国境越しの会話・story84
檻という言葉を聞くたびに、刑務所みたいな空間を想像していましたが、実際に目をさました場所は中型犬を飼うような大きさの五方鉄格子の檻でした。
{幸せくん}
呼んでみましたが、返事はありません。
{まさか、生きているよね。母の本能としては生きているという気がするけど}
子宮をなでる手の下には黒いじゅうたんが敷かれています。
{黒のじゅうたんなんて、どこで売っていたの? イヤな趣味}
しかしじゅうたんの色以上に気に入らないことへ囲まれています。檻は鉄格子も床もすべて斜めに作られているのです。檻は8つならべられており、檻のある部屋はどこかの倉庫のような雰囲気で、高い天井にいくつかある電灯が茶色の光で、舞い飛ぶほこりを照らしています。
檻は6つが空っぽで、わたしの隣の檻に、横たわった田村様の巨体が1人でスシ詰めになっています。
「目がさめたか、みりさ野郎。2時間も寝言を言い続けていたぞ。感心するほど、うるさい女だな」
こちら向きの大きな顔が言います。
わたしは田村様をにらみつけました。檻の中にいるものの、四肢にはなんの拘束も受けていないわたしとちがい、田村様の太った頭には大きなヘルメットがかぶせられ、手錠と足錠もかけられています。
「太い手錠があって、よかったね」
わたしは皮肉のつもりで言いましたが、田村様の声からはいつもの威勢が消え、力のない言葉がかえってきました。
「小魚野郎によろしく伝えろ。俺様はあと1時間で脳を切開される」
田村様の太った子宮が鉄格子にぶつかり圧迫されています。ヘルメットを無理やりかぶせられているせいで、顔の肉が変形しており、目が赤く濡れています。
わたしの声が優しくなりました。
「どうしたの? 泣いちゃったの?」
「バカ、野郎。俺様が、泣くか」
まちがいなく泣いた目を泳がせながら、田村様は言います。言葉つきは変わっていませんが、勢いのなくなった声がいじらしいです。
「どうして戦わないの? 田村様ならやっつけられるでしょう。なぜか知らないけどCドールより強いわけでしょう」
「なんだ、その、はげます声は。命を狙われたことのある相手へ同情しているのか?」
「でも命を助けられたこともある。田村様がいなかったら、わたしたちは産科で終了していたわけだし、今から思えばすごく不思議なことがある」
「なにが不思議だ?」
田村様の体はたくさんの酸素が必要なのか、体が一呼吸ずつ大きくふくらみ、縮みます。
「田村様はいつも引きがねを引くのが遅いの。わたしへ対しても、ドクターⅡへ対しても。もしかして最初から撃つ気がなかったんじゃない?」
「撃つ気がないのに、どうして狙う?」
「おどしのため。山の中でマジックPの追っ手を殺したとか言っていたけど、本当なの? 田村様が本当に危険な存在なら、追っ手は最初からヘルメットをかぶってきたはず」
田村様が目を閉じました。まぶたの合わせ目から水分がにじみます。
「最後までごちゃごちゃと疑問ばかりぶつけてくる女だな」
「田村様と五分の関係で話せるなんて初めてだから、口数が多くなる」
「ヘルメットも手錠もきつくてかなわん。さっさと手術を始めるよう、酔っぱらい野郎へ言いに行け」
「わたしも捕まっているので無理。それにどうせなら恩返しをしたい。涙の色を見るかぎり、田村様の本性は善人だと思う。今度はわたしが助けてあげたい」
「捕まっているから、無理だろう」
田村様が少しだけ笑いました。笑うと涙がこぼれます。
「かなわん。泣くと目がかゆくなるからな。早く麻酔を打ってほしい」
「お願いだから、あきらめないで。チャンスを探そう。幸せくんもいる。だいじょうぶ」
「小魚野郎も捕まっているだろう」
「幸せくんは生きているよね?」
「ヘルメットをかぶる俺様は凡人だ。わからんよ。まず殺されたとは考えられんがな。殺しちゃ実験体にならん。小魚野郎のいないみりさ野郎はまさに凡人だからな」
わたしは息を1つついてから、すわり直しました。
「必ずここから逃げる。情報を教えて」
「なんでも教えてやる。今さら、隠すことも、だますこともない」
「田村様はどうして吹き飛ばされたの? 幸せくんがやったなんて、本当?」
目がかゆいのか、田村様が星のようにしつこいまばたきをします。
「半分は本当だ。指示を出したのはCドール野郎だがな。Cドール野郎の脳に指示が浮かんだ時、俺様は対応しようとしたが、次の瞬間には小魚野郎から情報操作された。小魚野郎はCドール野郎に操作されていた。わかりやすく言えば、Cドール野郎からの情報操作を中継したわけだ」
「わかりづらい」
「つまり、Cドール野郎は俺様を操作できないが、小魚野郎を操作できる。小魚野郎はCドール野郎を操作できないが、俺様を操作できた。俺様はCドール野郎の操作を受けないが、小魚野郎の操作は受ける。ジャンケンの関係だ」
「幸せくんに操作なんてできないはずでしょう。ジャンケンには入られないと言われたはずだし。まさか、胎盤がつながったから?」
「小魚野郎はまだまだ未熟だ。胎盤がつながっても急には性能アップにならん。だがCドール野郎の情報を中継することはできる。もちろん小魚野郎は無意識であり、原動力は高性能のCドール野郎だ。小魚野郎は全自動で操作されながら、俺様を操作したわけだ」
