銀色のハイヒール・story90
鉄格子のすき間から斜めの空を見上げました。
トラックが走り始めると、空が斜めに動きます。
{冷たいサイダーが飲みたい}
「みりさ。俺は疲れたから少し休む」
{幸せくん、なにもしていないじゃない}
「俺がみりさの体内をコントロールしていなきゃ、今ごろおしっこが漏れている。母親のめんどうを見ているせいで、クタクタだ」
檻の外ではヒロとあずさが打ち解け始めているようです。
「sub。信じられないほどの高性能におどろきます。Dドールにも勝てますか?」
ヒロはかかとをそっと休ませています。
「どうしても勝つ必要がある。ドクターSに逃げられ、ドクターⅡが死んだなら、マジックPは実験研究を断念するしかない。だけど国は実験研究の不可能なマジックPなど認めない方針らしいから、態度を豹変させて、マジックPの抹消作業にかかるはず。デカい相手だからふつうの人間はあっさり消されるだろうけど、脳を改造された連中には権力なんか通用しない。常識的なパワーバランスが崩れて、社会秩序へ影響するかもしれない」
「sub。どのくらいの情報を持っていますか?」
「あずさに話せるような情報はあまり持っていない。でもおもしろい情報が1つあった。マジックPの下っぱを誘って酒を飲ませたら、酔った意識の底におもしろい情報が湧いてきた。マジックPの総首は札幌にいるらしい。マジックプランを国へ持ちかけた人物」
「sub。Fですか?」
「FがマジックPの発起人という定説からいけば、そうなる。総首は神秘的で独裁者的存在らしく、Dドールのような子どもたちは総首を崇拝しているらしい。注目しなきゃならないのはこのラインだね。国の抹消作業に対して総首がどう対応するかだけだ。大雪で実験途中の子どもたちはまだ低性能のはずだから、施設へ火をつけられたら脱出できない。ほかの下っぱ連中はわけもない」
指先でスズメバチを休ませる梓が煙草をくわえます。
「sub。逆に言うと、Dドールだけは国も手をつけられません。勝てるのはヒロだけでしょう」
「Dドールにしても、総首のあやつり人形のはず。総首を見つける方が先だと思う。Dドールへ勝てるのはわたしだけ、と言うけど、負ける可能性も充分にある。わたしが負けたらDドールは無敵になってしまうから、まずは慎重に外堀から埋めた方がいい」
「sub。リストではあと2人の妊婦の行方が不明だそうです。どちらかがヒロと同じ性能を持っている可能性はあると思いますか?」
「ゼロではない。ここまで逃げきっているところを見ると、少なくとも誰かさんのような低性能ではない」
わたしはヒロの方へ舌を出しました。こちらを見ていなくてもわかっているはずですが、ヒロはわたしを無視したままあずさと話を続けます。
「さらにドクターS。彼女は国とマジックPだけでなく、各国政府から探されているらしい。神のような人材だから無理もない。閉鎖された日高の施設はもちろん、大雪もカムイッシュも各国の諜報者から見張られていて、マジックPは困っているらしい。総首やドクターⅡが札幌にいるのは、そのせいかもしれない」
「sub。わたしとみりさはドクターSのところへたどり着き、自然脳への手術を受けたいと考えています。ヒロはどうですか?」
わたしは斜めに飛んでいく梓の煙をながめました。ヒロとあずさは打ち解けているように見えていますが、互いに心をブロックしたままのようです。
「手術を受けると金がかかりそう。でもこのままなら、金になる。あと9カ月、がんばる予定」
「sub。でも、その後は」
あずさが最後まで言う前に、わたしは会話へ割りこみました。
「ひどい女。赤ちゃんがかわいそう。お金がもったいないから殺すつもり?」
ヒロは顔色も仕草も変えません。
「あんたはなんのために、幸せくんを自然脳にしたいわけ?」
「決まっているでしょう。幸せくんに生き延びてほしいから。ただそれだけ」
ヒロの顔色が明るく変わりました。明るい色で、空を見上げます。
「大笑い。あんたはなにもわかっていない。自然脳にしてもらうということは、つまり幸せくんを殺すことになる」
「わかっていないのは、あなた。情報不足ね。改造脳の胎児は、産まれるとすぐに死んでしまう。理由は少しめんどうくさ」
あずさがわたしの声をさえぎりました。
「sub。ヒロはすべてわかっています。そして正しいことを言っています。自然脳への手術を受けると、確かに幸せくんは死んでしまいます」
「ちょっと、あずさ。裏切る気?」
ヒロが子宮を両手で覆いました。母が子を温めるような仕草です。
「バカなあんたに、おもしろいことを教えてあげる。わたしは自分のお母さんより、年上なの」
ヒロは小さなころから活発でおしゃべりだった。
