生死の境界・story9
あの人と出会ったのは9週間前の日曜日でした。
「日曜日の夜しか自由がない。あとは睡眠と仕事と、仕事の一環として食事をとるだけだ。食事というよりただの栄養みたいなものだ。肉も魚も野菜も、ただの栄養」
アカペラのコーラスバンドが30分ごとにステージへ立つ、青暗い間接照明に満ちた広いバーの長いカウンターへ疲れているらしいヒジをつきながらにっこり笑った彼はぎりぎりまで薄めてもらったウイスキーの氷をカタカタ揺らしました。
「わずかなアルコールだけが、口に入れるものの中で唯一栄養じゃない、娯楽的なものだ。飲み終わったら、帰って睡眠。5時に起きて仕事。インターネットなんて発明したやつがいるから、朝早いとか夜遅いという言葉が使えなくなった。世界中のどこかが必ず働き盛りの時間帯になっているからね。今はリオの連中が午前9時を迎えたころだ。日曜日へ気づきもせず、取引に夢中のはずだよ」
彼がなんの仕事をしているのか、なにを取引しているのか聞こうとした時、ステージが始まり、終わるころには彼の腕へしがみつきながら店の外へ出ました。
彼はわたしの部屋へ来ました。疲れを感じさせない呼吸でわたしを満たした後、午前5時には出ていきました。「シスコシティのやつがメールを打ってくる。俺へメールしないとランチを食う気がしないらしい」
もう、あの人のことはどうでもよくなったはずですが、日曜日の夜になるとそわそわ夢を描いてしまいます。ソファへすわっていられなくなれば、用もなくススキノを歩き、あの日と似たような照明の店を見つけると、用もなくお酒を飲みます。
今夜も歩きました。疲れている人が入りたくなりそうな店を見つけ、青い空へ白い雲を浮かべたような色合いのカクテルがおいしくて、何度かおかわりしました。アルコールが口当たり以上に強かったらしく、慎重さがぎりぎりまで薄くなったわたしは咲藤さんのところへ寄ろうと気まぐれに思い立ち、小さな路へ出ました。
4月も中旬になったというのに、夜はまだ寒い札幌ですが、酔えばちょうどいい空気です。
「幸せくんも、ちょうどいい感じですか?」
わたしは「幸せくん」と名づけたお腹の我が子へそっと話しかけてみました。
「相談料がハネ上がるけど、咲藤さんは霊能力者もやってくれるはずだね。幸せくんの声を聞いてみたいよ。でもまだ死んでいないから、霊と呼ぶのはヘンだね。まだ生まれていないからやっぱり霊かな? いやよけいにヘンだね」
咲藤さんの店がある小路へ入ると、店から出てくる男の人がネオン灯の中へ見えました。最近は占い好きの男性が増えたと聞いていたので別におどろかなかったわたしですが、その人の姿があの人の姿に似ていることへ気づいた瞬間、酔いも空気も凍りつきました。
「近づくな。あの男へ近づくな。もうすぐ死ぬ」
耳の奥で声が鳴りました。誰もいないのに、はっきりと声が鳴りました。
おどろきの連続ですべての感覚が消えそうになった瞬間、古いビルとビルのすき間から飛び出てきたまっ黒なバイクがあの人をはね、続いて出てきたもう1台のバイクもあの人を踏みつけました。2台のバイクは小路に立ち尽くす酔った人たちを器用にかわし、走り去っていきました。
あの人は青いネオンの中で疲れきったように倒れています。
「確かめなくていい。あいつだよ。そっとこの場から離れろ。関わってはいけない」
耳の奥の声が冷静に言いました。