「どうしてジャンケンの関係になるの? 誰が1番で誰が2番、という関係になるのがふつうでしょう。どうしてCドールはあずさより強くて、田村様より弱いの? あずさは田村様より強いのに」
「神のイタズラだ」
田村様の目が鋭さをとり戻してきました。しかしわたしに対する鋭さではなく、ずっと遠くをにらみつけています。
「ドクターS野郎は脳改造の際、イタズラをした。改造脳に小細工をした」
「どんなイタズラ?」
「刷りこみだ。有名なところでは、鳥の脳が最初に認識した動体を親と決めつける現象だ。要するに脳の思いこみだ。Cドール野郎とDドール野郎は“田村様には勝てない”という刷りこみをされている」
わたしは腕を組み、くちびるを突き出しました。
「鳥と人間はちがうでしょう。人間なら刷りこみされても、本当の親はこっちだ、と気づけば、切り替えられるはず」
「確かに人間の脳は鳥より優秀だ。しかし、だからといって刷りこみをすべて跳ねのけられるわけではない。例えば国境だ。超平和主義者のジョン・レノンすら“国境のない世界を想像しろ”と歌った。国境があることを前提にした詞だ。しかしおかしいと思わんか。国境はどんな色だ? どんな形だ? どんな匂いだ? 誰か見たことがあるなら説明しろ」
海外へ行ったことのないわたしは国境なんか見たことありません。
飛行機に乗せてもらえなさそうなほど太った田村様が言います。
「国境などない。どこにもない。1+1の数式より簡単な答えだ。国境は裸の王様の服と同じで、誰もが“ある”と言いはるが、誰の目にも見えない。見えないのは当然だ。最初から地球に国境などないんだよ。しかし誰もが国境の存在を信じこんでいる。人間の脳は地球で最高に発達しているが、猿や鳥との比較で優秀というだけのことだ。つまり猿へ毛が生えた程度ということだ。国境などという未確認物体の存在を刷りこまれ、信じきっているほど、性能が低い。それが人間の脳の実態だ。情報の本質を見抜けず、“国境はあるのだ”と刷りこまれるまま認識してしまったら、もう抜け出せない。見えもしないくせに“ある”と言い張る。人間はただのバカだ。人間の脳はひどい代物だ」
わたしは鉄格子という国境線越しに、田村様の表情がゆがむのを見ました。涙がゆがむのを見ました。なんとかして国境を突破させてあげたくなります。
「じゃあ、刷りこまれているドールたちはいつまでも田村様に勝てないの?」
「そう設計されている。神の業は人間の業と一味ちがうからな。ドクターS野郎は完璧だ」
「ということはヘルメットさえ脱げば、田村様はドールたちに操作されず、外へ脱出できる?」
「脱げたら苦労はしない。こんなところでみりさ野郎相手に下らない話をしているものか」
「どうにか方法を考える。とりあえずジャンケン式の一部しか聞いていない。ドールたちは田村様に弱いけど幸せくんに強い理由はなに?」
「そこにイタズラはない。単純な性能差だ。あずさ野郎であっても、ドール野郎共には勝てん。逆に言えば、経験値で性能を上げれば、互角になるチャンスはある。小魚野郎もふくめてだ」
「田村様はなにかのイタズラをされているの?」
「俺様は兄弟の誰かへコンプレックスをおぼえると、その兄弟すべてへコンプレックスを感じるという、ややこしい設定をされた。つまりドクターS野郎はまず俺様に、“ドクターSに対するコンプレックス”を植えつけ、自分へ立ち向かえないようにするつもりだった。そうすれば俺様はドクターS野郎だけでなく、弟のドクターD野郎へもコンプレックスを感じる。そうなれば俺様より弱いドール野郎共は必然的に姉弟へ逆らえなくなる。ジャンケン関係ではなく、上から下への序列ができるはずだった」
「でも田村様はドクターⅡへ銃を向けていた」
「刷りこみの設定はされたが、コンプレックスの植えつけは実行されなかった。ドクターS野郎は状況の変化を読み、臨機応変に対応したつもりだろう。自分がマジックPを離れた時“ドクターDが裸の独裁者にならぬよう、田村様がドクターDへ立ち向かえるようにしておくべき”と考えた。だから俺様はドクターSD姉弟に対するコンプレックスはない。しかし“兄弟に関する刷りこみ”の設定は残ったままだ。あずさ野郎に負け、コンプレックスを植えつけられた俺様は以降、あずさ野郎の兄弟野郎共にコンプレックスを抱くようになった。克服のため、小魚野郎を手元に置いてみた。小魚野郎を打ちのめせばコンプレックスを壊せるかもしれないと期待した。しかし克服へ至る前に、みりさ野郎がランス野郎から真実を聞いた気配を感じ、小魚野郎へのコンプレックスに襲われたので、貴様たちをトラックから追いはらった」
わたしはうなずきました。
「追いはらっただけだ。やっぱり殺そうとはしていなかった」
田村様の顔が少しだけ動きました。首をふったつもりかもしれません。
「逆に言えば、産科でみりさ野郎の命を救ったわけじゃない。自分の都合で小魚野郎を手元へ呼んだだけだ。もう俺様のことは放っておけ。自分たちの脱出だけを考えろ」
「田村様が助けてくれなきゃ、無理」
「そんなことはない。貴様たちが助かる方法を教えてやる。俺様の涙へ同情するほどセンチな脳を、鬼母の脳へ切り替えろ。なんとしても小魚野郎を産み、育てるんだ。小魚野郎の世代が地球から国境を消すのかもしれん」