コンクリートで建てられた公営住宅の5階にある、重たい鉄でできた玄関扉から、家族の誰よりも早く飛び出すのが、5歳になったヒロの毎朝の日課だった。朝一番に家から出るとコンクリート階段をかけ降りる。どうせすぐに大きくなるからと、新しい靴は少し大きめなので、階段を降り終えると位置が後ろへズレてしまう。土の地面でかかとを踏み鳴らすと元へ戻る。自転車置き場から黄色の子ども自転車を持ち出し、10棟ならんでいる公営住宅群の敷地内を走りまわり、顔なじみのおばあちゃんたちとあいさつを交わす。
「ヒロちゃん、おはようさん。今日も元気だね」
「おはよう。今日はお母さんと買物へ行く。ヒロのバッグを買ってもらう。お母さんと同じ色のバッグが欲しい。それからアイスクリームを食べる。三色のアイスを駅前で食べる」
父親が出勤していく後姿をサドルの上から見送り、5階への階段をかけ昇ると、母が千円札を何度も数えていた。
「お母さん、ヒロもお母さんと同じ銀色のバッグが欲しい。かかとの長い靴も欲しい」
「幼稚園のバッグは色が決まっているからね。銀はダメだね」
「靴が欲しい。足がふらふらする靴で幼稚園に行きたい。ロボットみたいにコツコツ歩きたい」
「ハイヒールじゃ、走ったり飛んだりできないからね」
「ハイヒールで走ったり飛んだりできるようになったら、買ってくれる?」
「ヒロちゃんにハイヒールを買うのはまだ早いでしょう」
「じゃあ、お母さんが新しいハイヒールを買って、ヒロに古いハイヒールをちょうだい」
「お母さんは今のハイヒールを気に入っている。5年もはいているからね」
母は外へ出ると口数の少ない人だった。朝のおばあちゃんたちが噂しているのをヒロは聞いたことがある。
「ヒロちゃんは5年間かけて、お母さんの30年分の口数に追いついているかもしれない」
ヒロの足があっという間に大きくなり、また新しい靴が必要になったのは6歳の夏だった。
「銀色のハイヒールが欲しい」
ヒロはハイヒールで飛びまわる練習のため、母のお気に入りをはき、階段を降りてみた。初めはまともに歩けなかった。足の裏や甲が折れそうなほど痛かった。歯をくいしばりながら5階と地面との往復をくりかえしている途中、大きすぎる母の靴は何度もズレた。長いかかとをとんとん鳴らすと元へ戻った。
体がしだいに順応していくと、うまくバランスをとれるようになり、ヒロの速度が増した。
「ハイヒールを買ってもらえる」
5階まで到達し、また地面へ降りようとしたところで、階段の外側の壁の向こうから母の声が聞こえた。
「ヒロちゃん。どこにいるの?」
ヒロは自分の胸ほどの高さの壁から地面を見た。母が黄色の自転車を持ったまま周囲を見まわしている。自転車で走りまわっているはずのヒロがどこにもいないので、不思議に思っているらしい。きょろきょろ見まわす首の速さが5階からでも、よくわかった。
ヒロは壁へよじ登った。
「お母さん。銀色のハイヒールが欲しい」
裏がえった母の声をヒロは初めて聞いた。
「ヒロちゃん、降りて。降りて」
ヒロは母へ自分の安定感を見せつけるため、せまい壁幅の上をヒールで歩いてみせた。
「ヒロちゃん、降りて。ヒロちゃん、降りて」
「銀色のハイヒールが欲しい」
「ヒロちゃん、降りて。早く降りて」
大きすぎるハイヒールの中で足がズレた。
かかとをとんとん鳴らすと、急にふわりとした感触がかかとの下へ入りこんできた。ヒールが折れたと気づく前に、ヒロの体全体がさらにふわりと宙へ倒れた。
地面へ落ちていくと気づきながら、4階の窓を見た。ヒロは飛んだ時間が長く感じられたことをおぼえている。3階の窓の次に2階の窓を確認できたほど、空中遊泳はゆったりと続き、ドサリと終わった。
ヒロはなにかやわらかいものへぶつかってから、地面へ落ちた。
瞬間だけ、どちらがどの方角かわからなくなったが、慣れ親しんだテリトリーなので、すぐに気持ちを立て直せた。起き上がると、ところどころ痛かったがすぐに忘れられる程度の打撲痛であり、すぐに忘れてしまう事態がすぐそばにあった。
母が倒れている。両手が大きく差し出された状態で左右均一に開かれており、ロボットが倒れているようにも見える。
出血はない。目立った外傷もない。しかし目が開かない。
「お母さん」
呼んでみたが、目は開かない。
「お母さん」
揺さぶってみたが、目は開かない。
電池の切れたロボットのように母の体は動かない。
「心臓」
ヒロは幼い知識をふりしぼり、母の心臓へ耳を当てようとしたが、心臓がどこかわからず、適当な動作になった。
「音が聞こえない」
どうしたらいいかわからなくなった時、母の目がポッカリ開いた。
「お母さん」
母はまぶた以外動かさず、空をぼんやり見上げている。
「お母さん、だいじょうぶ?」
母がようやくヒロを見ると、少しだけうなずいた。
ヒロは母の体へしがみついて泣いた。偶然心臓のそばに耳がついたらしく、自分の泣き声の合間へ母の鼓動が聞こえた。
「お母さんは不死身だ。ロボットみたいだ」
ヒロの体を頭で受け止めた母が、やがてロボットのような会話しかできなくなってしまうと、6歳の脳では想像つかなかった。母のかかとがピクピクとケイレンしていることへも気づかず、しばらくそのまま泣いていた。