めるから、先に乗って待っていなさい」

 ヒロが助手席で幼稚園のカバンを抱きしめていると、ハゲ頭へ帽子をのせてきた畑主が運転席へすわった。

 大型の四輪駆動車は雪道を猛スピードで駆けぬけた。

「お母さんはいつ死んだの?」

 少し上ずっている畑主の声が、女心におかしく聞こえた。

「もう10年くらい前です」

「10年? なんだそりゃ」

 畑主のおどろく声をかわいいと感じられるほど、約10年でヒロは成長していた。セックスの意味ももちろん知っていた。

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